第6回 漆黒の夜、助けを求める声は届かない

精神疾患、自殺未遂、貧困、機能不全家族など、いくつもの困難を生き抜いてきた著者は、あるとき気がついた。じぶんの生きづらさは、女であることでより深刻化させられてきたのではないか。かつて一ミリも疑ったこともなかった「男女平等」は、すべてまちがいだったのではないか。女であることは、生きにくさにつながるのか? ジェンダーの視点を得ていま語る、体験的エッセイ。

短大は新宿から少し離れた場所にあった。茨城に住んでいた私は東京まで電車通学をすることになった。高校でも電車通学だったが、東京まで一時間以上かかるので、毎日通えるか不安だった。短大の授業は朝早く始まるものもあれば、遅いものもある。必修科目の授業が一限目からのものがあったが、他の科目は二時限目などの遅いものにした。朝のラッシュを避けたいためだ。朝10時を過ぎた電車は比較的空いていて楽に乗れた。短大に着くと、指定された教室へ行き授業を受けた。

私は短大では明らかに浮いていた。私は汚いジーンズに古着のシャツを着ていて、コンサバの格好をした女子たちは私のことを全く見ようとしない。私も彼女たちと仲良くしようとする気は無かった。服装というのはその人の考えを主張するものであると思う。考えだけでなく、所属する世界も表している。ベージュや黒、白のカットソーを着てハイヒールを履く彼女たちは男たちの視線を意識して生きている。男から見て綺麗だと思う女、素敵だと思う女を装っていた。

私は自分の意思を曲げてまで、男性と付き合いたいと思えなかった。私は私が素敵だと思う服を着ていたい。お金があまりなくて、欲しい服を存分に買えなかったけれど、フリーマーケットや古着屋で買った服を着て、肩で風を切って歩いた。しかし、私と友達になりたい人は誰もいなかった。

短大の授業が終わった後、早稲田大学に向かった。私の高校時代の友人が早稲田大学に通っていて、うちの大学のサークルに入りなよと勧めてくれたのだ。私の通っている短大には美術サークルがないことを知ってそうやって声をかけてくれたのだ。電車を乗り継いで早稲田大学に向かう。大学の入口をくぐると、サークルの勧誘がたくさんいた。私は案内を眺めながら、美術サークルを何個か回った。その中で、サークルの説明が丁寧だったところに所属することを決めた。

サークルを決めてから帰りの電車に乗る。18時をとっくに過ぎていて、電車の中はぎゅうぎゅうだった。スーツのおじさんたちからはなんとも言えない匂いが漂ってくる。汗の匂いとタバコの煙の匂いとアルコール。それらがミックスされるとなんとも気持ちが悪い。

私はカバンの中から文庫本を取り出して小さなスペースの中で必死に体制を整える。なんとか本を読み始めると、背中に異変を感じた。熱い棒状のものが背中に押し付けられているのだ。私は本に集中していた意識を背中に移動させた。これはなんだ?なんでこんなに熱いものが当たっているのか?そしてハッとした。これは男性の股間についているものだ。その時に全身の毛が逆立つような恐怖を感じた。どうしよう、どうしたら逃げ出せるのだろうと思いを巡らせるが、全ての人間と密着する満員電車の中、逃げることができない。

しばらくすると、駅について、人の移動が始まった。私はその時に乗じてその場から逃げた。ホッとして新しい場所で文庫本を広げて読み始めた。しかし、また、熱い棒状のものが背中にぴったりと張り付いているのだ。私はこの時、どんな表情をしていたのだろう。自分では見ることができないが、顔が紅潮し、恥ずかしさと恐怖で怯えていたと思う。私は一駅分我慢して背中に当たる熱いものをそのままにしておいた。そして、次の駅について、人が流れ始めると、また、逃げた。しかし、逃げてもまた、その男性はぴったりと私の背中に張り付いてくる。私はなんどもなんども逃げた。しかし、相手はどこまでも追いかけてきた。恐ろしくて振り向くこともできない。こんな時に、「痴漢です!」と声を上げる勇気は19歳の私には無かった。

私は心臓をばくばくさせて、最寄の駅に着くとよろけながら改札まで向かった。人生で初めて痴漢にあって心は千々に乱れていた。もう二度と、こんな目に遭いたくない。そう思っているのに、私は短大から帰る電車で、いつも痴漢に遭った。

