百貨店——社交の終焉と私交の拡大
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はじめに
引っ越しのたびに、私は百貨店を訪れる。挨拶のための贈答品を買うためだ。高島屋、三越、阪急。百貨店に行けば、まず間違いないアイテムが手に入る。
百貨店は衰退している。その理由はいろいろ語られるだろうけれど、私たちがもはや「社交」を必要としなくなったからだ、と私は考えている。
私たちはさいきん、誰かにものを贈っただろうか。もし贈ったとして、誰にどんなものを? 恋人や友人に、彼らが気に入るだろうものを贈っただろう。そのとき、もちろん、贈り物のセンスが試されるだろうけれど、そこまでは悩まなかったのではないか。なぜなら、贈り物をするとき、あなたは、あなたの送り先のことについてよく知っていて、何が好きなのか、好きではないのか、分かっていたはずだから。
あなたはそれを、インターネットショッピングでラッピング付きで注文したかもしれない。あるいは、モールで買ったかもしれない。けれど、百貨店では買わなかったのではないか。
では、もしよく知らない人に贈り物をするとしたらどうだろう。あなたは、引っ越しの挨拶にデパ地下にお菓子を探しにいくかもしれない。上司や友人の結婚や人生の節目にふさわしい華やかな何かを上のフロアで求めたかもしれない。あなたは、百貨店に出かける。あなたは友人や恋人に友人や恋人という間柄として贈り物をするときには、割合好きな場所で贈り物を買えばよい。あなたの趣味を反映してよい。だが、あなたがよく知らない人や、友人や恋人としてではなく「大人として」贈り物をしなければならないとき、贈り物を買うのはどこでも、というわけにはいかない。そのとき、私たちが参入する間柄が、気さくな友人関係のそれではなく、より、大人の関係、つまり「社交的間柄」であるのだ。
社交とは何か。それは、しばしば、必ずしも趣味や生き方を共有していない人々とも行う、互いへの尊敬や謙譲や「大人としてふさわしい」、社会的に承認される振る舞いを伴うコミュニケーションである。引っ越しの挨拶、目上の人や、知人のセレモニーにまつわるお祝い。いずれも、少しの緊張を伴う。「ちゃんとした人」にみられるかどうかが測られるような、毎日体験したいとは多くの人は思わなさそうなコミュニケーションの種類である。
そして、社交のためには何か贈り物が必要になる。挨拶は手ぶらではものさみしい。そうした社交のアイテムが並んでいる場所、それこそが百貨店である。そこでは、「ちゃんとした人」が愛好すべきアイテムが並んでいることになっている。百貨店で求めたアイテムは、人に渡しても恥ずかしくないものだ。デパ地下のお菓子は、いろいろな贈答品にぴったりである。それゆえ、社交が重要だった時代にこそ百貨店は花開いた。
現代は、こうした社交のコミュニケーションがどんどんと衰退している。幾度か、引っ越しの挨拶のことを話したけれど、もはやしない人も多いのではないだろうか(私は、なぜだかした方がよいのではないか、と考えてする)。もしかすると、挨拶した方が危険な目に遭う可能性すらある(しばしば、都会の一人暮らしの女性は、一人暮らしであることをいかに他者に知られないかが防犯のキモだと言われたりする)。現代はむしろ、社交が危険を招く、不必要で余計なコミュニケーションであるのかもしれない。
社交の終焉と裏表の関係にあるのは、同好の趣味のコミュニケーションの強烈化というべき、同じ価値観を持った人々が同調し、互いの価値観を強め合うようなコミュニケーション、造語するなら、「私交」のコミュニケーションの拡大と深化であろう。人々は、私交の中で、互いが同じ価値観を奉じていることを確認し、祝福する。それは例えば、アイドルとファン、ファン同士の関係に代表例を見つけることができる。アイドルは応援するファンを裏切るような路線に進んではならない。ファン同士は、同じような仕方でファンを応援することを重視する。私交の時代。
とはいえ、社交が良くて、私交が悪い、というのもイージーな結論に思える。私たちはそもそもなぜ、過去には社交していたのか。そして、なぜ私交へとトランジションしたのか。
社交と私交の絡み合いを百貨店の中から考えてみる。
