ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録
気の迷いと偶然で飛び込んだ出版の世界。そこで直面した矛盾と葛藤。マイノリティを支援し社会的な課題の解決を目指すことと、商業的に利益を上げることは両立可能か? 毒親もヤフコメ民やアンチフェミニストからのクソリプも飯のタネ。片手で社会的ルールを遵守しつつ、もう一方の手で理不尽な圧には抵抗する。宗教2世、精神疾患当事者、ポリアモリーという特質をそなえた編集者(見習い)による、「我らの狂気を、生き延びる道を教えよ」の叫びが聞こえるエッセイ。

第8回 母が私をフェミニストにした

2025.02.15
ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録
紫藤春香
  • 私の担当書にはジェンダーやセクシュアリティ、特にフェミニズムをテーマとする書籍が多い。そのルーツはどこにあるかといえば、母だった。

    母は子どもを虐待するフェミニストだった。

    母の母、つまり私の祖母は、配偶者である祖父を母が2歳の頃に亡くし、女で一つで母を育て上げたシングルマザーだった。茨城の農家の生まれの祖母は、手先が器用で勤勉で、上京して新宿の小田急百貨店のお針子として生計を立てた。石原慎太郎のスーツを仕立てたことが祖母の自慢で、ことあるごとに石原慎太郎の股下がとんでもなく長かったのだと、嬉しそうに語った。

    時代が時代だから、祖母にはすぐに再婚の話が持ち上がった。しかしどういう事情か、再婚の見合いの席で土壇場になって裏口から逃げ出して、その話を反故にしたらしい。いちど後家さんやったらやめらんないよ、というのが祖母の口癖だった。

    この独立心は、祖母と一心同体で育った母に受け継がれた。母は、女性の大卒率が極めて低く、女は行けて短大、という時代であったにもかかわらず、四年制の大学を卒業し、経理として父のいる会社に就職した。母もまた器用で要領が良く、バイタリティにあふれ、娘の私から見ても仕事が得意な人間だとわかる。

    しかし、母は父との結婚と私の出産によって、大きな挫折を経験することになる。母が言うには、父は結婚するまでは極めて紳士的で、家事にも積極的に参加していたという。しかし、結婚を機にそうした優しさは消え、私の出産を境に、父は母が「逃げられない」と確信して図に乗り、どんどん横柄な態度になったのだと。父は、実母である祖父と母との間に嫁姑問題が勃発した時も事なかれ主義を貫いて、母を庇うことはなかったらしい。その様子は、私が母と信仰のことで対立し、父に助けを求めた際になしのつぶてであったことからも容易に想像がつく。父は弱くて小賢しく、家父長的に振る舞いたがるわりに、責任からは巧みに逃避したがった。

    ありふれた父親不在の家庭だった。加えて、父と母は私が幼少期まで転勤族だった。新宿生まれ、新宿育ち、根っからのシティガールだった母は、結婚と父の転勤によって仕事を奪われ、地縁も奪われ、ワンオペ育児に忙殺された。東北のど田舎で5LDKの社宅に取り残され、母は孤独を深めた。母は当時のことを「気が狂いそうだった」と語る。孤独を埋めるため、毎日何時間も友人と電話して、電話代が月に10万円に上ることもあったという。

    母は「気が狂いそうだった」と語るが、娘の私からすればその頃から母は「気が狂っていた」のだと思う。娘である私に、手を上げるようになった。その後遺症は、ようやく埼玉に居を構え、長く腰を落ち着けられるようになってからも続いた。ピアノの練習を怠る私に容赦なく鉄拳制裁を加え、私が少しでも反抗的な態度を取ると母の怒りは止まるところを知らなかった。風邪薬を飲むことを拒否すると、裸足のまま表に放り出された。生意気な口答えをすれば、謝るまで何時間でも正座を強要した。