短大に通い始めて一ヶ月くらい経った頃、母が「エリちゃん、なんか洋服買ってあげるから、デパートに行きましょう」と声をかけてきた。

「どうしたの急に?」

私が驚いて尋ねると

「だって、あなた、洋服全然持ってないじゃない」

と、母がため息交じりに続けた。

確かに、私は手持ちの服が少なくて、いつも同じ服ばかり着ていた。そんな私を不憫に思ってのことだった。この頃、まだユニクロもなく、ファストファッションのブランドもなかった。洋服はどれも高くて、学生である私はお洒落をする余裕がなかった。

母と少し離れた駅にあるデパートに向かう。ブランドの服はどれも素敵だがどれも高かった。色々な洋服を見て、気に入ったのは水色のチェックのワンピースだった。ワンピースを普段あまり着ないのだが、試着すると自分が少し素敵に見えたし、水色と白の服は清潔感があって女性らしく見えた。少し高かったが母が買ってくれた。ショップバックを手にして軽い心持ちで帰宅した。

私は早速そのワンピースを着て学校へ行った。短大では誰にも話しかけられなかったが、サークルでは話しかけられた。

「それ、古着?」

なんだか、少ししょげてしまう。デパートで一万円以上もしたものなのに。

「違うよ、古着じゃないよ」

少しムッとして言った。しかし、私はもともと古着が好きなので、新品のワンピースも古着っぽい柄だったのかも知れない。

その日はサークルで飲み会があった。私はお酒を飲みながら少しテンションが高くなった。昔から話し出すと止まらないところがあるので、いろんな人に話しかけた。私は友達があまりいないけれど、人が嫌いなわけではない。むしろ、自分と似たような人とは積極的に友達になりたいと思う。

「追加のお酒、誰か買ってきて」

女の先輩が声をあげたので、私は勢いよく「行きます!」と、返事した。

「僕も行くよ」

声をあげたのはサークルの部長だった。私は部長と二人で部室を出た。私は少し浮かれて、部長に色々と話しかけた。部長は私の話に相槌を打ってくれた。高校生の時は男の人とほとんど話さなかったので、少しドキドキした。

「そっち、車道だからこっちにきなよ」

私は少しびっくりした。そんな風に気を使われたことが人生で一度もなかったのだ。私は部長に促されるまま白線の内側に入った。私は自分より歩幅の広い部長の後をテロテロついて行きながら、自分の好きな話をした。

コンビニに入って缶チューハイやらビールを買う。後、おつまみも少し買った。部長がレジでお金を払っている横で、私はすぐに缶ビールばかりが入ったビニール袋を手に提げた。

「重いから、それは僕が持つよ」

部長は当たり前のように言う。

「え!これくらい平気ですよ」

私が渡すのを拒むと

「いいから、いいから」

そういって私からビニール袋を取り上げた。私は軽いおつまみばかりが入った袋を渡される。私はなんとなく不服でありながら嬉しかった。女扱いされると言うのは、自分の能力を軽んじられることであるが、庇護されることでもある。私は部長と一緒に暗い夜道を歩いた。なんだか胸が温かくなるのを感じた。

サークルでの飲み会が終わり、夜道を歩いて駅に向かう。茨城の自宅に着く頃には深夜になりそうだった。夜が遅いせいか、電車の中は空いていて、周りに接触してくる男はいなかったのでホッとした。カバンから文庫本を取り出すと、目で文字を追う。酔っていても本を読めるのは私の特技だと思う。

一時間以上かけて自宅の最寄駅に着く。私はフラフラしながら家路を辿る。真っ暗な夜道を歩いていると自分の足音がやけに大きく聞こえる。物音ひとつしない漆黒の夜。時折、街灯が道を照らしていて、少し安心する。私は自分以外の足音に気がついた。そういえば、駅からずっと続いている。「きっと、同じ方向に帰る人なのだろう」。そう思って深く考えるのをやめた。それにお酒で酔っていて、気分が良かったので、そういったことがどうでもよかった。

家に向かう途中の急勾配の坂道は木がたくさん生い茂っていて、街灯も少ない。その道に来た途端、私の後ろから聞こえていた足音が急に近づいてきた。そう思った瞬間、見知らぬ男性が私の体を後ろから抱きしめた。私はあまりの恐怖に腹から声を出した。

