お店で考え中
もし私たちが本当に資本主義を批判したいなら、都市に埋め込まれた差別や問題を分析したいなら、そして、現代の日本で生きるということの意味を掴みたいなら、私たちが毎日通っているふつうのお店を考えるのがぴったりだ。そこではふつうに資本主義が営まれており、ふつうに差別や問題が発生していて、ふつうに人が生きている。それゆえ、ふつうのお店を分析することで、私たちは私たち自身について、何か重要なことが分かってくるに違いない。
コンビニエンスストア、家電量販店、ドラッグストア、スーパーマーケット、ファミレス、ベーカリー、カフェ、駅ビル……。ありふれたお店から考える哲学エッセイ。お店で考え中。
第4回

スーパーマーケット──うなり声と切断

2026.08.22
お店で考え中
難波優輝
  • はじめに

    スーパーマーケットは、とてもありふれている。ありふれすぎている。スーパーマーケットを、私たちは正常な空間として捉えている。そこでは異常なことは起こらない。雑貨店のような聖なる力もなければ、コンビニのような便利さの極みでもなく、ドラッグストアのケガレを払う場所でもなく、ただ、毎日の生活のためのアイテムが陳列してある、「ごくふつう」の空間であると感じている。

    しかしそこで私たちが感じることは非常に多様である。カートにカゴを載せて今日何を買うかのメモをスマホで見ながら買い物をする。野菜果物コーナーから、オレンジを買い、緑の葉物を買い、じゃがいもとにんじんを買い、豆腐や納豆、それから魚、チーズや肉、卵、味噌や醤油も切れてきた。海苔も買っておいて、牛乳も忘れずに。

    スーパーマーケットにいるときの私たちは、もっとも忙しい。そろそろご飯を作らなければならない。なくなる前にぱっと買わなければならない。スーパーマーケットでは、私たちは食事のこと以外をうまく考えられないようにさえ思う。それは、ドラッグストアの忘却とは違う、何か、急き立てられるような、日常の中の忙しさだ。

    だとして、何も感じていないわけではない。私たちはスーパーにいるあいだ、様々なことを感じる。夏の暑さから逃げるように駆け込むと、今度はあまりにもひんやりとした空間になっていたりするスーパー。揚げ物の匂いがしたり、消毒の塩素の匂いがする鮮魚コーナーがあったり、ときに試供品でウインナーやオレンジが配られていたりする。色とりどりの野菜や美しく光る魚たちがいる(こうしたスーパーで感じる経験をヴァリエーション豊かに描いているエッセイマンガに益田ミリ『スーパーマーケット宇宙』がある(益田 2026))。

    1 音風景のアレアトリカリティ

    本稿で私が注目したいのは、スーパーマーケットの音の風景だ。スーパーと音のつながりは深い。経営学的なスーパーマーケット研究では、BGMが購買行動をどう促すのかの研究がなされてきた。たとえば古典的な研究では、遅いテンポの音楽を流すことで客の移動速度や滞在時間が変化し、売上が増加する可能性を論じたものがある(Milliman 1982)。フランス音楽を流すとフランス産ワインの販売が増加したという嘘のようなノースらの有名な実験もその一例である(North et al. 1999)。

    こうした研究は現在も続いており、最近の研究をみてみると、ジョージアのスーパーマーケットで顧客や店員らにインタビューを行い、BGMが気分、買い物の速度、滞在時間、予定外購買などにどのように関係するかを調査している(Jamshiditari 2026)。同研究によれば、BGMの効果は客の行動を直接操作するようなものというより、気分や注意、時間感覚を介した間接的で条件依存的なものである(Jamshiditari 2026, 1)。 実際、好ましく状況に適合した音楽は、よりゆっくりした買い物や長い滞在、予定外の購買と結びつく一方、音量や強度が高まり音楽そのものが意識の前景に出てくると、かえって注意を奪う刺激にもなりうる(Jamshiditari 2026, 4, 13–14)。逆に人文学的な研究では、BGMが人々を操作しようとするさまをある種のディストピア的風景として批判したりしてきた(Lanza 2013)。

