旅をしても僕はそのまま
いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。
第10回

人生の旅は続いていく

2025.02.13
旅をしても僕はそのまま
鳥羽和久
  • 1.マウイ島

    ホノルル発マウイ島行きの飛行機はかなり揺れた。空港に降り立ってしばらくは、足がガクガクと震えていた。気分が悪くなって前かがみになる僕を見て、妻が「大丈夫?」と声をかけてくれる。僕はふだん妻のことを体が弱い人と考えているが、乗り物に乗ってすぐに体調を崩すのは、きまって僕のほうだ。

    気分は悪いが、とても心地よい場所に着いたことはわかる。カフルイ空港はいかにも離島らしい長閑さで、チッチチッチと鳥の鳴く声がする。揺れの原因となった北東風がふわりと体に当たって全身を包む。吐き気と胸焼けが徐々に和らいでいくのを感じた。

    マウイ島は西向きに横たえられた瓢箪のような形をしていて、カフルイ空港は瓢箪のくびれの北側の端にある。滞在予定のコンドミニアムは瓢箪の口に近いカパルアに位置しており、車で1時間弱の距離。タクシーを拾うためにカウンターに向かう。

    途中、旅行者たちがテレビの前で画面に釘付けになっている。赤文字で”Massive Wildfire Breaks Out in West Maui”のテロップ。そして、森林が燃え、山々から煙が立ち上る様子が映し出されている。西マウイで大規模な山火事らしい。カウンターの女性によると、この火災のせいで西マウイ全域の道路が閉鎖されており、カパルアまでは行けないとのこと。

    彼女はこの緊急事態とは対照的にとてもにこやかだ。ウェーブがかかった髪にプルメリアのフラワークリップをつけていて、1枚の絵みたいに自然に馴染んでいて素敵だ。「カパルアまでは行けない」と言った彼女が、続けて打開策を話してくれるのを期待したがそれっきりだった。とにかく僕らはカパルアに行けない。

    冷静になろうと思う。旅はトラブルが醍醐味なんだから。旅は単に自由だからいいのではなく、安全な日常から解除される感覚がいいのである。そうすると、痛む心が露出することがある。だからこそ、ランチで立ち寄ったカフェで「よい旅を!」と人の好い笑顔に送り出されるだけで、ふつふつと勇気が湧いてくる。街角の噴水の前で古びた弦が軋むように鳴るギターの音色に、ふるふると心揺さぶられたりもする。

    ふうーっと深呼吸をする。一旦は収まったはずの胸焼けがぶり返している気がする。気を奮い立たせてコンドミニアムに電話をする。「知ってるわよ。来れるようになったら来てね」とだけ言われる。やはり、カパルアに行くための裏ワザのようなものはないようだ。僕は海外サイトでハワイの地形図を購入し、貿易風の向きや地形を調べた上で、穏やかな風が吹くと信じてカパルアのコンドミニアムを予約した。その経緯を振り返ると、とても残念な気持ちになった。

    切り替えようと思う。とにかく今はカパルアには行けないんだから。出国前にインターネットで見た「マウイの達人」というサイトを思い出す。そのページでは、ポリネシア系日本人の風貌をした(あくまで見た目の話で、実際には違うかもしれない)サニーさんという男性が、太陽のような笑顔で旅行者たちを手招きしながらマウイ島の魅力を紹介していた。

    サイトに書かれた番号に電話をかけてみる。ブー、ブーと低い音が2度鳴ると、落ち着いた声の男性が「ハロー?」と出る。サニーさんだ。あっけなく繋がったことに少し動揺する。英語であいさつしている途中に「日本人の方ですね?」と流ちょうな日本語で言われ(サニーさんは「福岡出身」とサイトに書いてあるから当たり前である)、状況を説明すると、彼はすぐに「僕が車で迎えに行きますよ」と言って、それからわずか20分でアロハシャツ姿で空港に現れた。