なぜ私は、百貨店に行くのだろうか。
1 趣味を販売する
百貨店は、何を売っているのか。
もちろん商品を。服、靴、鞄、宝石、化粧品、家具、食器、文房具、書物、お菓子。しかし、百貨店にある商品は、必ずしも百貨店でなければ買えないわけではない。ここに百貨店性のポイントがある。服が欲しければユニクロに行けばいいし、おいしいお菓子が欲しければピエール・エルメ・パリに行けばよい。というか、ほとんど何でもインターネットで買える。買いたいものがあるなら、百貨店まで出かけることには本質的には意味がない。
では、百貨店はいったい何を売っているのか。
それは「趣味(taste)」である。ここでいう趣味とは「私はこれが好き」という意味での趣味でもなく、ギター好きとかの「hobby」としての趣味とも違う。「こういうものを選ぶのがふさわしい」「こういう部屋で暮らすのがよい」「こういうときにはこういうものを贈るべきだ」といった、生き方についての美的な規範のまとまりである。より正確にいえば「社交的センス」のことだ(趣味に関する日本語の重要な研究に、神野(1994)、神野(2015)がある)。
こういう意味での「趣味」概念は、私独自のものではなく、歴史的なものだ。二〇世紀初頭の三越は、かなり明示的に「趣味」を売っていた。ユリアーン・ファン・デル・メールによれば、一九〇四年の「デパートメントストア宣言」以後、三越は小売業の先導者であるだけでなく、「消費を通じた社交上のエチケットの公的な案内人」として自らを位置づけるようになった(van der Meer 2022, 2)。百貨店は社交的センスを販売する。
例えば、客を家に招くことを考えてみよう。
客を招くためには、座るための椅子もいるし、お茶を飲むための茶器もいるし、紅茶もいるし、テーブルもいる。お菓子もいる。殺風景だとつまらないので、部屋には絵や花が飾られているかもしれない。会話を広げるために、音楽をかけるレコードやオーディオもいるし、本棚には本が並んであると、なんだか教養があってよさそうだ。と人々は考えたのであろう。
多くの家具やアイテムは生活必需品でもあるが、どう選び、組み合わせるかによって「この家の人はどのような人なのか」が招かれた客に示される。客を招くことのできる家は、他人に見せても恥ずかしくない(そして少しばかり尊敬を勝ち得ることのできる)社交的センスが発揮された家なのだ。
ここには、近代都市の生活の一つの特徴があるように思う。
村落共同体では、相手が誰であるかを、あらためて物によって説明する必要はそれほどなかっただろう。どこの家の誰として、かくかくしかじかの仕事をして、どんな評判の人間なのか、周囲の人々がすでに知っている。だが都市では事情が違った。自分とは異なる土地で生まれた人がいて、しかも、異なる仕事をしている。その人と隣同士で暮らすことになる。とりわけ、戦後の日本に出現した「団地」においては、一緒に掃除したり、町内会で挨拶したり、自治しなければならない。そのとき、私たちは、相手がどのような人間なのかを何も知らないところから、関係を始めなければならない。そこで、私たちは、趣味をよすがにする。
歴史家のルイーズ・ヤングによれば、一九二〇年代までに百貨店は、日本の新中間層を文化的に作り出す重要な装置になっていた(Young 1999)。百貨店は日常生活の物質文化を「商品化し、近代化する」とともに、店頭で購入できる商品の総体によって「近代」のヴィジョンそのものを作り出したのである。ヤングは、この百貨店と新中間層の関係について、次のように述べている。
百貨店は、この市場を開拓しようとするなかで、自らの「近代」という理念を、新中間層のための「消費者としてのアイデンティティ」へと変換した。マスメディアにおいて百貨店が描き出したサラリーマンの生活様式は、新中間層を典型的な近代的階級として表象し、百貨店で販売される消費財を新中間層の象徴へと変えた。このようにして、近代的消費文化の言説的構築は、新中間層の言説的形成と織り合わされたのである。(Young 1999, 52)
