自殺帳
精神科医、春日武彦さんによる、きわめて不謹慎な自殺をめぐる論考である。

自殺は私たちに特別な感情をいだかせる。もちろん、近親者が死を選んだならば、「なぜ、止められなかったのか」、深い後悔に苛まれることだろう。でも、どこかで、覗き見的な欲求があることを否定できない。

「自分のことが分からないのと、自殺に至る精神の動きがわからないのとは、ほぼ同じ文脈にある」というように、春日さんの筆は、自殺というものが抱える深い溝へと分け入っていく。自身の患者さんとの体験、さまざまな文学作品などを下敷きに、評論ともエッセイとも小説ともいえない独特の春日ワールドが展開していきます。
第9回

自殺の七つの型(5)

2024.10.10
自殺帳
春日武彦
  • 命と引き換えのメッセージとしての自殺

    自殺は、多かれ少なかれ周囲の人々へ衝撃を与える。ときには世界中の人たちへ、あるいは時代を超えて衝撃を与えつづける。ならば自殺を行うことによって何らかのメッセージをそこへ託そう、これ以上効果的なアピールはないのだから。と、そんな発想が生まれてもおかしくはあるまい。江戸時代の切腹は、どれほどのメッセージ性を帯びていたのだろうか。平均寿命の短かった時代における形骸化した振る舞いにも思えるし、様式美といったものだったかもしれない。だが現代では、(基本的には)人命は限りなく尊重される。そうした空気が支配する世の中における「命と引き換えのメッセージ」には、自殺者当人において期待するものがまことに大きいだろう。 ここにひとつの自殺を報じた記事がある。一九七七年六月二〇日の讀賣新聞朝刊から引用する。メインの見出しは「〝潜水艦人生〟37年目の痛恨」となっている。
    【横須賀】十九日午後一時七分ごろ、神奈川県逗子市沼間一の二の二八、国鉄横須賀線東逗子駅の下り線ホームで、同市山の根二の四の一日本鋼管造船事業部兼工業部参与、緒明亮乍(おあきりょうさく)さん(五九)が、大船発横須賀行き貨物電車=原弘勝運転士(三三)十両編成=に飛び込み、頭の骨を折って即死した。 逗子署で調べたところ、緒明さんの背広の内ポケットから「事故の原因は私一人の責任である。二人の有為の青年を失わせた罪は、万死をもっても償い切れない」との遺書が見つかった。 遺書は家族あてと会社あての二通、それぞれ別の封筒に入れてあり、和紙に書かれていた。字体に乱れはなく、一字一字しっかりした筆跡だった。 緒明さんの妻・幸子さんは、さる十七日朝、日本鋼管鶴見造船所で建造したカプセル型潜水艇「うずしお」(五・六㌧)が、千葉県房総沖で潜水テスト中、電気配線が焼ける事故を起こし、乗っていた船主の芙蓉海洋開発会社の若い技師二人が、一酸化炭素中毒で死亡したことについて、自分が同艇の設計に携わったことからずっと悩み続けていたという。 また、長男の俊さん(二七)は「父は〝うずしお〟の仕事中はほとんど母船泊まりだったが、十八日夜は九時半ごろ帰宅、ふだんと変わった様子はなかった。だが、今度の事故については父なりにかなり責任を感じていたようだ。常日頃から私たちに、責任を果たせといっており、そうした父の性格が自殺にまで追いやったのだと思う」と話している。
    緒明亮乍は、昭和十二年に東大工学部船舶工学科を卒業してすぐに海軍の技術将校となり、以後三七年に渡り潜水艦の設計に従事してきた。潜水艇「うずしお」の設計ではアドバイザーの地位であり、決して直接の責任者の立場にはなかった。しかし潜水艦技術における第一人者という矜恃が、必要以上の自責感をもたらしたようだ。 潜水艇の中で死亡した若い二名の技術者およびその家族に詫びたいという表明、技術上の責任は自分のみに帰すべきといった主張――そのようなメッセージを最大限に真摯なものとすべく、彼は自殺に及んだのだった。通常、命はヒトにとってもっとも大切なものである、せめてそれを差し出し、また自分が死ぬことでこれから先、これ以上他人に迷惑をかける可能性を絶つ。そうした思いも込められていたに違いない。 自殺するなんてそのほうが無責任だといった意見もあるだろう。だが自分が手がけた仕事で二名もの人が死んだとなれば、そのショックで精神的な視野狭窄状態にもなろう。そのような状態で今自分が何をすべきかと考え詰めたとき、自殺がベストという(いささか短絡的な)結論は決して不自然なものではあるまい。そうした意味では、【懊悩の究極としての自殺】や【精神疾患ないしは異常な精神状態による自殺】といった側面をも備えている。 いっぽう二〇〇八年三月二六日の讀賣夕刊には、「小6飛び降り死――卒業式、帰宅後」という見出しの記事が載っている。
    東京都板橋区のマンションで25日に区立小6年の男子児童(12)が転落死していたことがわかった。男児は卒業式を終えた直後だった。マンション内の自宅に遺書のような書き置きがあったことから、警視庁志村署は自殺とみて動機を調べている。 同署によると、25日午後1時30分ごろ、板橋区内のマンションの敷地内に男児が倒れているのを管理人が発見、病院で男児の死亡が確認された。自宅居間のテーブルに置かれていたB5判の紙に、家族あてに「死んでおわびします」という内容の言葉が1行だけ書かれていた。倒れていたのは、14階にある自宅の真下で、ベランダから飛び降りたとみられる。 男児は両親らと4人暮らしで、4月から地元の区立中学校に通う予定だった。この日午前には小学校の卒業式に出席、帰宅した直後に自殺したとみられる。家族は外出中だった。 男児が通う小学校の校長が26日午前、区教委で記者会見し、男児について「出席状態もよく、成績も上位だった。いじめは把握していない」と語った。 ただ、卒業式で6年生が一人ずつ、事前に決められたセリフを声に出して小学校生活を振り返った場面では、男児は「大好きな学校」と言うべきところを「大嫌いな学校」に換えていた。校長が理由を問いただしたところ、「緊張して間違えた」と答えたため、しかりはせず、それ以上は尋ねなかったという。
    この男子児童が「大嫌いな学校」と言ってしまったのはなぜなのか。フロイトが論文「日常生活の精神病理」で指摘していた無意識の本音、いわゆるフロイト的言い間違いに相当するのか。 その可能性はある。他方、年齢的にはいくぶん早いものの、いわゆる中二病的な反抗心ないしは悪ふざけから、軽い気持ちで「大嫌いな学校」と口走ってしまったのかもしれない。軽い気持ちだったにもかかわらず、卒業式ではざわめきが起こり、予想以上に気詰まりな雰囲気が生じてしまった(本人は生徒たちからの喝采や、賛同の笑い声を期待していたのかもしれない)。彼はたちまち孤立し、後悔を覚える。校長から問い質される事態に陥ってしまった。叱りはせず、それ以上は尋ねなかったとはいうものの、校長の顔付きや態度は児童に「取り返しのつかないことをしてしまった」という絶望感と焦燥とを惹起させたかもしれない。おまけに卒業直後という、いわば人生における真空地帯のような精神状態に置かれていた。いたたまれない気持ちが「死んでおわびします」という書き置きと地上十四階からの飛び降りといった極端な行動に結実しても、あながち不思議ではないのかもしれない。 五九歳の潜水艦技師も、十二歳の卒業生も、どちらも死んで詫びるというメッセージを実行に移した。結果においては大差がない。児童の自殺については「たかがそんなことで」と言いたくもなるけれど、まだ浅い人生経験においてこのシチュエーションは相当にヘヴィーなものだった筈だ。でも詫びられた側はどうなのか。かえって気まずい思いに駆られてしまったのではあるまいか。 いくら詫びようともあなたを許せない、といったケースは稀ならずある。しかしいきなり、しかも一方的に命を差し出されても困るのだ。そんなものは受け取りたくないとは言わせない。勝手に自殺して「もうこれ以上に詫びることは不可能です」とコミュニケーション打ち切りの宣言をされたようなものだ。おまけに、何だか詫びられる側の態度が相手を自殺に追い込んだかのように周囲から勘繰られてしまう危険すらある。やはりアンフェア感が生じてしまうだろう。 わたしは以前、ある人物からいきなり土下座をされたことがある。こちらに頼み事をする際に、今までの無礼の数々をお許しください、そして願いを受け入れてくださいといった意味での土下座であった。その相手はわたしの悪口をSNSでいろいろ書いていたのでわたしが気分を害していたのは事実である。しかしそれなりの誠実な礼儀を尽くせば、願い事には応じるのが普通の神経ではないか。土下座という「あざとい」行為は暴力である。下品で芝居がかっている。そうしたセンスにこちらを一方的に巻き込むのである。こちらが願い事に応じれば、あたかもわたしが土下座に満足したかのような話になってしまう。断ったとすれば、土下座にすら譲歩しない意固地で狭量な人間といった位置づけがなされてしまう。いずれにせよ土下座を「される」という事態そのものが災難であり、また土下座をするといった価値観や感性にすべてが染め上げられてしまう。汚染されてしまうのだ。 この人物は策略として土下座に及んだのであり、泥臭く卑しい精神が透けて見える。死んで詫びる者にはそうした下品さこそないかもしれないが、結果的には厚かましく暴力的といったトーンは多かれ少なかれ伴っているのではないか。そこまで斟酌する余裕がないままに自殺してしまうわけだろうけれども、詫びられる側の気持ちにもなってみたらどうかとぼやきたくなるのもまた事実である。

