はじめに
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幼い頃、書棚にささっていた『出雲国風土記』が気になって仕方なかった。
じっと見れば「出雲国」と「風土記」という言葉にわかれるらしいと理解しても、ひとつひとつの文字の主張がひどく強く感じられ、油断するとそれぞれが別々に目に飛び込んで来て、まとまりを持たなくなる。
文字が表そうとしている「念」めいた何かが頭の中で巡り始めると、それはびょうびょうと風が吹くような音を立てた。
私は慌てて背伸びして、本を手に取って開いて見る。すると音は止むのだが、読み進めたところで書いてあることはまるでわからない。そしてまた元に戻しては数日経って頁をめくる。そんなことをくり返していた。
幾度となくその反復を続ける中で、うごめく文字がたたえる表情が何とはなしに伝わってきたのか。出雲の山川草木の光景が浮かぶようになった。国ぶりを記した書なのだ、ということを知ったのは後のことだ。
書物を眺めるうちに像を結んだ出雲は、今はもう失われ、誰の記憶にもとどまってはいない。けれども、そこには連綿と宿り続けている何かがあるのだと思っていた。
風が吹き渡ることを止めたことも、土が絶えたこともない。いま感じる風土はかつてとは違うにせよ、そこに突然現れたわけではない。
土地の記憶、そこで暮らした人たちの記憶。
いまはもう去っていったものたちの声や息遣いを、それぞれの土地は微かであっても伝えているのではないか。
銅鑼や鉦を叩くような、国ぶりを大仰に語る言葉が徘徊している。見知っていたかのような顔つきでやって来る。私はそっぽを向く。それらが罷り通る道そのものを知りたいから。
道はアスファルトで敷き詰められても小さな亀裂は走り、いくぶん隆起もしている。そこに時間の積み重ねが口籠る様子を見る。
濁った空気しかもう渡ってはいなくても、そこで息をして生きている人がいる。
そこでしか語られない言葉がある。
風土を記すとは、表に現れないところを感じることではないか。そんな想像を手掛かりに私が暮らした、歩いた土地について記してみたい。