    妻は突然空港に助け人が現れたことを不思議がっていて、僕はサニーさんに「スーパーマンみたいですね」と言った。彼は「僕は若い頃から一貫して人助けが趣味なんです」と言って笑う。彼は、この世に「完璧な笑顔」というものがあるとすれば、こういう笑顔だろうという顔で笑う。

    サニーさんは島の聖地であるイアオ渓谷と、マーアラエア湾沿いにあるサーフィン向きの風が吹くビーチに連れていってくれた後、自宅のあるキヘイまで僕らを連れてきてくれた。遠くの山から立ち上る白い煙が見え、サニーさんは「まだカパルアには行けそうにないね。でもきっと大丈夫ですよ」と励ましてくれる。

    サニーさんの家に到着したのは日没前で、そのままの流れで夕食をごちそうになる。ダイニングのテーブルに並ぶラウラウとポイ。葉っぱを拡げながら食べる不思議な味。タロイモや他の野菜の酸味と塩味が混ざり合っていて、おいしいと思うものの、たくさんは食べられないなと思う。僕は、福岡出身のサニーさんがどういう経緯でいまマウイ島にいるのかを知りたくて、いろいろと尋ねた。

    もともとは消防士だったんですよ。18のころ、友達が公務員試験を受けるっていうんで、ついでに僕もね。それに受かって、2年後にはレスキュー隊になった。それから10年間、嫌というほど現場に立ち会ってきました。川や海の底や、燃えさかる建物、大きく崩れた山の斜面……。そこで僕は多くの人間の最期を見ました。そんな場所に立つたびに、自分は無力だな、僕は本当にこのままでいいのか、もっと根本的に人を助ける方法はないかなと思ったんです。

    彼は穏やかな顔のまま、人の命について話している。福岡でレスキュー隊をしていたときには博多湾での貨物船沈没事故で乗組員4名を救出し、内閣総理大臣から表彰も受けたそうだ。

    アメリカで働いてみたいと思ってニューヨークに渡ったけど、消防士は市民権がないとダメだと後で気づいたりして。救急隊員の道に切り替えて、必死に医療英語を覚えました。だけど、人種差別なんかもあって。行き詰まりを感じているときに、テレビで見たハワイの太陽があまりにも眩しくて、ニューヨークを出たんです。そして結局、今こうしてマウイで暮らしてる。ダイビングの仕事をしながらネットの時代に乗って『マウイの達人』を立ち上げたら、何とかなった。そして、人の幸せについて、根本的に考える態度を、ここで学ぶことができている。人生はわかりません。意外なところに転がっていきます。いまは牧師として困っている人たちから話を聞くこともあります。

    サニーさんはそう語った後、少ししんみりした空気を振り払うように、はっはっはっと笑った。僕は、サニーさんのことを実はまだ信用していない。笑顔に曇りがない人、絵に描いたように魅力的な人、何事に対してもポジティブな人……に対して疑い深いところがある。しかも、彼は牧師だと言う。僕はカトリックの家庭に生まれたせいで、かえって聖職者に対して疑い深いところがある。

    そんな彼が、「僕には友達が1000人いるんだ」と言う。そして「今日から鳥羽さんも友達だよ」と言われる。僕は、独特な味付けの豚肉の塩味を噛みしめながら、やっぱりこの人は信用できないと思う。相手の目の前で「あなたは僕の友達」と言う大胆さが僕にはない。そんなことを言ってはいけないとさえ思う。でも、サニーさんに「友達だよ」と言われたことは、悪い気はしなかったし、むしろ嬉しかった。

    その日は結局カパルアへの道は閉鎖されたままで、サニーさんの好意で、自宅隣にあるアパートタイプの部屋に泊めてもらった。ずっとここで滞在させてもらいたいと思えるほどよい部屋で、部屋に置いてある石鹸で顔を洗ったら、杏仁豆腐のような肌になり、そのことで妻と盛り上がる。

