第11回 モンスター

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

いつものようにエゴサーチをしていると、こんなようなポストを発見した。

「伊藤亜和?幼少期に虐めを受けていた!数年後、モンスターになるだろう?

モンスターになるだろう? 私の脳内に、コーラを携えたスギちゃんが現れ、「ワイルドだろう?」と同じ調子でそう言った。この人はいったい誰に問うているのか。虐めを受けた覚えもないし、まるで出来損ないの人工知能のような、これを読んで気分を害したり傷ついたりするにはあまりに馬鹿馬鹿しい投稿だ。しかし、モンスターになるという“予言”については、正直そうかもしれないと思った。数年を待たずして、私にはすでにモンスターの片鱗が見え始めている。

私はどこに行っても「おとなしい子」と評される子どもだったが、なにかをして叱られたり、勝負事で悔しい思いをすると、癇癪を起こして物を壊したり、いわゆる自傷行為にはしる子どもでもあった。いちばん最初の起爆剤は母が用意した家庭学習用の問題集だったと思う。私が問題を解く様子をつきっきりで見ていた母は、私の鉛筆が長い時間止まると、横から呆れたように「なんでこんなのもわからないの?」と言った。「どこがわからないの?」と聞かれても、何がわからないのかすらわからない。答えようもなく口をへの字に曲げ、傾げた首に涙が斜めに走って流れる感覚が蘇る。鼻水を啜る音だけの時間が続き、母が諦めて私のもとを離れると、私は答えと解説を見ながら、穴だらけの解答欄に赤ペンで答えを書いていく。算数の問題はとくに苦手で、解説を読んでも意味がわからないことがほとんどだった。意味のわからない数字や記号が混じった文章をそっくりそのまま書き写すという、このうえなく苦痛な作業。止まらない涙を垂れ流しにしながら、頭の中では誰かが「こんなこともできないお前は出来損ないだ」「お前は生きている価値がない」と言う。頭に熱い血が集まって視界が揺れる。

手に持っていた赤ペンを思いきり投げ、叫ぶ代わりに鉛筆で解答の上から何度も何度もバッテンを書く。紙が破れてグチャグチャになって、その下のスマイルマークが描かれた黄色いテーブルの表面を力任せに刺しまくり、それでも許されないような気がして、ちいさな拳で自分の頭をボコボコと殴った。そうしてやっとすっきりして、目の前の惨状を呆然と見つめる。私がこういう行動を取るのはいつもひとりのときだったし、ものを壊すとしても、冷静に私物を選んでやっていたので、誰も私が”そういう子”だということには気づいていなかったと思う。見てわかるところに傷があったりしたのなら話は違ったかもしれないが、その点私はタチが悪く、さっきのように頭を殴ったりどこかにぶつけたり、髪で隠れている首の部分や太ももの内側なんかを爪で引っ掻いたりして自分を罰していた。引っ掻いた部分がみみず腫れになってジンジンと痛むのを感じると、少し許してもらえたような気がして心が安らいだ。

誰にも止められたり心配されたりしなかったので、私はこの”癇癪ムーブ”を治すことができないまま成長していった。高校に馴染めない不甲斐なさで洗剤を飲んだり、大学の友達に叱られて、情けなさで居酒屋の隅で静かに根性焼きをしたり、奨学金の手続きがうまくいかず、頭にボールペンを刺して血だらけになったりした。頭から血が吹き出たときはさすがに冷静になり「こんなことはもうやめよう」と思ったが、結局追い詰められるとまた同じようなことをしてしまう。

母も父も、同じく癇癪を起こすタイプの人間だったが、私が彼らと違うところは攻撃対象が他者に向かないというところだった。母はキレるとペットボトルを投げつけてくるが、私はその場にペットボトルがあったら、迷わず自分の頭をしばく選択をする。私は父との喧嘩のときのように、先に攻撃を受けない限りは人に攻撃をしない。私がこれまで自分の癇癪をあまり深刻にとらえず、人に話すときも「オリンピックくらいの頻度でやっちゃう」と笑い話にできていたのはそのためである。癇癪が遺伝するのか、そういう科学的なことは知らないが、父も母も癇癪持ちなら、私がそうであるのは必然だと、どこかで諦めのような気持ちがあった。それに、ときどき自分でも引いてしまうような、そういう、狂気的に自罰的な部分、「絶対に自分を許さない」という自分に対する怨念のようなものが、自堕落な自分がなにかを成し遂げるためには必要だとも思っていた。

