構造と役割:石川真生の写真について
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前回まではコスパ主義が席巻する現代において「わかりにくく、役に立たないものたちの生」に触れるためにアートを「活用」するという視点を提案してきました。では実際に、そうした視点で向き合うべき作品とは、どのようなものなのか。そこでまず取り上げたいのが、石川真生という写真家です。
1953年に沖縄県大宜味村に生まれた石川真生が写真をはじめるきっかけになったのは、1971年に当時交際していた東京出身の左翼の大学生とともに、米軍基地存続と自衛隊配備に反対する沖縄返還協定反対デモに参加したこと。デモ隊と機動隊との衝突のなかで、機動隊員が死亡する事件を目の当たりにして「なぜ沖縄人同士が争わなければならないのか」と感じて、表現をこころざし、写真の道を選び取りました。
そんな石川は、自身のことを「日本の写真家」とは決して名乗りません。これは彼女が自身を「沖縄の写真家」であると表明することで、北海道から九州まで、つまり沖縄列島以外の日本(沖縄では「ヤマト」や「内地」と呼ばれるため、本稿では「ヤマト」とします)と沖縄とのあいだにある摩擦を、強調するためです。
なお、ここで「摩擦」という言葉を使うと、対等な立場どうしの利害の衝突のようにも聞こえますが、実際には、そうではありません。東京を中心とした日本の枠組みのなかで、沖縄は周縁的で下位に置かれるという不平等な構造が存在してきたのであり、そのなかで沖縄の人々は、多くの犠牲を払いながら、さまざまな形で抵抗してきました。
戦前から、東京に中心を据える日本政府は、沖縄を日本の一部と位置づけつつも、必要とあらば切り捨てても構わないトカゲの尻尾のような存在と見なしてきたふしがあります。こうした沖縄の扱われ方が最も残酷なかたちで現れたのが、第二次世界大戦でした。
戦時中、日本国内で死者数が極端に多かったのは、東京(約10万人)・広島(約14万人)・長崎(約7万人)・沖縄(約9万人)の4地域でした。東京は空襲、広島・長崎は原爆、そして沖縄は地上戦によって多くの一般市民がけがを負い、命を落としました。なかでも沖縄が東京や広島・長崎と異なるのは、日本軍が沖縄を、そこに暮らす人も含めて「本土防衛の捨て石」とし、上陸した米軍をできる限り食い止めるための拠点としたことです。地上戦では、一部の日本兵が一般市民に自決を強いるなど、兵士が市民を守る役割を果たさなかったことも語り継がれています。
戦後、沖縄は米軍の占領下を経て1972年に日本へ「復帰」しました。しかし、現在にいたるまで、日本全体の米軍専用施設の約7割が沖縄に集中しています。米兵による性暴力や、米軍が所有する兵器に関連する事件・事故も後をたたず、沖縄県は日米両政府に対して基地の縮小など負担の軽減を求めてきました。しかし、日本政府は「粛々と」という言葉を使って、沖縄県の同意がないままに、米軍基地の移設を強行しています。
石川真生が「日本人の写真家」ではなく、「沖縄人の写真家」であると強調する背景にはこのような日本(ヤマト)と沖縄の間に積み上げられてきた構造的な暴力があるのです。
一方、ヤマトに暮らす多くの人々にとって、沖縄は美しい海と温暖な気候、ゆったりとした時間の流れ、そして方言を話すおだやかな現地の住民が癒しを与えてくれる、リゾート地と捉えられています。そしてこれは、ヤマトの写真家たちにとっても同じだったと見ることができるでしょう。
沖縄を撮影の対象としたヤマトの写真家には、たとえば木村伊兵衛や東松照明、中平卓馬などがいます。彼らはその風土に魅了されて日本の写真史において重要とされる作品を残しました。彼らは沖縄がかつて戦地となり、政治的な闘争の場となったことにも関心を抱いていました。たとえば、東松は写真集『沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある』(1969年)を刊行していますし、中平も沖縄における政治運動に強い関心を寄せました。
