イルーズによる恋愛の合理化モデル(恋愛市場モデル)の不十分さ——恋愛の社会学理論を考える
-
イルーズによる「恋愛の合理化モデル」とは
イルーズは、『なぜ愛に傷つくのか』(2011=2024)において、とくに20世紀の変化を念頭に置きながら、恋愛は合理化してきたというモデルを打ち出している(とくに「第5章 愛、理性、冷笑」)。恋愛は脱魔術化され、合理化しているとするマックス・ウェーバー的テーゼに基づいた恋愛の社会学理論である。
20世紀に入ると西洋では性愛パートナーの選択に対する道徳的な制約が緩み、同世紀の中盤には異人種間の結婚も法的に認められて広がっていくなど、性愛パートナー選択における社会的制約が緩和されていった。都市化によって出会いの機会が増え、年齢や婚姻ステイタス(未婚/既婚/離婚)を問わず性愛パートナーとの出会いが求められる傾向も出てきたことでパートナーの選択肢も増えていく。こうして、パートナー獲得をめぐる「競争」が広範囲で発生するようになり、性愛パートナー選択の場は、自由競争による市場モデルで捉えることができるようなものになった、というのがイルーズの議論である。ちなみに、このように恋愛市場として恋愛を考える理論モデルをとることは、イルーズに限ったものではないが、ここではフェミニスト社会学者であるイルーズがどのように議論しているのかに話を絞って検討していくことにしよう。
この恋愛の合理化モデルの原型になっているのは、結婚市場(marriage market)である。結婚市場とは「個人が自由に相手の中の望ましい属性を選択し交換することができ」る場であり、「典型的には女性の魅力と男性の地位が交換される」場である(p.73)。イルーズはこのような結婚市場論(これは日本の家族社会学でもベッカー仮説を始めとして様々に展開されてきた議論である)のアナロジーで恋愛を捉えており、恋愛は伝統的な性的道徳から自由になり、独自の論理で作動する一領域すなわち「性的界(sexual field)」を形成するようになったとしている(p. 74)。
このような「恋愛の市場化」というイメージを主軸としながら、さらに恋愛は心理学的な知による合理化も進んできた、とイルーズは論じている。恋愛や性的な感情、動機、好み、選択基準などが、心理学や精神分析の科学的な知によって言語化され、分析され、理解され、自己調整され、操作可能なものとされ、マニュアル化されてきたことは、主観的・個人的レベルでの恋愛の合理化を進めてきた(p.243-252)。
また、フェミニズムによってジェンダー平等や同意が主張され目指されてきたことも、イルーズは「愛の合理化」(=愛の脱魔術化)をもたらした一要因と位置づけて議論している。ロマン主義的な魔術的恋愛が解体され、愛が平等に基づく契約主義的なものになった、という理解である(p.253-263)。
最後に、マッチングアプリでの出会いの拡大は、パートナー選択を大幅に「合理化」してきた。マッチングアプリでの出会いは、尽きることのない無数の選択肢の中からの合理的選択によってなされる。そこでは人は、プロフィールや属性の束として主知化され、同時にヴィジュアライズ(視覚化)され、恋愛市場の中で、人はそれらを比較検討しながら大量のデータを合理に判断し、取捨選択することで、自らの効用の最大化を目指すという行動をとる。この中で、個人の嗜好はより細かくカテゴリー化されて洗練されていき、さらなる恋愛対象の主知化および合理的選択化が循環的に強まっていく(p.263-274)。
このように、恋愛は伝統的な性道徳の制約から切れ(脱埋め込み化)、市場と同様の合理性の論理で作動するようになっており、それは心理学化、フェミニズム化、そしてデジタル化とともに、不可逆的に進行しているというのがイルーズの恋愛の社会学理論である。
*
現在の恋愛のマッチング構造はかつての結婚市場の構造とは異なる——恋愛の合理化モデルが不十分である第一の理由
しかし、これは本当に、「恋愛」の社会学理論として適切で十分なモデルだろうか? 私は、恋愛の合理化モデルは、恋愛の恋愛たるゆえん、その中核のところを取りこぼすことで成り立っているもののような気がしてならない。私が、この合理化モデルを恋愛の社会学理論として不十分だと考える理由は、大きく次の2つである。
