第8回 「バニチー」に焦がれる夫人 前編

真珠夫人、感傷夫人に黄昏夫人……明治以来、数多く発表されてきた「夫人小説」。はたして「夫人」とは誰のことか? そして私たちにとって「夫人」とは? 夫人像から浮かび上がる近代日本の姿!

作品名:『伯爵夫人』田口掬汀 1905(明治38)年~1910(明治43)年

さて、明治30年代に興隆した「家庭小説」ブームのなかで、本連載が取り上げる作品は「THE 家庭小説」とでも呼びたい一作、田口掬汀〈たぐちきくてい〉『伯爵夫人』である。

本作は、前編(『万朝報』明治38年4月19日~8月10日)、後編(『万朝報』8月14日~11月23日)、「外相夫人」(『大阪毎日新聞』明治43年1月1日~4月24日、単行本化にあたり『伯爵夫人 終編』として完結)と、タイトルと媒体を変えて三度連載されており、単行本換算で計1032頁という長大な物語である。

あらすじを書くだけで一回分が終りそうだが、まずは著者、田口掬汀の経歴から紹介しよう。

田口掬汀(本名は菊治、のち鏡次郎)は明治8年、秋田県仙北群角館町の雑貨商の次男に生まれるが、父は俳人、人形師でもある趣味人で、美術や芝居が身近な環境に育つ。小学校卒業後、役所勤めなど職を転々し16歳で結婚。三児をもうけて上京し、「新声社(新潮社の前身)」に入社する。33年、「金港社」の懸賞小説で「人の罪」が当選して初の単行本を上梓。翌年、『大阪毎日新聞』からの依頼で「新生涯」を連載し、舞台化されて大ヒットとなった。「新声社」を退いた後、『女夫波〈めおとなみ〉』(37年)、『伯爵夫人』(38年)をそれぞれ『万朝報』にて連載、舞台化、映画化されて押しも押されもせぬ流行作家となる。40年には帝国座の座付きに引き抜かれ翻訳劇などに携わった。その後、『大阪毎日新聞』『毎日電報』(ともに「毎日新聞社」の前身)に籍を置いて小説を発表するが、大正3年に「中央美術社」を立ち上げて『中央美術』誌を発行するなど美術評論や画家の育成に専念し、小説からは退いた。昭和18年、68歳で病没している。

では、『伯爵夫人』のあらすじを見てみよう。

堀田延代は水戸佐幕派の残党で旅館を営む家の娘。避暑に来ていた郷田子爵夫人に気に入られ、東京の夫人の家に寄宿することになる。家を出るにあたって父から告げられたのは、延代は親友の子供であり、政治家に嫁がせる希望を持って堀田家に託されたという驚きの事実だった。また、延代の幼なじみで将来の約束をしていた養子の中桐数馬も別の親友から託された子供で、実業家にすることを望まれていたという。延代は遺言通り出世を目指して郷田子爵家に住み、そうと知らない数馬は虚飾に憧れて自分を捨てたと恨みを持つ。東京に移った延代は槙原伯爵に見初められるものの、郷田夫人の養子の三輪資郎にも気に入られ、あれこれ邪魔を入れられる。見どころは、遺言の件を知らない数馬が延代を堕落した女だと責め、延代を好きな資郎はあの手この手で水を差し、槙原伯は周囲をうろつく数馬を胡乱に感じて問い詰めるなどして、延代が煩悶する点。最終的に延代の父が死の床で真実を打ち明けることで数馬の目が覚め、実業家として立つことを決意。いずこかへ去る。ここまでが前編である。

後編は三年後の話。数馬は北海道に渡り、努力を重ねて農場監督の任に就く。一方、延代は外務大臣となった槙原伯と結婚して伯爵夫人となった。しかし幸せもつかの間、伯が9年前のパリ滞在中に音楽家のフランス人女性に子供を産ませた揚げ句に一人で帰国したという話を小耳に挟む。しかも音楽家ルイズと息子アルマンは、槙原伯に恩を着せようと考えた郷田子爵の手引きで来日していた。延代はそれとなく伯に聞くも逆ギレの後に別居され、郷田夫妻にもしらばくれられ、孤立してしまう。その頃数馬は、移民問題に取り組む友人と偶然出会い、勧められるままに選挙に出て当選し、政治家となる。そして、移民100人を騙して暴利をむさぼりそのまま見捨てた会社の大株主が郷田子爵であること、槙原外相は知っていながら見逃していることを聞き、槙原家に乗り込む。焦った伯はその場をごまかし、その後に数馬を懐柔しようとパーティーを開くが、そこで数馬は初めて延代が槙原外相夫人であること、決して幸せではないことを知る。数馬は槙原伯に正面からルイズのことを問い質し、延代を幸せにしてくれと言い残して立ち去る。ここまでが後編である。