けれども、彼らの撮った写真においては、ヤマトと沖縄のあいだにある「摩擦」と「抵抗」は後景化されており、良くも悪くも、外からやってきた旅行者の視点による「辺境の南の島の光景」としての沖縄を写し出しています。
もちろん、写真の歴史においては、ある場所やコミュニティの外部からやってきた写真家が、その土地に暮らす人々や日常を、時に冷静に、時に皮肉をこめて撮影し、それが鑑賞者にとって世界の広さや複雑さを伝える「窓」として機能してきたという側面があります。カメラは、いわば別の社会への図々しい介入の免罪符となる装置です。結果として良い写真が発表されれば、「侵入」や「入植」とは見なされることはありませんが、常に「撮られる」側であった沖縄の人間として、「写真家」という職業が覆い隠す収奪に、石川ははっきりと目を向けてきたのです。
以前、わたしが聞き手をつとめたインタビュー[1]の際にも、石川はWORKSHOP写真学校[2]で東松照明が沖縄と周辺の島々を撮影した『太陽の鉛筆』(1975年)のゲラを見たときの感想として、「沖縄が写ってるんだけど、「どうってことないじゃん、普通じゃんこれ」と思った。馬鹿じゃないかと思った[3]」と語っています。曰く、「東松照明の沖縄の写真は私にとっては綺麗すぎる[4]」。
対して、石川が師と仰ぐのは、沖縄出身の写真家・平敷兼七です。写真集『山羊の肺』(2007年)などで知られる平敷は、あるときは豊かで繊細なトーンを使い、またあるときはハイコントラストで力強いプリントを用いるなど、技術的にも非常に高い評価を受けている写真家です。彼は沖縄人として、沖縄の人々の暮らしの厳しさや、夜の街で働く女性たち、そして失われた命にもカメラを向けてきました。そこに写っているのは、リゾートとしての沖縄でも、政治闘争の舞台としての沖縄でもなく、生と性と死がうごめく、むき出しの沖縄でした。
平敷と石川に共通するのは、自分の足で沖縄を歩き、そうして出会った人々と長い付き合いを続けていく姿勢です。そのような関係性を築けるのは、やはり対等な「沖縄人」として関わっているからこそだといえます。だからこそ石川は、「私は『沖縄の写真は沖縄の写真家が撮るんだ』って威張っているわけ[5]」と語ります。締め切りのある仕事のために短期間だけ沖縄を訪れ、現地の人に案内を頼み、写真を撮ってすぐに本土へ戻っていくような写真家たちに対して、石川は同じ写真家としての立場からも、不信感を露わにしているのです。
ここで注目したいのは、石川が「沖縄の写真は沖縄の写真家が撮るんだ」と断言するのではなく、「威張っているわけ」と、あえて自分に対して批判的な言い回しを使っていることです。「威張っている」という言葉は、もちろん他者を非難するときに使う表現ですが、彼女はそれを自分自身に向けて使っています。
このように、石川は、ふと、自分の言動や立場に対してどこか自己批判的な距離感をとることがあります。
石川のこのような態度は、内通者でありながら時々冷徹さを持って対象をとらえているという点で、キャリア初期の写真から一貫して見ることができます。1982年に発表された『熱き日々 in キャンプハンセン!!』は、米軍基地のそばにある夜の街で働く女性たちと、そこに出入りするアフリカ系の米軍兵士たちを撮影したシリーズです。この作品は、2016年に写真集『赤花 アカバナー, 沖縄の女』として再編集・刊行され、再び注目を集めました。石川が「米兵を撮るために街に入ったのに、次第にホステス仲間の女性たちを撮るほうがおもしろくなってきた」と語るように、そこにおさめられた多数の写真のなかでも特に印象に残るのは、感情も身体もあらわにして、たくましく愛に生きる女性たちの姿です。
本作は、沖縄が日本に「復帰」して間も無い頃、20代の石川によって撮影されました。基地の存在は文化的にも経済的にも沖縄に大きな影響を与えており、アメリカの人種差別の意識さえも沖縄に移植されたのです。そこでは、構造的な差別がいくつも折り重なり、日本(ヤマト)と沖縄、アメリカと日本、白人と黒人、そして男と女…というように、あらゆる属性の間に心理的かつ物理的な境界線が引かれました。例えば、米兵が訪れる夜の街はそれを象徴した空間となり、「白人専用バー」と「黒人専用バー」に分けられました。