    これまでスーパーマーケットの音風景について研究者の間で話題になってきたメイントピックはBGMだった。しかし、私たちはスーパーのBGMをそこまで聴いているだろうか

    もちろん耳にしている。けれど、実際にスーパーに身を置いてみれば、私たちは音楽だけを聴いているのではない。スーパーの音楽よりも、むしろ、スーパーの様々な「音」、その集まりとしての「サウンドスケープ」の中に浸されている。カートの車輪が床を転がる音──ときにキイキイと非常に耳障りな音が聞こえる。プラスティックのかご同士がぶつかる音、商品の包装がキュウキュウと擦れる音、冷蔵・冷凍設備の低いうなり、冷凍ケースの扉が閉まるバタンという音、レジのピッという音、セルフレジの合成音声、レジ応援を呼びかける店内放送、店員と客の会話、子どもの叫び声、泣き声。足音、商品をかごに入れる音。こうした多数の音が重なりあうサウンドスケープとしてのスーパーマーケット。

    スーパーマーケットのサウンドスケープを正面から分析したのが、ニキ・ハインズとストルアン・マンソンによる2016年の研究である(Hynes & Manson 2016)。彼らによれば、従来のスーパーマーケットを始めとする店舗環境の研究は、店舗の「音」を研究すると言いつつも、実際には店側によって計画的に流される音楽に関心を集中させてきた。そこでは、音楽を一つの独立変数として変更すれば、それが消費者の感情や行動に及ぼす効果を測定できるという前提が置かれていた。しかし実際のサービス空間では、音楽以外にも無数の音が生じている。彼らは、こうした計画されていない音を「アレアトリィ(aleatory)」と呼ぶ(Hynes & Manson 2016, 171)。

    この語に注目したい。「偶然」という意味の単語だ。様々な音がいつ、どこで、どの音と発生するのかは、音響設計されていない。私は、このような音風景の性質をアレアトリカリティと呼びたい。

    彼らはイギリス・バーミンガムの二つの大型スーパーで客・従業員・管理者への聞き取りを行うとともに、店舗内の複数地点で実際の音を録音し、その音量と構成要素を分析した。その結果、彼らが強調するのは、スーパーの騒音レベルが予想外に高いこと、そして、その大部分が音楽によるものではなかったことである(表1)。

    表1 Hynes & Manson(2016, 172)。

    では、スーパーでは何の音が鳴っているのか。それは、機械インフラの音だ。

    青果売場では20–70Hzの機械音が、冷蔵売場でも冷却装置のモーター音がもっとも目立っていた。同じ冷蔵売場の音楽と人声はとても小さかった(Hynes & Manson 2016, 172)。つまり、視覚的には商品によって特徴づけられる「青果売場」「冷蔵売場」も、音響的には、それらの商品を一定の状態に維持する機械インフラの音は共通しているのだ。

    スーパーでは機械音が目立っている。思い返してみると、私たちがスーパーでいつも耳にする音は、機械の「ブーン」という音ではなかったか。BGMが鳴っていて、店内放送があり、子どもの声が聞こえているなかで、私たちは鮮魚コーナー、お肉コーナー、冷凍コーナーに向かい、商品を手に取ろうと身をかがめるたびに、「ブーン」という音を聞いていたことを思い出す。

    この分析にほとんどの人は意外さと疑問を感じるだろう。実際、ハインズらのインタビューでも、機械インフラ音を意識的に認識していた買い物客はほとんどいなかった。人々は、大きな話し声などを指摘していた。

    なぜ私たちは機械の音を聞くことがないのだろうか。スーパーが意図していない音、そして音の重なりについて聴くことで、私たちは、スーパーで何か別のことを考え始められるのではないか。

    2 ペトロカルチャーと切断

    冷蔵庫のうなり声は、何を意味するのだろうか。

    スーパーマーケットについての博士論文『ふつうさの政治:理論のなかのスーパーマーケット』 で、環境哲学者のイザベル・ビショップは、くしくもこの音に注目している。ビショップが描写するのは、12月のテキサスのスーパーだ。冷蔵棚から冷気が流れ出していて、青果売場にはトマト、バナナ、アボカド、キュウリ、イチゴ、パプリカといった色とりどりの野菜や果物が並んでいる。キュウリは薄いプラスティックで包まれ、パプリカは袋に入り、トマトはプラスティックの容器に収められている。背後で冷蔵庫が唸っている。

