第5回 広いこの世界で私たちだけ

うつ病、自殺未遂、貧困、生活保護、周囲からの偏見のまなざし……。幾重にも重なる絶望的な状況を生き延びた体験をまとめた『この地獄を生きるのだ』で注目される小林エリコさん。彼女のサバイバルの過程を支えたものはなんだったのか? 命綱となった言葉、ひととの出会い、日々の気づきやまなびを振り返る体験的エッセイ。精神を病んだのは、貧困生活になったのは、みんなわたしの責任なの?──おなじ困難にいま直面している無数のひとたちに送りたい、「あなたはなにも悪くない」「自分で自分を責めないで」というメッセージ。

散歩の許可が降りた次の週、すんなりと外出の許可が降りた。外出は駅前まで行ってきていいので、好きなものを食べたり、買い物に行ったりできると思うと、嬉しくて顔がニヤニヤしてしまう。他の入院患者たちから「いいなー、なんかお土産買ってきて」などと冗談を言われた。

退院までにはステップがあることが最近わかった。散歩、外出、外泊、の順に許可が降りた後、退院になる。もちろん、これは看護師から教わるのではない。入院して、周りの患者を見ていると大抵の人は外泊をした次の週に退院して行くのだ。

しかし、まきちゃんは外出も外泊もしていないのに突然退院が決まった。まきちゃんの母親が病棟内で、荷物をまとめながらまきちゃんと何か話している。まきちゃんがこんなにも早く退院できるのは、大企業の娘だということに何か関係があるのだろうか。

「退院決まって良かったね」

私がまきちゃんに話しかけると、彼女は満面の笑みで、

「ありがとう。エリコも元気でね」

と言ってくれた。

私はまきちゃんの住所も電話番号も知らない。精神病院では個人情報を交換することが禁止されているのだ。精神病院という特殊な場所で、濃い時間を過ごしながら、もう一生会うことがないのが、とても不思議なことに思えた。学校の同級生なら、なにかしらの方法をとって会うことができるだろうが、ここで出会った人とは二度と会うことがない。

私はまきちゃんにもう会えないということよりも、まきちゃんの今後の人生を知ることができないのが寂しかった。今後、青酸カリに頼ることがあるのだろうか、青酸カリ以外の希望を見つけられるのか、まきちゃんの背中を見送りながら、この辛い人生を生き抜いてください、とそっと心の中で言葉をかけた。

外出の日、お昼頃にナースルームに入れてもらい、玄関まで看護師に付き添ってもらう。ここから先は完全に一人だ。駅前で待っている父と母に会うために、バス停でバスを待つ。バスはいろんな路線が混ざり込んでいてわかりにくい。行き先があっているかバスの運転手さんに聞いたが、なぜか答えてくれない。精神病院の前から乗ったので、患者だと思って冷たくしているのだろうか。不安な気持ちのまま座席に着いた。持ってきた黒の小さな肩掛けバックには小銭の入った財布とハンカチくらいしか入っていない。洋服も小綺麗なものがなくて、学生時代からずっと履いているボロボロの花柄のズボンとグレーのスエットという有様である。今日は駅前でもうちょっといい服を買ってもらおう。あと、病棟内で履くサンダルもいいものが欲しい。病棟では一人暮らしのアパートでベランダに出るときに使っていたゴム製の外履きを履いているのだ。

顔を上げて、バスの窓から流れて行く景色を眺める。見慣れない景色を見ているとなんとなく不安になってくる。自殺未遂をしてから今まであったことが全部嘘だったらいいのにと思う。集中治療室に入ったことや精神病院の入院はとても褒められたものではない。時間を巻き戻したいと思いながら、どこまで巻き戻せば私は満足なのかと考える。就活で失敗した短大生活、友達がいなくて自殺を考えていた高校時代、小中学校ではいじめに遭っていたことを思うと、もう、母の体内に戻るしかなさそうだ。私は一人で窓の外を見ながら自嘲気味に口角を上げた。生まれてきて良かったと言える人は世界中にどれくらいいるのだろう。

バスが終点を告げて、駅前に着く。バスを降りると父と母が私を見つけて手を振っていた。

「エリちゃん、こっち、こっち」

母は笑顔だ。父も競馬新聞を脇に抱えながら、手を振っている。二人はこんなダメな私を待っていてくれた。感謝しないといけない。

父に会うのは久しぶりだった。父はなんだか照れ臭そうな顔をしている。

「なにが食べたい、エリコ」

父に聞かれて、真っ先に、

「お寿司が食べたい」

と答える。正直、寿司以外の選択はあり得ない。寿司でなければ焼肉がいい。病院食が辛くてたまらないのだ。今日のお昼のラーメンは伸び切っていた。

父は「ははは」と軽く笑って、

「寿司屋に行こう。確か、あの中にあったぞ」

と言って駅ビルを指差した。

久しぶりに父と母と一緒に歩いていたら、私たちは親子なんだと思ってなんだか悲しくなった。私は子供の頃から二人が嫌いだった。酒を飲んで暴れる父も嫌だったし、父の暴力に耐える母も嫌いだった。それなのに、私が世界中で頼れるのはこの二人しかいないということはとても残酷だ。

