scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第4回 ゴルゴ13とマリリン・モンローの間

誰でも「できる」ことと「できない」ことがある。「できる/できない」の間で迷ったり、不安を感じたり、無力感を持ったりしながら生きている。レビー小体病という「誤作動する脳」を抱え、できなくなったことと工夫によってできるようになったことを自己観察してきた著者が、「できる/できない」の間を自在に旅するエッセイ。

永遠に続くかに見えた梅雨がようやく終わると、今度はスチームサウナに押し込められたような夏が始まった。今年の気候は過酷だ。

レビー小体病という持病を抱えてから、薬(処方薬・市販薬)、酒、化学物質、音、光、低気圧と、あらゆるものに弱くなった。ここ数年は、汗にかぶれて困っている。年齢も影響しているんだろう。途上国に行ってなんでも食べ、どこででも熟睡し、世界の秘境にだって行けると思っていた若く頑丈で鈍感だった私の体。あれは幻か…。

この夏は外出もしなかったが、服の生地や着心地は、夏の重要課題のひとつとなった。綿ばかり着ているが、同じ綿でも着心地や涼しさは極端に違う。インド綿のように通気性がよくて薄くて柔らかい生地が心地いい。

夏は店内や乗り物の中が寒過ぎるので、出かけるときは常にパンツスタイルになって久しいが、スチームサウナ気候の中では、スカートの方が圧倒的に涼しい。男性もこの時期だけはスカートにすればいいのに…と、私は毎年真剣に思っている。でも、何年経ってもその兆しは訪れない。不思議だ。

スコットランドの男性の民族衣装は、タータンチェックのスカートだ。写真や映像を見ても違和感はまったくない。同じように、日本の着物は巻きスカートだ(正確に言えば、ワンピースか)。袴はキュロットスカート以外の何物でもない。

その土地の衣装は、その土地の人を最も美しく見せてくれる。中年男性の丸いお腹を優美に見せる着物、袴のデザインは凄い。脚だって短めの方が収まりがいい。広く長く愛されてきた形なのだ。スカートが、男性に似合わないわけがない。

なのに、なぜ男性用スカートが出てこないのだろう? 大股で闊歩できて、自然に見える、粋な男性用スカートなんて簡単につくれるだろう。

そのくせ、首を絞めるネクタイは、廃れる気配がない。中世のヨーロッパ女性のコルセットくらい不自然で、不健康で、不快だろうに…。

私たちは、自分の意思で自由に服を選んでいるつもりでいて、実は、かなり厳しいルールに従わされているのだとわかる。

新品の大きなランドセルを背負ったころ、「色を選ぶ」という発想はなかった。何色がいいかと問われることもなく、私は赤、男の子は黒をあてがわれた。それ以外の選択は存在しなかった。

今、色とりどりのランドセルを背負った小学生たちを見ると、選択できることの自由に万歳したくなる。青や茶色のランドセルの女の子もいれば、ピンクの子もいるが、渋い色の女の子が意外と多い。でも、赤やピンクのランドセルを背負った男の子はまだ見たことがない。男性にかかる社会的圧力は、幼少期から強いようだ。

いつごろからだろう。性的マイノリティを表すLGBT(最近は、LGBTQ)という言葉を頻繁に目にするようになった。地域によっては、同性の2人に夫婦と同等の権利が認められるようにもなった。長年連れ添ったパートナーのがんの手術のときも蚊帳の外で、お葬式にすら出席させてもらえなかったという体験談を読んでいたので、そんな悲しいことが減るのは無条件に良いことだと思った。

LGBTってなんだろうと思って初めて記事を読んだとき、「性」は、多面的だという考え方を知った。身体の性、パートナーの対象となる性。これはすぐわかる。でも、心や考え方の性、服装、化粧など自己表現の性…と読み進んで、はたと考え込んでしまった。