第一に、現代(正確には日本の1990年代以降、北米の1980年代以降)において、「女性の魅力」と「男性の地位」といったジェンダー非対称な財の交換という結婚市場の構造は緩んできていると考えられるからである。もちろん無くなったわけではなく、世界の資産保有者の上位1%層でもドナルド・トランプのようにトロフィー・ワイフを求めるタイプはいるが、ビル・ゲイツのように自分と同等の能力を持つ女性をパートナーとして選ぶ「パワーカップル」志向の人も増えている。
経済的な中間層においても、ある部分的領域においては、旧来通りのジェンダー非対称な財の交換が行われているだろう(例えば、モデル、ミスコン入賞者、客室乗務員などの「女性的ブランド(女性としての性的魅力を保障するような肩書き)」を持つ人と、そのようなブランドを性的・恋愛的嗜好とする大企業勤めの会社員男性など)。
だが、それより数的にはそれより圧倒的に多くの「一般的」な人々の間では、男性の雇用が流動化し経済基盤が不安定化している中で、女性に対しても一定の経済力やその安定性を求める男性が増えており、男性が専業主婦希望の女性をパートナーに求める人の割合は年々低下している(例えば、「マイナビ2026年卒大学生のライフスタイル調査」)(☆1)。
これらのことを踏まえると、現在のパートナー選択のマッチング構造は、経済力や学歴、職業的地位などの同等性として成り立つある程度「層化」された構造(これはいわゆる「階級」と呼ばれてきたものである)を前提とし、さらにその内部で、「外見の良さ」や「性的魅力」、「社会的人気」、「人柄の良さ」などの「総資源量」において「釣り合い」の取れる者同士がマッチするという構造になっていると見た方が、現実に近いだろう。
ただし、これは「市場」と呼ぶに値するような十分に構造化された領域をなしているのだろうか? たしかに「競争」が高まった状況とは言えるかもしれないが、需要バランスによる「価格」がつくわけではなく、したがって競争市場が持つ価格調整力による社会的な効用の最大化がもたらされているわけでもない。少なくとも、学力試験を通した学力の点数化や偏差値化程度の「数値化」に基づいた選抜や選択がなされているのであれば、恋愛の市場モデルでの近似もできるかもしれない。しかし、現在「恋愛市場」というイメージで語られている場で作動しているのは、その人が特定の地点で接触できた社会的関係の範囲内で、自分が持つ総資源量と釣り合いの取れるパートナーの幅をざっくりと特定できるくらいの、かなりゆるい「釣り合い(仮説)」くらいのように見える。その釣り合いがどのような変数でどのようなメカニズムで成り立っているのかを解明することこそが学的に楽しいのだという意見には賛同するが、フラットに考えれば、これを「市場」と呼ぶことは、むしろけっこう無理がある話なのではないだろうか(☆2)。「恋愛市場」は、現代では、一種のイメージである可能性が高い。
恋愛においては、結婚よりもさらに、経済的論理を無視するような論理が、偶発的に発動するという特徴があり、それこそが恋愛の見落とすべきでない重要な特徴の一つでもある。例えば、学歴の高い女性がガテン系(建設・土木・運送・整備・製造などの現場で、体力や技術を使って働く仕事の総称)の男性に惹かれたという例は、2020年代のマッチングアプリを利用している大学生のインタビュー調査の中でもみられた(高橋・石原・鬼頭・山田2023)。このような経済的合理性の論理に反する論理が、あちこちで発生しており、その論理が発動するかに関しても偶然性が大きすぎるのが恋愛の特徴である。このことを踏まえると、恋愛を市場モデルで捉えることの有効性は、改めて、問われるべき問題である。
イルーズの議論は、データに基づいた現代の「恋愛市場」構造の解明といった取り組みがなされていないということもあって、本当に現代の恋愛は「市場」構造を形成していると言えるのかどうかという議論を置き去りにしたまま、かつての「結婚市場」モデルを流用した「イメージとしての市場モデル」を用いて、「恋愛は合理化している」という合理化テーゼを提示しているのではないかという懸念がある。
「恋愛市場」というイメージを不必要に強化することは、恋愛を「弱肉強食」の場として想像させ、恋愛や性的な場面での攻撃行動や暴力を許容するものになるのではないかという懸念もあり、現在では得られる知見よりも弊害の方が大きいようにも思われる。
*
恋愛が持つ「超越的」な力の取りこぼし——恋愛の合理化モデルが不十分である第二の理由