    抗議、主義主張としての自殺

    あざといといった点においては、抗議の自殺や主義主張としての自殺はどうであろうか。 KDD事件という案件があった。それこそ日本中を揺るがせた大規模な汚職事件である。発端は密輸事件であった。KDD(現KDDI)の板野學社長が一九七九年一〇月二日にモスクワからロンドン経由で帰国した。その際、社長に同行していた社員二人が密輸入を図っていたのを成田空港の税関職員に発見された。数千万円相当の高級装身具であったという。 調べてみると密輸入は社長も加わっての組織的犯行で、しかも二〇回以上も繰り返されていた。それだけではない。持ち込まれた高級装飾品は政治家および郵政官僚への贈収賄に供されていたのである。国際電話料金の値下げを阻止したいKDD(国際電信電話株式会社)の裏工作だった。この行為のみならず板野社長(元郵政官僚)のワンマン体制による会社の乱脈経理、政治資金パーティー券購入や交際接待費で数十億円がばらまかれたことなどが発覚し(賄賂を受領した政治家は一九〇名に及ぶ)、事件は政官界を広く巻き込んだ。最終的には板野社長は最高裁で懲役十ヶ月、執行猶予二年という軽い刑で終わり、また政官界に徹底した捜査は行われず仕舞いであった。大スキャンダルであったにもかかわらず、まさに尻すぼみに終わってしまった。 だが捜査の途中で、元社長秘書の山口清邦が自宅で首を吊って自殺、さらに前社長付参与であった保田重貞が鉄道自殺をした。二名の命が失われてしまったのである。 保田重貞(62)はKDD社員として板野社長の信頼が篤く、贈収賄実行の先兵を努めていた。そんな彼は事件発覚により、警察からの追求の矢面に立たされてしまう。讀賣新聞二月六日夕刊から記事の一部を引用する。疑惑発覚後に行われた彼へのインタビューをもとにした記事である。
    ……その時の一時間半にわたるインタビューで、いくつか心に残ったことがあった。 その一つには、保田氏が、「私はなにごとも、板野前社長(引用者注・板野社長は10月25日に辞任している)、佐藤前社長室長の指示で動いた」「二人の恩顧に報いようと、一生懸命につとめた。しかし、(疑惑発覚後の)いまとなっては、そんな私の気持ちに疑問が生じてきました」と繰り返し強調したことだ。へりくだった物腰、やわらかな早口の関西弁。外見からは、初対面の彼の心の奥までうかがうことは不可能だったが、想えばその時、すでに保田氏の心中には、上司への忠義と、疑惑追及の矢面に立たされ、真相を語らなくてはならない葛藤が渦巻いていたに違いない。 その心の動揺は、次第に保田氏の行動にも表れてきた。あまり飲めない保田氏が、KDD本社二十七階でウイスキーのボトルを離さなくなり、十一月下旬、神奈川県下の病院に入院。国会でKDD疑惑が取り上げられた直後、初めて古池会長に電話してきて、「国会でなぜ自分だけが悪者にされるのか。会社の見解を聞きたい」と訴えたこともあった。 先月二十二日、「もうなにもかもイヤになった。死にたい」とシズエ夫人に電話をかけてきて、心配した弁護士が必死に慰めたという。
    そして一九八〇年二月六日、すなわち「もうなにもかもイヤになった。死にたい」と妻に電話をした半月後の午前九時五七分、向ヶ丘遊園駅から小田急線の特急ロマンスカーに飛び込み即死したのだった。彼の上着の内ポケットからは大学ノートの切れはしにボールペンで書かれた遺書が見つかり、そこには「わたしは板野社長、佐藤室長の犠牲になって、死んでいきます。五五年二月六日 保田重貞」と記されていた。 まさに恨み節であり、彼は自殺によって自分が事実上の被害者であったというメッセージを発したわけであった。これを知って社畜の悲哀に共感した人もいただろうし、当人だって事件発覚の前までは「おこぼれ」に与って甘い汁を吸っていたくせにみっともない奴だと憤慨した人もいただろう。保田の心の動きは概ね見当がつくけれども、結果論からしてみれば、あまりエレガントな人生の終え方とは思えない。エレガントかどうかなんてもはやどうでもいいからこそ自殺に踏み切ってしまったわけではあろうが、このノートの切れはしに記された遺書によって、もはや保田は恨みがましい文言でしか人々の記憶に残らなくなってしまった。彼は自分の生涯を自ら矮小化してしまったように思えて残念である。

