バッカスと踊れば
遺品の梅酒、バーで出会う知らない酒瓶、飲み慣れたお酒と気の置けない友人たち。どんな日でも、どんな時でも、お酒があれば気持ちはほどけて、ちょっぴりいい日。失われてしまったもの、欠けているものたちを見つめたエッセイ集『永遠なるものたち』の著者である姫乃たまが新たに紡ぐ酒にまつわるエッセイ連載。
第3回

産後のシシリアンルージュトマトの発泡酒

2026.01.07
バッカスと踊れば
姫乃たま
  • 昨日、娘が新生児じゃなくなりました。

    新生児でいられるのは生後28日間だけ。私はそれすら数日前まで知らなかった駆け出しの母親です。

    産院で清潔な白いタオル地の衣服に包まれて眠っていた生まれたての娘は儚[はかな]くて、初めてくしゃみをしているのを見た時は、そのまま弾けて消えてしまうんじゃないかと本気で心配になりました(そして怖くなって泣いた)。

    病室から何度も通った新生児室までの廊下や、オルゴールの音を聴きながら眠る新生児たち、ほんの少ししかミルクの入らない小さな小さな病院の哺乳瓶。

    子育てってたった一ヶ月前が懐かしくなることなんですね。退院してからまだ三週間しか経っていないのに、それら全てがはるか昔に感じられて、一ヶ月前の子どもが生まれるまでの人生なんて、いまとは全く別の道だったかのように思えます。

    ミルクを飲む時に上下する娘のほっぺたと、「んふー」という優しく微かな鼻呼吸の音。顔の横で両手を広げて「お手上げ」しながら眠る新生児特有の癖。足元にかけたタオルにほんのりと残る体温。まだ何も踏みしめたことのないやわらかな足の裏。黒目がちな瞳と、ほんの少し見える白目の青みがかった透き通るような白。いつも眠たくて眠たくて、泣いている途中でもどうして泣いているのか忘れて急に眠ってしまうぴかぴかの私の子。

    今日、乳児になったばかりの彼女はまだまだ小さな赤ちゃんだけれど、それでも生まれた時よりずっと力強くなりました。ほっぺたはふくふくに膨らみ、ぎこちないけれど手足も大胆に動かせるようになって、抱いている時に腕の中で背中を反らせる時など、寝返りを打つ日も遠くないと感じさせられます。

    成長していく姿は頼もしいけれど、臍の緒がぽろりと取れた瞬間、これは同時に切ない日々でもあるのだと気がつきました。

    慣れない慌ただしい日々の中で、なんとなく明日もおへその消毒をするだろうと思っていたのに、ある時突然臍の緒が取れて、おへそも乾いて消毒する必要がなくなってしまったのです。

    これからもいろんなことが「これで最後だ」と覚悟する暇もなく、突然手を離れていってしまうのでしょう。子育ては巨大な愛おしさと巨大な切なさが共存する日々です。

         *

    こうして産後は何かと子どもの話ばかりになりがちですが、自分のことを振り返ると胚移植(受精卵を子宮に戻すこと)をした去年の年末からお酒を一滴も飲んでいません。いつの間にか季節は秋。

    お酒を飲めなくなってすぐ、クリスマスのシャンパンとお正月の日本酒という強敵をやり過ごせたことで、禁酒への自信はつきました。お花見も夏祭りも全部ノンアルコールビール。しかし思いがけず強烈な誘惑だったのが夏の暑さです。とにかくビールが飲みたくなります。とにもかくにも、ビールが飲みたい。産後の最初の一杯は絶対ビールにしようと心に決めていました。

    私にとってビールを飲むなら、阿佐ヶ谷一番街にあるSPICE AND BOOZEです。

    ちょうど二年ほど前、いつも飲み歩いている一番街で見慣れない手描きの看板を見つけました。黒いボードに白いペンで、当時はたしか「スパイス料理とクラフトビール」とお店のコンセプトが書いてあった覚えがあります。

    北海道の鬼伝説ビールがタップで二種類飲めるようになっていて、入り口に設置された冷蔵ショーケースには眺めているだけで心躍る世界中の多種多様な缶ビールが並んでいます。

    初めて飲んだ鬼伝説ビールはピルスナーで、一口飲んだ瞬間、永遠に飲み続けられそうだと思ったのをはっきりと覚えています。季節で言うと過ごしやすい秋のような、永遠に続いてほしいと思う飲み心地なのです。

    ビールが泡なしで日本酒のようにグラスのふちまでなみなみに注がれるビジュアルも面白くて心惹かれました。

         *

    惹かれるといえば、みねさんの愛称でお客さんたちから親しまれている店主の人柄。

    その日、気になる料理を何品かオーダーしたら「おいしいかわからないんで、ひとつ食べてみてからにしませんか?」と言われたのが、最初の会話でした。飲食店でそんな提案を受けたのは初めてだったので、謙虚過ぎてかえって頑固になってしまっているところが可笑しくて、また素直な喋り方からは妙な安心感も受け取りました。