    時折窓から入ってくる風がぬるくて気持ちがいい。部屋には月明かりが差し込んでいる。途中で目が覚めるたびに、ヤシの葉が擦れる音が聞こえた。マウイ島にいることを実感する。妻が起きている気配が感じられ、ベッドが変わると眠れなくなる彼女の習性を知っている僕は心配になる。でもその心配も一瞬のことで、僕は深い眠りに入り、次に目を覚ますとすっかり朝だった。

    妻は案の定「あまり眠れなかった」と言っている。眠る才能に恵まれていないというのは大変なことだ。スパムとスクランブルエッグが添えられたトーストと、淹れ立てのコナコーヒーをごちそうになった後、サニーさんの運転でキヘイを発つ。ワイレアのショッピングセンターに立ち寄って、そのままカパルア方面に向かう。道路は部分的に通行規制で、山肌からはまだ煙が立ち上るのが見える。

    1時間ちょっとでカパルアのコンドミニアムに到着する。宿泊代とガソリン代を払いたいと願い出たが、サニーさんは「じゃあ、ガソリン代だけね」とウインクして一部を受け取ってくれた。数日後にハレアカラにいっしょに行こうと約束して、ハグと握手。サニーさんは大きいな。人命を守る人というのは、これほどに体が違うのか。

    サニーさんは相変わらず100%の笑顔だ。彼の笑顔には人々を守り支える意志が宿っている。そのことに気づいた。彼には僕の何倍もの体力と精神力が宿っていて、存在感には独特のすごみがある。僕はこれまで、そんな人のことを知らなかったし、そのようなたぐいの笑顔を知らなかった。僕は自分の無力さを意識しないですむように、彼の笑顔の力を無効にしようとしてきたのか。

    「今度泊まるなら、キヘイがいいよ」と言われて、次はキヘイにしようと思う。サニーさんを信用していないと言ったが、その後、ハレアカラでいっしょに行動したときも含めて、サニーさんには何ひとつ嫌なところがなかった。何ひとつないのはすごい。

    カパルアにはそれから1週間滞在した。ビーチからは左にラナイ島と右にモロカイ島が大きく見えて、さまざまな想像を掻き立てる。

    僕はいま、太平洋のまん中にいる。この広大な大洋の中心に浮かぶ土地の地下深くには、地球上でも指折りの規模を誇るホットスポットがひそんでいる。プレートはその上をゆっくりと北西へと移動し、その動きに合わせるように、マグマは次々と新たな火山島を生み出す。しかし、やがてそれらの島々も風や波に砕かれ、侵食と沈降によって時間とともに低くなり、ついには海へと消えていく。ハワイ諸島には、土地の盛衰があまりにも鮮やかに刻まれている。

    ハワイ諸島は、これらのプレートの動きに沿って配置されているため、北西の島々が古く、南東に向かうほど新しい島が生まれている。そして、古い島ほど長い年月をかけて削られた深い谷が刻まれている。北西に位置するカウアイ島は、特に島の北側に最も深い峡谷を有し、「大地を裂くほどの神々の力」によって生まれたという伝承を持つワイメアキャニオン、そして、カララウトレイルから望むナパリコーストの景観は、この世のものとは思えぬほどの驚異的な魅力を放っている。

    カウアイ島の120㎞ほど南東に位置するオアフ島は、ワイキキなどの華やかなリゾートのイメージが強い。しかし、この島は、かつてのワイアナエとコオラウという二つの盾状火山の活動が形作った複雑な地形によって、その多面的な魅力が一層引き立てられている。貿易風が激しく吹き付ける北東海岸には、荒々しい海岸線や深い谷が広がり、ハワイ諸島内で二番目に古い島ならではの、風雨に刻まれた起伏に富んだ地形を楽しめる。