    エレガントを自認する自殺

    おそらく心の片隅ではエレガントであると自認していたように思われる自殺のケースを挙げておきたい。歌人の岸上大作(1939~1960)である。世間的には〈革命と恋に生き、それをナイーブな感性で短歌に詠み、そして自ら命を絶った学生歌人〉といったところか。六〇年安保という時代の空気が、彼の生き方にも死に方にも大きく影響している。 六歳にして父を戦病死で失った岸上は、貧困な暮らしの許、母の手ひとつで育てられた。義務教育を終え(中学時代に社会主義に関心を持つ)、奨学金を受けて高校に進学、在学中に短歌に目覚める。國學院大學文学部にも奨学金を受けて進んだ。この時点で、兵庫県神崎郡田原村から一人で東京に移り住むことになった。アルバイトをしつつ、苦学生として國學院の短歌研究会に所属。同時に政治活動にものめり込んでいく。 一九六〇年六月一五日、国会構内で日米安全保障条約(安保条約)改定反対闘争のデモに参加中、警官の警棒で頭を殴られ二針を縫う傷を負い、眼鏡の右レンズにはヒビが入った。その場に居合わせた後輩の平田浩二の発言では「岸上さんは怖くなったのか、スクラムを組んだ腕を振り払って隊列を外れたがっているのがわかりました」「私は逆に余計強く腕を締めました」となっている。 デモの最中に警官隊を前にして怯んだ(そして負傷した)という事実は、決して恥ずかしいことではあるまい。だが当人にとっては大きな心の傷となったことだろう。しかも同日、同じ国会構内では樺美智子が死亡し彼に衝撃を与えた。岸上にとって、恥を払拭したいという意味でも、なおさら闘争に傾斜していく契機となったのではないか。なお遡ること二ヶ月前、國學院大學文学部新入生の女性Y・Kが短歌研究会に入会してくる。岸上はたちまち彼女に惹かれ、Y・K(彼の日記にはこのようにイニシャルで書かれていた)は運命の人となっていく。すなわち〈革命と恋〉が輪郭を鮮明にしていく。 岸上は政治活動と並行して詠んだ短歌五十首を「短歌研究」新人賞に応募することに決め、清書をY・Kに依頼する。そうやって親密度を高めていったわけだ。応募作は「意思表示」というタイトルで、「装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている」「学連旗たくみにふられ訴えやまぬ内部の声のごときその青」などといったいかにも政治闘争めいた歌が多いが、「海のこと言いてあがりし屋上に風に乱れる髪をみている」などとY・Kを意識した歌も混ざっている。実際、五十首は三つのパートに分かれ、そのうちの十三首には(Ⅱ・Y・K・に)と小見出しが付いているのだ。 「意思表示」は「短歌」誌の新人賞は逃すが推薦作として四十首が九月号に掲載され、以後精力的に発表される作品によって新鋭歌人として注目されるようになっていく。六月一五日の出来事に触発されて詠んだ歌のひとつには「血と雨にワイシャツ濡れている無縁ひとりへの愛うつくしくする」があるが、ちとカッコ良すぎる気がしないでもない。 こうして記述してみるといかにも青春ドラマめいた人生に見えるが、実際にはどうだったのか。岸上のY・Kに対する執着は、いまどきの言葉で言うならストーカー的な様相すら帯びてきたようだ。一緒に『資本論』を読んだりもしていたが、彼の熱意は彼女にとって恐怖に近いものとさえ感じられるようになっていった。Y・Kは岸上の死後に、小説の形で彼との経緯を発表しているが、そこには「初めは返事をだしたが、その後は「迷惑だから」と断ったまま返事を出していなかった。/「もしかしたらこの人は自殺をするかも知れない」、夏休みの何通かの手紙でそんな予感がしていた。九月に上京して以来、彼の影が一つの威圧感になり電車の中でも渋谷の街でも学校でも絶えず追われているようで伸びやかな気持になれないでいた」とある。 これはもう岸上にとって失恋である。彼は煩悶せざるを得ない。それが自死へと結びついていくわけだが、歌人の福島泰樹による評伝『「恋と革命」の死 岸上大作』(皓星社2020)には「もし岸上が、短歌を書いていなければ、こうまで自己自身の心情を昂揚させることはなかったであろう。自ら創りだした定型というドグマの中で、苛烈なドラマを演じてしまうこともなかったであろう」という文章がある。なるほどね、さすがに実作者の発言には説得力がある。 それにしても岸上大作が自殺を決行するまでのテンポが早すぎる。Y・Kと出会ってからわずか八ヶ月後には自ら命を絶っているのだ。恩師や友人には自殺を美化したり憧れるようなトーンの発言をしてはいたようだが、口で言うのと実行するのとでは天と地ほどの違いがありはしまいか。これはやはり短歌という表現形式と自己の振る舞いとが悪循環を成し、その結果、自家中毒を起こしてしまった故なのか。