恋愛の合理化モデルが、不十分な理論モデルだと言える第二の理由は、恋愛が持つ経済超越的な力を取りこぼしているからである。なかでも、近代の恋愛の最大の特徴は、「市民道徳的な正統性」の力を持ってきたという点にある。
シンデレラ・ストーリーとは、階級の制約を超える愛の力を形象化したまさに「近代の恋愛」の物語である。貧しい女性が王子様と結婚するというシンデレラの物語は、階級構造を突き崩して民主化を実現していく突破力ゆえに、恋愛は近代社会の理念のもとで独特の正統性を得てきた(☆3)。
実際のところシンデレラ・ストーリーは実現しにくい(からこそ理想化されている)という現実があるにせよ、恋愛が階級移動を正統化する力を持っているということとを無視することは、恋愛の社会学理論モデルとしては不十分なものと言わざるをえないだろう。
イルーズや、同じくフェミニスト社会学者のキャサリン・ハキムは、恋愛が持つ階級突破力を「エロティック・キャピタル」として捉えようとしている。外見が美しく性的魅力の高い若い女性が持っているのはエロティック・キャピタルであり、これを元手にして階級上昇が可能になるというメカニズムがある、という議論である。
だが、シンデレラ・ストーリーの近代性は、ただたんに「性的魅力の高い人は、良い暮らしができる」という論理が登場した点にあるのではなく(それだけなら近代社会以前から王宮のハーレムや売買春などの制度の中で存在していたものである)、外見の美しさや性的魅力の高さが、ある人の中に「愛」を引き起こし、その結果、その人が相手を「正妻」や婚姻上の配偶者(夫)という「正統」な社会的地位に迎え入れる点にある。
このように恋愛には、経済的な論理を超えることのできる一段上位の力が付与されてきた。恋愛が持つのは、無限の絶対的な力ではない。あくまでも経済的な論理を無効化できるような力を発揮できるという意味であり、いわば「経済超越的」な力である。そして、これこそが、近代市民社会で成立した恋愛の特徴である。この点でも、恋愛の合理化モデルは恋愛の社会学理論としては、不十分なものであると言わざるを得ないように思われる。(続く)
☆1:経済下位層に関しては、量的に膨大であり職種等によっても多様に異なっているため、既存データで一律に論じることが難しい。とくに私はここ数年、地方で生活するようになって、既存研究はやはり都市部・東京中心的だったという感触があり、年収額などで見た場合に「下位層」になる現代の農村や漁村での、異なる尺度で見ればとても「豊か」な生活と、それらの多様性、そこでのジェンダーとセクシュアリティの構成のされ方はもっとさまざまに研究できる余地があるし、研究すべき点であると感じている。
☆2:もちろん、この複雑な選択がなされている「市場」に近似し、それをシュミレートできるような、複雑系の理論などを用いたモデルを構築していくことは意義のある研究であるし、そのような研究テーマとして、「恋愛市場」の複雑さは適したものだろう。また、データに基づいて、今でも強固にジェンダー非対称な財の交換が成り立っているのだということが明らかになったら、それはそれで面白い発見であるように思われる。
☆3:シンデレラ(灰かぶり姫)の物語は、王子様という王族(ロイヤル)が存在している時代が舞台となっているが、フランスの詩人シャルル・ペローが編纂したペロー童話集や、ドイツのグリム兄弟らによって編纂されたグリム童話集などを通して、近代に「発見」され、再構築されてきた物語である。
【文献】
▪️エヴァ・イルーズ, 2011=2024, 『なぜ愛に傷つくのか——社会学からのアプローチ』久保田裕之訳, 福村出版.
▪️キャサリン・ハキム, 2012, 『エロティック・キャピタル——すべてが手に入る自分磨き』共同通信社.
▪️高橋幸, 石原英樹, 鬼頭美江, 山田順子, 2023, 「「効率のいい恋愛」という新たな経験の諸相——マッチンググアプリ利用者調査2022の結果から(2) 」第96回日本社会学会 2023年10月9日, 口頭発表.
▪️マックス・ウェーバー, 1904-1905=1989, 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳, 岩波文庫.
▪️「マイナビ2026年卒大学生のライフスタイル調査」https://career-research.mynavi.jp/reserch/20250127_91405/