最近になって、ありがたいことに文章の仕事が増え、はじめての書籍が刊行されることになった。友人たちは私のデビューを自分のことのように喜んでくれて、なかばイジりの意味も含んで「先生」と呼んでくれている。ときどきモデル活動をしている謎のフリーターに突如作家という肩書きが加わり、私は人からの「なにをしている人?」という質問にさほどモジモジすることもなく、多少の自信を持って「作家みたいなやつです」と答えられるようになった。作家みたいなやつと名乗るようになって、私の心の中には「作家っぽく振る舞いたい」という、すこしエッヘンとした気持ちが芽生え始めた。振る舞いたいというか、私の中の作家っぽい性格が勝手に表に出はじめたような感覚だ。私にはちいさい頃から、環境や期待されていることに合わせて無意識にお芝居をしてしまう性質がある。人によって見せる振る舞いの振れ幅が大きいのだが、決してわざとやっているわけでも無理をしているわけでもない。全部自分自身だと言えるゆえに、自分の性格がどんなものかと聞かれても答えに困ってしまう。きっと、誰にでもそういうところはあるのだろうけれど、私は自分に“演出”をつけることで、なんともない日々を楽しんでいるように思う。だから、作家と言われれば、私の身体は作家っぽく振る舞おうとする。そして、それは逆に言えば、もともと持っていた癖の中で“作家らしい”ものがあれば、それをひた隠しにしなくなるということでもあった。読書経験の少ない私の安易な作家イメージは、気難しくて繊細で、人目もはばからず奇行をはたらくというような、現代にはもういないであろう昭和の文豪のようなものだった。私はほんの少しだけわがままになった。わがままと言っても嫌いなものを食べないとか、洋服を着せてもらうとか、お鍋をよそってもらうとか、その程度のプチお姫様的振る舞いにすぎない。十分に甘えられなかった長女の不足を「先生」という呼び声に甘えて補おうとしているだけなので、それは許してほしい。

問題は奇行のほうだ。生成された作家イメージと元来の癇癪持ちが相まって、私は感情の行き場をなくすとところかまわず自分の頭を殴ったり、駅のホームにおでこを打ち付けるようになってしまった。おそらくは、「作家なのだから」「人よりもクリエイティブなことをしているのだから」多少変な目で見られても大丈夫、という油断とも驕りとも言える意識が自制心の縄を緩めてしまっているのだ。こんな場面を知り合いが見たら、私がおかしくなってしまったと思うに違いない。だが、実際私は前からおかしかったのだ。私はブレーキが壊れていくのを感じながら、このまま放っておけば、いつか自分に向けていた刃を人に向けてしまうかもしれないと怖くなった。幼なじみの結婚式にリモートで参加した。ウェディングドレスを着て、幸せそうに笑っている彼女。その光景をラーメンを啜りながら眺め、私は考えた。私にもこんな日が来るのだろうか。こんな何をするか分からない女を、誰かが選んでくれるのだろうか。選んでもらったとしても、もしや私は自覚がないだけで、結婚したとたん夫にDVをはたらくような女に豹変するのではないのか。私も私の子どもに、ペットボトルを投げてしまうのではないか。これは呪いだ。なにかを失う前に、解かなければならない。

数日後、私は自宅から近い駅のメンタルクリニックの待合室にいた。以前から爆発を起こすたびに今度こそはと思っていたが、気持ちが収まるとけろっと忘れてしまうので、やっと今日はじめてここに足を踏み入れた。平日の昼間、問診票を書いて間もなくカウンセリングルームに呼ばれ、私はおそるおそる席に座る。カウンセリングをしてくれた先生はとても穏やかで優しく、私が過去の話をするたびに眉を下げながらうんうんと相槌を打ってくれた。父と母がどんな性格かという質問に対して、私は「父は人が離れていくような人。母は、人を寄せ付けないような人です」と答えた。我ながら言い得て妙だなと思った。イライラを抑える薬を処方してもらい、後日発達障害の検査も受けることになった。1週間ほど空けて受けた検査では、最初にいくつかの質問に答え、検査員の出すお手本通りにパズルを並べたりした。私の口はなぜか、いつもとは打って変わったような早口で、普段は出ないようなどもり方で言葉を詰まらせながら話した。頭のどこかで、冷静な自分が「もっと普通に話せるだろう」とヤジを飛ばしていたが、なぜか口はうまく動いてくれない。こんな無意識の演出も、なにかの病ではないかと思えてきて、ますます自分がわからない。