    死の寸前まで記されたノート

    岸上が夭折の歌人として広く知られるようになった理由のひとつは、死の7時間前から自死決行の直前まで、延々と心情を書き綴った原稿用紙(二百字詰)54枚に及ぶ手記「ぼくのためのノート」が存在しているからだ。文章という表現手段に長けた人物が、冥界へ足を踏み入れる寸前まで記しつづけた長文の手記には、誰だって関心を向けずにはいられないではないか。 手記は「準備はすでに完了した。もはや時間の経過が、予定のプログラムを遂行するだろう」という一行から始まる。
    ……自殺には勇気がいるとたしかに思っていた。しかし、この二・三日のあいだにぼくは一生に一度の勇気を奮発したということもない。ただ日常生活のとうりに何時間か費やして来た結果がここに到っただけの話だ。また、自殺をおもいつめている者はすぐにその動作でわかるという。だが、ぼくは何人かの人とあい、電車に乗り、街を歩いた。誰れも、ぼくが自殺の方法を考えているとは思わなかったろう。
    自分が死のうとしているのに、誰もそれに気付かない。そのことに優越感を抱いているかのような書きぶりだ。そんなふうにして自分を鼓舞しなければ、プログラムの遂行に躊躇してしまうと恐れていたのかもしれない。
    自分の犬死に社会主義の大義名分をかかげるのはよそう。これは、気のよわい、陰険な男の、かたおもい、失恋のはての自殺にすぎないのだ。短研(引用者注・國學院大學短歌研究会のこと)の誰れかが言っていたように、夭折を美しいものとするセンチメンタリズムはよそう。死ぬことは何としてもぶざまだ。首をくくってのび切った身体、そしてその一部一部分。あるいは吐しゃ物。これが美しいと言えるか。問題は生きることがぼくにとってそれ以上にぶざまだということだ。
    おどけたように、自虐的なことを書いている。この時点に到ってもなお、岸上にはどこか自殺のリアリティが感じられていないような気がする。当人もそれを自覚しているからなのだろうか、さまざまな思い出や未練がましい想像の合間に自殺の具体的な方法を記している。それによれば、「つまり、廂になわをかけ、そのなわで首をしばり、次に、濡れ縁(というのかな)に、ちょっと動いたら落ちるように腰かけて、ブロバリン(引用者注・睡眠薬の商品名)をのめるだけのむ。そして、意識不明になるのを待つ」と。そして彼はそれを実行した。だがその前に彼は「安保闘争に参加し、歌を書き、レーニンを読んだ。ぼくは恋と革命のために生きるんだ! とおもった。すべてが、ひとりの女へのシュプレヒコールにすぎなかった。そのシュプレヒコールが冷たく拒否されたのは、シュプレヒコールそのものが出発からまちがっていたのだ。それではとり下げて、新たに出発せよというのは誰れだ。そのシュプレヒコールはぼくの二十一年の生涯の結晶だったのだぞ!」などと書いたりする。Y・Kにとっては災難そのものだったであろう。彼女に寝覚めの悪い思いをさせて平気な岸上の自己中心ぶりに、書き写しながら辟易とする。 女々しく、どこか押しつけがましい文章を彼は途中で読み返したのだろうか。読み返したからこそ、以下のような文章が挿し挟まっているのだろうか。
    このノートを書き記しているのは、全く時間つぶしのためであって、演技ではない。もう準備は完了しているのだ。美しいグリンの縄と純白のブロバリン。服毒兼縊死。失敗の心配はない。みごとにぼくは自殺するだろう。でも、まだ時間がはやい。家の人はねむったが、計良さん(引用者注・同じ下宿に住む人物)なんかは少なくとも十二時まではねむらないだろうし、窓の前の家はまだおきていて、絶えず物音がしている。邪魔が入ったら大変。少くとも明朝の一時か二時まで待て。いま十一時まえ。あと二、三時間だ。
    もしわたしが自殺しようとしたら、岸上と同じように自己憐憫や言い訳に満ちた長文を書き残してしまいそうな気がして気分が悪くなる。彼の手記に近親憎悪に似たものを感じる人は結構多いかもしれない。
    ふるえている。寒さのためだ。ガクガクふるえている。隣りの高瀬さんがねむらないことには、時間が来ても決行できない。早く、電気を消して就寝して下さい! 正座して待つ。ああ! 待つ。ぼくの生涯はすべて待っていた。何かを。いまは、寒さでふるえながら、自分の手でする自分の死を待っている。
    筆写しつつ、まるでこれが岸上ではなく当方が書いた文章みたいな気がしてきてげんなりする。憑依でもされた感覚が生じてくるのだ。嫌な意味で普遍性のある文章なのかもしれない。だが長々と書き綴られてきた文章も、とうとう終結が訪れる。
    ブロバリン百五十錠飲んでも意識があったら、ウタでも書くことにして、とにかくこれで一区切りつける。これは、一人の男の失恋自殺です。それ以外の何者でもない。本人が最後まで、平常と何らかわりのない精神状態でいうのだから、まちがいない。信じてほしい。明朝、夜があけたら、ぼくがぶざまな死体を雨にぬらしてさらしているだけだ。世の中はしごく太平でめでたいかぎりだ。それでは失敬。ぼくは、これから服装をととのえ、湯呑みに水を注ぐ。万事予定どうりにすぎない。それでは、さようなら。やっと二時だ。