「自分が何を着たいか」と「性」を結びつけて考えたことがなかったからだ。女性には、もともと男性と同じ形の服を着る自由がある。ネクタイをしたところでファッションとしか見られない。パーティーにタキシードで出掛けたら目立つだろうが、「宝塚みたいで素敵」と言われるだけじゃないだろうか。スカートをはいて街を歩けない男性とは、自由度が根本的に違っている。

私はシンプルな服が好きで、フリルのある服は持っていない。結婚したときも白無垢と着物は着たがドレスは着なかった。振袖も着たことがない。着たいと思わなかったので、そのことに疑問も違和感もなかった。でも、「性別と着たい服」の説明を読みながら、突如、疑問が立ち上がった。「ん? もしかして、そこは、ちょっと少数派?」

自分の性を疑ったことが一度もなかったので、ちょっとびっくりした。でも考えてみれば、化粧が面倒で好きじゃないとか、ネイルをしないとか、「女子力ないねぇ」と鼻で笑われそうなところは次々と思い浮かぶ。とはいえ、それで差別されたことはないし、同類の女性は少なくないだろう。

「男性的な考え方をする」とは何度か言われてきたけれども、それは「性」じゃなく「人間」の違いだと思ってきた。言葉が男っぽいのは、生まれ育った土地柄だと思っていた。(方言に女言葉がある地方はあるのだろうか?)

そう。私は、考え方とか能力とかに、男女の違いがあるとは思わないまま育って今日に至っている。だから「心」の性とか「脳」の性差というものが、私には、どうもピンとこない。

振り返ってみれば10代のころ、学校で変な性格テストを受けさせられたことがあった。

「あなたは、どちらですか?

①あなたは、男性的である。女性的である。

②あなたは、論理的である。情緒的である。

③あなたは、自分の思う通りにする。まず周囲のことを考える。」

正確には覚えていないけれども、そんな問いばかりがずらずら並んでいた。「どちらでもない」という選択もあった。

質問を読んだ私は、頭を抱えてしまった。選びようがないじゃないか。

犬のように唸りつつ、結局、「どちらでもない」とすべての設問に回答し、私は、「完全無個性人間」となった。

なんておかしなテストだ。どちらも同じくらい強い人間だって、大勢いるはずじゃないかと、10代の私は憤慨していた。

それは真っ当な感覚だったと今でも思う。赤と黒のランドセルじゃあるまいし、人間の特性のなかにスパッと二分できるものなんてあるだろうか。歳をとった今は、実感を持ってわかる。

ゴルゴ13の中にも女性性はあるし、マリリン・モンローの中にも男性性はある。すべての人のなかに、女性性も男性性もそれぞれの分量で、割合で、形で、複雑に混ざり合っている。状況や場所によっても変化するし、年と共に変わってもいく。だからこそ、世界で一人の、その人にしか出せない味わいがあるんじゃないか。

性だけが個性や魅力じゃないし、性より前に「人間」でいいじゃないか。「私の心は、女性か男性か?」なんて自分に問わないでほしい。

人と少し違っていたとしても自分は自分でしかないし、自分が心地よいと思うあり方でしか、気分よく暮らす方法はない。

と、威勢のいいことを言いながら、「じゃあ、あなたが嫌いな化粧も止めて、人前に出たら?」と言われたらギクリとしてしまう。昔、パートで店員の仕事をしたとき、「もっとちゃんと化粧して」と注意されたことがある。いい年をして、口と目元にちょっと色をつけたくらいでは「客に失礼だ」という。自分の顔が「失礼」だと初めて知って、縮みあがった。

組織のなかでは、自分のあり方を押し通せないのも事実だ。公と私、そのバランスは難しい。でも、それなら会社員なり子どもの世話なりの役割を終えて、集団と距離を置ける歳になったら、自由度が跳ね上がるということだ。もう我慢する必要はない。着たい服を着ればいいんだ。私はスキップしながら還暦に向かおう。60過ぎたら、やりたい放題だぜ。