「近代」は、政治制度や産業構造のような大きな話だけではなく、服飾やインテリアや贈答品を通じて日本人の生活に広がっていく。百貨店は日常生活を近代的なものへと作り替えながら、展覧会や催し物や広告やディスプレイ、そして店員それ自身を通じてその見本を人々に示した。当時の百貨店はまさに「近代人のための学校(a school for the modern)」だったのである(Young 1999, 60)。百貨店は商品についての専門知識を集積し、買い物そのものを「自己陶冶と自己教育」の手段にしていた(Young 1999, 60)。
近代化とは、「日本国民」の趣味の統一規格化をも部分的に意味する。趣味のよいアイテムで相手をもてなす。それらはもちろん必ずしも「本当の私」を表現しているわけではない。「私はあなたに敬意を払うことができて、ちゃんとした仕方で付き合うことのできる人間ですよ」と示すことが目的だ。それゆえ、ここでの趣味のよいアイテムは美的センスを発揮している必要はなく、社交的センスを発揮している必要があるのだ。
社交には、いつでも商品が必要である。知らない人同士は、いきなり魂と魂でぶつかり合えない。そのあいだに、服や食器や菓子や家具がクッションとなる。物を媒介にして、一時的に世界観を共有する。そして、百貨店は、趣味のよい物を売ってきた。社交的センスを手助けするアイテムたちだ。
百貨店で売られているものは、「良いもの」であるだけでは足りず、社交的センスを支える「ちゃんとしたもの」でなければならない。ちゃんと性。それは一見簡単なようでいて、かなり謎めいている。「ちゃんとした菓子」と言うとき、もっともおいしいお菓子を意味しない。贈ったときに恥ずかしくないし、相手に失礼にならないお菓子。包装を開けたときに、ある程度の華やかさがある。だが、あまりにも高価すぎたり繊細すぎたり、美的センスを試すようなものではあってはならない。こちらが相手をそれなりに尊重していることが伝わらなければならない。
タマリ・トモコの三越研究において、近代の新しい商品や生活様式を前にした消費者にとって、三越というブランドそのものが一種の基準として機能したと論じている(Tamari 2016)。
三越は「近代世界のアイコン」としての役割を引き受け、絶えず外観が変化していく混乱した世界における、安心の拠点となった。事実、そのブランド・イメージは信頼できる基準を示し、馴染みのあるものと新しいものとのあいだに立つ頼りになる媒介者として、取るに足りないものを濾過し、潜在的な危険や恥ずかしさから消費者を守りながら、それでもなお近代がもつ興奮や刺激、約束を保持していた。したがって三越は、そこへ逃げ込むための豪華で楽しい夢の世界を提供しただけではない。それは、実践的な美学と趣味の管理についての教育をも提供したのである。(Tamari 2016, 95)
三越は一九〇五年に流行会という一種のシンクタンクを設置し、ジャーナリスト、小説家、芸術家、知識人、芸者、政治家までを集めて、どのような「近代的流行」と「近代的生活様式」を作り出すべきかを検討していた。そこで日本的なデザインと西洋的な様式とを組み合わせて作られた新しい趣味は、やがて「三越好み」と呼ばれるようになった(Tamari 2016, 97)。三越という百貨店は、まだそれを手に入れていない人々に社交的センスを提供しつつも、退屈ではないスリリングな新しい美的センスの経験をも可能にしたのである(三越研究については、和田(2020)も参考になった)。
「ちゃんとしている」とは、適切な間柄を形成し、維持する「社交的性質」ともいえる、なかなか他のアイテムにはない性質なのだ。
百貨店は、この「ちゃんとしている」を大量に集積した空間である。それゆえ、百貨店の店員も重要になる。百貨店やそのなかの専門店に入ると、スーパーやコンビニとは違う緊張が生まれる。店員は丁寧な言葉遣いでこちらに話しかける。こちらもつられて丁寧に答える。背筋を伸ばす。いつもより慎重に商品を触る。自分がその場所にふさわしい客であるかのように振る舞う。
店員が店員らしく振る舞うことによって、客もまた客らしく振る舞い始める。専門店では店員の身体や言葉遣い、店舗の空間そのものが、「ここではこのように振る舞う」というモデルを客に与えている。つまり、百貨店は社交的センスを販売すると同時に、社交的センスを演じる方法まで教えている。
