あたらしい比喩をつくるように

わかった気になる――反差別の手立てとしてのアート鑑賞

羽生結弦、其は「時代の子」

scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

14回目 旅ではないわたしたちの

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

朝の冷え込みにようやく冬の気配を感じるようになって、ちょっとほっとする。といって、もう11月なのだ。どれだけ長かったんだよ、夏。しかも日中陽がさしていればまだ上着は要らず、子どもなんて元気に半袖で登園している。厳しい寒さなんていまも想像できない。四季じゃなくて二季。真夏は季節ですらなくもはや死。なんて考えながら、この夏から秋にかけては色んなところへ出かけた。

なんせハワイに行ったのだ。これまでハワイなんて自分には一生無縁だと思っていた。ところが折しも、馴染みの友人家族がちょうどこの一年、研究目的でハワイに滞在すると聞き、にわかにハワイの機運が高まる。この機会を逃せば二度とない。そう思うとどういうわけか俄然行く気が湧いてくる。いっぽう夫は慎重だった。だって海外なんてすごい久しぶりだし、子連れだし、何よりお互い臆病じゃん、無理だよ。と、夫が渋ればこちらはむきになる。本音を言えばハワイでやりたいことなんて、ほんとうにはない。ハワイなんかよりも北欧に行きたい。でも、いやいやハワイなのだ。いま行かなきゃ二度と訪れない、それがハワイである。煮え立ったわたしはいま行かなきゃいつ行くの! と夫を揺さぶったのだった。

そうしてどうにか夫を説き伏せたものの、不安ではあった。何を隠そう、ほんの些細なことにも必ず揉めるわれわれなのだ。思いつきの外出にしても、どこへどういう順番で行くか、車か歩きか、ならばベビーカーは必要? 一つひとつの選択のすべてにお互いの意見があってどちらも譲らない。そんなふたりが海外旅行となればどうなるか。はたしてホテル選びから何からなにまで揉めに揉め、一生分の喧嘩をしたのではというくらい、言い争いまくった。新婚旅行先での喧嘩が原因の離婚を「成田離婚」と呼ぶらしいが、これでは成田到着前離婚である。われわれはげっそりした虚ろな顔で成田、ではなく羽田第三ターミナルになんとか到着した。

約8時間のフライト、子どもはすんなり狭い座席でも眠ってくれた。機内食にビールまでついて否応なくテンションは高まる。思えば10年ぶりの海外旅行である。大学生の頃に上海万博に行って以来、それも学生団体として連れて行ってもらったので個人旅行はこれが初めてだ。当時張り切って10年用のパスポートを作ったのにどこへも行かないまま期限切れを迎えるなんて、こんな地味な未来を大学生のわたしは想像しなかった。卒業旅行も、新婚旅行もバックパックもない、わたしのとてもおだやかな10年間。

と、そんな物思いに暮れる間もなく、一週間子連れの海外旅行はてんやわんやで、夏の暑さを忘れてしまったいまでは、思い出もごちゃまぜだ。空港から乗った個人タクシーのフルスピード(しかも見慣れない右ハンドル)に驚いて、そのすぐ横をノーヘルメットのバイク二人乗りがさらにハイスピードで追い越してゆくのに驚いて、物価の高さに驚いて、ハンバーガーやソフトクリーム、ピザ、あらゆる食べ物のでかさと量の多さに何度でも驚いて、なんだって初めてのものにわたしたちはいちいち面白がった。

ハワイの海は、想像通りだった。想像通りのそれが、目の前にあるふしぎ。へー、とまぬけな声が出る。正直、かつて夫と行った与論の海のほうがきれいだし、さらに言うなら修学旅行で見た沖縄の海のうつくしさを、きっとどの海も超えられない。サーフィンをする人、自撮り棒を空へ掲げて熱心に写真を撮るカップル、本を被せて水着のまま昼寝する人。日本からラッシュガードを持参したが、そんなものは誰も着ていない。そうか、ここでは肌を隠さなくてもいいんだ。ワイキキビーチを出た通りですら、みんな水着姿だった。水着で街を歩けるなんて、開放的だ。誰も人の身なりなど気にかけていないから、もちろん自分の身体もしげしげ見られたりしない。そういう自由さがとても心地よかった。

現地でも、もちろんたくさん喧嘩した。けれど、どうも朧げだ。つい数ヵ月前のことなのに、過ぎてしまえば忘れるくらいの、いまとなってはささやかな小競り合い。カメラロールを遡れば、夫は海で、あるいはとても大きな樹の下で、逆立ちをしている。子どもはこのとき鼻づまりがひどく、ずっと左の鼻に鼻くそがこびりついたまま取れず、そんなことお構いなしに笑顔で謎のポーズを決めている。写真には、喧嘩も子どもの癇癪も残らない。夫が肩にオウムを載せている。大道芸のおじさんに手招きされて、子どもがオウムに近づいていく。子どもの両手に大人しく収まる赤いオウム。触ってしまったら、きっとお金を払うんだろうと思いつつも観念して、三人でアロハのポーズでオウムと一緒に情けない笑顔で写真に収まった。