    冷蔵庫のうなり声は、これらの果物や野菜を新鮮に見える状態に保つために絶えずエネルギーが流れ込んでいることを、音として証明している。(Bishop 2026, 37)

    スーパーで買い物をしているときには考えられないけれど、よく考えると、スーパーは奇妙な場所だ。

    真冬にも夏野菜のトマトがあり、はるか遠い国で収穫されたバナナがいつ行っても並んでいる。並んでいる肉や魚は腐らずに並べられているし、手に取れるところにあるアイスクリームは溶けていない。朝に行っても夜に行っても、昨日行っても今日行っても、同じスーパーにはとてもよく似た商品が並んでいる。必要なものを取り出し、かごに入れ、持ち帰る。いつでも私たちは商品があることをふつうのことだと感じている。

    けれど、人類史的に見れば、これは相当に特殊な環境だ。季節や距離や腐敗を越えて、世界中の食品が一つの明るい室内へ集積されている。もちろん、私たちはスーパーへ入ってそのことに驚いたりはしない。

    ビショップによれば、このふつうを歴史的に可能にした重要な条件の一つが、化石燃料、とりわけ石油燃料である。ビショップは、スーパーが石油によって組織されていると論じる。商品の種類や陳列は化石燃料インフラによって構造化されている。だからスーパーは「石油文化/ペトロカルチャー(petro culture)」的な空間なのだ。

    一つの商品が棚に置かれるまでを辿るだけでも、石油との結びつきはいたるところに現れる。工業的農業を可能にする肥料や農薬、大陸を跨いで商品を運ぶディーゼルトラック、石油化学製品から作られるプラスティック包装、商品を一定温度に維持する冷蔵・冷凍設備、自家用車で来店することを前提とした駐車場。ビショップが列挙するこれらの物質的インフラがなければ、スーパーがどこにでもあるという当たり前の風景は実現しない。

    ここでいう「石油文化」とは、「石油をたくさん使う文化」という意味ではなく、石油によって、私たちの感性が生み出されているということを強調する言い方だ。ビショップがエネルギー人文学の議論から引き継いでいる重要な考えは、石油のようなエネルギー源が、私たちの「感性」を生み出しているということだ。

    石油文化が作り出したのは、石油を大量に消費する生活という記述だけでは説明できない。石油文化は、世界はもっと滑らかに、素早く、摩擦なく動くことが美しいという感性を作り出した。マーク・シンプソンはこれを石油の物質的性質になぞらえて「潤滑性(lubricity)」と呼ぶ(Simpson 2017)。石油は、人や商品や資本の移動を滑らかにする。それによって、滑らかさがポジティブで当たり前によい、という美的判断こそが、私たちの感性のベースなってきたということだ。 遠く離れた場所の商品がいつでも店頭に並ぶし、欲しいものはすぐに注文して手に入るし、好きな場所へ高速で移動できる。

    この摩擦のなさは自然に存在するものではない。滑らかに、どろりと流れていく石油がなければ不可能な力学だ。しかし、滑らかさの背後では、ごつごつして、摩擦のある物質的過程が動いている──採掘、輸送、物流、労働、廃棄。人間や生物や環境にかけている負担はスーパーにいる私たちの視界から遠ざけられている。

    スーパーマーケットは切断の空間だ。生き物たちの肉や野菜だけではなく、世界全体の文脈を切断し、あたかも世界のはじめから存在していたかのように、すべてが何食わぬ顔で陳列されている。

    石油文化の問題は、石油がいずれ枯渇するという話だけではなく、私たちの生活を維持するためのシステムが、その生活を将来にわたって維持するための生態学的条件を掘り崩していることにある。

    どういうことか。ビショップはこの逆説を、スーパーが生命の再生産をその破壊へと「縫い合わせる」と表現する。

    スーパーに食料が並ぶことは、文字通り私たちの生命を維持している。しかし、その豊かな食料供給を支える石油文化システムは、同時に気候変動を進行させ、食料生産そのものが依存している環境の再生産の力を損なっている。化石燃料を燃焼させれば、地中に長期間隔離されていた炭素が二酸化炭素として大気中へ放出され、気候変動を進行させる。そして気候変動は、気温や降水パターン、生態系などを変化させることで、食料生産が依存する環境そのものを不安定にする。そして、こうした影響を最も深刻に被るのは、最も恵まれない人々である(Haberl et al. 2011)。