終編である「外相夫人」(『伯爵夫人 終編』)は、現実には前連載から5年経っているが、物語は続きから始まっている。延代は再び伯と別居して別荘に向かうが、そのとき手にしていたのは資郎の手紙。資郎は今までの奸計を悔いつつ、ルイズが帰国しようとしているが口止め料を渡してから帰した方がいい、その金は自分が用意すると書いていた。しかし、いざ訪ねてみると延代に思いを遂げない限り金は出さないと言う。困った延代は、郷田子爵夫人や叔父、兄に相談するが金策は不首尾に終わる。そうこうするうちルイズの件が新聞に出て、怪文書とともに槇原家に届けれらた。伯は延代の仕業と思って怒り狂い、別邸に追い出したが、差出人は資郎であった。一方、当の資郎はルイズを丸め込もうとするがうまくいかす、自殺を仄めかして脅す。しかし逆にルイズに刃物で殺され、ルイズ自身も狂って死ぬ。別邸から自宅に戻った延代は槇原伯に責められるが、そこに数馬が登場、遺された伯の息子アルマンを引き渡す。伯は受け取ろうとせず、延代が代わりに手を取り、どうなってもこの子を育てようと決心する。

挿話はもちろんのこと、登場人物も何人か端折ったが、それでもなかなかのボリュームである。

読んでいて印象に残ったのは、女性キャラの心がとても弱い点だ。

男性陣は悪人(槙原伯爵、三輪資郎、郷田子爵)、と善人(中桐数馬、延代の兄、移民問題に取り組む数馬の友人)にくっきり別れて言動も首尾一貫しているのに対し、女性陣(延代、郷田子爵夫人)は虚栄に憧れたり、そうかと思うと反省したり、夫のモラハラにひたすら耐えるかと思えば内心悔しがったり、ぐにゃぐにゃと煮え切らない。

そもそも延代が郷田子爵夫人のところに寄宿したいと考えたのも「此壮麗なる邸宅に起臥して、朝夕夫人の薫陶を受けたならば、如何に我身の光りが増すであらう?」という理由であって、その後から実父の遺言を聞いて渡りに船とばかりそれに従ったのである(なお、郷田子爵夫人も平民の出で、家族の反対を押し切って子爵に嫁いだ過去がある)。

確かに玉の輿はおとぎ話の定番ではあるが、それよりも華麗な生活に目がくらんでいるようにしか見えず、そのような主人公に女性読者たちが果たして共感したのだろうか? と、ちょっと不思議な気がする。

もしや現代人にはわからない、当時の暗黙の物語コードがあって実は延代はそこまで俗人ではないのかとも思ったが、『万朝報』に出た無記名の評には「延代とても真実数馬を恋してゐたのであるか、どうも其點が分明〈はっきり〉してゐないのであります。延代が眞實數馬を恋してゐないとすれば、其の亡父の遺言に服したのも、伯爵家に嫁いだのも、凡べての彼が其の後の變化は單に虚栄心〈バニチー〉の爲めばかりではないので、數馬のやうにさう責めずとも好いのであります」(「伯爵夫人 前編」明治38年11月27日付)とある。

やはり当時の人にとっても延代のキャラに違和感があったらしい。

実は、「バニチー」の傾向が強い女性が主人公もしくは準主人公になるパターンはこの時期の夫人小説に多い。

例えば、小杉天外『新夫人』(『大阪毎日新聞』明治36年3月~7月)は、政治家の家に奉公に来たお千代と夫の仲を勘ぐる夫人松枝が馬脚を現して離縁され、清廉潔白なお千代が新夫人になる話だし、羽化仙史〈うかせんし〉(渋江保)『家庭小説 財婚夫人』(大学館、明治40年)もタイトル通り金のために70歳の老人と結婚をする19歳の夫人の話である(但しこちらはパロディに近い)。

いったい、当時の読者はこの物語に対してどんな受け止め方をしていたのか、またこのような夫人像はどこから来たのか、次回はその辺りを深堀りしてみたい。


〈おもな参考文献〉
関肇『新聞小説の時代 メディア・読者・メロドラマ』(新曜社、平成19年)
日本近代文学館 編『机上版 日本近代文学大事典』(講談社、昭和59年)
金子明雄「戦う家庭小説『女夫波』田口掬汀」(『国文学 解釈と教材の研究』42(12)學燈社、平成9年)
浜田雄介「大衆文学の近代」(『岩波講座 日本文学史 13巻』岩波書店、平成8年)
森英一『明治三十年代文学の研究』(桜楓社、昭和63年)
秋田県総務部秘書広報課 編『秋田の先覚:近代秋田をつちかった人びと 第3』(秋田県、昭和45年)
浅井清「付章2 大衆文学の〈近代〉と〈現代〉」(三好行雄 編『近代日本文学史』有斐閣双書、昭和50年)
牟田和恵『戦略としての家族』(新曜社、平成8年)

 

兵庫県生まれ、東京育ち。文筆家、デザイナー、挿話蒐集家。著書『20世紀破天荒セレブ――ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝――莫蓮女と少女ギャング団』(河出書房新社)、近刊に『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)。2022年3月に『明治大正昭和 不良少女伝』がちくま文庫となる。唄のユニット「2525稼業」所属。
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