「うわあああああああああああああーーーーーーーーーー!!!!!!」

本当に怖い時、女は「キャー!」とは言わない。私は野獣の咆哮のような叫び声をあげた。

「うわあああああああああああーーーーーーー!!!!!!!」

叫び続ける私の口を知らない手が塞ぐ。私は口を塞がれても声を出し続けた。

「うっぐぐうぐううーーーーーー!!!」

怖い、怖い、怖い。体に力が入らなくなり、その場に倒れこむ。男性は片手で私の口を塞ぎ、私の胸をまさぐった。私は痩せていて、あまり胸がない。そのせいか、胸を触るのをやめて、下半身に手を伸ばした。スカートの中に手を入れ、下着の上から性器を触る。私の割れ目部分にぴったりと指を這わせる。恥ずかしさなんてものはなく、ただ、恐ろしかった。

私は腹から咆哮しながら、死ぬかもしれないと思った。このままレイプされて、殺されて、どこかに捨てられるんだ。短い間にそう考えた。まだ、好きな人もいないし、キスだってしていない。それなのに、こんなところで見知らぬ男に犯されて死ぬのか。目からはうっすら涙が滲んだ。誰か、誰か助けて。しかし、深夜12時を過ぎているので、通行人は誰も通らない。どんなに叫んでも誰も異変を感じてくれない。男の指が動き始めたその時、少し離れたところにある家のドアが開いた。その瞬間、暴漢は物凄いスピードで来た道を引き返した。

「大丈夫ですかー?」

少し呑気な声が聞こえた。

「・・・は、はい」

私は立ち上がれないでいた。

「警察を呼びますかー?」

家の住人がそう言ったのだが、こんなショックを受けた後に、警察から色々聞かれるのは嫌だった。そもそも、誰かに何かを話す気になれない。ただ、早く家に帰りたかった。

「・・・いえ、大丈夫です・・・。帰ります」

私はよろけながら立ち上がった。足が少し擦りむいて血が出ていた。

「気をつけてくださいねー」

その声を聞きながら、私の心は空っぽだった。ひどい恐怖から解放された後は、こんなにも無気力になるのかとびっくりした。怒りは湧いてこなくて、ただ、全身に力が入らない。私は足を引きずりながら帰宅した。家に帰るとシャワーも浴びずに布団に横になった。

次の朝、私は改めて、昨日のことを思い出した。そして、自分が痴漢にあったのだと理解した。警察に行ったほうがいいのだろうかと考えたが、勇気が出ない。しかし、あの男はもしかしたら何回もあの道で痴漢をしているのかもしれない。第二の被害者が出ないように警察に訴えたほうが良いのかもしれない。私はそう考えて、駅前の交番に行った。制服を着た警官に勇気を出して話しかけた。

「あの、昨日、夜道で痴漢にあって・・・」

私は警官がびっくりするんじゃないかと思ったけど、とても普通だった。

「ああ、そうですか。どこいらへんで痴漢にあったんですか」

こちらは痴漢という非日常に遭遇したのに、警察にとっては日常なのだろう。大きな地図を開いて、私に見せてくる。

「えーと、ここいら辺です。駅からつけてきたみたいで、突然抱きつかれました」

私が勇気を出していうと、警官は続けた。

「で、具体的に何をされたの?」

冷静に発せられるその言葉に遠慮とか、被害者への気遣いはなかった。話したくないと思ったが、そういうわけにもいかない。せめて、婦人警官なら話しやすいのに。

「胸を触られて、スカートの中に手を入れられました」

喉から絞り上げるように昨日のことを伝えた。性器を触られたとは言えなかった。

「ふーん・・・ここいら辺はよく痴漢が出るんだよね。気をつけて」

そう言って、広げた地図をバサリと閉じた。どうやら、それでおしまいのようだった。

「はい。気をつけます」

私はそう言って頭を上げて交番を後にした。そのまま駅に向かいながら、警察に行かなければよかったと後悔した。治安を守ると言っても彼らは何もしてくれないんだという絶望感が大きかった。上りの電車に乗って、短大に向かう。今日もまた、電車で痴漢に遭うのだろうか、帰り道では大丈夫だろうか。痴漢が怖いからと言って、短大に行かないわけには行かない。学費を出してもらっているのだし、きちんと卒業したい。しかし、私は痴漢たちに対してどうやって防衛すればいいのだろう。考えても何も答えが出なかった。電車に乗って流れる景色を眺める。左足の傷跡がズキズキと痛み出した。私は不条理という言葉を噛み締めながら立ち尽くすだけだった。

 

1977年生まれ。茨城県出身。短大卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職、のちに精神障害者手帳を取得。現在は通院を続けながら、NPO法人で事務員として働く。ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。著書に『この地獄を生きるのだ』『生きながら十代に葬られ』(共にイースト・プレス)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社)、最新刊『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房)が5月10日より発売。

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