    一九六〇・十二・五

    岸上大作

    と、これでおしまいかと思うと、まだ書かれている。
    二時三十分、服毒。すぐ意識がなくなるのかとおもったら、なかなか――。一度窓の外に出てみたがさむくってやり切れないので、もう一度ノソノソ入って来て、散らばっていた薬をのむ。 現在、二時三十七分。 顔はレーンコートでかくす。 電気を消して真暗闇の中で 書いている。デタラメダ!
    ここで「ぼくのためのノート」は本当に絶筆となる。福島泰樹によれば「十二月五日、月曜日の朝、道路に面した家の二階からレインコートを被り雨に濡れた縊死体を発見したのは、井の頭線「久我山」駅へ急ぐサラリーマンであった」。 どこか浮ついた印象を拭えなかった手記も、とうとうこの世への置き土産と化してしまったのであった。わたしは憮然とした表情を浮かべながら、ああ、そうなんですか、としか言いようがない。   それにしても「ぼくのためのノート」は、リアルタイムにその場で即興的に書かれたものだったのだろうか。追記のところで「顔はレーンコートでかくす。/電気を消して真暗闇の中で/書いている」とあるが、肉筆のそれを見なければ断定はできないけれど、真っ暗なところで本当に判読可能な文章など書けるのだろうか。 前出の福島による評伝では、そうした疑問にしっかりと答えている。「「書いている/デタラメダ!」は原稿用紙六行目に、寄り添うように書かれているが、ペンの文字に乱れはない。更に驚いたことには、原稿用紙左上のノンブル用横線に「54」と頁数が記されていることであった。/つまり、岸上大作は、「顔をレーンコートでかく」し、「真っ暗闇の中で書いて」はいなかったのである。/死の寸前まで、寸分の乱れもなく、冷静に計画を進行させていたのだ。/六〇年安保闘争の歳晩、革命への夢を抱きつつ失恋自殺したという自身の「肖像」の完成を目指していたのである」。 さらに、岸上の下宿のくず籠からは彼の死後、「ぼくのためのノート」の下書きが見つかっている。彼の残した手記は、最初にして最後、一回限りのぎりぎりの状況で絞り出された即興のものではなく、むしろ清書に近いものだったのである。鼻白むというよりは、やっぱりねえ、と呟きたくなる。ただしだから岸上を非難する気にはなれない。二十一歳の、しかも表現者としての自覚を有り余るほどに持った青年なのだ。ある程度の演出など、しないほうがおかしい。 岸上はドラマチックでしかもエレガントに人生を終えたかった。それはそれで正しいだろう。「ぼくのためのノート」は、自殺に添えられたメッセージであると同時にちゃんと「作品」として残ったのである。個人的見解を申せば、似たようなことをして自殺していく青年がこの日本において一年に十人くらいはいるのではないか。だがそんな話は聞かないし、手記が公にされることもない。それがいささか信じ難いのである。