    また、祖母と母は熱心な山岳信仰の教徒だった。宗教的儀式はなかなかに苛烈で、私は馴染むことができず、いわゆる親に望まない信仰を強要される「宗教2世」だった。10歳前後で裸足で山を登ったり、焚き火の上を歩いたりした。ぎんじょうしゃいはいしゃいはいかけまくもかしこみさんしゃだいじん ごしんぎしちやくよしゃだいしょうのじんぎ あまりにきこしみしまもりかしこみかしこみもうす ろっこんしょうじょう ろっこんしょうじょう というお題目は意味も変換もわからないが、今でも空で唱えることができる。親に振り向いてもらいたい、褒められたい一心で、なんとか食らいつき、その代わりに心は確実に蝕まれていった。

    こうした環境で私は「解離」を覚え、何時間でも空想の世界で遊ぶようになった。読書がそれを助けた。1時間にわたって母が怒鳴り散らす間、私の思考は現実を離れ、ハリー・ポッターの世界の登場人物として、魔法学校での生活を謳歌した。司馬遼太郎が描く歴史小説の世界にタイムスリップし、坂本竜馬と日本を洗濯した。19世紀のロンドンで、シャーロック・ホームズと共に事件を解決した。書籍は長編であればあるほどよかった。長ければ長いほど、世界観は作り込まれ、味わい甲斐がある。頭にインストールしておいた物語のマップの中で何時間も遊ぶことができ、何時間でも母の罵倒をやり過ごすことができた。痛みを感じずに済んだ。その後の人生の大半の時間、その副作用に苦しむことになるとは思いも知らず、ただ当時その時、目の前の嵐に耐えるために生み出された方策がそれだった。

    母は私を虐待していた。子どもの権利というものに、あまりに無頓着だった。しかし祖母譲りの独立心で、自由を愛する女性だった。母は口酸っぱく、手に職をつけなさい、と言った。そして、結婚しても絶対に仕事を手放さないこと、とも警告した。彼女の苦い夫婦生活からくる教訓だった。経済的独立を手に入れ、男性とのパワーゲームに負けないこと。そのための反骨心を育てようとした。それが自分に向くことは想定外だったようだが。

    母は女性の性的自由についても意識的だった。私が高校生でセーラー服を着たままダイニングでおやつをかき込んでいると、母は私に新聞のある一面を見せた。そして、これを家訓にするから、と言った。そこには写真家・蜷川実花のインタビューが掲載されており、父である演習家・蜷川幸雄に「何をしてもいいが、妊娠だけはするな」と書かれていた。当時は母から教わるには随分と過激な教えだ、と思い、若干気圧されながら、そっけなく対応してしまったが、今振り返るとなかなか関心な教えだ。何をしてもよい。性的自由は存分に謳歌すればよい。しかし、妊娠によって不利益を被るのは、残念ながら女性である。中絶をする/しないの選択も、その選択に伴う経済的・精神的負担からも、男性は逃げることができるが、女性は逃げることができない。だから避妊には気をつけなさい。これもまた、母が苦渋を舐め、身を削った上で娘に伝えようとしたことだった。

    母は私に教育を惜しまなかった。父は「女の子なんだから勉強なんかしなくていい」と言ったが、母の考えは違っていた。女ほど勉強した方がよい。勉強して、手に職をつけ、経済的・精神的な独立を手に入れろ。それが母の教えだった。家事よりも、おしゃれよりも、勉強。私は一人娘ではなく、一人息子のように育てられた。

    母が私をフェミニストにした。それは間違いがない。しかし、母は同時に子どもの権利には無頓着であり、情緒的に幼く、私が学業で上げた成果を自分を着飾る道具のように扱って、ご近所や親戚に自慢するのに利用した。マルトリートメント(不適切な養育)があり、虐待があった。母から受け取ったものにはたくさんの「毒」が含まれており、私の人生は魚の小骨を取り除くように、その「毒」の影響を避けることに多くの時間と労力を割くことになった。