百貨店は、近代化の学校であるだけではなく、社交の学校だ。マネジメント研究者のデルフィーヌ・ディオンとステファン・ボラズによるラグジュアリー店の研究がある(Dion & Borraz 2017)。彼らは、高級店がすでに存在している階級を単純に反映する場所ではなく、客に「その階級らしく振る舞う方法」を教える場所でもあることを示した。店員の身体や言葉遣い、椅子やカウンターや静かな空間までがモデルとなって、客はゆっくり歩き、小さな声で話し、その場所に適した身体を獲得していく。
これは嫌な話でもある。要するに、ブルジョワジーの訓練ではないか、と。その通りだ。
百貨店が提示してきた「ちゃんとした大人」の姿は、中立的なものではない。それは特定の階級、ジェンダー、家族像をモデルにしている。立派な「夫」がいて、「妻」がいて、「家庭」があり、客を招き、適切な服を着て、適切な食器を使い、季節ごとに贈答をする。そんな生活が「標準的な大人」として売られてきたのだとすれば、その規範性を懐かしんで済ませるには、排除されてきた人々が多すぎる。
けれど、このブルジョワジー的社交を準備する百貨店には、ある機能があったともいえる。それは、自分とは違う人と付き合うための趣味を売るという機能である。
冒頭でも論じたように、自分が心から好きなものだけを集めるのであれば、百貨店はいらない。
だが、社交ではそれはいけない。私が好きなものを、あなたも好きであるとは限らない。社交には、「外でもない私はこれが好き」とも「外でもないあなたはこれが好き」とも違う、第三の領域が必要になる。私はそれほど好きではないかもしれない。あなたも、それほど好きではないかもしれない。けれど、私があなたにそれを差し出すことによって、あなたへの敬意が表現され、あなたもそれを受け取ることによって、こちらの敬意を受け取ることができる。誰もがめちゃくちゃ好きなわけではない商品こそが必要なのだ。
そして、流行している必要もない。さきほどのファン・デル・メールが当時の言説について指摘するように、「流行」が絶えず変化し、それについていかなければならない不安を生み出すのに対して、「趣味」はより安定した社会的指標として提示された。それは教育や社会的地位だけでなく、「社会の上層を支配する書かれざるルール」を理解していることの印だった(van der Meer 2022, 8)。
デパ地下の菓子は、その典型だろう。それは必ずしも私の一番好きな菓子ではない。相手の一番好きな菓子である必要もない。それでよい。そうでなくてはならない。社交の物は、私とあなたのどちらか一方に属していてはいけない。それは、私たちのあいだに置かれる。百貨店が販売していた「趣味」とは、究極的には、私たちが、それほど互いを好き合うことなく共存するための緩衝材としての、第三者の趣味である。
百貨店に入ることで、人々は、三人称の趣味を身につける。本当に好きではないものを買うことは、純粋な、本心からの美的判断ではない。しかし、本心でないことは、真心がないこととも違う。知らない人と付き合うためには、私たちは何者かを演じなければならない。
百貨店が販売していたのは、そのための衣装と小道具と舞台、そして台本だった。異なる人々が同じ舞台に立つための、最低限の演技セットを販売していた。百貨店とは、異なるコミュニティに属する演技のための稽古場であり、演技のためのアイテムが一揃い手に入る道具店であった。
2 私交で何が悪いのか
だが、社交の時代は終わりつつあるようにみえる。人々は私交の中でコミュニケーションを楽しみ、他のコミュニティと会話する必要を感じていない。それは嘆くべきことだろうか。
社交の衰退は必然的にもみえる。そもそも社交は面倒だ。冠婚葬祭、お中元、お歳暮、手土産、近所への挨拶、職場での贈答。何をどこまでやればよいのか、失礼にならないのか分からない。人によって受け取り方も違いそうだ。しかも、そのルールはたいてい明文化されていない。AIに聞いてみても、要領を得ない(社交AIの開発が待たれる)。手土産はいくらくらいなら相手に気を遣わせないのか。熨斗はいるのか。挨拶にはどんな服で行くのか。こうしたことを考えていると、「そんなルール、どうでもええわ、知らんがな」と言いたくなる。
