第12回 アワヨンベは大丈夫

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

2週間ほど前、週末の休みにどこかへ出かけようと思い立ち、いろいろと調べていると、代々木公園で「アフリカヘリテイジフェスティバル」が開催されるという告知文が目に入った。竹下通りにいる「彼ら」と関係があるのかは分からないが、あの近辺には、アフリカの人々のコミュニティのようなものがあるのだろうかと考える。

今年の4月あたり、代々木公園に花見に行ったときも、公園内の少し離れたエリアにはそれらしき人たちが集まっていた。彼らが着ていた鮮やかな服は、遠い昔、私のためにパパがセネガルから持ち帰ってきたそれによく似ていた。セネガルの人たちかもしれない。私はその中の誰かと話をしたくなり、少し遠くで立ち止まって、5分ほど彼らのほうを見つめていた。大人たちが輪になって、音楽を流しながら楽しげに体を揺らし、その足元を、ちいさい頃の私によく似た子供たちが駆け回っている。ベンチに座っていた男たちが、長いあいだ立ち尽くしている私に気づいて、さっきまで交わしていた大声を潜めてコソコソと話をしはじめた。私はわざとらしくそっぽを向きながら「Hey, where are you from?」と呼び掛けられるのを待った。それから「シスタ、君もこっちへおいでよ」と誘われるのに期待した。しかし、彼らは私を見て訝しげな表情で数秒なにかを話した後、なんでもなかったようにまた元の会話に戻っていった。私はいつも通り、ストレートに伸ばした髪をおろして、暗い色のシンプルな服を着ていたから、同郷かどうか判断するには微妙なところだったのだろう。そもそも、国が同じだとしても、急に招き入れてくれるほうがおかしい。自分から話しかける勇気もなく、私は名残惜しげに何度も振り返りながらその場を離れた。

先月は、阿佐ヶ谷でアフリカンファッションショーがあると聞きつけて見物に行った。モデルを募集していると聞いて参加したいと申し出たが、事務所に所属していたため断られてしまった。ランウェイをはじめて歩くであろう人々が、緊張しながらも楽しそうに赤いじゅうたんの上を歩いているのを、私は少し離れた場所から眺める。背の高くて若い、セネガル人のモデルもいた。私のことを見つけた主宰者の女性が声を掛けてくれたが、気恥ずかしさで上手く話すことができず、私はショーがおわると同時にそそくさと立ち去った。

15年ほど前、パパに連れられて横浜のアフリカンフェスタに行ったことがある。赤レンガの前の大きな広場にいくつものテントが立っていて、アフリカのそれぞれの国がアクセサリーや料理を出していた。パパはセネガルのブースに私を連れて行って、仲間たちに会わせてくれた。みんな大きな手で勢いのある握手を求めてきて「元気?」と何度も私に聞く。私は小さな声で「うん」と言うか、なにも言わずにはにかんだまま首を縦に振るのを繰り返していたと思う。左手で握手をしようとしたら「握手は、右手。左手はダメ」と言われて、私は恥ずかしくなって小さくなった。きっと、彼らのなかには私がまだ知らない決まりごとがたくさんあって、なにも知らない私は、そのうちなにかとんでもないことをして、こっぴどく叱られてしまうのではないか。そのうえパパが仲間たちから「どういうしつけをしているんだ」と責め立てられたりしたらと思うと恐ろしい。早く帰りたい。パパが仲間たちと話しているあいだ、私はセネガルのブースから離れて、目的もなくテントの隙間をさまよい続けた。セネガルのブースが見えるとまた踵を返して反対側に向かい、テントの立っていない場所まで行きつくと今度は落ち着かなくなって、またテントの群れのなかに戻っていくのを繰り返した。結局、私は楽しそうに話す父を遠くに眺めながら立ち尽くして、せわしないジャンベの音と歌声が響く広場で時が過ぎるのをジッと待っていた。