    メッセージとしての自殺

    さてこの章の最後に、第四章でも遺書にまつわる生々しさやリアリティーにおいて言及した由比忠之進を再び取り上げたい。彼はアメリカの北爆(ベトナム戦争)を支持した佐藤栄作の訪米に抗議するため、一九六七年一一月一一日に首相官邸前で焼身自殺を遂げたのだった。享年七三。まさにメッセージとしての自殺であった。 岸上大作はある意味でいかにも当時の青年の典型的な内面(のひとつ)を持っていたように思われる。では由比忠之進の人物像はどうであったか。焼身自殺という手段を選ぶ人は、それ相応の特異な内面を持っていそうな気がするので少し調べてみたのである。 なお焼身自殺といういささか特異な自殺方法についてここで触れておきたい。 もちろんこの自殺方法は昔からあったわけだが、それを抗議のメッセージとしての自殺として世間に認知させたのは、ベトナムの僧侶ティック・クアン・ドック(1897~1963)であった。彼は当時のベトナムの内乱状態、さらには南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権による仏教徒弾圧に抗議し、一九六三年六月一一日サイゴンにあるカンボジア大使館前でガソリンを被り焼身自殺を遂行した。その壮絶な姿はAP通信のアメリカ人ジャーナリストであるマルコム・ブラウンにより撮影され世界中に知られることになった(ピューリッツア賞受賞)。おそらくこの出来事(以後、僧侶による抗議の焼身自殺が相次いだ)が焼身自殺と抗議のメッセージとをイメージ的に強く結びつけることになったのだろう。 ベトナム戦争への抗議という文脈で、一九六五年三月一六日にアメリカの平和運動家かつユダヤ系クエーカー教徒であるアリス・ハーズ(1882~1965)がデトロイトで焼身自殺。彼女はベトナムの僧侶たちによる焼身自殺に強く影響された旨を語っており、またこの自殺方法こそがもっとも効果的なアピールと考えていた。ジャーナリストである比嘉康文の『我が身は炎となりて――佐藤首相に焼身抗議した由比忠之進とその時代』(新星出版2011)にはハーズが書き残したメッセージが載っているので紹介してみたい。
    アメリカ国民の皆さんへ トルーマン、アイゼンハウアー、ケネディ、ジョンソンの各大統領は 皆さんを大嘘でだまし、まよわせてきました。 過去二十年間に、計画的にはぐくまれた憎しみと恐怖によって みなさんは 議員たちが何兆ドルものお金を かぎりない破壊の兵器庫に支出するのを ゆるしておられます。 めざめて、たちあがってください! 明日ではおそすぎるのです。   それとも破滅させるか それをきめる責任はみなさんの手にあるのです。 神はあなどられません。 わたくしは、自分の意思を表明するため デトロイトのウェイン大学校庭において 仏教徒の焼身行為の方法により 抗議することにきめました。 アメリカの青年のみなさん! 生にむかって先頭にたってください! 一九六五年三月       アリス・ハーズ
    正直なところ、あまりにも素朴なメッセージに困惑する。言いたいことは分かる。八八歳という年齢において彼女がなし得る最高に効率的なアピールと判断したであろうことも分かる。だが考えが単純過ぎないか。命と引き換えのメッセージがこんなものなのかよと呟きたくなる。世間が変わると本気で信じているのかよ、と問い質したくなる。 しかしそれ以後、7名のアメリカ人が次々に米国内でベトナム戦争抗議の焼身自殺を遂げている。由比忠之進もその流れにあると見て良いのかもしれない。   由比忠之進は明治二七年(一八九四)に福岡県糸島郡の旧家に生まれた。福岡市の中学を卒業後、父の反対を押し切り上京、蔵前高等工業(現在の東京工業大学)の電気工業科へ入学した。実家に経済的援助を頼らず、苦学して卒業。在学中に大正デモクラシーの影響を受け、労働問題に関心を深めていく。卒業後、労働運動を行うために学歴を隠して一職工として沖電気に入社するものの、一年働いたところで徴兵され、除隊後に再び沖電気に戻るつもりが経歴を会社に知られて馘首される。無職のときに、知人の紹介で小学校教師の静と結婚。井出孫六の『その時この人がいた――昭和史を彩る異色の肖像37』(毎日新聞社1987)には由比について一章が設けられているが、そこには由比の追悼会で妻の静が語ったエピソードが載っているので引用しておく。「結婚直後、夫は妻にいきなり「貧民窟に入る意思はないか」と問いかけ、妻が拒むと、日記に「失望した」と書いていたという」。 嫁いできたばかりの妻に、いきなり「貧民窟に入る意思はないか」との問いである。これだけを聞かされるといささか面食らうが、これは当時の労働運動と関連している。 セツルメント運動というものがあって、一八八〇年代の英国で始まった。資本主義や急速な工業化によって生じた貧困に対し、知識人や学生、宗教家といった人たちがスラム街や貧民窟へ実際に移住し、共に暮らしつつ社会的弱者たちへ教育、医療、宿泊、託児、自立援助等の手助け等を行う社会事業活動を指す。きわめて実践的かつ献身的であると賞賛する人がいるいっぽう、いかにもインテリの一部が考えそうな理想主義的振る舞いであると揶揄せずにはいられなかった人もいたかもしれない。我が国では関東大震災を契機に活発となった。由比の結婚は震災の三年前になるが、そのとき既に彼はこの運動に共鳴していたのであろう。それにしても常識を逸脱しているというか、使命感の先走りぶりが通常ではないと思わせられる。 同じ頃、由比はエスペラント語を学び始める。   ここで少し脱線気味になるものの、エスペラント語について述べておきたい。ユダヤ系ポーランド人で眼科医のルドヴィコ・ザメンホフ(1859~1917)が創案、一八八七年に発表した人工言語がすなわちエスペラントである。 共通言語が存在しないがために異国間でのコミュニケーションが困難となり、誤解や感情的行き違いが生じがちなのは誰もが痛感している。といって他国の言語を学ぶのは容易ではない。ことに文法や名詞の格変化、動詞の人称変化などが厄介で、必ずしも規則性だけで理解はできない。そのあたりをシンプルかつ論理的なものに改善し、また語彙は西欧圏で使われているものをベースにして学びやすくしたものがエスペラントということになる。少なくともヨーロッパ圏の人たちには、エスペラントの習得はさほど困難ではないらしい。 世界統一言語といった構想には、どこか人の心を揺さぶるものがあるようだ。田中克彦『エスペラント――異端の言語』(岩波新書2007)によれば、『広辞苑』を編纂した新村出は日本政府代表として一九〇八年、ドレスデンで開かれた第四回世界エスペラント大会に出席している。アナーキストとして知られる大杉栄は、獄中でエスペラントを独学で身につけた(彼は東京外語出身でフランス語に堪能だった)。一九〇六年のことであり、同じ年に二葉亭四迷は我が国初のエスペラント語入門書『世界語』を出版した(彼は東京外語でロシア語を修めている)。柳田国男もエスペラントに強い関心を持ち、さらに宮沢賢治はエスペラントで詩や短歌を書いている。佐藤竜一の『世界の作家 宮沢賢治――エスペラントとイーハートブ』(彩流社2004)を参照すると「イーハトーヴォ」とは岩手をエスペラントふうにイハテ→イーハテ、さらにエスペラントの文法による名詞語尾の変化でイーハテ→イーハトとなり、そこに卵を意味するオーヴォを結びつけ、すなわち「岩手の卵」という架空の地名を作ったという。出口なおによる新興宗教、大本教はエスペラントを布教に活用しようと考え、北一輝はエスペラントに夢の一部を託していた。由比忠之進もまた、エスペラントに心を突き動かされていた。 気まぐれに、わたしも『エスペラント小辞典』(三宅史平編、大学書林)を買ってみた。初版が昭和四〇年、当方が購入したものが平成一五年発行で四三版となっている。それなりに需要があるのだろう。が、残念なことに、エスペラントを学んだ人には今まで誰も出会ったことがない。辞典で見る限り、多くの単語は英語レベルの知識で見当がつくものの、牛がbovoとか雷がtondro、鉛筆がkrajonoとか、語源のほうが気になってしまう。それでもなお、本棚の片隅に人工言語の辞典があると思うだけで、なぜか嬉しくなる。でも満足に英語すらマスターできなかった当方には、大杉栄みたいに懲役刑でも科せられない限り、エスペラントを本気で勉強してみる機会はなさそうである。