こうした社交の面倒さから私たちが解放されてきたのだとすれば、それは、ひとまず基本的にはよいことに思える。お中元やらお歳暮やらは、やりたい人だけが贈り合えばよい。そこで求められてきた「ちゃんとした大人」には、階級やジェンダーや家族についてのかなり窮屈な規範が染み込んでいた。そうした舞台から降りて、自分の好きな人と付き合い、自分の好きなものを好きだと言うことができるようになったのだとすれば、それを「人間関係が希薄になった」の一言で嘆くのもおかしい。
さらに、私たちは人ともっと付き合うようになったようにみえる。毎日のようにいろいろな人とメッセージを送り、SNSを見て、好きな作品について話し、イベントに出かけ、自撮りして、アップロードして、いいねをし合う。好きなアイドル、マンガ、ゲーム、映画、音楽、ファッションについて、細分化されたコミュニティが無数にある。コミュニケーションはまったく衰退していない。こうした、現代に拡大しているコミュニケーションを、ひとまず「私交(privability)」と呼んでみたい。
私交とは、たんにプライベートな交際という意味ではない。美的判断をある程度共有している人と同士のコミュニケーションのことだ。「あなたもこれが好きですよね」というところから話を始めることができる。私が面白いと思ったものを送ればたいてい相手も面白がるし、新しい情報を送れば喜ばれる。いちいち背景を説明する必要もない。
私交での贈り物は難しくない。相手が好きなものを贈ればよい。第一節で考えた、私の趣味でもあなたの趣味でもない「第三の趣味」は、あまり必要ではない。私とあなたの趣味が、すでにある程度重なっているのだから。私交は、そういう意味で、社交からの解放である。とはいえ「昔の人は違う人とも付き合っていたのに、現代人は同じ趣味の人としか付き合わなくなった」というような、ありがちな現代社会批判をしたいわけではない。そもそも昔の社交がそんなに楽しく、平等で、開かれたものだったのかはずいぶんと怪しい。付き合いたくもない人と付き合わされ、演じたくもない役柄を演じさせられくたびれることも、しばしばあっただろう。
では、私交で何が悪いのか。
私交そのものには、何も悪いところはないのかもしれない。問題は、社会を生きるためには、私交だけでは済まないことにある。
同じ社会には、自分と同じ美的センスではない人がいる。ときには、ぞっとするような美的センスだと互いに思うかもしれない。私たちはそういう人たちと、別に友達になりたくなくても、道路や公園や電車や税や法を共有して生きる。生活を支えるものごとを、理念的には一緒になって決めなければならない。
政治とは、趣味の違う人と一緒に何かをするための技術である。政治家という専門職だけがするものではなく、市井の人々が、自分とは違う人間と一緒に共有している世界をどうするのかについて話し、折り合いをつけるために必要な技術だ。だとすれば、私交だけでは政治はできない。
そのときに社交は重要なテクニックとして浮かび上がってくる。社交では、相手を好きになる必要がない。そのなかで、相手への尊重や敬意を表明できる。私があなたを好きだからそうするのではなく、この間柄ではそのように振る舞うものだから、贈答をする。
冷たく、つまらないコミュニケーションである。けれど、この冷たさとつまらなさには、それなりの有用性がある。私交では、相手への配慮が好意や共感と結びつきやすい。あなたが好きだからあなたを大切にする。あなたが好きなものを私も好きだから、一緒にハッピーになる。それはすばらしいことだが、裏返せば、好きではない相手を大切にするためのテクニックは、私交には存在しない。
政治思想史家のテレサ・ベジャンは、『ただの礼節(Mere Civility)』で、よく似た問題を十七世紀の宗教的寛容をめぐる論争から取り出している(Bejan 2017)。注目するのは、ロードアイランド植民地を建設したロジャー・ウィリアムズの「ただの礼節(mere civility)」というタイトルにもある考え方だ。ベジャンの定義では、礼節とは「他者とその信念への軽蔑と両立し、ときにはその軽蔑を表現することさえある、文化的に偶然的な敬意ある振る舞いの規則への最低限の遵守」である(Bejan 2017, 14)。