15年前も今も、私はなにも変わっていない。彼らとの関わりかたがわからないくせに、楽しそうにしている彼らを指をくわえて遠くから眺めている。日本人として扱われないことに孤独を感じて、自分の中からパパの文化、あげくにパパそのものさえも追い払って好き勝手に10年ほど過ごしてきたというのに、今になってヒップホップやファンクを聞きはじめたり「アフリカ」と名の付くイベントに顔を出してみたりと、自分でも何がしたいのかよくわからなくなっている。ネットに公開した「パパと私」が話題になってからはとくにそうだ。パパとの記憶を思い出して文章にしていくたび、私の中でほとんどいなくなったも同然だったパパの姿が、再び輪郭を帯びて私の近くへとやってくる。いや、私が近づいていっているというほうが正しい。私は一体、なにを望んでいるのだろう。

デビュー作が刊行されて、一応は「作家デビュー」ということになった。長年具体的な目的もなくフリーターをしていた私にとっては、少なからずもの変化と言えるのではないだろうか。出版社からの取材、友人、お世話になっている人たち、みんな決まって「ご家族は喜んでいるでしょう?」と聞く。私は決まって「とくに」と返事をする。母は口に出さないだけで内心はそうなのかもしれないが、一緒に暮らしている祖父母には、本当に変化がないように見えているのだと思う。派手にテレビに出ているわけでもないし、今のところ派手に収入が上がったわけでもない。学校で読み書きの勉強の機会に恵まれなかった祖母の娯楽はもっぱらテレビだ。最近は、もともと不自由だった耳もさらに遠くなり、テレビドラマもほとんど雰囲気だけで楽しんでいる様子。渡した拙著は数ページ読まれただけでテレビの横に置かれていた。祖母は、私が出かけるときにはいつも「仕事? 遊び?」と聞く。だいたい2日続けて「遊び」と答えると「最近遊んでばっかりね」と言われる。付き合いとか、仕事とも遊びとも言えないようなことがあるので、意味もなくのんべんだらりと遊び回っていると思われるのは心外だ。祖母には相変わらずボーっと生きているようにしか見えないかもしれないが、私だってそれなりに需要を獲得して、毎日奮闘しているのだ。私は狩ってきた敵の首を掲げるように、仕事で頂いた菓子折りを祖母に渡す。「私はでっかい会社からうやうやしいお菓子を貰える立場になったのだ」と、祖母に示す方法はこれしかない。

ある日、上等なきんつばを頂いた。帰っていつものように祖母に手渡すと、祖母は貰ったきんつばを指でつまんでネチネチとこねくり回しながら「これ高いのよね」と言った。貰ったものを値踏みするのは祖母の癖だ。悪気はないのだが、真っ先に物の価値が知りたいタチなのだ。こう言われたら、私はいつものように黙って商品名をグーグル検索するしかない。たしかにまあまあ高い。祖母はそれを聞いて「そうよ」と得意げになったあと、今度はきんつばの入っていた箱を持ち上げてまじまじと底を見た。それから「やっぱり、こういうのは賞味期限ギリギリになってから渡すのよね。しょうがないのよ、そう」と言った。

それは違う。きんつばはそもそも賞味期限が短い。決して、会社で余ったものを賞味期限間近に寄越してきたわけではない。これは出版社の大人が“私のために”買ってきたきんつばである。腹が立って、祖母が聞き取れるように大声で「そういうもんなんだよ」と言った。もともと声が低いので、大声を出すとどうしても怒ったような声になってしまう。実際怒っていたし、語気はいつも以上に強くなった。どうやら私は、普段大きな声を出さないせいで、大きな声を出すと、それを聞いた自分自身がびっくりして感情が高ぶってしまうらしい。苛立った勢いのまま「そういう風にゴチャゴチャ言うのやめなよ」と続けた。祖母はそれを聞いて頭にきたらしく「知らないからしょうがないだろ」「こういうの食べたことないんだから」と怒鳴った。そしてそれきり、ぶすっと黙りこくってしまった。祖母はずっとお金に苦労して生きてきた、親に捨てられ、奉公先で意地悪をされながら必死で生きてきたころの記憶が、祖母の性格に大きく関わっているのだろう。もっと言えば、祖母の時間はそこで止まってしまっているように私には見えることがあった。なにも欲しいと言わないし、どこにも行きたいと言わないし、なんど価値のあるものを渡しても「こんなのははじめて」と言う。私は何度も祖母に贈り物をしてきたつもりなのに。いくら望みを叶えようとしても、祖母の顔はいつまでも晴れない。決して「今は幸せだ」とは言ってくれないのだ。この人は、最期までこんなふうでいるのだろうか。私はいちどだっていいから「いい孫を持った。私は幸せだ」と言ってほしいのに。たかがきんつばで、居間の空気は最悪になり、私は食いかけのきんつばを握りしめてわざとらしく音を立てて自室に戻った。きんつばを床に叩きつけそうになったので、メンタルクリニックで処方された癇癪止めのシロップを飲んだ。想像していたよりずっと苦くて涙が出た。怒りは水を掛けられたようにサッと消えて、悲しみだけがボロボロとこぼれだす。泣きながらきんつばをむさぼるように食べた。私はどうしてこんなに取り乱しているんだろう。べつに、本人がそれでいならいいじゃないか。