    結局おいしかったので、気になっていたメニューを全てオーダーしたのですが「おいしいです」と伝えると「たまたまです」とはにかんだ返答。それから二年ほど通っていますが、いまだに「おいしい!」と言うと「たまたまです」とはにかんでくれます。

         *

    先日、新生児期があと数日で終わってしまうという情報とともに、授乳時間を調整すれば一杯くらいはビールを飲めるらしいと知って、今夜は新生児卒業記念にビールを解禁することにしました。

    こんなに長期間お酒を飲まなかったのは、お酒を飲めるようになってから人生で初めてのこと。

    かねてから絶対に鬼伝説ビールのピルスナーを飲もうと決めていたのですが、なんと困ったことに今夜は鬼伝説ビールの「シシリアンルージュトマトの発泡酒」なるものもラインナップされています。

    シシリアンルージュトマトの発泡酒……。なんだか夏の終わりと秋のはじまりが重なるいまの時期にぴったりな予感がするし、何よりも原材料を見るとコリアンダーが入っていて、みねさんのスパイス料理と相性抜群なこと間違いなしです。

    いつもなら定番のピルスナーを飲んでからチャレンジするところだけれど、今日は授乳の関係で一杯しか飲めません。いつになく真剣に悩みに悩んで、いまの自分の気持ちに素直になってシシリアンルージュトマトの発泡酒をオーダーしました。

    泡なしでグラスのふちまでなみなみに注がれてきたシシリアンルージュトマトの発泡酒は、赤とオレンジの中間くらいのトマト色。

    グラスに唇をつけた瞬間、ふわりとバジルとコリアンダーが香って、堪[こら]えきれないにこにこが込み上げます。すっきりした味わいの中にシシリアンルージュトマトの風味、そして久しぶりに飲んだからか、アルコールがしっかりと感じられます。

    もう何年も前に四日間の断食をしたことがあるのですが、断食明けに重湯を口にした瞬間、味や舌触りや香りがものすごく立体的に感じられて、頭の上に立体の図形が浮かんでいるような初めての感覚になりました。

    産後の久しぶりのお酒はあの独特の感覚です。小学校のプールの底に潜って拾わされたカラフルなゴムボール(調べたら20面体らしい)が頭の上で光って動いているような感覚でした。

    これはお酒を我慢して我慢して我慢した最初の一杯でしか味わえない感覚だなあ。

    今夜ビールのほかに楽しみにしていたのが、みねさんが一ヶ月かけて仕込んだ自家製アンチョビと寅印菓子店のスパイスジャムを合わせたブルスケッタ。

    アンチョビの強い塩味とほんのり甘いスパイスジャムをビールで流し込むと、もう、ものすごく幸せ。お酒を飲みながらゆっくりおいしいものを食べることの喜びをしばらく忘れていました。

    せっかくビールがあるので辛い唐揚げもオーダー。

    みねさんの辛い料理はきっちり辛くするところが好きで、ここで辛い料理を食べるとストレス発散になります。

    スパイスの効いた辛い唐揚げにライムを絞ると、まるで東南アジアを旅している気分に。

    ストレスとともに、出産で緊張した心身や、新しい生活への不安も解けていくようで、心もお腹も満たされました。

         *

    これまで「三杯までなら酒を飲んでないのと同じ」とか言ってたのに、今夜は一杯で、うーん、ビールだったら六杯くらいは飲んだような酔い心地。

    いままでは酔っている状態に慣れきっていて気づかなかったけれど、酔いって陽気な気分の片隅にほんのり寂しさに似た人恋しさが居座っているんですね。ずっと私はどうして朝まではしご酒をしてしまうのだろうと不思議に思っていたけれど、この人恋しさがそうさせていたのかもしれません。

    さあ、家には乳児になった娘が夫と待っています。たった小一時間の外出なのにずいぶんとふたりに会っていないような気分になって、子どもの頃、家族が待っている家に急いだ夕方の気持ちを思い出しました。

遺品の梅酒、バーで出会う知らない酒瓶、飲み慣れたお酒と気の置けない友人たち。どんな日でも、どんな時でも、お酒があれば気持ちはほどけて、ちょっぴりいい日。失われてしまったもの、欠けているものたちを見つめたエッセイ集『永遠なるものたち』の著者である姫乃たまが新たに紡ぐ酒にまつわるエッセイ連載。
バッカスと踊れば
姫乃たま
姫乃たま(ひめの・たま)

1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。音楽活動では作詞と歌唱を手がけており、主な音楽作品に『パノラマ街道まっしぐら』『僕とジョルジュ』、著書に『永遠なるものたち』(晶文社)『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。