「芸術のための芸術」と「社会に仕える芸術」のあいだ
-
前回は「わからない」、「役に立たない」ものである、と言われがちなアートは、むしろ「わからない」「役に立たない」ものとして、この社会に存在していくことがその存在意義ではないか、ということをお話ししました。この社会のなかに、わかりにくくても、役に立たなくても、あるいは美しくなくても、存在していてもいいんだよ、と伝えること。そして、今、生きているそういう人やものたちの領域を守る存在としてアートを考えることができるし、それは、人権の理念と重ねて考えることができるだろう、というのがここまでの内容でした。
さて、2024年に日本のアート業界を震撼させたのは、DIC川村記念美術館が近く休館するという発表でした。2025年2月現在、千葉県・佐倉市にあるDIC川村記念美術館は国内でも有数の現代美術のコレクションを持つ美術館であり、広々とした敷地や美しい建築でも知られています。特に有名なマーク・ロスコの作品を鑑賞するためだけの展示室「ロスコ・ルーム」をはじめ、その重要なコレクションが日本ではもう見られなくなってしまうかもしれないと、衝撃を持って受け止められました。
休館が検討されたのは、投資家などから資産効率の観点で美術館の運営の見直しを求める声があったから。移転したうえで規模を縮小するか、美術館の運営を中止するかを判断するという発表がありました。その後、多くの来館者が訪れ予定されていた休館の時期が後ろ倒しにはなりましたが、移転と規模の縮小が決定しています。
前回書いた通り、これはアートが「コスパ思考」によって切り捨てられるものであることをまざまざと見せつけられた事例でした。この件は、DIC株式会社が特別にアートを軽んじているというわけではなく、この社会におけるアートへの意識や位置付けを残念ながら反映していると言えるでしょう。公的資金で行われる展覧会等に対して抵抗感が示されることも少なくなく、さらに公的資金でなかったとしてもアートが無条件には守られない今、美術館をはじめとするアートの場所はもはやアートにとって安全ではありません。当たり前のことですが、人の手で管理・運営される「アートの場所」は、自治体の首長や担当者などの判断によって、容易に失われうるのです。このように、「役に立つ」、「わかりやすい」ものを求めるムードが社会のなかで高まれば、アートはその存在自体がもっとぎりぎりの状態に追い詰められていくかもしれません。
ではなぜ、アートがぎりぎりの状態になりつつあるのか。これにはたくさんの理由があると思いますが、そのひとつに、「役に立つ」ものがよいとされる社会であってもなお、アートが「社会から自立した純粋な存在」であるのを期待されていることがあるように思います。
「アート以外」のものには役に立つことや、わかりやすさが求められる一方で、アートにだけは純粋さを保っていてほしい、という期待が根深くある。他方でそうした期待に応えているばかりでは、アートは「役に立たない」「わかりにくい」ものとして淘汰されてしまう⋯⋯。アートは、アートならではのジレンマを抱えているのです。
ところで、このようにアートを「社会から自立した純粋な存在であるべき」とする考え方が広まったのは、1860年代のイギリスやフランスです。実は、アートは、はじめから浮世離れしていたわけではないのです。アートは、古代から中世、近世、近代にいたるまで宗教や道徳、政治に奉仕する、わかりやすく、かつ、美しい情報伝達の方法であり、マスメディア的な役割を担ってきました。聖書や神話の物語を伝えたり、君主の権威性を誇示したりする機能を持っていたのです。
そうした役割から解放されていくなかでも、アートは何らかの内容に従属する手段や方法として評価されてきたわけですが、こうしたアートのあり方、位置付けを批判する立場として現れたのが、アートを「社会から自立した純粋な存在」と考える唯美主義、あるいは審美主義、芸術至上主義とも呼ばれる考え方です。
唯美主義の合言葉は「芸術のための芸術(L’art pour l’art)」。この考えを信奉する人たちは、アートを、宗教や道徳を伝え、社会をよくするなどといったなんらかの目的に奉仕するものではなくそれ自体のために行われるものであるべきで、美の追求以外のことなどはむしろすべきではない、と考えました。