それでも、きっと検査の結果は嘘をつかないはずだ。なにもない部屋で人と向き合いながらパズルを組み立てる不思議な時間。私はまるで、自分が特殊な施設で育てられた天才エスパー少年になったような気分で、賢そうに顎を撫でながらそれを並べた。もちろん、私は天才エスパー少年ではないので、うまくできなくて考え込んだり、頭を抱えたり黙ったりしながら、やっと検査を終えたのだった。検査結果はまだわからない。私がモンスターにならないために、なにかひとつでも手がかりが欲しい。私はきっと、いつか新しい家族を作るだろう。私は何の変哲もない、穏やかで優しい家族を作りたい。処方された薬を飲むと、身体に合わなかったのか、頭痛の副作用が出てしまった。熱を帯びてぼんやりとした頭で考える。私はモンスターにはならない。優しい家族を作りたい、と。

(了)

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。

第10回 ごきげんよう(後編)

日本人で文学好きの母と、瞬間湯沸かし器的にキレるセネガル人の父の間に生まれた亜和(愛称アワヨンベ)。祖父母、弟とさらにキャラの立つ家族に囲まれて、ときにさらされる世間の奇異の目にも負けず懸命に生きる毎日。そんなアワヨンベ一家の日常を綴るハートフルエッセイ。アワヨンベ、ほんとに大丈夫?

大学2年生になったばかりの春。私は五月病をこじらせて鬱状態になった。その前と後では世界の見え方があまりにも違っていたので、私は自分が何月何日におかしくなってしまったのか、今でも正確に答えることができる。

5月10日、朝目を覚ますと、毎日見ているはずの自室の天井が、まるで初めて訪れたビジネスホテルの天井のように、無機質で親しみのない光景になっていた。昨日までとはなにも変わっていないはずなのに、世界と私は突然透明な膜によって隔てられ、私は一切のものの手触りを感じることができなくなってしまった。私は普段、傍から見るとやたら周りを見回しながら歩いているらしい。毎日通る代わり映えのしない道を歩くときでさえ、私の挙動不審な様子を見た人からは「まるで迷子のようだ」と笑われる。鳩がトコトコと歩いていたり、風に乗ってビニール袋が飛んでいったり、散った花びらが渦をつくって踊っていたり、駅の壁の汚れが人の顔のように見えたり、そういうことから私は目が離せないのだ。そういう小さなことにいちいち感想を抱いて、人知れずニヤリとしたり、感傷的な気分になるのがいつもの私である。5月10日の私からは、その機能が明確に失われていた。なにを見ても心が動かなくなり、心が動かなくなったことに絶望して泣いてばかりいるようになった。家から抱えて部室に持ちこんだゲーム機で遊んでいるときも、楽しそうな後輩たちの真ん中で、私はコントローラーを握ったまま涙を浮かべていた。涙で視界がぼやけて、画面の向こうのコースが良く見えない。いつもぶっちぎりの一位だった私のキノピオは道を逸れて停止したまま、他のカートに次々と追い越されていく。楽しくも悔しくもない。それが悲しい。