私は祖母に、家族になにを望んでいるのか。私はただ一緒に「美味しいね」と話したかった。それから「こんな美味しいものを用意してもらえるアワはすごいね」と言ってほしかった。そう、アワはすごいって言ってほしかった。私はただ、褒められたかった。私の家族は褒める言葉を持たない。褒める代わりに、鼻で笑ったり、他人の前でくさしてバランスを取る。家族のなかで、唯一私をまっすぐに褒めてくれていたのは、パパだけだった。

私はこのことに、今になってようやく気がついた。私が何かするたび「アワヨンベ! すごい!」と小さな私を肩車をして踊ってくれたのはパパだけだった。「アワはもっとすごくなる。頭がもっと良くなって、偉くなる」と、パパはいつも私を抱きかかえて言い聞かせてくれていた。今日この日まで蓄えておけるだけのたくさんの水を、私はあの日々の中で与えられていた。だから長い日照りも耐えることができる。私は大丈夫だと、すこしだけ信じることができる。私は今、パパに会いたい。あちこちに出向いてはパパの姿を探している。もしかしたらいるかもしれない。パパのことを知っている人がいるかもしれない。本当にいたら一目散に逃げだすくせに。会いたいなら、すぐ近くの家に行けばいいのに。私は遠い場所の人ごみの中にパパを探しに行く。「俺の娘はすごいんだ」と、きっとパパなら言ってくれる。そう思うと、私はまたしばらく大丈夫でいられる気がするのだ。車の後部座席に乗って家を出ると、前からパパが歩いてきた。パパが車に気づいて、運転席の祖父に会釈をする。私は座席の下に潜って、ジッと息を潜めていた。

夜、歌舞伎町を歩いていると、前に背の高い黒人の男が立っていた。この辺りのにこやかに話しかけてくる他の黒人たちと違い、彼は鋭い目で真っ直ぐ前を見つめていた。彼は右側から歩いてきた私にちらと目をやってまた目線を戻し、そのまま私のほうに手を差し出した。私も手を差し出して、握手をした。どうせそのまま引き寄せられてナンパされると思っていたが、彼は何も言わないまま、手をすっと放して私を自由にしてくれた。大丈夫、と言ってもらえたような気がして、私はまた少し泣いた。

 

(本連載に書き下ろしを加え、年内に書籍化を予定しています。どうかご期待ください)

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。

第11回 モンスター

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

いつものようにエゴサーチをしていると、こんなようなポストを発見した。

「伊藤亜和?幼少期に虐めを受けていた!数年後、モンスターになるだろう?

モンスターになるだろう? 私の脳内に、コーラを携えたスギちゃんが現れ、「ワイルドだろう?」と同じ調子でそう言った。この人はいったい誰に問うているのか。虐めを受けた覚えもないし、まるで出来損ないの人工知能のような、これを読んで気分を害したり傷ついたりするにはあまりに馬鹿馬鹿しい投稿だ。しかし、モンスターになるという“予言”については、正直そうかもしれないと思った。数年を待たずして、私にはすでにモンスターの片鱗が見え始めている。