    浮世離れした理想主義

    さて由比は弁理士(特許、実用新案、意匠、商標について、諸手続を取り扱う国家資格)、家具製造、電気技師など職を転々とする。転職の理由は、結局のところ彼なりの正義感や心情と俗世間との摺り合わせが上手くいかなかったからだろう。けれどもエスペラントへの情熱は持ち続け、その普及や教育に手間を惜しむことはなかった。だが時代は太平洋戦争へと近づきつつあった。エスペラント語に対して、それは母国語を否定する姿勢を具現化したものであり自国を裏切る行為そのものものだといった考えが軍部には生まれていた。 一九三八年、由比は友人に誘われて満州へ渡る。満州製糸で技師として働くことになったのだ。そのときの彼は、意外にも満州国を肯定していた。既出の『我が身は炎となりて――佐藤首相に焼身抗議した由比忠之進とその時代』によれば、「つまり、大日本帝国がいう「民族が協和する理想国家」「八紘一宇は日本民族の使命」を実現する理想国家として(引用者注・由比は)満州国をみていたのだ。言葉をそのまま解釈すると、エスペラントを考案したザメンホフの思想とも相通じるものがあるのだが、満州国の実態はまったく逆であった」。 一九四四年には、日本軍の依頼を受けて由比は木製飛行機の開発をする会社を新京に設立、そこでベニヤ板の軍用機開発に没頭している。今になって眺めれば異様な行動であり思想であるが、彼のように一徹で柔軟性を欠く人は、ツボを突かれれば案外簡単に騙されることがある。 敗戦の日に彼はどう感じ、どう思ったか。日記が残っておらず分からない。が、それまで不当な仕打ちに耐えてきた中国人の恨みが一気に噴き出し、さらにソ連軍の参戦により、満州の日本人は逃げ惑う立場に立たされる。まさに形勢逆転である。軍部が喧伝する満州の立ち位置をそのまま鵜呑みにしていた由比は、自分の認識が誤っていたことを知って衝撃を受ける。二、三ヶ月は腑抜けのようにぼんやりしていた、と家族が証言している。自分が本当は加害者の側にいたと知れば、彼のような人にとって目の前が真っ暗になってしまうのも当然だろう。それは贖罪としての行動に結びつく。混乱状態の満州から帰国したがるのが通常の日本人であるにもかかわらず、由比は家族を日本へ帰らせたものの自分は満州へ留まった。中国政府による技術者留用に応募したのだ。再び比嘉康文の著書から引用すると、
    誰もが一日も早く日本へ帰国することが生きる手段であると考えていたころ、自ら望んで中国の技術者留用に応募する者はほとんどいなかった。だが、由比は「日本帝国主義の多年の支配にたいする国民の一人としてつぐなうとして、奥地行きを志願する」と石堂に語っている。それは単に一時的な技術者留用というものではなく、中国の大地に自らの骨を埋める覚悟で中国に残る決心をしていた。
    実際に由比は北満へ赴き、少なくとも自分では戦火で荒廃した大陸の再建に貢献しているつもりになっていた。だが結局、中国政府による帰国命令書により由比は一九四九年に帰国。すると翌年には、京都に赴き一燈園に参加する。一燈園というのは明治の終わりに西田天香が設立した懺悔奉仕団体で、現在も存続している。宗教団体ではなく、争いのない生活を実践すべく共同生活をしながら建築、出版、農業などを営み、得た金は個人では所有しない。我執を捨てて奉仕の形で社会に向き合う。奉仕のひとつとして、全国各地の家庭や学校、事業所などを訪ねて便所掃除をさせてもらう活動が有名らしい。 一燈園で自分なりに罪滅ぼしをするのも結構だが、由比は一家の主でもある。家族を養う義務があるだろう。友人の説得により一年で一燈園から離脱し家族のもとへ帰り、以後は弁理士の仕事とエスペラント普及に傾注する。   こうして由比の生き方を追っていると、彼の根幹を成す正義と誠実さと理想主義とがしばしば浮世離れしてしまい、世の中をひどく単純化して捉えがちな性向が見て取れる。悪く言えば、極端に走りがちなロマンチストといったところだろうか。しかし年齢を重ねたこともあるのだろう、次第に温和で中庸を心得たかのような生活になっていく。エスペラント運動と平和運動とに関連して国際交流に参加するようにもなる。しかし七〇歳を迎えた頃になると、ベトナムへの米国の軍事介入に対し強く義憤を覚えるようになる。七三歳、すなわち焼身自殺を行う年(一九六七)には東南アジア訪問を控えた佐藤首相に抗議の手紙を出し、またジョンソン米大統領には北爆の無条件停止を訴えた手紙を出している。前出のアリス・ハーズの追悼集会にも出席した。なお彼女はエスペランチストであり、その事実は由比の焼身自殺の決行を心情的に後押ししたのではないか。 意外なことに、由比はアリス・ハーズが自死する以前から焼身自殺を考えていた。週刊朝日の一九六七年一二月一日号(価格は六〇円。表紙はまだ高校生であった女優の岩井友見。同号には大江健三郎によるルポ「すべての日本人にとっての沖縄」も載っている)には、「本誌独占・由比忠之進さんの日記」という記事が掲載されている。これは由比が大学ノートに残したエスペラントによる日記の一部を、彼と親交のあった福田正男に訳してもらったもので、焼身自殺という言葉が最初に登場するのはハーズが自死するよりも一ヶ月前の一九六七年二月一三日だからである。日記には、テーマが掲げられて小見出しがついている。
    二月十三日(月)くもり 寒し 散歩せず 【自殺について】 多分、年老いたためだろうが、小生は病気がちになり、涙もろくなり、小便も近くなった。そのうえ、放尿に時間がかかるようになった。 健康について考えだすと、小生はだんだん自信がなくなってくる。そうしたとき、小生はどうなるか。病弱、老衰、孤独……それは、小生には耐えられない。 そんな不愉快をさけるためにも、同時にベトナム侵略の米国と佐藤内閣に強く抗議するためにも、焼身自殺を決行しなければならない。この考えは、日に日に、小生の心の中でふくらんでゆく。
    由比の胸の内を察するなら、老いへの不安(まだ認知症を恐れていないのは、当時そうした概念がなかったことに加え、平均寿命の短さが関係しているからだろう)と政治的アピール、これら二つの合わせ技で焼身自殺を決行しようと考えたと思われる。どちらも彼にとって切実な問題だったのだから。しかも政治的アピールには、満州における自分の行為に対する贖罪といったものも加味されていたに違いない。 だが客観的に眺めれば、これは公私混同めいたニュアンスがないだろうか。由比忠之進的潔癖さに鑑みれば、首相官邸前での焼身自殺の理由に自分の老いへの不安感が混ざっているなんて首を傾げたくなるのではあるまいか。それを責める気など毛頭ないが、政治的アピールで焼身自殺をする者はいても、老いの先行きを恐れて焼身自殺をする者など聞いたことがない。首相官邸前での焼身自殺は、ある種の英雄的行為だろう。しかしそこに自身の心の弱まりを混入させてしまっては、せっかくの豪胆な行為を権力者にせせら笑われてしまいかねないではないか。まあそこまで首尾一貫させられないところにこそ人間味があり、わたしはむしろ共感を覚えるが。