    それに比べると、マウイ島やハワイ島はまだ若い島だ。人間に例えてカウアイ島が51歳、オアフ島が40歳の壮年期だとすると、マウイ島は13歳、ハワイ島は10歳。まさに思春期が始まったばかりの年ごろだ。これらの若い島々は火山の活動がさかんで、地球のエネルギーをそのままむき出しにしている。大地に起伏は少なく、広範囲に滑らかな溶岩原が広がっている。ハワイ諸島をめぐる楽しみは、成熟した島々と、エネルギーあふれる若い島々の両方を楽しめるところにある。

    妻との旅行は一人旅とは勝手が大きく異なる。無茶なことはできないし、行先にトイレがあるかどうかも間断なく考える必要がある。そのことを優先すると、必然的に無理をしないゆったりしたスケジュールになる。コンドミニアムの敷地内にはプルメリアの大きな木がいくつも立っていて、散歩をするたびに花が新しく落ちていた。ツバキと同じように花がまるごと地面に落ちているのだが、プルメリアは落ちる前の気品をそのまま保っていて感心した。

    カパルアから程近いラハイナには3度足を運んだ。ここはハワイ王国の旧都であり、捕鯨で大いに栄えた時期もあった。ラハイナのフロント・ストリートには、土産屋やレストランに混じって、ギャラリーが点在しており、その中にはラッセンのギャラリーもあって、「いったいどうしてラッセンの絵が人気なのか」というテーマについて妻と話し合った。それは意外なほど深遠すぎる謎なのである。

    町に点在する歴史的な建物、ボールドウィン・ホームやワイオラ教会、そして、かつて船員だったメルヴィルが同僚の死を記したという海員病院などを巡り、旧裁判所の隣にある大きなバニアン・ツリーの下で、平凡な写真をたくさん撮った。旧裁判所の向かいにはハワイ最古のホテルであるパイオニア・インが建っている。捕鯨時代の繁栄をいまに伝えるプランテーション様式の建物。「ここに泊まってみたかった気がする」と言うと、妻は「うん。でも、いまの部屋のほうがいいと思うよ」と穏やかに答えて、刹那のノスタルジーに惑わされない人なのだと思う。

    ラハイナからはカアナパリ行きのサトウキビ列車にも乗った。パッションフルーツを煮詰めたような、弾む明るさの車掌さんが歓待してくれて、明るさについてこんなに格差のある僕たちを、彼の明るさに巻き込んでくれたことに感激する。

    マウイ島はほんとうに楽で気持ちがいいなと思う。吹く風が人生史上いちばん気持ちいい。若い頃は、せっかくリゾートに行ったのに、スケジュールを詰め込んで目的的に動いていた。でも、年を重ねるとリゾートの楽しみ方がわかるようになり、フワフワした非現実感に漂うことの味わいを知ることになる。これからさらに年齢を重ねていくので、もっとフワフワしたいと思う。妻にその決意を話すと、「私は初めからずっとそうだった」と言われて、彼女と僕とは人生の楽しみ方の質がもともと違うのだと思う。僕は以前から、彼女の楽しみ方のほうが本質を押さえているという気がしている。

  • 2.ハワイ島

    カフルイ空港から機体が高度を上げると、すぐにハワイ島が見えた。そうと判るのは、マウナケア頂上にあるいくつかの天文台が白く反射して見えるからだ。右後方には数日前に頂上まで登ったハレアカラがあり、火山から火山に向かっているのだと思う。マウイ島行きの飛行機と違い、安定している。ハワイ島のコナ空港は、カフルイ空港と違って島の西側、すなわち貿易風の風下側にあるため安心感が大きい。

    今回は着陸して1時間以内にカイルア・コナのコンドミニアムに到着するという順調さだった。オーシャンフロントの部屋からラナイに下りると、荒波を避けるように、真下の岩場でウミガメたちがくつろいでいるのが見える。昼寝や読書をしているうちに夕方となり、窓からウミガメたちが海に戻るのが見えたので、妻といっしょに岩場へ下りる。

    夕日が沈むと同時に最後のウミガメが海に潜り、岩場にはウミガメは一匹も残らなかった。いなくなったことに安心して、夕日の余韻が照らす白い珊瑚石をかき集める。珊瑚石で文字を作ろうと思うが適当な言葉が思いつかなかったので、西暦の4桁の数字を並べ、思い出になるねと言って写真に収めた。