カフカが言うところの「虫」のようにになった私は、虫になりながらも、なんとか大学に通い続けた。実際のところ大学に行っただけで、たいていは授業にも出られず汚い部室で寝込んでいたのだが、部室にいれば誰かが来て、弱音を聞いてくれたり、くだらない話をしてくれる。最初は「またバッケが変なことを言っている」とちゃかしていたサークルメンバーたちも、無表情のままボロボロと涙を流す私を見て「こりゃほんとに様子がおかしい」と、ほんの少し気にしてくれるようになった。過剰に心配するということでもなく、扱いづらくなった私を腫物のように扱うでもなく、ほとんどいつも通りにからかったり喫煙所に誘ったりしてくれた。彼らは気にしたうえで、気にしないようにしてくれたのだ。それは私にとって本当にありがたいことだった。私がふさぎ込んでしまったせいで、彼らが私への態度や言動を反省し、丁重なものに改めるというのは、私にとっては最悪の展開だった。私は人にやさしく接するのが苦手ゆえに、人にやさしくされるのも苦手だ。やさしくされると“やさしくされる用の私”が出てきてしまう。こいつは何の役にも立たないし、面白いことも言わないから嫌いだ。夏が本格的に始まるまでに、私の精神状態はゆっくりと膜が解けるように回復していったように思う。始まりははっきりとしているのに、終わりはいつだったかよくわからない。もしかしたら今も現実感は喪失したままなのかもしれないが、そうだとしても身体がそれに適応したのだろう。あれ以来、同じようなことは今日までない。私は運よく戻ってくることができたに過ぎないのだろう。

OB会の席に座りながら、私はそんなことを考えていた。席がなく、会場の後ろに突っ立っていたYが、私の背中が大きく開いたワンピースをからかう。

「バッケ、なんでそんなエロい服来てんの?」

「会費がタダになるかなと思って」

「お前なめんなよほんと」

私は心配だった。卒業から5年。彼らが5年間の社会生活でコンプライアンスという濁流にもまれ、一切濁りのない、洗いすぎた白米のような人間になってしまっているのではないかということが。もちろん、集団で働いていくうえでは、不快を感じる人間をひとりでも少なくするために振舞うことが大切だ。世の中にはさまざまな事情を抱えている人がいることを知り、それぞれが快適に過ごせるように自分を作り変える必要がある。それでも、その作り変えられた“正しい”人格で彼らが私に接するようなことがあれば、私は言いようのない寂しさを感じるに違いない。正しい世の中では、私はどうしても優しくされなければならない立場にある。女性であるとか、マイノリティであるとか、そういうのを盾にも矛にもしなくて良い場所というのは、そう見つかるものではないのだ。何の心配もない。相変わらず私たちのあいだには、温かいセクハラとパワハラと差別が横行している。長らくどこかに消えていた、図々しくて自意識の高いバッケという存在は、懐かしい暴言でたちまち息を吹き返した。

みんな行くだろうと高を括って参加の返事をした二次会には、私と、同じくなんとなく参加の返事をしてしまったKとJしか参加しないらしかった。「裏切りだ」と喚く我々3人を愉快そうに憐れみながら、YとSは後輩たちを引き連れて別の飲み屋へ消えて行った。私たちは二次会で先輩たちのありがたいお言葉を熱心に2時間ほど聞いたあと、先発隊と池袋で合流した。先発隊は安い居酒屋ですっかり出来上がっており、後輩たちに囲まれて上機嫌になったYの赤い顔とポマードで撫でつけられた髪が、照明に照らされてテカテカと光り輝いている。在学当時から団塊の世代のようなオヤジ臭さで満ち満ちていたYは、なんだかんだで後輩女子たちにも好かれている。リーダーシップがあり、なにより話が面白い。冗談か本気なのか分からない、時代と逆行する隔たった思想を雄弁に語る姿は、まさに演説を披露する三島由紀夫だった。みんながキャラクターとして彼を愛しているが、彼の思想を真に受けて影響される人間は誰もいない。

本人が憶えているかどうかはわからないが、Yと私はいちど大きな喧嘩をしたことがある。私たちのサークルでは週にいちど、学校の会議室を借りての定例会を行っていた。運営している文化祭でのミスコンテストが近づいていて、さまざまな準備に追われるなかでの定例会は、いつもとは打って変わってぴりついた空気が漂っていた。とくにぴりついていたのはスポンサー企業との窓口係を務めていたYである。私のようにお気楽にポスターなどの掲示物を作っていた班と違って、切実な金策に走らなければいけなかったYは誰に相談するでもなく、この世の全てを背負っているような深刻な顔をしていた。そんなに辛いなら他に仕事を分配すればいいのに。私はYの「お前らにはわかるまい」と言わんばかりの表情に苛立った。与えられた仕事はやっているし、そっちは具体的になにをやっているのか教えてもくれないじゃないか。そんな辛気臭い顔で睨まれても困る。私もむきになって、Yをおちょくるように、周囲とくだらない雑談をしてヘラヘラと笑っていた。怒りが頂点に達したらしいYが会議室の椅子をバンと蹴り上げ、扉を乱暴に開けて出て行った。事情も知らないメンバーに何の説明もなく八つ当たりするなんて何事だ。私はただ冷静にそう言えばよかったものを、あけ放たれたドアの向こうにプリプリと去っていく背中に向かって、なおもヘラヘラと笑い声を含んだ調子で「おい、ドア閉めてけよ」と叫んだ。すると、Yは顔を真っ赤にして振り返り、イノシシのような突進で私に殴りかかってきた。