こうした構造や、テレビドラマ『ルーツ』を通して黒人奴隷の歴史を知った石川は、「沖縄の歴史と黒人の歴史には通じる部分があると思った。沖縄とヤマト、黒人と白人というように」と語っています。写真集『赤花』に石川が寄せたエッセイにも、黒人の米兵との恋愛を謳歌する彼女たち「沖縄の女」の意思と、彼女たちへの想いが吐露されています。
「黒人を愛して何が悪い、黒人バーで働いて何が悪い、自由を謳歌して何が悪い。セックスを楽しんで何が悪い」。狭い沖縄で開き直って生きている街の女たちが私は好きだ[6]。
この言葉からは、夜の街で働いているというだけでなく、加えて、黒人米兵を相手に仕事をしてきた女性たちが、特に、沖縄の社会のなかで、そして、ヤマトの女性と比較しても、下位および周縁に位置付けられ、軽視および蔑視されてきたことが読み取れます。石川はこうした構造的な抑圧と受ける女性たちの姿を悲観的に写しとるのではなく、子どものように遊び、笑い転げる無邪気で自由な存在として提示してきました。
「婚姻届受理証明書」を手にする女性と黒人の夫と、その子どもの姿を写した写真が示すように、現在でも、沖縄は国際結婚の比率が日本全国で最も高い県となっています。それに伴って、沖縄はミックスルーツの子どもたちが全国のなかでも多く、その子どもたちはかつて「混血児」と呼ばれました。現在では「ハーフ」と呼ばれますが、今でも、彼らは差別的な取り扱いやマイクロアグレッションにさらされることが少なくありません。これらの呼称には、「単一民族国家」を自称しがちな日本特有の「人種」意識や排他性が反映されていると言えるでしょう。
石川は「私は(米軍基地の)反対運動をしている人たちにバッシングされるけど、私は米兵一人ひとりを愛しているんだと。だけど米軍は嫌いだと言っている。黒か白かと人間決められるのかと[7]」とも述べています。石川のこの姿勢は常に一貫していて、役割や肩書きで人を見るのではなく、目の前の人、一人ひとりに向き合うこと、対話することの重要性についてしばしば言及しています。それを示すように、石川のいくつかの作品では、そこに写る人が役割や肩書きをおろした瞬間が印象的にとらえられています。
例えば、「沖縄芝居――仲田幸子一行物語」は、ウチナーグチで演じる沖縄芝居の俳優で「劇団でいご」の座長であった仲田幸子とその一行を撮影したシリーズ。この作品の背景には、失われつつあったウチナーグチを用いた芝居を写真として残しておく写真家の使命感のようなものがあったのかもしれません。しかしながら作品を見ると、芝居の光景はそう多くありません。その代わりに、舞台裏や稽古中の役者たちを見ればそのどれもこれも、役から降りた状態だとその表情から一眼でわかるような、生身の人間としての役者をとらえています。同時に本作では、役者と観客という芝居における役割に縛られず、より自由に振る舞う子どもの姿にも目がいきます。子どもたちは子どもらしい無邪気さを示すというよりは、むしろ大人びた表情で、大人たちをじっと見つめているのです。
続いて制作された〈沖縄芝居――名優たち〉は、舞台用の衣装を着て、ヘアメイクをした俳優たちを石川の作品のなかでは珍しくスタジオで撮影した作品です。ここでもまた、完全に役に入っている状態ではなく、やはりそれを演じる役者の素の表情が透けて見えてきます。
同時期に撮影されていた〈港町エレジー〉をめぐっても、石川は「そこには芝居以上の芝居があった[8]」といいます。
私は人を撮るとき、誰にでもプライドがあるからそれを傷つけないように、ちゃんと相手をリスペクトして、撮っているんだけど、ふと、私はひょっとしたらこのおっさんたちを舐めて見ているときがあったかもしれない。ひとりのおっさんが酔っ払っているときに、ピッと真顔になって、「俺たちにも人生があるんだよ」というセリフを言ったからさ。ドキッ!とした。それから再び襟を正して、ちゃんとこの人たちを尊敬してきっちりと見て撮らないと、と思ったわけ[9]。
