scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

第6回 神戸:1975(5)

フリーランスのライター&インタビュアー、尹雄大さんによる、土地と記憶を巡る紀行文。

すでに失ってしまったもの、もうすぐ失われるもの、これから生まれるもの。人は、移動しながら生きている。そして、その局面のあちこちで、そうした消滅と誕生に出会い続ける。また、それが歴史というものなのかもしれない。

私たちは近代化(メディア化)によって与えられた、共通イメージの「日本」を現実として過ごしている。しかし、それが覆い切れなかった“日本”がどこかにある。いや、僕らがこれまで営んできた生活の中に“日本”があったはずだ。神戸、京都、大阪、東京、福岡、熊本、鹿児島、沖縄、そして北海道。土地に眠る記憶を掘り起こし、そこに住まう人々の息づかいを感じ、イメージの裂け目から生まれてくるものを再発見する旅へ。

 

神戸を離れて随分経つ。
 その間、北海道から先島諸島まであちらこちらをめぐった。そのうち気づいたのは、私が何かを感じるにあたっての規矩[きく]が身のうちに備わっていることだった。すっきりと晴れ渡らない冬空や起伏の乏しい平野、周囲ぐるりを山に囲まれている盆地にいると、どうも不穏な心持ちになる。なだらかな坂はありつつも、海に向けて開けた地形と瀬戸内の気候はやはりしっくり来る。

 

感性は、草木と同じくいつのまにか萌え出ずる。意図して芽生えさせるものではなく、根本は生まれた土地によって養われる。そこで話される言葉、食べられるもの、生きる人との関わりも含めた地力がその人の感覚の経験を可能にする。
 そう思うと、アイデンティティをわざわざ口にしなくてはならないのは、とても不幸なことだ。私好みの伝統や歴史、文化を取り上げ、それを身につけることで何者かになろうとする。その試みは、感性を育てる根が暮らしの中から失われたのだと自ら告白するのに他ならない。
 今はなくなってしまったものを概念として取り返すことがアイデンティティの確立であるならば、それを求め、しっかりさせようとするほどに、実際は己の立つ拠り所のなさを知ることになる。

その空疎な感覚を「神戸ブランド」という文言を目にするたびに味わう。プリンに餃子にチョコレートとわざわざ神戸の名を冠した商品を見かける機会も帰省のごとに増えた。そのような自己言及がいつから始まったのかと振り返ると、少なくとも私が神戸に住んでいた1990年代初頭までは、プリンにまで「神戸」を騙らせることはなかったはずだ。
 とはいえ、その時代、何も人々の品がことさら良かったわけではない。ただ金銭に余裕があると、人も街もアイデンティティについてわざわざ考えることに関心を払わないのだ。その頃は世に言うバブル経済の絶頂期だった。

 

神戸市民に限らず、多くの人々の興味を引いたのは、活況という名の乱痴気騒ぎがもたらす蜜の分け前に預かることだった。家業について言えば、菓子業界も好況でケーキと名がつけばともかく売れた。クリスマスやバレンタインともなれば高いものでも飛ぶように売れた。
 思い返すだに苦々しさを感じるのは、毎日のようにかかってくる証券会社からの電話であり、郵便ポストに投げ込まれたゴルフ会員権の案内だ。世の流れに逆らうことなく、父は株とゴルフ会員権、それに土地を買った。
 当時、私は三宮の繁華街にある居酒屋でバイトをしていた。働き始めて驚いたのは、店の提供する食べ物や飲み物の料金と見合わない質の低さだった。他店で働いていた人によれば、どこも似たようないい加減なものだと言う。
 味わうに足るものではないと客もわかっていたのか。食べ散らして残された料理は多く、それでいて学生であってもひとり5,000円程度支払うことはざらだった。
 アルコールでしまりのない表情をした大人たちや一気飲みではしゃぐ学生を見るにつけ、「こんな浮かれた時代が長く続くはずがない。偽りの快楽だけを求める世など滅びればよい」と世間の体たらくに呪いを浴びせていた。
 右肩上がりの暮らしはこれからも続くというまるで根拠のない未来を誰もが信じていた。ともかく普通に働いておれば、物質的に憂いのない暮らしができる。そんな一本調子の音色しか奏でない人生が標準であるかのような考えがさほど疑われもしなかった。