だからまあ、色々あったけどハワイ行けてよかったよね。楽しかったよね。写真を見れば、そんなふうに思う。そんなふうにしか思えない。一つひとつの思い出は断片で、時系列もばらばらで、そのときたしかにあったはずの不穏さだとか苛立ちだとかは、だいたい忘れてしまっている。

帰りの飛行機で羽田から山口への乗り継ぎに失敗したというのに、そんな一大事さえいまなら笑えるのだから。寛ぎながら映画「バービー」を見終え、さてあと数時間で日本か、などとのんびり構えていたら、何やら隣の夫の表情が曇っている。えっもしかして乗り継ぎ間に合わない? と気づいてからの、緊迫感。必死さ。空港を全速力で走ったけれど、結局間に合わず急きょ実家に泊めてもらった。疲れ果てたバスのなか。ぐずる子どもへの苛立ち。けれどそのときの自分たちの真面目さを滑稽に思えるほど、過ぎてしまえばすべてが笑い話になってしまう。

あらゆることを屈託なく忘れてしまうなら、こんな大掛かりな海外旅行なんて、いったいどんな意味があるというのだろう。だってハワイの海は想像通りで、マクドナルドのチーズバーガーですら日本のそれとそっくり同じ味で(そりゃそうか、とも思った)、わたしたちはどこにいたって喧嘩をして。すべてが過ぎてしまえば「よかったね」で終わってしまうのなら、それはやっぱり途方もない、徒労に感じられる。

無事に帰ってこれてよかったね。みんな元気に過ごせてよかったね。そう「よかったね」と頷き合えることが何よりも大切なのだとしたら、そんなの、最後に「生きていてよかったね」と思えるための仕掛けを増やすためだけにわたしたちは旅をして、いくつもいくつも抱えきれない思い出を持ち帰るのだろうか。きれいな石を集めて、海に並べて眺めて満足するような、そんなことのために(いつか必ず忘れてしまう)思い出を作るのだろうか。

「ただいま、みなさんの左手には富士山がきれいにご覧いただけます」というアナウンスでみな左の小さな窓を覗き込む。あれはいつのフライトだったか。ハワイ以外にも、この数ヵ月は色んなところへ出かけた。夫の学会について行く形で、子連れで長野に行った。友人の結婚式に出るためにひとりで東京へ行った。ハワイのフライトでは感じなかったけれど、東京‐山口間の飛行はいつも、よく揺れる。

いくら揺れたって平気なのはわかっていながら(にわかに揺れると、落ち着いた声のアナウンスが入る)、怖いものは怖い。でも、みな黙っている。飛行機がしんそこ無理、という友人がまわりに何人かいて、揺れている最中はその友人たちのことを思い出しながら、(ほんとだね)(こんな揺れるなんてありえないよね)と勝手に共感を寄せるのだった。

できれば、窓側に座りたい。離陸してぐんぐん地上から引き離されてゆくさまを見つめたい。夜ならば、滲むような街を眺めたい。雨が降っていたのはいつのフライトだったか。雨は離陸すると雨粒がどんどん後ろへ流されていく。雨を抜ければ空はいつも明るい。雲の上にいる、と思って窓を覗くとさらに上にいくつもの雲の層がある。霧のようなもの、ほんとうに綿のような弾力のあるもの、そういうものが見渡すかぎり散らかっている。雲の下には海があり、小さな渦が見える。尾翼をよく見ると、薄い霧のようなものを高速で通り過ぎてゆくのがわかる。

いつも遠い。当たり前のように遠い。それが空である。飛行機で空を飛んだら、それは近すぎてもう空の属性を失っている。遠く眺めて、はじめてその乱反射の幻が生きる。(堀江敏幸「青空の中和のあとで」)

空を見上げて、同じ空を見ている、などと言う。けれどほんとうには同じ空なんかない。一瞬たりとも同じでない。飛行機に乗るときはいつも、開けられた分厚いドアに一瞬だけそっと触れる。この機体が空のなかを突っ切って進むのだ、と思えば間接的に空に触れるような気がしてどきどきする。

「空の青こそが、いちばん平凡でいちばん穏やかな表情を見せながら、弾かれつづける青の粒の運動を静止したひろがりとして示すという意味において、日常に似ているのではないか。」と先の引用からつづく一文のことを、よく考える。ほんとうには、むしろいつだって同じ空でしかないのかもしれない。同じように見えて、でも同じ空はないんだって。けれどそんな実感も感慨もない。同じ青色を見せながら、でも、その空はほんとうにはいつ張り裂けるかわからない。昨日と同じ、昨日と違う、どちらに転ぼうと、だから敏感に肌や記憶で感じようとする。いま昨日と同じように見えているその空の、ささやかな差異を図ろうとする。冷たい空気、ぬるい空気、ふいの天気雨によろこんで、風のふくらみに目をつむり、くっきりとやってくる夕日の赤さにだって、もうほんとうには飽き飽きしているのに。やっぱりそれでも、わたしの日常は守られるのだと信じて憚らない。