避けたこぶしが後ろの窓ガラスにぶつかってゴンと音が鳴り、私も近くにあった椅子をYに向かって蹴り飛ばす。怒鳴り合いながらつかみ合う私たちを避けて会議室はめちゃくちゃになった。私にとっては、父と喧嘩をした以来、2年ぶり2度目の大暴れである。カッとなったらどうにもならないあたり、つくづく父親譲りの呪われた気質だ。会議室には悲鳴が飛び交い、後輩の女子はおびえて泣いていた。悪いことをした。見かねたSに「お前ら表出ろ」と怒鳴られ、私たちは興奮しきったままバルコニーへ飛び出した。なだめる同期たちをよそに怒鳴り合い続ける私たち。Yに真正面から「おめぇやめちまえよ」と言われて「やめてやるよ」と返しそうになったが、どうして私がやめなきゃならないんだと瞬時に思い直して「おめぇがやめろや」と言い返した。Yの後ろに立っていたSが心の底から呆れたような表情をしていたのを憶えている。それから私たちは引きはがされてそれぞれ同期になだめられたような気がするが、頭に血が上っていてよく憶えていない。そのまま定例会はお開きになった。

それから一時間もしないうちにYが私のところへ戻ってきて、穏やかな顔で「バッケ、タバコいこ」と言った。外は日が沈んですっかり暗くなっている。ふたりとも無言で階段を下りて、大きな木の下の喫煙所で静かに煙を吸い込んだ。半分ほどが燃えカスになったところで、Yが煙と一緒に「ごめんな」と吐き出した。私も一息吸って「ごめん」と言った。ふたりともタバコを持つ手が震えていた。

そのあとは示し合わせるでもなく同期たちと近くの居酒屋に行った。Sの「おまえらマジで」から始まるお説教で反省した私とYは、続けて仲直りのしるしとしてチューでもしろと命令された。死んでも嫌だと私たちは抗議をしたが、大切な定例会をめちゃくちゃにしてしまった罪悪感もあってか断り切れず、最終的にはYが口にくわえた梅干を私が口で取る、という方式を取ることになった。Yが今にも泣きだしそうな顔で梅干をくわえて目を閉じる。泣きたいのはこっちだよ、と思いながら唇に触れないよう、最新の注意を払って顔を近づける。Yのテカテカした顔が迫る。梅干しの感触と一緒に、Yのひんやりとした分厚い唇の感触を感知してしまい、私とYは同時に「ヴェッ!!!」と叫び、手元にあったおしぼりで口をゴシゴシと拭いた。周りが歓声に包まれ、Sは満面の笑みで「はい! 仲直りね!!」と笑った。それから卒業するまで、Yは会話の中でときどき「バッケはね、盟友だから」と言っていた。どうやら彼は「盟友」という言葉が気に入ったらしい。私も気に入って、そう言われるたび「まあね」と返した。馬鹿らしくて大げさでヤニ臭い、実に大学生らしい大学生活だった。

そんな話を3軒目の居酒屋でYに話すと、Yはすっとぼけた顔で「そんなことあったっけ?」と言った。

よし、ここのお代は全部こいつに払わせよう。そろそろ終電、ごきげんよう。

(了)

伊藤亜和(いとうあわ):文筆家/モデル。1996年 横浜市生まれ。学習院大学 文学部 フランス語圏文化学科卒業。Noteに掲載した「パパと私」がツイッターで糸井重里、ジェーン・スーなどの目に留まり注目を集める。趣味はクリアファイルと他人のメモ集め。第一作品集『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)が好評発売中。