    夜中は岩場に大波が何度も叩きつけ、部屋ごと波にのみ込まれないかと心配になるほどだった。朝起きると妻は案の定疲れた表情で、波音のせいで全く眠れなかったらしい。「次からはオーシャンフロントはダメだね」と話す。海に近ければ近いほどいいと思っていたけど、そうではなかった。世の中の「近ければ近いほどいい」という判断は、おそらくそのほとんどが間違っている。「近づきすぎないこと」を、人生の標語にしたい。

    ハワイ島の滞在も、マウイ島と同じく7日間だった。カイルア・コナは朝が素晴らしく、うまく眠れずに朝はグズる妻を尻目に、僕は早朝から町じゅうを歩き回った。ハワイ島は広大で、他の島と比べても観光に時間がかかるからか、滞在するツアリストたちの朝は極めて早く、コンドミニアムそばのカフェレストランLAVA JAVAは、6時半すぎには朝食をとる人たちで賑わっていた。

    海沿いの散歩道からは、沖の方に巨大なクルーズ船”Pride Of America”の姿が見え、船内で過ごす人たちのことを想像する。それにしても、そんな名前の船があるだけでも、僕と全く異なる思考形式を持った人間がこの世界に存在する証拠を突きつけられた気分になる。世界は広いということは、案外こういうひとつひとつの事実の中に宿っている。毎朝、ハワイ最古の教会であるモクアイカウア教会と、古代ハワイの祭祀場であるアフエナ・ヘイアウに欠かさず通い、その場所で祈った多くの人たちのことを想像した。

    妻と旅をするときに厄介なのは、妻はほとんどの場合、うまく眠れず調子がよくないのに、僕は日増しに野性味を帯びて元気になっていくところだ。僕は、世界で最も巨大な火山の一つと言われるマウナロアの頂上(標高4169m)まで行きたいと思うけれども、妻にはそんな体力は残っていないだろうと思う。

    「マウナロアに登ってみたかったけど、無理をしちゃダメだから今回はやめておこう」と、何かを振り絞ったような気持ちで言うと、妻は「うん、ハレアカラに行ったばかりだしね」と淡々と答える。たしかに、マウイ島のハレアカラだって標高3000mを超える高山だったのだ、と形式的に考えてみるが、でもハレアカラとマウナロアはまったく別の山なのにと思う。妻にとってはその差異はどうでもいいことであって、それをどうでもいいと思う権利は、それにこだわって無理をする(無理をさせる)権利よりも、はるかに認められるべきものである。

    ハワイ島滞在の3日目に、島を1日で一周するツアーに参加した。ツアーといえば、台本通りに演じる読み合わせみたいな感じがして、普段は意識的に避けているが、ハワイ島はとても大きくて(日本で例えると岐阜県と同じくらい)、自力で島を一周するのはとても大変なことだ。僕は車の免許を持っていないし、妻はそもそも車を運転する意思がない。バスでは1日で一周はできないし、タクシーで一周すると1日10万円以上かかるそうで、ツアー以外のすべての案が現実的ではなかった。

    島内一周ツアーには僕らを合わせて2名×4組の日本人が参加していて、若い女性のふたり組から初老の夫婦まで幅広い構成だった。コナのリゾート地区を抜けると、牧場が広がるワイメアとハワイの聖地ポロルー渓谷を経由して、そのまま島の東岸へ向かった。島の東側では、最初にアカカ滝を訪れて、ガイドが「ほら、虹ですよ」と言うのに合わせて歓声を上げた。