    したがって、現在のスーパーを支えるシステムは、生命を再生産するために食料を供給しながら、その供給を可能にしている環境条件を同時に掘り崩している。この二つが別々の出来事なのではなく、一つのシステムのなかで結びついていることを指している。私たちの生命を支えるスーパーの豊かさと、その生命の将来的な条件を損なう化石燃料消費とは、同じ石油文化の表裏だ。

    もちろん、技術革新を進めることで、いまの石油文化を維持しながらも持続可能な世界を描くことは、理念的には可能だ。しかし、現実は理念ではない。こうしたことが可能になるには、経済成長を続けながら気候目標を達成しようとすると、GDPが増えてもエネルギー消費は増えない、あるいはむしろ減るという強い「デカップリング」を前提にしなければならない。

    しかし環境学者のカイサーとレンツェンによれば、これほど大きな切り離しは歴史的にはほとんど確認されておらず、効率化が新たな消費や成長を促すリバウンド効果によって、省エネ効果が相殺される可能性も高い(Keyßer and Lenzen 2021)。したがって、現在の経済成長や高エネルギー型の生活をそのまま維持しようとすれば、過去に例のないほど急速な再生可能エネルギーの拡大や、大規模なCO₂除去技術に依存する必要が生じる。そのため彼らは、再エネへの転換を否定するのではなく、エネルギー需要そのものが小さければ小さいほど、再エネだけでそれを満たせる可能性も高くなると論じる(Keyßer and Lenzen 2021, 8–9)。

    さらにウィードマンらは、こうしたビジョンは将来についての悲観的予測ではなく、過去数十年の実績からも理由のある懸念だと論じている(Wiedmann et al. 2020)。技術革新によって製品やサービス一単位あたりの環境負荷は軽減されてきたにもかかわらず、消費そのものの増大がその効果を上回り、世界全体では技術による環境改善の多くが相殺されてきたからだ(Wiedmann et al. 2020, 2)。

    しかも、再エネや電化は無を材料にしているわけではない。もちろん再生可能エネルギーにも金属、コンクリート、土地などが必要であり、単に現在の大量消費を別の技術で支え直せばすべてが解決するわけではない(Wiedmann et al. 2020, 2–3)。だからこそ彼らは、再エネ化や効率改善と並んで、とりわけ豊かな社会では消費量そのものを問い直す必要があるとし、端的に「消費を減らせ、グリーン化するだけではなく」と主張する(Wiedmann et al. 2020, 3)。

    つまり、言い換えれば、石油文化を持続し続けようとすると、無数の奇跡を必要としてしまう。技術的な奇跡、政治的な奇跡。奇跡を望めないなら、私たちは、そのままの石油文化を維持することはできないのだ。ここに不思議な感覚が生まれる。私たちにとっては、石油文化こそが当たり前でふつうにみえる。だが、石油文化を続けていくことは長期的に考えると不可能に思われる。むしろ、石油文化のいくつかを捨てながら別の文化に移行する必要があるが、その移行の方が荒唐無稽にみえてしまうのだ。

    こうした立場を採用していくと、ふつうの暮らしが瓦解していくような恐怖や危うさや奇妙さを感じるだろう。いままで愛していたものが嘘のように思える。だが、私たちは、つねに新しい正気を保ち続ける必要がある。

    スーパーマーケットが可能にしている生活は、満点のものでもなく、私たちをほんとうに幸せにするものなのかどうかを問うてもよい。もちろん、愛着を感じることも、懐かしさも感じることも許されている。だが、それが、人々(そして様々な生き物)を幸福にするかどうかは別で問うことができる。石油文化の感性をそのまま流れで使い続けることは難しいように思う。だとしたら、スーパーが永遠に続くことはないように思うのだ。別のお店を考えなければならない。

    ミルワード=ホプキンスらは、2050年に約100億人すべてに、十分な食料、快適な住居、清潔な水、医療、教育、情報通信、かなりの移動可能性まで保障しながら、世界の最終エネルギー消費を現在より60%以上少なくできる可能性が示される(Millward-Hopkins et al. 2020, 2; 6)。