「懐かしいっていう感情が苦手です」と話していた生徒のことを思い出す。昔あったものが今はない、その喪失感が苦しいのだという。だから昔見ていたアニメの曲を聴くと泣きそうになるんです。その話を聞いて、なんてうつくしい感性なんだろうと思った。懐かしさが、わたしには当然のように好ましい。音楽や匂いに乗せられた思い出の抗えなさを前のめりに受け止めて、そういうときの涙をカタルシスだと思い込んで浸ってしまう。でもそうかもしれない。わたしたちが粉飾するだけで、ほんとうには懐かしさはもっと、むなしい感情なのかもしれない。教室の窓から見える工場の煙突の煙は雲ではなく直接空に溶け込んでいく、その景色をなぜか同時に思い出す。

忘れたいことを忘れる、忘れたくないことを忘れない、わたしは忘れてもいい。全部どこかで聞いたことのある言葉で、そのどれもがそのときどきの真実なのだろう。忘れながら覚えていること。忘れながらでしか思い出せないこと。

長野で行った、善光寺の真っ暗闇。戒壇めぐりというらしい。本堂の下に通路があって、軽い気持ちで階段を下りてゆくと途端に真っ暗になった。子どもはすぐに怖がって、夫と引き返す。ひとりで進みながら、完全な闇ににわかに面白さが込み上げる。何も見えないのになぜだか怖くないのは、人の声、匂いがするからだろう。前に進みすぎて何度か前の人の身体に触れてしまい、「まだ詰まってますよ」と牽制された。仕方ないじゃん見えないんだから。途中で「極楽の錠前」に触れるとよい、そう前後から会話が聞こえるが、結局どれだかわからなかった。これまでいったい何人が触れてきたのだろう、なめらかな木の手摺の感じをよく覚えている。後で行った夫は「宗教って体験なんだなぁ」としみじみしていた。

覚えていることもちゃんとある。まあそれもたった数ヵ月前のことだから威張るほどではない。けれどわたしは忘れないためにこうして書くのではない。忘れなかったことだけを書くのでもない。書きながらでしか思い出せないことがある。忘れたことも、忘れたままでわたしは書くことができる。ならばやっぱり忘れてもいいのかもしれない。抗うことではないのかもしれない。

いつか死ぬという感慨を、感慨とも思えぬまま抱きしめられずに、ただおろおろ生きている。その可笑しさをわたしはほんとうには、愛したいのかもしれない。怠惰さのなかで、どうしようもない鈍さのなかでしかありえないわたしの生、あるいは生活。その周縁。死にたくないのに、次の季節が待ち遠しい。今年の夏も暑すぎたから。それでも、寒さがやってくれば辟易するほどの暑さも忘れて、忘れるたびに恋しくなる。何度も忘れて、やってくれば思い出す。忘れるから、生きられるんだろう。手触りとか実感とか感慨とか、言ってみるものの、あるのはいまここの怠惰さそのもので、いや怠惰さそのものってまずなんなのか。どこにいても、何をしてもしっくりこない。そわそわする。ここじゃない。いや、ここしかない。そんなことはない。その繰り返しのなかに季節があり、季節のなかにわたしやあなたがいて、けれどやがて全部がなくなって、それならいまある記憶やその残像とはいったいなんなのだろう。

生きててよかったね、を増やすための旅なんてクソ喰らえじゃないか。忘れながらも覚えている。覚えていると自負しながらもあっさり忘れている。旅するようには生きたりなんかしない。旅は人生なんかじゃない。たまに旅したくなったとしても、けれどそれは日常を噛みしめるためにするわけじゃない。

どこか旅へ出るたびに、いかにもというお土産を自分用に買う。「善光寺」と筆のようなフォントで記された大写しのダサいマグネット、「I love Hawaii」とプリントされた派手なTシャツ。そういうものを集めて満足して、だってそれは嫌でも思い出っぽいから。

いつか必ず忘れてしまうことのために、こんなにも思い出作りに必死な自分が滑稽だ。大掴みの実感でしかない「よかったね」をたくさん集めて、生きてこれてよかったね、わたしはわたしでよかったね、生まれてよかったね、人生は楽しかったね。そう噛みしめるように思う日がいつか来るんだろうか。「人生は旅」と書かれた熱海の安宿のスリッパを思い出す。笑いながら、友だちと足元の写真を撮った。いいえ、人生は旅じゃない。旅は人生じゃない。何にも喩えられないほど退屈な日々。おだやかな今日。少し前まで日中もあたたかかったのに、気づけば冬の寒さだ。途端に夏が遠くなる。けれどこの寒さは、あのうだるような暑さと地続きなのだ。

昨日とまったく変わらないように見える冬の青空を、雨粒の跡で汚れたままの窓からいま、こうして眺めている。

どこに生きても雨には濡れるよろこびを言えば静かに頷いている

(完)

*本連載は今回で終了します。すこしお時間をいただいて、来年には単行本化の予定です。どうかご期待ください。