〈港町エレジー〉は1983〜86年に那覇の港町で撮影されました。社会の片隅で働き酒を交わす漁師や港湾労働者たちや失業者たちが酒を飲み、働き、ケンカに明け暮れていたといいます。モノクロで撮影された写真に写る明るい「おっさん」たちですが、その姿や表情からは、どこか苦労の影を背負っているような印象を受けます。その印象を引き立てるのは、石川のプリントの技術に加え、彼女が「おっさん」たちの姿を彼らが出入りする「ヤーグヮー(ウチナーグチで「小さな家」を意味するのだそう)」と共にとらえているからでしょう[10]。
本作の撮影を振り返る石川の語りから読み取れるのは、日々集まればおどけて酒を飲んでいた「おっさん」たちが、「おどけて酒を飲むおっさん」の役をおろしたその一瞬に走った緊張の衝撃です。このエピソードは、自分の視点が相手を一方的に「わかった」と思い込んでいないかを問い直します。「わかる」、「わかった」とは言わず、「わかった気になっている」自覚を持ちながらも理解を示すことで、より誠実に他者に向き合おうとする態度が、彼女の語りのなかから感じられます。
そしてこの語りからは、同時に普段は熱く明るく、パワフルに語る石川が、カメラを手に持ったときにふっと冷めたような様子になり、相手とのあいだに距離をとってシャッターを押す彼女の写真家としての冷徹さも想像させます。
わたしは、彼女が写真家として特に惹かれていたのは、生きるための何らかの嘘や演技や肩書きや使命を全うする人が、それを降ろした一瞬に垣間見える表情と、その語りが作り出す緊張感ではないかと考えています。
石川の写真にはユーモラスなものも多くありますが、実際には、目には見えない緊張感を可視化している写真でもあり、私たち鑑賞者の心を「ドキッ!」とさせるのでしょう。そうした一瞬の緊張をとらえる芸術こそが写真であり、だからこそ彼女の表現手段として写真が最も適していたのではないかと考えられます。
その後に発表された〈日の丸を視る目〉や〈森花―夢の世界〉などの作品では、石川の写真はむしろ、被写体となる人々が自由に役割を演じ、声をあげることができる場へと変わっていきます。〈大琉球写真絵巻〉といった大作でも、プラカードや横断幕、旗などが登場し、写っている人物やその物語がはっきりとした言葉で主張を示します。
これらの「創作写真」は、前述のシリーズのような緊張感よりも、皮肉なユーモアや演技が主題となっていますが、そこにケラケラと笑っているうちに「でもこれが現実なのだ」と、沖縄をめぐる深刻な状況を思い知らされる作品となっています。
沖縄には、声をあげないと守られない生活や権利、そして命そのものがあるという、のっぴきならない状況があり、沖縄の人々は命を守るためにその声をずっとあげ続けてきました。ヤマトのわたしたちは果たしてそれに耳を塞いでいなかったか。沖縄のなかでも、米軍基地があることによって生計を立てている人や、地元から自衛隊に入隊した人など、さまざまな立場や意見の対立があり、時に沖縄が二分されるようなことも生じています。中には、口をつぐんでしまう人もいるといいます。石川はそうした抑圧や対立を超えて一人ひとりに向き合ってきましたが、そうした対立の火種を沖縄に植え付けているのは、常にヤマトの側ではなかったでしょうか。
石川は、2023年に東京での大規模な個展「石川真生——わたしになにができるか」(東京オペラシティアートギャラリー)を開催しました。東京ではこれがはじめての大規模な個展でしたが、そこに至るまでには、美術館や行政、主催者による自己検閲によって、開催が叶わなかった企画もあったといいます。近年、日本国内では芸術作品に対する、観客からの強い批判を忌避したいという意識に基づき、「政治的な作品」を見せにくい傾向がより高まっていることは、この連載でもすでに述べてきました。
そうしたなかでようやく開催された本展は、土門拳賞や文部科学大臣賞を受賞。これは、いまだ男性中心主義的な日本の写真史において大きな快挙です。しかし、石川が「くれるのならもっと早くくれよと思った[11]」と述べる通り、彼女が、女性であり、沖縄人の写真家であるために、長らく周縁に位置付けられ十分な評価と注目を得られてこなかったのもまた事実です。石川真生がヤマトの中心たる東京で改めて立てた「わたしになにができるか」という問いを、私たち一人ひとりが緊張感とともに受け止め、「わたし」として引き受けることが求められているのではないかと思います。