批判的日常美学について
倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
第10回

夕焼けと電流:生誕した私たちの美的義務について

2025.09.01
批判的日常美学について
難波優輝
  • 1 生まれてこないほうがよかったのか

    生まれてこないほうがよかったのだろうか。デイヴィッド・ベネターによる反出生主義の議論は、哲学の内外に衝撃を与えた。曰く、私たちは、生まれてこないことを悪いとは思わない。だが、生まれてくることで生じるどんな些細な苦しみも悪い。だとしたら、生まれてこないほうが、悪さが一片もないのだから望ましいではないか。こうした枠組みがいろいろな倫理的問題を上手く説明できることを示して、ベネターは、生まれてこないほうがよいこと、生ませないほうがよいことを論じる(ベネター 2017)。

    ベネターの議論はとても魅力的だ。クリアで、ドライで、しかし、パッションを感じる。ベネターが深く心優しい人間であることが分かる。他人の生まれてくる苦しみに共苦している、と私は感じる。

    私もまた、反出生主義にコミットしていた。過去の話になる。私が生まれてきたことは、私にとっては悪くないことだと思っていたが、しかし、新たに生を生み出すことは道徳的に悪い、と考えていた。この発想に基づいて、私は短編小説を書いた。「『多元宇宙的絶滅主義』と絶滅の遅延」というSF作品だ。これは、未来に、互いの国民の遺伝子に損害を与えるしかたで戦争が繰り広げられる第三次世界大戦を経て、人々が絶滅を希求し、WHOが主導して、人間のみならず、全宇宙に生きる生き物を絶滅させるための絶滅機械を開発し、宇宙に散布するという人類の絶滅記を描いたものだ(難波 2021)。

    この小説について、その通りだ、と共感してくれる人もいた。他方で、友人たちは、私の生き方と反出生主義・絶滅主義がバッティングしていることを指摘してくれた。「あなたの生き方とはどうもそぐわないような気がする」と。

    その後私はいろいろなことを考えていくうちに、反出生主義にコミットすることを辞めた。理由は簡単だ。私の生き方が反出生主義とずれていることに気づいたからだ。友人たちの言う通りだったようだ。

    私は、生きていることには、それ自体、独特な価値があると考えている。それは美的価値である。生きていることは、美的経験をする前提条件になっている。同時に、生きているあいだじゅうずっと私たちは何らかの美的経験をしている。生きることは美的経験することである。

    言ってしまえば単純なことである。死んでいる者は音楽を聴くことはできない。死者には耳がない。

    ベネター的な反出生主義は、道徳的問題のいくつかにエレガントな回答を与える。それぞれはかなりの程度説得的なものだと思う。それに対して私は、私たちが生きる理由、私たちが新しい生命を誕生させる理由は道徳的価値にのみによっては動機づけられない、と考える。私たちは、美的価値によっても動かされて生きている、だから、新しい生命を誕生させたりする。

    私たちは、道徳的な価値の観点からみれば、「生まれてこないでもよかった」。だが美的な価値の観点からみれば、「生まれてこないより、生まれてきたほうが明らかにおもしろい」。それゆえ、私たちは、美的価値の観点からいって生まれてきてよかったのである

    なにせ、生まれてきたら、どんなに不幸であっても、美的経験はできるのだから。もちろん、ひどく苦痛な人生は苦痛である。それは悲しい人生かもしれない。だが、どれほど悲惨な人生でも、美的経験ができる。この美的な点において、やはり、私たちは生まれてきてよかったのである。もちろん、極度の苦痛の状況下では美的経験が難しい場合もある。だが、人生で一瞬でも美的経験ができるとしたら、それはそれでやはり美的に価値のある生なのだ。

    とはいえ、私たちはそれでいいとして、では、新しい生命を誕生させることはどうだろうか。道徳的にいえば、反出生主義的議論が整理するように、たぶん良いことではないだろう。だが、美的にいえば、よいことである。美的経験ができる生命を誕生させることになるのだから、生まれてきた存在は、美的経験ができておもしろい。