    ヒロの町に着いて外の空気に触れると、たちまちにコナとの違いに驚かされる。島の西岸にあるコナはリゾート向きのからっとした空気だが、貿易風が直撃するヒロはずんと重たい空気で、この湿った空気ならたくさんの命を支えられると思う。これがハワイ島のオリジンの空気か。ヒロはカイルア・コナと並ぶハワイ島の中心都市だが、この辺りにはカメハメハ大王の生誕地があり、先住民の文化が根付いている。いわゆるハワイのふるさとだ。ハワイに入植した日本人移民たちの多くも、ヒロやその北部のハマクア地区を生活の拠点としていた。滞在中に、もう一度ここに来ようと心に決めた。

    ヒロの町をほぼ素通りして、そのままキラウエア火山に向かう。この日はもともと快晴だったが、キラウエアに近づくと標高が高くなり、次第に曇り始める。車内ではツアーガイドがマイクを使って途切れることなく話していて、興味深い内容もあったが、ときどき致命的につまらないことを言う人だなと思っていた。

    僕がツアーガイドに求めることは、単に参加者それぞれの楽しみ方を妨げないことである。ツアーである限りそんなことは無理かもしれない。でも、最大限そうであってほしいし、個人を尊重する素振りだけでも見せてほしいと思う。その点で言えば、今日のガイドは残念ながら一度も及第点に達することはなかった。

    極めつけはハレマウマウ火口での出来事だ。アイマスクをしたまま、着いた場所も告げられずに前の人の肩に触れながら歩かされ、まるでお笑い番組のどっきり企画のような感覚に陥る。言われるがままに冷たい霧の中を進んでいくと、ようやく目的の場所に着いたようで、「ここで止まったまま動かないで、動くと危ないから」と言われて、少し恐くなった。カウントダウンが始まり、ゼロになると同時にアイマスクを外すと、霧で何も見えない。霧に包まれていることは判っていたので当たり前ではあるのだが、これには意気消沈した。ガイドは「霧で見えませんが、心では見えているはずです」と意味不明なことをしゃべっている。クソだと思った。

    この場所からは、天気さえよければ広大で深い火口の空洞が見え、のぞき込むと足がすくむような迫力があったはずである。見えなかった悔しさと、この場所を自由に楽しませてくれなかった悔しさが交錯して、むしゃくしゃとした気持ちになる。

    国立公園を抜けて、島をさらに南下。霧が晴れてくる。見渡す限り広がる溶岩台地の黒い岩盤の隙間から、ところどころ噴煙が上るのが見える。「ハワイの大地のエネルギーを思う存分味わって」とのガイドの声に促され、車を降りて寝転がる。黒い溶岩はとても温かくて、岩盤浴みたいに気持ちがよかった。ツアーは終盤に差し掛かり、プナルウ黒砂海岸で大きなウミガメを見た後、乾いた空気が支配する島の西岸に出て、一気にコナ方面に戻り始めた。

    太陽が西の空に傾き始める。行程をほぼ終えた安心感からか、多くの乗客がウトウトと眠りに落ちた。妻も隣で夜の睡眠不足を巻き返す勢いでぐっすり眠っている。それから僕もウトウトしていると、いつの間にか1時間半くらい経っており、バスの外は真っ暗になっていた。最初に老夫婦がキャプテンクックの民家みたいなB&Bで降りて、その後しばらくして、若い女性の二人組がコナ郊外にあるシェラトン・コナ・リゾートで降りていった。車内の人数が少なくなり、心細い気持ちになっていたその時、「あのホテルはハワイの摂理に反している」とガイドが言う。降りてすぐにそんな話をするなんて、いま出会った人に対する裏切りだと思い、強い違和感を覚える。

    残ったのは僕らを合わせて二組。もう一組は、僕らよりやや若いカップルだった。僕たちふたりはミニバスの後部に座っており、ガイドがおしゃべりをするときはもっぱら前方の乗客たちを相手にしていたが、前方の乗客がいなくなったことで、初めて僕に声を掛けてきた。当たり障りのない話をしたつもりだったが、ケント(ここにきてようやくガイドの名前を覚えた)は、5分も経たないうちに「鳥羽さんはよく話が通じる人だ」と息を巻いており、すっかり気に入られた様子だ。驚きの展開である。彼は元々は横浜の人らしい。