例えば、1800年代に活躍した美術批評家で、大きな影響力を持っていたジョン・ラスキンは、「絵画だけでなくれっきとした芸術一般は、その技巧と制作上の苦行と特別な目的にも拘わらず、高尚で表現豊かな言語――思想の伝達手段としては計り知れないほど重要だが、それだけでは無いに等しい言語――である[1]」と、アートを「言語」のように、何かを伝えるための手段とみなした上でその内容を評価する伝統的な主流派の美術批評家でした。
そんなラスキンが厳しく批判したのが画家のホイッスラーです。ホイッスラーは唯美主義の代表的なアーティストとして知られています。技術力があり正確に現実を再現する絵画を高く評価しがちであったラスキンは、正確に描くことよりも絵画を通じてある光景の感情やムードを伝えることを優先するホイッスラーをそもそも批判的に見ていました。美術史において、このようにアーティストと美術批評家が対立することは少なくありませんが、彼らの対立は、美に関する問題が、法廷で争われた稀な事例となりました。
この裁判は、1878年にホイッスラーがラスキンを名誉毀損で訴えたものであり、1000ポンドの損害賠償を求めました。訴訟の発端は、ラスキンがホイッスラーの作品《黒と金のノクターン–落下する花火》について自身の批評雑誌で書いたことでした。ラスキンは、ホイッスラーの絵画について、「公衆の顔に絵の具の壺を投げつけたようなもの」、「教育を受けない芸術家のうぬぼれ」、「詐欺の領域に達している」、「未完成」などと酷評。これによって、すでにホイッスラーの作品を所持しているコレクターのなかには彼の作品を持っていることを恥ずかしく感じて手放した人もいました。そしてホイッスラーは経済的に窮地に追いやられ、裁判に踏み切ったのです。
確かに、ホイッスラーの作品はぼんやりとしていて、なにが描かれているかを正確に把握しにくいところはあります。しかし、ホイッスラーにとっては現実を再現することよりも色彩と形態による美を追求することのほうが重要。つまり、現実の世界は正確に再現されていなくても、ホイッスラーの意図は正確に表現されていた。つまり両者は、絵画に対する考え方に大きな違いがあったのです。
ジェームズ・マクニール・ホイッスラー – The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン
ちょっとかわいそうなホイッスラーですが、なりふりかまってもいられません。裁判でホイッスラーはラスキンの判断能力を批判し「絵画や芸術一般の価値を判断する資格があるのは、芸術の専門的な実践に生涯を費やした芸術家のみである」と主張します[2]。ここまでくると、かなり排他的な感じがしますが、このホイッスラーの考えに共感が集まっていきます。
例えば、唯美主義者であるエリザベス・イーストレイクはホイッスラーを批判したラスキンに対して「芸術は人に宗教や道徳を教えるためにあるのではない[3]」と反論しました。
同じく唯美主義者であったボードレールもアーティストが社会と関わること一般に対して否定的であり、芸術において教育はむしろ邪道だと考えていました。美術大学に勤めているわたしにとっては、存在否定のような言葉ですね(でも個人的にはこの考えも忘れてはならないと思っています)。
また、唯美主義者で詩人のゴーティエは「僕には韻のそろわない詩をつくるよりは破れ靴をひきずる方がこのましく、靴を買う金がなくても詩をつくらずにはいられない。そのうえ、足であるくよりも頭であるく方が上手なので、なにかのポストをめぐんでもらうために、役所から役所へ走りまわるのを仕事にしている、徳の高い共和主義者ほど靴を減らさないのだ」、「僕は、どちらか一方をすてろといわれれば、ばらよりもジャガイモをすてる」、「真に美しいものは、なんの役にもたてないものばかりだ。有用なものはみんなみにくい」などと述べました[4]。芸術に限らず、人生そのものをかけて美だけをひたすらに追求する――その際、「卑俗」な現実社会とは関わり合いになるなんて御免だ。ホイッスラーに続いた唯美主義者は、俗世間に対して潔癖とも言えるような決然とした意志で功利性も、道徳的な善も退けました。