三人で寿司屋に入る。熱い緑茶すら嬉しい。何しろ、精神病院ではノンカフェインが徹底されているので、出てくるお茶はほうじ茶だけなのだ。

「せっかくだから特上を頼もう」

父のいいところは気前の良さだと思う。店員に特上寿司を三人前頼んで、自分はビールも追加した。私にもビールを頼むかと聞いてきたが入院中だからと断った。

「どうだ、元気でやってるか」

出てきたビールをぐいと飲みながら父は私に聞いてきた。

「うん、元気だよ」

本当は少しも元気じゃなかった。お風呂には毎日入れないし、外に出られないストレスは相当だった。しかし、それを悟られないように必死に笑顔を作る。そんな私のことを気にもとめず父は次の話を切り出した。

「そうそう、そういえば、この間見た映画なんだけどな……」

私の父は基本的に自分の話したいことを一方的に喋る。私は自殺未遂にまつわることは話したくなかったから、父の一方的なおしゃべりに今回は助けられて、ウンウン頷いていた。母はいつも通りの父の横ですました顔をしていた。

しばらくしたら特上の寿司がやってきた。私は我を忘れて寿司を口に運ぶ。中とろを口に入れて、思わず「うまい〜」と漏らしてしまう。寿司が美味しいのは当たり前だけれど、入院生活で生ものが食べられず、味の濃いものも、刺激のあるものも、すべて禁じられているので、脂身のある中トロは麻薬的な美味しさだった。食べると元気が湧いてくる。もうちょっと頑張ろうと思う。食欲をばかにしてはいけない。生きる上での根本的な欲求だ。私は特上寿司をペロリと平らげて、緑茶をすする。

「この後は、入院に必要なものを買いに行きたいんだけど、いいかな」

私がそう提案すると、父は、

「俺は、競馬があるから」

と、悪びれることなく答えた。私はちょっと驚いたが、止めようとはしなかった。父にとって最優先すべきなのは自分の楽しみであって、子供のことは二の次なのだ。

会計を父が済ませて、店を出た。

「じゃあな」

と、父は言って一人で駅の改札に向かう。2時間くらいしか一緒にいなかった。

「お父さんて、どうしようもないよね」

私は小さくなる父の背中を見送りながら、母に言った。

「うん、本当にそうね」

母も表情を変えずに私に同意した。

「エリちゃん、買い物に行こうか。駅ビルの中に無印良品があったわよ」

母に促されて買い物に向かった。

買い物が終わってまたバスに乗り、病院に戻る。私は買い物の最中にタバコを買っておいた。なぜかというと、タバコは病棟内で週に一箱と決まっているが、それだけでは足りなくて、いつも、残り本数を気にしながら吸うのが嫌になっていたのだ。看護師に見つからないように、私は靴下のゴムの部分にタバコを挟んだ。昔、何かの映画で見た手法だ。仮にバレたとしても、謝ればいい。警察に連れていかれるような犯罪ではない。ナースルームで荷物検査とボディチェックを受ける。パンパンと足元まで叩いたが、気づかなかったようで、私は病棟に通された。ホッとしたのもつかの間、急いで自分の病室に行き、密輸したタバコをベッドの上に置いた。私は早速そのタバコを持って喫煙所に向かい、いつもの仲間とおしゃべりを楽しむ。今日のご飯のこと、おやつのこと、入院患者のこと、テーマはいつも同じだ。しかし、話すということはとても大事だと思う。精神を病む人は孤独であることが多く、安心して話ができる仲間に出会えていないことがほとんどだ。私たちは人生のどこかで人から排除されて心を病んだ。私がここで安心して話をできる理由は相手も同じ病気だからだと思う。

月曜日、看護師たちのミーティングが終わり、恒例の許可が記された紙を見にリビングに行く。私は今週末に外泊できることになった。きっと次の週には退院が決まるだろう。早く外泊したくて、カレンダーを何回も見つめながら、ため息をつく。暇なので、リビングに向かうと卓球大会が始まっていた。私は卓球ができないけど、参加を申し込んだ。サーブすらうまく打てなかったが、みんな笑ってくれた。卓球というよりピンポンといった感じで、ゆるゆると卓球大会を楽しんだ。

外泊当日、母が迎えに来た。私は外泊を茨城の実家まで行くのかと思ったのだが、私が一人暮らしをしていた東京のアパートですることになった。自分が自殺未遂をしたアパートに行くのはちょっと嫌だった。しかし、口答えするのも悪いので、母と一緒にアパートに向かった。

ドアを開けると懐かしい光景が広がった。狭い台所、積み重なった衣装ケース、ブラウン管の小さなテレビ。生きてここに戻ることはないと思っていたので不思議な気分だった。母と二人だと一人暮らしのアパートはとても窮屈だった。テレビをつけ、何となくそれを眺める。二人とも言葉をあまり発しなかった。寝る時間になり、二人分の布団を敷くと、部屋はそれだけでいっぱいになってしまう。母と寝るのなんていつぶりだろう。