    しかし、この物語の黒幕は母ではない。母は「ヒス構文」の使い手だった。私が屁理屈をこねればすぐに「じゃぁ食べなくていい!」「じゃぁもう全部やめたら!?」とラランドのサーヤさんのコントばりに金切り声を上げたが、フロイトをはじめとする男性の精神分析家たちが女性の失神の原因に性暴力があったことを見て見ぬふりをして「子宮」という意味の「ヒステリー」という言葉で女性たちひレッテルを貼った経緯よろしく、彼女を傷つけたのは、男性である父親であり、父親に横柄な態度と妻への無関心を許した、男性中心社会だった。父と社会からの「加害」の皺寄せは、さらに母より弱い娘である私に向かった。加害は低い場所へ流れ続ける。

    どうしても忘れられない記憶がある。ある日、母が私が眠るベッドに一緒に潜り込んできた。そして私を抱きしめ、性器を触った。私は当時、その場所が性器であることも知らず、その行為の意味も知らなかった。ただ、いったいこれはどういうことだろう? 不可解だ、という気持ちだけが残った。その行為の意味を理解したのは、初めて性行為をした19歳の時だった。好きな人とあんなことを!という高揚感ののち、じわじわと気分が落ち込んでいった。私は虐待されていた。これまで「しつけ」と一環だと思っていたあれやこれやもすべて、そうだとしたら? あれが「愛」ではないとしたら?

    浴びせられた罵詈雑言。「あんたがこの家を滅ぼすんだ」。母の金切り声。父の舌打ち。裸足で焚き火を渡った時の足の裏の感触。長年抑圧してきた痛みが、私の身体を焼き切った。私は親を喪った。そして長く暗いトンネルの中に閉じ込められることになった。身体や頭が思うように動かない日が続いた。酒に溺れた。「愛」らしきものを求めては「性」に固執し、友人からは蔑まされた。

    私は決して母を許していない。自分が母が私を産んだ年齢に近づけば近づくほど、その思いは強くなる。この人生の延長上に、子どもに罵詈雑言や体罰、ましてや性加害を与えることがあってはならない、という実感が増してくるからだ。そんなことをするくらいなら、そもそも子どもを産むな、とすら思う。しかし彼女を傷つけ、加害に導いたものとはこれからも戦い続ける。母を恨み、母のため、母の傷つきのために戦う。母の傷は私の傷にもなった。

    私は子どもを産まない、という選択をしている。しかしそのことは、決して社会から隔絶することを意味しない。世代を超えた繋がりを拒否したいわけではない。私は、現代日本の社会において子どもを産んだとして、母のようにならない自信がないのだ。異性とパートナーシップを結んで、孤独にならない自信がない。男尊女卑を恨んでいる。硬直的な社会のあり方を憎んでいる。そして絶望している。だから私は子どもを産んで傷を再生産するよりも、この社会を少しでも改善し、傷の継承を止めることを選んだ。

    現在、私は母と連絡を取っていない。私たちはひとところにいると、互いを傷つけずにはいられないほど、抜き差しならぬ関係になってしまった。しかし同居すること、頻繁に連絡を取り合うことだけが、親子の繋がりではないはずだ。

     

気の迷いと偶然で飛び込んだ出版の世界。そこで直面した矛盾と葛藤。マイノリティを支援し社会的な課題の解決を目指すことと、商業的に利益を上げることは両立可能か? 毒親もヤフコメ民やアンチフェミニストからのクソリプも飯のタネ。片手で社会的ルールを遵守しつつ、もう一方の手で理不尽な圧には抵抗する。宗教2世、精神疾患当事者、ポリアモリーという特質をそなえた編集者(見習い)による、「我らの狂気を、生き延びる道を教えよ」の叫びが聞こえるエッセイ。
ポリアモリー編集見習いの憂鬱な備忘録
紫藤春香
紫藤春香(しとう・はるか)

某出版社勤務。複数愛者(ポリアモリー)。文筆と編集。寄稿「図書新聞」/『みんなの宗教2世問題』(横道誠編、晶文社)/朝日新聞社「かがみよかがみ」山崎ナオコーラ賞大賞/note「女の子なんだから勉強しなくていいよ、と言った父は死にかけるまで仕事をやめられなかった」他。