この唯美主義にみなさんはどのような印象を持たれたでしょうか?もちろん共感できた人もいたでしょうし、当たり前でしょ、言うまでもなくアートってそういうものでしょ、今更なんなの?という人もいるかもしれません。さらにわたしが前回、アートは「わからない」「役に立たない」ものとして、この社会に存在していくことがその存在意義ではないか、と述べたことを思い出した人もいるでしょうか。
わたしは前回までにあらゆる面で「役に立つ」ことが至上の価値とされている現代の風潮に疑義を唱えてきました。その点では唯美主義者とも意見が重なるように聞こえるかもしれませんが、他方で、どうもこの唯美主義にも馴染めないところがあります。なぜなら唯美主義は、エリート主義的で、生活および生活者を軽視しているところがあるように思うからです。芸術家に、超人的で特別な才能を期待しすぎではないか?という気もします。日本的に言えば、「霞を食って生きる仙人」のような幻想が、アーティストに求められているかのようです。わたしの知っている同時代に生きるアーティストの多くは、日々の暮らしのなかでお金を工面しながら展覧会で作品を発表したり、生活のなかで感じたことを起点に制作したりしています。実際、現代アートの作品では政治や社会の課題と結びつくケースは増えており(この連載はそういう作品に注目していきます)、「芸術のための芸術」だけが支配的ではないのが現実です。もちろん「霞を食って生きる仙人」のようなアーティストもいるにはいますが、美術史を見ても、そういうアーティストはぶっちゃけ「実家が太い」といったことも往々にしてあるのです。
この唯美主義のちょっと高飛車で社会を見下した態度を「嫌な感じ」ととらえた人たちによって唯美主義は批判の対象となっていきました。この批判は、アートに寄せられたものではありますが、いま、現代アートをわからないと感じる多くの人が抱いている気持ちにも重なるところがあるように思います。
さて、なぜここまで唯美主義の話をしてきたのかというと、「芸術のための芸術」を信奉する唯美主義に大きな影響を与えたのが日本美術だったからです。浮世絵や日本の工芸品が19世紀後半にヨーロッパで流行したこと(ジャポニズム)をなんとなく知っている人もいると思いますが、この日本趣味はまさに唯美主義と結びついて流行したのでした。彼らは、日本美術の「西欧流の近代化を経ていない無垢さ」と説教くさくない「道徳性の欠如」をむしろ評価しました。これらの特徴が、彼らの目には「芸術のための芸術」と映ったのです。
現代でも「芸術のための芸術」という考え方が全く消えてなくなったというわけではありません。ジャポニズムとしてヨーロッパに受け入れられた日本の美術をはじめ、今も、広くアートには「無垢さ」や「政治性のなさ」を伴った美しさが変わらず求められているのではないでしょうか。展覧会の入場者数などを見れば、日本ではむしろその傾向が主流だと考えられるでしょう。教育などのさまざまな要因も影響していますが、素朴にアートを見ることを楽しむ観客と、芸術の自立性を信じて疑わないアート関係者によって「社会から自立した純粋な存在」というアート観が、長く保たれてきたとわたしは考えています。「芸術のための芸術のための言葉(難しい)」や「芸術のための芸術のための見せ方(不親切)」によって「芸術のための芸術のための楽しみ方(「心で味わう!」とかいって抽象的)」が喧伝されることにより、アートはどんどんわかりにくい、閉じたものとなってしまっているのです。
実際、アートは、アート業界で「だけ」理解することができるようなロジックを組み立て、たこつぼ化してきたところがあります(この「たこつぼ化」については、『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書)で書きました)。アートは閉じていて、新規参入者を受け入れないような雰囲気があり、それは、具体的な作品から(「わかる人にわかればいいんで」といったように)滲み出ている場合もあれば、アート業界人たちが美術史や美術批評の知識がない人をやんわりと見下すようなかたちでそういう空気が作られてきたとも言えます。ですから、社会的テーマを扱っていても、それがアートについての知識や問題意識を共有した人の間でしか流通しないし話題にならないことも多いのです。