ずいぶんと志が低い理想にはみえる。ベジャン自身、この徳を「相互の賞賛ではなく、相互の軽蔑へのコミットメント」とまで言う。具体例として挙げられるのが、元配偶者や嫌な隣人、敵対する党派や宗派の人々との関係である(Bejan 2017, 14)。私たちは、嫌な隣人を好きになる必要も、別れた配偶者を改めて理解し直す必要もないだろう。とはいえ、ただの礼節によって、曲がりなりにも挨拶をし、必要な話をし、同じ場所で生活することはできるし、そうする必要がよくある。ベジャンによれば、この要求の低さこそが重要なのである。より強い相互尊重や承認を要求する理論よりも、たんなる礼節は「より多くの、そしてより深い種類の差異」を受け入れながら、根本的な不一致そのものを維持できる(Bejan 2017, 14)。
「ただの礼節」は、会話を続けるために必要な振る舞いの水準が、問題の解決に到達するために必要な水準よりも、つねにずっと低いことを認める。その水準に達していることを示す何よりの証拠は、会話が続いていること、とりわけ現状を批判する会話が続いていることである。〔中略〕それは、激しい議論を可能にする「話すことと聞くことの習慣」として捉えることができる。つまり、意見を異にし、そこに必然的に伴う軽蔑や不快さに耐えながら、それでも話し続けるための習慣である。そうではなく、自分たちの開かれた精神や正しい見解を自賛しながら、すでに自分に同意している人々とのみ会話することもできるのだが。(Bejan 2017, 164)
「自分たちの開かれた精神や正しい見解を自賛しながら、すでに自分に同意している人々とのみ会話することもできるのだが」。私たちは、ここで社交と私交の二つのコミュニケーション技術の違いとしてベジャンの議論をさらに延長して考えたいのは、演技だ。
演技する。この言葉を、しばしば悪い意味で使う。本当は好きではないのに笑顔をつくる。本当は尊敬していないのに丁寧に話す。本当の自分ではない役柄を演じる。演技は嘘であり、本音のコミュニケーションのほうが本物である、というわけだ。
けれど、本音でしか他人に親切にできない社会というのも、それはそれで(かなり)恐ろしい。好きな人にしか笑顔を見せず、共感できる人しか助けず、自分と同じ価値観を持つ人の話しか聞かないのであれば、社会はかなり狭いものになる。むしろ、「あなたの生き方はよく分からないし、私はあなたのことをそれほど好きではないかもしれないし、もっといえば、嫌いでさえあるが、いま私たちは同じ場所にいるので、あなたを一人の人として遇するし、贈り物をする」。この態度がなければ、他人と同じ社会で適切に政治していくことができない。このような態度をとるためには、私たちは少しばかり自分自身から離れなければならない。民主主義を生きるためには、私たちは自分ではなくなる必要もある。
民主主義を支えるのは演技だ。
これは、政治思想史のなかでもそれほど突飛な考えでもない。先ほどの政治思想家のテレサ・ベジャンは、深刻に意見の異なる人間がいかに共存できるのかをめぐって、ホッブズ、ロック、そして先ほどのロジャー・ウィリアムズという三人の思想家を比較している。
ホッブズの答えは「黙る」ことだ。違いをむやみに言葉にして互いを傷つけないほうがよい。ベジャンの言葉では、これは「市民的沈黙(civil silence)」であり、「不一致なき差異」を可能にする方法である。
ロックの答えは、「市民的慈愛(civil charity)」だ。異なる相手にも誠実な敬意や慈愛をもって接すること。しかし、ベジャンはこの温かさに危うさを見ている。相手を心から尊重することを求めれば、どうしても尊重できない相手はどうなる? 結局その社会から排除してしまう。「本当に」相手を尊重していなければならない。そうなると、社会をともにするための条件はずいぶん厳しいものになる。
先ほどのただの礼節を唱えたロジャー・ウィリアムズの要求は低い。実際、ウィリアムズ自身、他宗派をかなり激しい言葉で批判した。しかし、互いに批判し合うことに価値を置いていた。ベジャンがウィリアムズに見いだすのは、みなが同じ意識を持つ調和した社会ではなく、異なる信念をもつ人々が嫌な感じで言い争いながらも共存している社会なのである。