私はどこに行っても「おとなしい子」と評される子どもだったが、なにかをして叱られたり、勝負事で悔しい思いをすると、癇癪を起こして物を壊したり、いわゆる自傷行為にはしる子どもでもあった。いちばん最初の起爆剤は母が用意した家庭学習用の問題集だったと思う。私が問題を解く様子をつきっきりで見ていた母は、私の鉛筆が長い時間止まると、横から呆れたように「なんでこんなのもわからないの?」と言った。「どこがわからないの?」と聞かれても、何がわからないのかすらわからない。答えようもなく口をへの字に曲げ、傾げた首に涙が斜めに走って流れる感覚が蘇る。鼻水を啜る音だけの時間が続き、母が諦めて私のもとを離れると、私は答えと解説を見ながら、穴だらけの解答欄に赤ペンで答えを書いていく。算数の問題はとくに苦手で、解説を読んでも意味がわからないことがほとんどだった。意味のわからない数字や記号が混じった文章をそっくりそのまま書き写すという、このうえなく苦痛な作業。止まらない涙を垂れ流しにしながら、頭の中では誰かが「こんなこともできないお前は出来損ないだ」「お前は生きている価値がない」と言う。頭に熱い血が集まって視界が揺れる。

手に持っていた赤ペンを思いきり投げ、叫ぶ代わりに鉛筆で解答の上から何度も何度もバッテンを書く。紙が破れてグチャグチャになって、その下のスマイルマークが描かれた黄色いテーブルの表面を力任せに刺しまくり、それでも許されないような気がして、ちいさな拳で自分の頭をボコボコと殴った。そうしてやっとすっきりして、目の前の惨状を呆然と見つめる。私がこういう行動を取るのはいつもひとりのときだったし、ものを壊すとしても、冷静に私物を選んでやっていたので、誰も私が”そういう子”だということには気づいていなかったと思う。見てわかるところに傷があったりしたのなら話は違ったかもしれないが、その点私はタチが悪く、さっきのように頭を殴ったりどこかにぶつけたり、髪で隠れている首の部分や太ももの内側なんかを爪で引っ掻いたりして自分を罰していた。引っ掻いた部分がみみず腫れになってジンジンと痛むのを感じると、少し許してもらえたような気がして心が安らいだ。

誰にも止められたり心配されたりしなかったので、私はこの”癇癪ムーブ”を治すことができないまま成長していった。高校に馴染めない不甲斐なさで洗剤を飲んだり、大学の友達に叱られて、情けなさで居酒屋の隅で静かに根性焼きをしたり、奨学金の手続きがうまくいかず、頭にボールペンを刺して血だらけになったりした。頭から血が吹き出たときはさすがに冷静になり「こんなことはもうやめよう」と思ったが、結局追い詰められるとまた同じようなことをしてしまう。

母も父も、同じく癇癪を起こすタイプの人間だったが、私が彼らと違うところは攻撃対象が他者に向かないというところだった。母はキレるとペットボトルを投げつけてくるが、私はその場にペットボトルがあったら、迷わず自分の頭をしばく選択をする。私は父との喧嘩のときのように、先に攻撃を受けない限りは人に攻撃をしない。私がこれまで自分の癇癪をあまり深刻にとらえず、人に話すときも「オリンピックくらいの頻度でやっちゃう」と笑い話にできていたのはそのためである。癇癪が遺伝するのか、そういう科学的なことは知らないが、父も母も癇癪持ちなら、私がそうであるのは必然だと、どこかで諦めのような気持ちがあった。それに、ときどき自分でも引いてしまうような、そういう、狂気的に自罰的な部分、「絶対に自分を許さない」という自分に対する怨念のようなものが、自堕落な自分がなにかを成し遂げるためには必要だとも思っていた。

最近になって、ありがたいことに文章の仕事が増え、はじめての書籍が刊行されることになった。友人たちは私のデビューを自分のことのように喜んでくれて、なかばイジりの意味も含んで「先生」と呼んでくれている。ときどきモデル活動をしている謎のフリーターに突如作家という肩書きが加わり、私は人からの「なにをしている人?」という質問にさほどモジモジすることもなく、多少の自信を持って「作家みたいなやつです」と答えられるようになった。作家みたいなやつと名乗るようになって、私の心の中には「作家っぽく振る舞いたい」という、すこしエッヘンとした気持ちが芽生え始めた。振る舞いたいというか、私の中の作家っぽい性格が勝手に表に出はじめたような感覚だ。私にはちいさい頃から、環境や期待されていることに合わせて無意識にお芝居をしてしまう性質がある。人によって見せる振る舞いの振れ幅が大きいのだが、決してわざとやっているわけでも無理をしているわけでもない。全部自分自身だと言えるゆえに、自分の性格がどんなものかと聞かれても答えに困ってしまう。きっと、誰にでもそういうところはあるのだろうけれど、私は自分に“演出”をつけることで、なんともない日々を楽しんでいるように思う。だから、作家と言われれば、私の身体は作家っぽく振る舞おうとする。そして、それは逆に言えば、もともと持っていた癖の中で“作家らしい”ものがあれば、それをひた隠しにしなくなるということでもあった。読書経験の少ない私の安易な作家イメージは、気難しくて繊細で、人目もはばからず奇行をはたらくというような、現代にはもういないであろう昭和の文豪のようなものだった。私はほんの少しだけわがままになった。わがままと言っても嫌いなものを食べないとか、洋服を着せてもらうとか、お鍋をよそってもらうとか、その程度のプチお姫様的振る舞いにすぎない。十分に甘えられなかった長女の不足を「先生」という呼び声に甘えて補おうとしているだけなので、それは許してほしい。