これは、「半年ROMれ[5]」とか、あるいは「一見さんお断り」のように、既にできあがったコミュニティの風紀や環境を守るために講じられてきた策とその結果ではありますが、やはり新規参入者に対して排他的な態度であることには間違いありません。狭く限定的なインターネットコミュニティや、お座敷遊びの場であれば、このような新規参入者への厳しい態度が許され、適切に機能することもあるでしょうが、アートにおいては、近年これが裏目に出ているのではないか、と感じざるを得ません。
芸術を大切に思っているがゆえの排他的な態度と、「芸術のための芸術」をデフォルトのアートのあり方とする考え方によって、アートが社会とつながっているということは、どうも忘れられてしまいがちです。
それが近年の日本で顕在化したのが、「あいちトリエンナーレ2019」内の「表現の不自由点、その後」の展示の中止やトリエンナーレへの助成金をめぐって寄せられた世間の反応とその後の展開であり、あるいは2022年東京都人権プラザでの飯山由貴の企画展「あなたの本当の家を探しにいく」展の関連企画での映像作品《In-Mates》の上映の不許可などの事例の遠因だったのではないか、と、わたしは考えていますが、これについては、あとで詳しく書くこととします。
ところで、ここまで批判的に紹介してきた唯美主義ですが、完全に無視され、淘汰されるべきというわけでもありません。
まず、唯美主義の根っこにある「美の自立(自律)性」という考え方は大切です。唯美主義に先んじて「美の自立(自律)性」を唱えたのは哲学者のカントで、彼は、道徳的にはよくないものに対しても美を見出してもよい、と考えました。それに基づいて、唯美主義者たちは不完全なもの、醜いもの、退廃的なものなど、権力者が推進する道徳に適った「美」だけではなく、一見するといわゆる「美しい」とは違うのだけど「なんだか惹かれてしまうもの」、「なんだか心に響いてしまうもの」、「なんだか刺さってしまうもの」に美を認めました。つまり、美は多様で個人的なものとなったのです。この、「美の自立性」という考え方なくしては、おそらく現代美術の作品の多くが「美術(美の術)」とは認められないでしょう。
また、ドイツの文学者であるエックハルト・ヘフトリヒは、20世紀末に、改めて19世紀後半の唯美主義思想を振り返るにあたって、「ヒトラー時代の芸術は、民族主義芸術とも呼ばれた。この芸術は、芸術自体のためにつくられてはならず、民族に仕えるものでなければならなかった[6]」ことを強調しています。このことが示すのは、「芸術のための芸術」という考え方を否定しきった先に、最悪の権力者が牛耳る政治に芸術が奉仕させられてしまったという、苦い史実です。
ヒトラーが芸術家を目指していたことはよく知られていますが、彼が総統となってからは、彼のアートの趣味がドイツという国家の「美」として規定されていったのです。ナチス・ドイツは1937年に「退廃芸術展」と「大ドイツ美術展」を同時開催しました。「退廃芸術展」は、ナチス政権が「退廃的」とみなした現代美術の作品を集め、これらの芸術作品を嘲笑し、否定することで、国民に対してナチスの芸術政策を正当化することを目的としており、一方の「大ドイツ美術展」は、ナチスが理想とする古典主義的な作品を集め、あるべきドイツ芸術を称揚する目的で開催されました。「退廃芸術展」に展示された作品は、表現主義や、キュビスム、シュルレアリスムなどの前衛芸術が中心で、ナチスの理想とする芸術観に反するとされたものです。これらの作品は現在ではむしろ美術史においても高く評価されていますから、本展は企画者の意図とは完全に正反対の効果を持つことになりました。当時は多くの芸術家が迫害を受け、作品は没収・破壊されました。
なお、イアン・ダンロップが「フランス、イギリス、アメリカにも現代美術に反感をもつ人々はおり、彼はドイツの同類に劣らず現代美術に激しい反感をもっていたのだ。現代美術家は馬鹿なまねをやっていて才能もないし、大衆を誤った方向に導いていると信じていたのは、ひとりナチだけではなかった[7]」と指摘するように、前衛的な芸術作品が、そのほかのすべての国では好ましく受け入れられていたというわけではありません。この現代美術への不信感は、いまだに健在です。ちなみに、ナチスの考える「よいアート」を称揚し「わるいアート」を嘲笑するためのこの2つの展覧会でしたが、実はその評価基準は曖昧で、「退廃芸術展」と「大ドイツ美術展」のどちらにも選出されたアーティストもいました[8]。このように、時の政治や権力者にとっての都合のよいようにアートを分類しようとしても、そこからときどきはみ出してしまう、というのはアートのたくましさであり、底力でもあると感じます。