    しかし、道徳的に問題があるのだとしたら、美的に価値があろうと、新しい生命を誕生させるべきではないのではないか。

    2 生まれてきてよいための美学

    道徳と美的なものの関係をもう少し考えてみよう。

    反出生主義をめぐる議論において、ベネターのものとは少し異なるアプローチがある。それは、同意をめぐる議論だ。私たちがなにか危害を加えられるとき、もし同意があるならば問題はない。たとえば、手術で、同意書にサインしたことはあるだろうか。もしかしたら副作用や障害が残るかもしれないが、しかし、私たちは危害のリスクと得られるものを天秤にかけて、同意する。

    だが、私たちは生まれてくることを同意できなかった。そもそも生まれてくる前には同意も何もできないのだから。しかし、事前の同意がなくても、事後的に同意するだろう、という仮定的同意が可能なケースもある。たとえば、あなたが事故に遭い、意識不明の状態で病院に運び込まれ、あなたの知らぬ間に、壊死した右腕を切断することを医師が決定した。なぜなら、そうしなければあなたはいずれ死ぬからだ。目覚めたあなたはかなりのショックを受けるだろう。医師を恨むかもしれない。けれど、あなたは事後的に同意するだろう。なにはともあれ、命をつないでくれた医師の選択に。

    さて、同じように、生まれてくる前に私たちは同意できないにしても、生まれてきた後に、「ああ、どうも生まれてきたことに同意するよ」と言うことはできるだろうか。問題は、生まれてくる、というのは、先程の緊急手術のケースのように、何かを失ったり、より大きな危害から回避させるために危害を加えるというのとはずいぶん異なるケースのようだ。生まれてこさせる、というのは、危害を回避するためではなく、美的経験という価値を与えるために、生まれてくることでいろいろとたいへんな経験をすることになるだろう、という危害の可能性を与える、という構造になっている。この構造を示してくれるよい思考実験がある。

    あなたは熱帯雨林の中を走る列車に乗っている観光客の一人だ。他の乗員と同様に、あなたも夢をみずに深い眠りに落ちていた。しかし、ツアーリーダーは起きていて、列車の窓の外を見ると、とても美しい光景が目に飛び込んでくる。さて、このツアーにはかなりの人数が参加しており、太陽がちょうど地平線の下に消えようとしている。しかしツアーリーダーには車内を駆け巡って皆を起こすほどの余裕はない。あるボタンを押すと、座っている人や寝ている人に微弱な電流が流れ、眠っている人を起こしてくれる。ツアーリーダーはこのボタンをキーホルダーにつけていて、それを押す。あなたをはじめとする乗員の全員が、はっと目を覚ます。列車の客車が夕日の柔らかなオレンジ色の光に照らされ、最も印象的な最後の瞬間を迎えている。(Singh 2018, 1147; ピーター訳を参考にした。)

    思いがけず美しい思考実験である。この思考実験を提案した哲学者のアシール・シンは、誰かを生誕させるというのは、このツアーリーダーの事例以上のもので、もしかしたら重篤な障害をもって生まれることになるかもしれないし、つねに苦痛の可能性があり、微弱な電流以上のものなのだ、と言い、それゆえ、夕日のような純粋に善いものを体験させるためであったとしても、誕生させることは重大な道徳的問題があり、仮定的同意を得ることはできないだろう、と主張する。

    私は異なる考えを持っている。確かに、生まれてくることにはたいへんな危害の可能性がある。しかし、人生を生きるなかで経験できる美的経験は、その危害を超えてもなお生まれてきたものの同意を得られるような優れた価値なのではないか、と考えている。