問題は奇行のほうだ。生成された作家イメージと元来の癇癪持ちが相まって、私は感情の行き場をなくすとところかまわず自分の頭を殴ったり、駅のホームにおでこを打ち付けるようになってしまった。おそらくは、「作家なのだから」「人よりもクリエイティブなことをしているのだから」多少変な目で見られても大丈夫、という油断とも驕りとも言える意識が自制心の縄を緩めてしまっているのだ。こんな場面を知り合いが見たら、私がおかしくなってしまったと思うに違いない。だが、実際私は前からおかしかったのだ。私はブレーキが壊れていくのを感じながら、このまま放っておけば、いつか自分に向けていた刃を人に向けてしまうかもしれないと怖くなった。幼なじみの結婚式にリモートで参加した。ウェディングドレスを着て、幸せそうに笑っている彼女。その光景をラーメンを啜りながら眺め、私は考えた。私にもこんな日が来るのだろうか。こんな何をするか分からない女を、誰かが選んでくれるのだろうか。選んでもらったとしても、もしや私は自覚がないだけで、結婚したとたん夫にDVをはたらくような女に豹変するのではないのか。私も私の子どもに、ペットボトルを投げてしまうのではないか。これは呪いだ。なにかを失う前に、解かなければならない。

数日後、私は自宅から近い駅のメンタルクリニックの待合室にいた。以前から爆発を起こすたびに今度こそはと思っていたが、気持ちが収まるとけろっと忘れてしまうので、やっと今日はじめてここに足を踏み入れた。平日の昼間、問診票を書いて間もなくカウンセリングルームに呼ばれ、私はおそるおそる席に座る。カウンセリングをしてくれた先生はとても穏やかで優しく、私が過去の話をするたびに眉を下げながらうんうんと相槌を打ってくれた。父と母がどんな性格かという質問に対して、私は「父は人が離れていくような人。母は、人を寄せ付けないような人です」と答えた。我ながら言い得て妙だなと思った。イライラを抑える薬を処方してもらい、後日発達障害の検査も受けることになった。1週間ほど空けて受けた検査では、最初にいくつかの質問に答え、検査員の出すお手本通りにパズルを並べたりした。私の口はなぜか、いつもとは打って変わったような早口で、普段は出ないようなどもり方で言葉を詰まらせながら話した。頭のどこかで、冷静な自分が「もっと普通に話せるだろう」とヤジを飛ばしていたが、なぜか口はうまく動いてくれない。こんな無意識の演出も、なにかの病ではないかと思えてきて、ますます自分がわからない。

それでも、きっと検査の結果は嘘をつかないはずだ。なにもない部屋で人と向き合いながらパズルを組み立てる不思議な時間。私はまるで、自分が特殊な施設で育てられた天才エスパー少年になったような気分で、賢そうに顎を撫でながらそれを並べた。もちろん、私は天才エスパー少年ではないので、うまくできなくて考え込んだり、頭を抱えたり黙ったりしながら、やっと検査を終えたのだった。検査結果はまだわからない。私がモンスターにならないために、なにかひとつでも手がかりが欲しい。私はきっと、いつか新しい家族を作るだろう。私は何の変哲もない、穏やかで優しい家族を作りたい。処方された薬を飲むと、身体に合わなかったのか、頭痛の副作用が出てしまった。熱を帯びてぼんやりとした頭で考える。私はモンスターにはならない。優しい家族を作りたい、と。

(了)

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。