もちろん、日本も全く他人事ではありません。日本も戦中には多くのアーティストが戦争画を描くことを求められました。また、2024年に東京国立近代美術館で開催された展覧会「ハニワと土偶の近代」では、日本で出土したハニワや土偶に、「万世一系」の歴史が投影され、皇国史観や理想の「日本人」を作り上げるのに寄与したことが指摘されていました。
また、ドイツやアメリカを中心に現在進行している問題に目をやれば、イスラエルによるガザへの非人道的な攻撃に対して非難する声をあげたアーティストに「反ユダヤ主義」というレッテルが貼られ、発表の機会や、職が奪われたりする、ということが進んでいます(これについても、後に詳しく述べたいと思います)。
為政者や権力者の意思にそぐわないアートは淘汰されていき、他方で、アートが政治や宗教、社会に奉仕した事実とその結果を踏まえると、確かに唯美主義者たちの「芸術が何らかの目的を持つべきではない」という言葉は、(唯美主義者たちは予想も期待もしなかったことでしょうが)戒めとして重く響きます。「社会に仕える芸術」が誤った方向へ進み、暴力や破壊に加担してしまうのであれば、確かに、むしろ「芸術のための芸術」として潔く、社会的な役割は担わずにいるほうが安全かも、と考える人がいても無理はないでしょう。アートやアーティストが、社会から自立した(あるいは社会からズレた)存在でありたいと思ったり、そういう存在であることを世間が期待したりすることにも理があるかもしれません。
でも、もう少し俯瞰して見ればアートは、既存の表現や、社会通念に対する問題提起によって歴史を積み重ねてきたものである、とも言えます。「あれよりもこっちのほうがいい」、「こういう社会よりはこっちのほうがいい」。つまりアートは問いを立てる言論の空間でもあるのです。
わたしが改めて強調したいのは、言論の空間としてのアートが縮小してしまうことへの危惧です。
「芸術のための芸術」では、社会とアートが離れ排他的になってしまう一方で、「社会に奉仕する芸術」は、社会が誤った方向に進んだとき、暴力や支配に加担する危険性もありますし、その「社会」の考え方と反りが合わなければ、作品自体の存在が許されなくなることもあるでしょう。このように、芸術のあり方がどちらかに傾いていったとき、アートという言論の空間は、縮小して、ついには消えてしまったりするのではないか——と私は感じています。実際、消え始めている、とも感じています。そしてそれが「わかりにくく、役に立たないものたちの領域」をも縮小させることにもつながっていく。さらに、それはアートに限らず、社会全体、そして人間にも適応されうるかもしれない。
まとめると、昨今、社会の中でアートは「役に立たない」という観点から軽視されつつありますが、一方で「役に立たない」ということ、それ自体を主題にして発展し、独特の位置を築いてもきました。他方で、アートは社会の役に立つことを求められ、それに応えてきた歴史もありました。
ですから、次回以降は、この、「役に立つ」、「役に立たない」という軸のどちらの極にも属さない作品を紹介したいと思います。それは「わかりにくい」「役に立たない」と見なされ、軽視されがちな人々や存在に目を向けるきっかけとなる作品です。
コスパ主義が跋扈する現状のなかで、「わかりにくく役に立たないものたちの生」にアクセスするための手立てのひとつとして、あえて唯美主義者たちが憤慨しそうなこの言い方をしますが、アートを「活用」する。そのために、具体的な作品を通じて「芸術のための芸術」でも「社会に仕える芸術」でもなく、「役に立たないものの領域を守る芸術」という視点を提案します。もちろんその際、社会的に力を持つ人に仕えるのではないかたちで。こうした観点からアートを鑑賞することは、従来の「美しさ」とは異なる「美」を発見する行為であり、それこそが反差別のはじめの一歩になるはずです。