    もちろん、美的経験というのは、私たちがそれを経験することができる環境と、それを味わえる様々な美的判断のスキルによって、十分にその価値を汲み尽くせるかどうかが決まる。それゆえ、私は、美的経験というベネフィットを受け取るためのトレーニングを受けさせることが、親が子どもにできる仮説的同意を構成する、と考える。つまり、世界を愛でるやり方を教えることが親の義務なのだ。私は、これが子どもを誕生させる者にとって、もっとも重要な美的義務だと考える。そして、私たち人間が持つ義務のなかの義務なのではないか、と考える。親たちは、美的経験を高めるための手伝いを一緒にしなければならない。そのときに、美学は役に立つ。

    だが、これはマッチポンプではないか、と反論があるかもしれない。わざわざ人を誕生させて、その人が世界を美的経験できるようにわざわざ整えて訓練させたりして、いったい何をしているのか。そんなことをするなら最初から道徳的により正しそうな、人を誕生させない、という選択をすればよいではないか、と。確かに、生まれてこさせて、いろいろな手助けをして、ようやく仮説的同意を可能にする、という営みは徒労のように思える。

    なぜ私たちはこのような徒労をするのだろうか。なぜ私たちは、美的経験をすることを大事にしたいのだろうか。それは、美的経験をすることがそれ自体で価値があるものであり、その価値を新しく生まれる子どもに経験させたい、と願うからだ。例えば、おいしい食べ物を見つけた子どもが、親たちの口にねじ込んでくれるように、きれいな風景をまた今度恋人にみせてあげようと思うように、素敵な音楽を友人に聴かせてあげようと思うように。

    私たちは、自分の大切な人に、美的価値を味わって欲しい、と願う。その動機は、私たち人間の根源的な、何か、素敵なものを分け与えたい、という気持ちに由来しているように思う。

    もちろん、道徳的な点での仮説的同意を得られるかどうかは生まれてくる存在によってまちまちである。最後まで生まれてこないほうが良かった、と考え、自殺する者もいるだろう。その人は同意することはなかったのだ。それは、私たちのある種の敗北のようなものだと思う。その人の敗北である前に。

    私たちが、生まれてこさせられた人に、この世界の美的価値をみせつけ、魅惑することができなかった、という意味で、私たち全体の敗北のように思える。

    私たちは、生まれてきた者に、美的経験を押し付けている、という言い方もできるだろう。私たち人類というものは、美的なものに出会うことそれ自体と生きる楽しみとして大切にしてきたように思う。それゆえ、たとえ道徳的な問題があっても、新しい人間を生み出し、それらに美的なものを与えることを大切なことだとみなしてきたように思う。美的経験を大切に思うのは、私たちがそういう生き物として生きてきたからであり、歴史が私たちの大地としてすでにあるから、確固たるものとしてあるのである。以上の議論は、反出生主義への決定的反論ではないが、不同意に関するタイプの議論への部分的な応答になっている、と考える。

    3 理解すること

    私たちは生まれてこないほうがよかったわけではない。として、では、わたしたちは、どんな美的経験をしているのだろうか。生きることはどういうタイプの美的経験なのだろうか。あまり問われたことのないタイプの問いだろう。諸々の美的経験はあるけれど、生きていること自体の美的経験があるのだろうか。それは、あまりにも長きにわたって経験されるような経験だ。生まれて、物心ついて、そして、死ぬときにまで経験する何かだ。

    死んだことがないから、私たちは生きていることの美的経験をよくわからないかもしれない。別の所で、私は生の論理と死の論理の対立をドカ食いをテーマに論じた。そこからさらに、生の論理の方の美学を考えてみたいのだ。

    私はこう考えている。生きることとは、理解することである、と。ゆえに、生の美的経験とは、理解することの美的経験である、と。

    私たちが美的経験するとき、私たちは、世界の様々なありように知覚の注意を向け、感情を抱き、その世界の知覚されたありようを知ることになる。光に反射する水面に、木漏れ日のゆらぎに、あるいは蜘蛛の巣に囚われ干からびた昆虫に。私たちは、世界のありようを理解しようとして、それらに近づく。そして、それらを理解しているとき、私たちは喜びを覚えていると思う。