    三月八日(水)晴 散歩せず 【視力の悪化】 相模鉄道・希望が丘駅で電車を待つ間、ホームの広告掲示板を見ていた。そして、視力の近視性がひどく進んだことに気がついた。文字の線が二重に見える。近視眼鏡をかけてみたが、やはりダブって見える。そして涙がしきりに出てくる。これはまさしく、老化の度が強まり、わが生命の灯が終りに近づいたことをはっきりと示しているのだ! 【ジョンソンに対する抗議文作成】 小生の焼身自殺の決意はますます固まった。しかし、事前に警告なしに決行しても、そのよい効果は期待できない。まず、東京のアメリカ大使館を通じてジョンソンに抗議文を送らなければならない。そして、新しいエスカレーションのあった直後、ジョンソンとその同調者佐藤に抗議して、焼身自殺を決行するのだ。   三月十三日(月)晴 散歩せず 【特許局で古い文献調査】 テント骨格で、すでに登録されているもののうち、大正元年から昭和四十年までのものを調査した。いろいろ登録されているが、意出男(引用者注・由比の長男。エスペラントのイデオ(思想)に由来する)の考案に似たようなものは見つからない。意出男の考案が発表されたら、きっと成功する。 【ブローチの受取り】 ブローチ(引用者注・原爆ドーム補修費の一助とするために折り鶴のブローチを売る活動に加わっていた)を受取るため平本氏を訪れる。そのとき、同氏はしみじみと小生に忠告してくれた。弁理士の団体に入会して、できるだけ多くの弁理士たちと知合いになるべきだ。いまや、世は特許発明ばやりの時代である。弁理士とは弁護士よりも収入の多いめぐまれた花形職業だ……と。 まさにお説の通り、けれど近く焼身自殺するこの身にとって、そんなことは不必要だ!
    日記にはアリス・ハーズの焼身自殺に言及した記載が一切見られず奇異に感じられるが、それが週刊誌では割愛された可能性もあるのでなんとも言えない。日記は七月八日で終わっていて、その記述は素っ気なく特別なことは記されていない。自死を目前に、やり終えるべきことが山積みだったのだろう。 なお由比は焼身自殺を遂げる前夜に、家族宛に遺書を書いている。そこには以下のような箇条書きの項目があったという。再び比嘉康文の著書から引用させていただく。
    一、吾は無神論者で死後の生命を全然信じない。精神は肉体の死と同時に消滅するというのが信念だから別に葬儀など必要ないのだが、世間体があるからやっても良いが極く簡単にやって貰うこと 二、香典などで集まった金は全部ベトナムの戦争犠牲者救済に使うこと。北及南ベトナム両方に等分して 三、死後の霊を信じないから追悼会など全く無用
    高飛車というか偉そうな伝言である。もう少し家族に迷惑を掛けているのを自覚すべきではないのか。明治生まれで家父長制のもとに育った男は、精神にプレッシャーが加わると家の者には居丈高になる傾向があるのかもしれない。正義だ信念だなどと偉そうに言っても、家族に甘えてきた部分も多い筈だ。一燈園で謙虚な心を学ばなかったのかよと詰問してみたくなる。 エスペランチストの中には「由比忠之進さんらしい死に方だ」という手記を書いた者が数人いた、と比嘉の著書には述べられている。たしかに彼の人生をなぞり、また性格や考え方、さらには彼が直面した出来事やその時代の空気を考え合わせると、抗議の焼身自殺という結末には納得がいくように思えてしまう。自殺の動機に、そっと老いへの不安を紛れ込ませてしまうあたりも、おそらく彼らしい態度なのだろう。 あからさまに申せば、由比は一種の変人だった。だからいけないという話ではない。少なくとも家族以外には迷惑を掛けず、誠実で芯が通っていたから許容範囲ではあるものの、やはり変人の範疇だろう。でも彼に似た変人は、読者諸氏も、直接か間接かを問わなければ、一人くらいは思い当たる人物を知っているのではないか。そうなると日本全国では、由比に似た人はかなりの数が存在しているに違いない。しかし、その中で焼身自殺をしたのは由比忠之進だけではないか。 いろいろな偶然が惑星直列のように重なったのかもしれない。が、やはり由比の自死は異常であり、安易に「由比忠之進さんらしい死に方だ」などと言うのは錯覚であるようにも感じられるのだ。おしなべて自殺の理由についてあれこれと調べても、そこに浮かび出てきた因果関係は「後付けの物語」でしかあるまい。本人すら、その物語に導かれて行動しているように見えなくもない。 どんな物語が用意されようと、間違いなく自殺は唐突で不自然だ。自殺に必然性を与えるような物語は、むしろそれゆえに「まやかし」かもしれないなどと思いたくなる。そうした思いは、うっかりすると本書自体の否定につながりそうな気もするが。  

精神科医、春日武彦さんによる、きわめて不謹慎な自殺をめぐる論考である。

自殺は私たちに特別な感情をいだかせる。もちろん、近親者が死を選んだならば、「なぜ、止められなかったのか」、深い後悔に苛まれることだろう。でも、どこかで、覗き見的な欲求があることを否定できない。

「自分のことが分からないのと、自殺に至る精神の動きがわからないのとは、ほぼ同じ文脈にある」というように、春日さんの筆は、自殺というものが抱える深い溝へと分け入っていく。自身の患者さんとの体験、さまざまな文学作品などを下敷きに、評論ともエッセイとも小説ともいえない独特の春日ワールドが展開していきます。
自殺帳
春日武彦
春日武彦(かすが・たけひこ)

1951年京都生まれ。日本医科大学卒業。医学博士。産婦人科医を経て精神科医に。都立中部総合精神保健福祉センター、都立松沢病院部長、都立墨東病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。著書に『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎新書)、『臨床の詩学』(医学書院)、『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』(朝日新聞出版)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)等多数。