    ケントはマイクで「まもなくコナに着くから身支度を」と伝え、それを聞いた僕は、隣で眠っている妻を起こした。彼女は起きるとすぐに、複数の袋に入っていた土産物を整頓し、一つの袋にまとめ、その一部を自分のリュックにきれいにしまい込んだ。僕は名人芸でも見るように、彼女のムダのない所作を眺めている。ケントが唐突に「皆さん、どうか私の言葉に耳を傾けてください」と言ったので、少しぎょっとしながら彼の言葉を聞く。

    今の世の中は、表面上の平穏の裏で、目に見えない力によって巧妙に操られています。私たちが日々受け取る情報は、決して偶然に生じたものではなく、計算された策略の産物であります。たとえば、東日本大震災。被害はハワイ島にも及んだのですが、あの地震は人工的な操作によって引き起こされた可能性が否定できないのです。そして、日本政府はその卑怯な脅しに屈したのです。気象を操作する兵器HAARPの存在、そして巨大な金融資本に操られる勢力。特に一部のユダヤ系の組織が、その背後で世界の運命を自らの利益のために意図的に動かしている現実は、見逃すことのできない事実です。

    僕は何かが始まってしまったことに気づいて、苦難に持ちこたえるような姿勢で下を向いた。東日本大震災を陰謀論で語るのが耐えられなかった。

    皆さん、私たち大半は日常の安堵に浸り、目の前の快適さにとらわれるあまり、真実の姿を知ろうとしません。情報の海に溺れ、都合の良い説明だけを鵜呑みにしているその姿勢こそが、真の覚醒を妨げ、巧妙に仕組まれた虚実の歯車の一部となってしまっているのです。

    さて、ここハワイの大地に足を踏み入れると、私が最も深く感じるのは、火の女神ペレが放つ圧倒的なエネルギーです。ペレの燃え盛る炎は、ただ単に大地を焼き尽くす破壊の力ではありません。その炎は、古いものを徹底的に浄化し、必然として新たな生命の芽吹きを促す創造の力そのものです。火山の噴火によって荒廃した大地は、やがて肥沃な土壌へと変貌し、新たな命を迎える準備を整えます。これは、自然が持つ再生の摂理であり、人間にとっても大切な啓示であります。

    さらに、ここで皆さんに訴えたいのは、女性が古来より担ってきた命を生み出す神聖な役割の重要性です。女性は、単なる美しさや洗練を追い求める存在ではなく、母性と直感に満ち、生命の源として大地を潤してきた存在でした。もし、現代社会がその本来の役割を軽視し、女性が古代から受け継がれた母性的な力や直感を捨て去ってしまうならば、人類の未来は暗黒に包まれることでしょう。女性が持つ創造の力は、ペレの炎が大地に新たな命を吹き込むように、この世界に秩序と再生をもたらす絶対的な鍵であると私は断言します。

    あまりの内容に、思わず妻と目を合わせる。このときの二人はまったく同じ表情をしていたと思う。

    世界の背後で蠢く巨大な利権や隠された勢力は、決して偶然の産物ではなく、冷徹な計算のもとに動いています。情報操作、メディアによる洗脳、そして権力者たちによる巧妙な資金の流れ……。これらの事実に目をつぶり、ただ日常に流されていては、真実に気づくことはできません。皆さん一人ひとりが、自らの内に秘めた覚醒の力を解放し、目の前に広がる闇に光を当てる勇気を持たなければ、あなたは永遠に操られる傍観者のままであり続けるでしょう。表面的な平和と虚飾に騙されるのではなく、隠された力と真実を見抜く覚悟を持ってください。金融資本や影の勢力が仕掛けた策略の網を断ち切り、自らの内なるエネルギーと、ペレの燃え上がる炎、そして女性が育んできた神聖な母性の力を再認識することで、私たちはこの歪んだ世界を根底から覆すことができるのです。