    私たちは、理解することが気持ちがいいようにできている。ここで、世界そのもののありようを理解している、と仮定することを私は慎みたいとは思う。私たちが世界そのものに触れることはないと思う。

    世界は、いつでも、私たちの関わり方によってその姿を表す。だから、異なる宇宙人はこの世界を異なるふうに理解することになるだろう。けれど、私たちが理解する世界とは、私たちの前の人類たちが理解しようとしてきた世界を土台にできており、私たちが風景を味わい、おいしいものに舌鼓を打つ時、私たちは、これまでに生きてきて、死んでいったすべての人類の美的経験の成果を受け継いで世界を理解しているのである。

    理解することの何がうれしいのだろうか。実利的なうれしさはいろいろとある。たくさん作物が作れるようになるとか、怪我が早く治るようになるとか。けれども、理解することそのものにはどんなうれしさがあるのだろうか。それはそれ以上遡ることはできないうれしさがある、と私は考えている。理解することはそれ自体で価値が、美的な価値があるのである。たとえ、不都合なことを理解したとしても、それはそれで何かうれしいのである。もちろん、すべてのものの理解がつねに喜ばしいニュアンスを帯びているわけではないようにも思われる。

    これまでの各論で、私は、ある意味で理解しないほうが幸せだと言えさえする物事について語ってきた。労働は勤勉さを美しいと思い切ってやれたほうがやりやすいだろうし、性格で他人を判断することが差別であると知らないほうが、素直に「あらゆる差別に反対だ」と言えるだろう。けれども、私は、理解することそのものに価値があると考えている。理解することでこれまでできていたことがうまくできなくなったとしても、それは副次的な悪さであって、理解することはいいことなのだ。もちろん、ひどく苦しい感染症や、拷問の痛みを理解することは、非常に不快であり、生まれてきたことを後悔するかもしれない。それらの悪さにどう私の立場が応答できるか。正直なところよく分からない。

    批判的日常美学について、これまで論じてきた。以上のテーマはたまたま私に到来したアイデアたちからできていて、もう一度やれば違うテーマを書くことになるだろう。いずれも、私の日常から、あなたの日常へと、ゆるやかにでもつながるトピックを扱えたと思う。以上の議論が、あなたの日常の美的な側面を明らかにし、そして、あなたがより自由になれることを願う。そして、あなたが世界をもっとより理解できる手助けになったならうれしい。

     

    参考文献
    Singh, Asheel. 2018. “The Hypothetical Consent Objection to Anti-Natalism.” Ethical Theory and Moral Practice 21 (5): 1135–50. https://doi.org/10.1007/s10677-018-9952-0.
    ピーター.2021.「同意不在型反出生主義の検討」https://note.com/peter_taropines/n/n2e5a053ce18b
    ベネター、デイヴィッド.2017.『生まれてこないほうが良かった:存在してしまうことの害悪』小島和男、田村宜義訳、すずさわ書店.

     

倫理的なものの背後にはつねに美的なものが見え隠れしていて、その美的なものを見逃すと、倫理的な議論は他人事になってしまう。人は正しさだけではなく、美しさでも生きている。そして、両者はいつも私達の願うようには重なっておらず、ずれている。そのずれを見逃しがちなのは、わたしたちが美学的な視点を身につけていないからだ。
「批判的日常美学」の視点から、日常生活を検証し、日常の中に潜む倫理と美の不幸なカップリングを切断し、再接続することが、人がよりわがままに生きるきっかけになる。社会が要請する「こうしなければならない」に対して、あなたがあなたの理由で反抗し、受け入れ、譲歩し、交渉するために、批判的日常美学の「道具」を追求する試み。
労働、暮らし、自炊、恋愛、病気、失敗、外出、趣味などにわたるスケール大きな論考。
批判的日常美学について
難波優輝
難波優輝(なんば・ゆうき)

美学者・会社員。専門は、分析美学、人間の美学、SF、ポピュラー文化。newQ所属、立命館大学ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学SFセンター訪問研究員。修士(文学、神戸大学)