    これは、人類が我慢して貧しい生活を送れ、という主張ではない。捨てなければならないのは生活の豊かさのすべてではない。とはいえもちろん、何を豊かさと呼びたいのか、どのような物質的仕組みによって実現したいかは、かなり議論の余地はあるだろう。人間には食事、住居、健康、社会参加など満たされるべき基本的な必要があるとしても、それを満たす方法は「文化的・歴史的・技術的に多様」である(Millward-Hopkins et al. 2020, 2)。 私たちは健康によい、おいしいものを食べたい。楽しく移動したい。しかし、そのために、世界中から集められた膨大な種類の商品が、大量のエネルギーを使って運ばれ、開けられたガラスのケースに冷やされ、いつでも選択できるよう棚に並んでいなければならないのだろうか。食の必要を現在のスーパーマーケットという空間とサービスの形式で満たす必要があるかどうか、本当は考える余地がものすごくある。

    私たちは、スーパーマーケットを当たり前の存在として受け止めている。けれど、私が冒頭で記述したようなスーパーの経験は、ふつうのものではない。それは石油文化が可能にした当たり前である。続くかどうか分からない。少なくとも何もかも今のままでは続きえないだろう。

    未来のスーパーマーケットでは、私たちは何を考えるのだろうか。世界を切断しっぱなしにするのではなく、適切なつながりを回復すること。2050年の未来のスーパーマーケットを考えることは、2050年の世界全体を考えることに等しい。

    私たちが次にスーパーマーケットに行ったとき、忙しさのなかでうなり声と切断について考え続けられるかどうか。そこに何かが懸かっている。


    参考文献

    Bishop, Isabelle Carol. The Politics of the Ordinary: The Supermarket in Theory. PhD dissertation, University of North Texas. (2026).

    Haberl, Helmut, et al. “A systematic review of the evidence on decoupling of GDP, resource use and GHG emissions, part II: synthesizing the insights.” Environmental research letters 15.6 (2020): 065003.

    Hynes, Niki, and Struan Manson. “The sound of silence: Why music in supermarkets is just a distraction.” Journal of Retailing and Consumer Services 28 (2016): 171-178.

    Jamshiditari, Khashayar. “The influence of background music on customers’ shopping behaviour in supermarkets.” The International Review of Retail, Distribution and Consumer Research (2026): 1-18.

    Lanza, J.. Foreground flatland. In Richardson, J., Gorbman, C., & Vernallis, C., eds., The Oxford handbook of new audiovisual aesthetics. Oxford: Oxford University Press.(2013):  622–627.

    Lorenz T. Keyßer & Manfred Lenzen, “1.5 °C degrowth scenarios suggest the need for new mitigation pathways” (2021), Nature Communications.

    Milliman, Ronald E. “Using background music to affect the behavior of supermarket shoppers.” Journal of marketing 46.3 (1982): 86-91.

    Millward-Hopkins, Joel, et al. “Providing decent living with minimum energy: A global scenario.” Global Environmental Change 65 (2020): 102168.

    Simpson, Mark. “Lubricity: Smooth oil’s political frictions.” Petrocultures: Oil, Politics, Culture (2017): 287-318.

    Wiedmann, Thomas, et al. “Scientists’ warning on affluence.” Nature communications 11.1 (2020): 3107.

    益田ミリ、2026年『スーパーマーケット宇宙』KADOKAWA。

     

もし私たちが本当に資本主義を批判したいなら、都市に埋め込まれた差別や問題を分析したいなら、そして、現代の日本で生きるということの意味を掴みたいなら、私たちが毎日通っているふつうのお店を考えるのがぴったりだ。そこではふつうに資本主義が営まれており、ふつうに差別や問題が発生していて、ふつうに人が生きている。それゆえ、ふつうのお店を分析することで、私たちは私たち自身について、何か重要なことが分かってくるに違いない。
コンビニエンスストア、家電量販店、ドラッグストア、スーパーマーケット、ファミレス、ベーカリー、カフェ、駅ビル……。ありふれたお店から考える哲学エッセイ。お店で考え中。
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難波優輝
難波優輝(なんば・ゆうき)

1994年生まれ。美学者、会社員。修士(文学、神戸大学)。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員 / 慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。近刊に、『本とは何か』(新潮社)。著書に『物語化批判の哲学:〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版)。『性的であるとはどのようなことか』(光文社)、『批判的日常美学について:来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて』(晶文社)。