バッカスと踊れば
遺品の梅酒、バーで出会う知らない酒瓶、飲み慣れたお酒と気の置けない友人たち。どんな日でも、どんな時でも、お酒があれば気持ちはほどけて、ちょっぴりいい日。失われてしまったもの、欠けているものたちを見つめたエッセイ集『永遠なるものたち』の著者である姫乃たまが新たに紡ぐ酒にまつわるエッセイ連載。
第4回

東京の雪とホット・バタード・ラム

2026.03.23
バッカスと踊れば
姫乃たま
  • 東京は雪。昼過ぎに目を覚ますと、詩吟の先生から「今夜のお稽古は日を改めましょう」と連絡が入っていました。それからすぐ北海道にいる夫から連絡があって、飛行機が欠航になって今日は帰って来られないと言います。どうやらすごい雪みたい。今日はいきなりひとりぼっち。

    とりあえず近所の喫茶店まで原稿を書きに行くことにしました。表に出ると庭はすべて真っ白になっていて、木の葉っぱにはあと一粒でも雪が舞い降りてきたら崩れてしまいそうなほど、もさっと分厚く雪が積もっています。

    喫茶店は貸切状態でした。私に珈琲を運び終えると、店員さんは手持ち無沙汰になって退屈そう。

    しばらく文章を書くのに集中していて、ふと顔を上げると、店員さんが店内の掃除を始めていました。あまりにお客さんが来ないので、ここぞとばかりに真剣にモップをかけていて、次第にそれは大掃除へと発展し、キッチンからも店員さんが出てきて三人がかりで脚立を使って天井の業務用エアコンを磨きはじめました。

    非日常感がある光景で少し面白かったけれど、なんだか私だけ取り残されているようで、ぽつんとした気持ちにもなりました。

    気分転換で駅前の本屋さんに行こうと思い立ってすぐ、先月末で閉店していたことを思い出して、本当にさみしくなってしまったけれど、こういう時こそ私にはお酒があります。

     

    阿佐ヶ谷で15時から営業しているバーAfter the danceの扉を開けると、いつもは賑わっている店内ですが、さすがにお客さんがいませんでした。みんな雪で家にこもっているのでしょう。

    座り心地の良いスツールに腰掛けると、それだけで心細かった気持ちが少し落ち着きます。

    棚に並んでいるボトルをマスター越しに眺めながら何を飲もうか悩んでいたら、マスターがホットウイスキーを提案してくれました。

    ホットウイスキー!

    その言葉を聞くまでホットウイスキーのことなんて思いついていなかったのに、ずっとそれが飲みたかったのだという気持ちになりました。

    マスターがお湯を沸かす音を聞きながら、大きな窓ガラスから見える雪の路地を眺めていました。花びらのような大きな雪がまだ降り続いています。

    ボウモアで作られたホットウイスキーはまずグラスを包んだ私の両手を温めて、胸のあたりから全身を安心させてくれました。ちらちらゆらめく焚き火を眺めるような気持ちで、マスターと空から降ってくる雪を窓越しに眺めます。雪見酒ができるなんて、贅沢な昼下がりです。

    二杯目はホット・バタード・ラムを丁寧につくってくれました。

    分厚いガラス製のマグカップの中でリキュールに火をつけると、青い炎がめらめらと燃えます。

    普段あまりハイボール以外のカクテルを飲まないので、手の込んだカクテルが流れるような手つきで作られるのを見て、生まれて初めてマジックを見た時のことは覚えていないけれど、きっとその時のような気持ちになりました。それにすごくいい香り。

    ひとりで心細かった気持ちがホット・バタード・ラムに吸い込まれていきます。

    さあ、うちに帰って原稿の続きを書こう。

    そう言って店を後にしたはずが、真っ白な帰り道の途中で浮かれた気分になって、つい別のバーへ吸い込まれてしまいました。

    それから何軒かハシゴしたどこのお店にもお客さんの姿はなくて、そして何軒目かのお店で飲んでいる途中に大きな雷が鳴りました。店の扉が一瞬強く光って、びっくりしてお店の人と外に飛び出して空を見上げたけれど、何事もなかったかのように雪のちらつく夜空が広がっていました。気づけばもう日付も変わりそうです。

    ふとまたAfter the danceで飲みたくなって、原稿を書くと言って店を出たのに恥ずかしいなと思いながら、おずおずと日中にも開けた扉を開けました。

    「どこかで飲んできましたね」

    全てお見通しのマスターが少し笑って、また席に案内してくれました。どうしてなんでもわかってしまうのでしょう。

    なんと私が席に座ると終電の時間を過ぎているのに店内は満席に。雪の日こそバーで飲みたいという酒飲みたちが集まって賑わっていました。

    マスターがカクテルを作る合間に選曲して流してくれるレコードを聴きながら、席の近いお客さんたちと自然と音楽や酒の話で盛り上がり、ひとりぼっちだったお昼はいつの間にやら遠い昔のようです。

    雪は降り続いているけれど店内は暖かくて、窓で結露の水滴が追いかけっこしていました。

遺品の梅酒、バーで出会う知らない酒瓶、飲み慣れたお酒と気の置けない友人たち。どんな日でも、どんな時でも、お酒があれば気持ちはほどけて、ちょっぴりいい日。失われてしまったもの、欠けているものたちを見つめたエッセイ集『永遠なるものたち』の著者である姫乃たまが新たに紡ぐ酒にまつわるエッセイ連載。
バッカスと踊れば
姫乃たま
姫乃たま(ひめの・たま)

1993年、東京都生まれ。10年間の地下アイドル活動を経て、2019年にメジャーデビュー。2015年、現役地下アイドルとして地下アイドルの生態をまとめた『潜行~地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー社)を出版。以降、ライブイベントへの出演を中心に文筆業を営んでいる。音楽活動では作詞と歌唱を手がけており、主な音楽作品に『パノラマ街道まっしぐら』『僕とジョルジュ』、著書に『永遠なるものたち』(晶文社)『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)などがある。