違う人間と一緒にいるために、ホッブズは本音を言わないことを求め、ロックは本音から相手を尊重することを求める。ウィリアムズは、そのどちらも要求しない。私がここで「演技」と呼びたいのは、この最後のものとリンクしている。
民主主義とは、人々がそれぞれの本音を持ち寄り、議論を通じて互いを理解する麗しいコミュニケーションの理想……だろうか。確かにそれを理想として描く人も少なくないだろう。けれど、実際には、人々はそんなに簡単には理解し合わない。話しても大抵は意見が変わらないし、相手の価値観が最後まで理解できない。
そもそも、私たちには時間が足りない。あらゆる他人について深く知れるわけでも、そもそも知りたいわけでもない。意見には賛成できなくても、その人がここで意見を述べること自体は認め、同じ社会にいる一人として遇すること。そのためには、私たちは「市民」を演じなければならない。
何かを演じることは、必ずしもそれが偽物であることを意味しない。親が親として振る舞い、教師が教師として振る舞い、店員が店員として振る舞うとき、それは偽物の振る舞いだろうか。そうではないだろう。私たちはある間柄に入ることで、その間柄にふさわしい振る舞いをする。それは、内面にある「本当の私」をそのまま外に出すこととは違うが、だからといって偽物ではない。必ずしも本当ではないが、必ず嘘でもない。
百貨店は、そうした間柄の演技の舞台でありえた。もちろん、百貨店が民主主義の学校だったとは言えない。「立派な客」とは、ブルジョワな、ジェンダー化された客である。それでも一応は、百貨店という場所が、知らない人間同士が社交可能な共通の役柄を制作していた、とは言えるだろう。そのグッズを提供していた。百貨店が売っていたのは、他人と一緒にいるための演技と小道具でもあったわけだ。
とはいえ、昔の社交を復活させればよい、ということではないだろう。問題は、社交に戻ることではなく、社交が担っていた機能を別の仕方でつくり直すことだ。仲良くならないままに一緒にいるための技法。その形式がどのようなものなのか、私にはまだよく分からない。
未来の社交のためのアイテムを、私たちはどのように手に入れることができるのか。それはどこで販売されることになっているのか。過去よりもきっと人の少なくなった百貨店を、丁寧にラッピングされた贈答品の入った紙袋を持って歩きながら、私は考えている。
参考文献
神野由紀、一九九四年『趣味の誕生:百貨店がつくったテイスト』勁草書房。
神野由紀、二〇一五年『百貨店で〈趣味〉を買う:大衆消費文化の近代』吉川弘文館。
和田博文、二〇二〇年『三越 誕生!:帝国のデパートと近代化の夢』筑摩書房。
Bejan, Teresa M. Mere civility: Disagreement and the limits of toleration. Vol. 121. Cambridge, MA: Harvard University Press, 2017.
Dion, Delphine, and Stéphane Borraz. 2017. “Managing status: How luxury brands shape class subjectivities in the service encounter.” Journal of marketing 81.5: 67-85.
Meer, van der Jurriaan. 2022. “A Sign of Good Taste: Mori Ōgai, Mitsukoshi and the Concept of Shumi.” Humanities 11.6: 131.
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Tamari, Tomoko. 2016. “The department store in early twentieth-century Japan: Luxury, aestheticization and modern life.” Luxury 3.1-2: 83-103.