私は物心ついた時には兄と一緒に寝かされていたので、母と寝ていた記憶がない。私は、自分が犯した自殺という罪を思い、母と枕を並べていたら、なんだか悲しくなってしまい、ぎゅっと目をつぶった。広いこの世界で生きているのは私たちだけみたいな気持ちがした。

一晩をアパートで過ごして病院に戻った。病棟に戻るとゆみちゃんに声をかけられる。

「今から食堂で看護師たちとの会議をするんだけど、患者も参加できるんだって。日頃の不満点を伝えていいってよ」

ゆみちゃんは真剣な顔だった。

「私も参加する!」

私はすぐに返事をして、荷物を部屋に置いてから、ゆみちゃんと一緒に食堂へ向かった。

食堂には白衣を着た看護師たちが集まっていた。患者は5、6人といったところだろうか。

「患者側から、病院に改善してほしいことがあったら言ってください」

看護師がそう言ったので、私たちは話し出した。

「テレビが壊れて8チャンネルしか映らないので修理してください」

「ソファが壊れて中のワタがボロボロ出ているので、新しいものを買ってください」

「お風呂が週に3回は少ないので、毎日入りたい」

後から後から患者の要望は飛び出した。それを看護師たちは頷きながら聞いてメモした。全てをメモし終わると解散になった。

「要望通るといいね」

私はゆみちゃんを見ながら言った。

「通るのかわからないけどね」

ゆみちゃんは悲観的だった。

月曜日、看護師たちのミーティングの後、いつも通りに散歩、外出、外泊、退院の人が張り出された。そして、退院のところに私の名前があった。私は体がわくわくした。やっと、退院だ!

今まではいつが退院なのかわからなかったので、毎日の生活が苦痛だったけれど、ゴールが見えるとそれがなくなった。つまらない入院生活も、まずい食事も耐えられた。後ちょっとでここから出られるのだ。退院をしたら何をしよう。まず、ビールを飲んで、ケーキを食べて、揚げ物も食べたい。そして、中野のまんだらけに行ってたくさん漫画を買いたい。友達にも会いたいけれど、会ってくれるのかと少し不安になった。退院したという連絡だけすることにしよう。

入院中に増えた荷物も片付け始めた。

「入院中に使っていたサンダルを持っているとまた入院するってジンクスがあるんだよ。だからエリコのサンダル私にちょうだい」

と、ゆみちゃんが言ってきた。サンダルは買ったばかりなので、ちょっと勿体無かったが、再入院は嫌なので、あげることにした。

退院の前にやっておきたいことがあった。ボロボロのソファをどうしても直したい。ゆみちゃんと一緒にナースルームに行ってガムテープをもらってくる。二人でワタが出ているソファの修繕をした。すぐにダメになってしまうかも知れないけれど、しないよりマシのはずだ。私から精神病院へのプレゼントだった。

退院前日、あまり話したことのない女の子が私にティッシュに何かを包んで渡してくれた。

「退院おめでとう」

そういって私にプレゼントを渡した彼女の瞳は小さく震えていた。私のことを憧れの瞳で見ていた。

「ありがとう」

そう答えながら、プレゼントを受け取った。そうしたら、その子はくるりと背を向けて自分の病室に走って帰って行った。ティッシュの中には香水瓶が入っていた。ガラス製品は持ち込み禁止なのに、大切なものをくれてありがとう、もう一度心の中でお礼を言った。

病室に戻ると、相部屋のおばさんがハンカチをくれた。黄色のハンカチの端には綺麗なレースがついていた。

「このレース、私が編んだのよ。退院したら使ってね」

私はなんだか心がこそばゆかった。ここの人たちは優しいと思う。たった数ヶ月一緒にいただけなのに、心から他人のことを祝うことができるのだ。ゆみちゃんは綺麗な絵をかいて私にくれた。私はみんなからのプレゼントを持って明日退院することになった。

退院当日、母が来て一緒に荷物を持ってくれた。みんなが手を振って見送ってくれる。さようなら、もう二度と会うことのない仲間。ナースルームに入ると病棟側のドアに鍵がかかった。もう二度とここに入ることのない人生を送れますように。一階に行き、母が退院の手続きをすませる。私はぼうっとして母を待っていた。病院の玄関を出て、母と一緒に駅に向かうバスを待つ。バスの本数は少なくて、次のバスがなかなかこない。私はすっかり冷たくなった秋の風を受けながら青空を眺めた。私の人生は一度終わってしまったけれど、もう一度始まるのだ。嬉しいような怖いような不思議な気持ち。次からの人生はきちんとしたものになりますように、と青空の向こうにいる神様に向かってお願いした。大丈夫ですよ、と聞こえた気がした。

(★編集部注:本連載における精神病院の描写は、著者が入院されていた1990年代後半の状況を反映しています)