     

    ケントの話しぶりは明らかに高揚しており、さっきの僕との対話が彼に「覚醒」をもたらしたとすれば恐ろしいことだと思った。でも、こんな話がいきなり出てくるわけがないので、彼はふだんからこういうことを言っているのだと思う。意外だったのは、こんな典型的な陰謀論であっても、肉声で語られると案外とりあえず聞いてしまうことで、ツアー中に彼の言葉を聞いて、すべてではなくとも部分的にその内容を信じ込んでしまった人は大勢いるだろうという気がした。

    ミニバスを降りるときに、僕は「あなたにとっての「正しい話」はあなた自身にとどめておくべきで、いま私たちの前で聞かせるべきような内容ではなかった」というセリフを前もって頭の中で用意しており、ケントにそれを伝えて車を降りるつもりだったのに、急にさみしくなって何も言えなくなった。ケントという一人の人間の実存と、僕の実存のそれぞれが、とてもたよりないものに感じられて、それがどうしようもなくさみしいのだ。彼はハワイの豊かな自然の中でサーフィンをする毎日に憧れて、単身でハワイ島までやってきた。日本で培われた価値観を脱ぎ捨てて、この地で長年生計を立てている彼のことを簡単にバカにすることはできないと思った。

    バスを降りて、LAVA JAVAで夕食。「最後のあれはちょっとひどかったね」と僕は涙目で言うような心境になっており、妻はケントが話した「母性」の気持ち悪さについて、とてもわかりやすく解説してくれた。店ではジャック・ジョンソンが薄まったようなシンガーがハワイアンを歌っており、次第に心の波が落ち着いてくる。妻がバーガーを注文し、僕は魚料理を頼んだが、途中で魚の骨が歯に詰まってしまい、「歯に詰まった(ハニツマッタ)」をいかにオシャレに言うかを競い合った。

    その3日後にハワイ島を去って以来、この10年余りハワイ諸島に行く機会はなかったが、その間にも、サトウキビ鉄道は無期限の運休になってしまったし、ラハイナの町は2023年の大火災で町のほとんどすべてが焼け落ちてしまった。ボールドウィン・ホームもワイオラ教会も、旧裁判所もパイオニア・インも、すべてが灰になってしまい、見る影もない。

    僕にとってのハワイ島でのハイライトは、日系の方が経営するキムラ・ラウハラ・ショップに立ち寄ったことだ。90歳を過ぎても誇りにあふれた明るい笑顔を振りまくキムラのおばあさんと話し、ラウハラの葉で作られたバラの飾りを買った思い出。おばあさんに日系移民の歴史への関心を伝えると、急に泣くような表情になって、近くの小さな私設資料館のことを教えてくれた。あんなに真剣に教えてくれたのに、僕はそのとき別のスケジュールを優先して、資料館に行くことをしなかった。そのことを帰国後にひどく後悔して、次にハワイ島に行ったら、まっさきに資料館に向かい、キムラのおばあさんにそのことを伝えに行こうと思っていた。

    これを書きながら、キムラ・ラウハラ・ショップのことを調べていたら、おばあさんが2018年に亡くなったというお客さんの話が出てきた。そのときに動かなければ手遅れになるということが、人生にはたくさんあって悔しい。

    旅は一期一会の連続で、たった一度の出会いになることも多いけれど、そのときのふるえる気持ちは本当だと思う。サニーさんの100%の笑顔は、きっと、その瞬間瞬間に自分を出し尽くすことを惜しまない人間の姿だった。僕もあのサニーさんの笑顔がほしい。

     

    ・・・・・・
    この旅行記を、生涯ずっと旅が大好きだった故井口正俊先生に捧げます。

    マウイ島 マケナのビーチ

    *本連載は今回が最終回になります。すこしお時間をいただいて書籍化の予定です。おたのしみにお待ちください。

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。
旅をしても僕はそのまま
鳥羽和久
鳥羽和久(とば・かずひさ)

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。