街にいると社会の寸法はあらかじめ決まっていて、そこには新鮮な空気が流れない、息詰まる感覚を覚えた。けれども、柔らかい陽光が木々を照らし、緑を含んだ六甲からの風が街中を抜けていくのをふと感じるとき、わずかでも土地の呼吸と同調できたような気がして、人工物に囲まれながらも気持ちが活性した。
 しかし、なんのために金銭を求めているかわからない狂騒が辺りを浸すにつれ、誰もが気づかないうちに少しずつ街から気力が失われていった。活況はあっても、それは作り物の木偶[でく]の演じる賑やかしさにも似ていた。

 

神戸には近代以前の遺構は少ない。影も形もない福原の都をはじめ、一ノ谷の戦いで死んだ平敦盛の悲話。湊川の戦いで敗れた楠木正成と、栄耀栄華は続かないことにまつわる逸話は多い。それらの無形の記憶は土地に宿っているはずだと思っていた。
 伏流[ふくりゅう]している時間の連なりから見ると、現世の振る舞いがことごとく愚かに感じた。そう言ったところで、それはまず己に対する呪詛でもあったのは、親の経済力ひいては神戸の活況のおかげで自分も贅沢な暮らしができているからであった。この浮薄な時代に加勢していることになおさら苛立ちは募った。
 自活する能力はないものの、何もかもがデタラメに見えてしまう。生きて行く上で本当のことが隠されているという思いは強かった。

遅くやってきた思春期は、自分が何者であり、何ができるのか。その答えを早急に求めていた。アイデンティティを確固とすることを願うあまり、海外放浪という使い古された手近な解決策をとることにした。行き先はこれまたインドという定番ぶりだ。
 海の向こうに行けばなんとかなるのではないか。その期待の根っこには死なない程度の穏当な、冒険めいたスリルの体験によって生まれ変わりたいという、非常に都合のいい考えがあった。
 幸い、その望みは叶うことはなかった。パキスタン国境の紛争に巻き込まれ、次いで警察に脅迫され、挙げ句の果てには髄膜炎で入院するといった、アイデンティティを求めての彷徨どころではない右往左往の珍道中に旅は終始したからだ。

ただし、インドに旅してよかったことがひとつある。アイデンティティの確立に答えを求めなくなったことだ。私は出国の際、保険に加入しなかったため、10日あまりの入院費用として日本円で15万程度請求された。大金の持ち合わせはなく、親に用立てて貰う必要があった。国際電話をかけられる電話局は病院からは遠い。ベッドから起き上がるにも難儀し、サンダルの重さで足が前へ進まない衰弱ぶりだった。そんな体で局にたどり着き、実家に電話をして窮状を話した。
 父の第一声はこうだった。
「それどころではない。株価の暴落で家が差し押さえられるかもしれない」。

なんとも絶妙のタイミングで電話をしたものだと感心のあまり、以後の父の話はまるで覚えていない。
その日は我が家が迎えたバブル崩壊の日だった。
 記憶に今なお鮮やかなのは、電話局を出たすぐ後に目に映った、やたらと青く澄んだデリーの空だ。インドを旅している間、曇天であれ快晴であれ不安や焦慮は常に心を覆っていた。しかし、あの青を見上げた時、そうした憂鬱な気持ちは一挙に吹き飛んでいた。
 自分や家族がのっぴきならないところにいるのはわかっていても、「それ見たことか」という言葉が口を吐いて出るのをやめられない。やはり現世のことは「ひとえに風の前の塵」なのだと思うと無性に楽しくなり、足取りも快活になった。この日を境に憑き物が落ちたようにアイデンティティなど求めなくなった。

「何者であるか」など構築するものではない。何者であるかを決定するのは、それについてあれこれ考える私の意識の外にある。
 特別に装われた出来事や羽目を外したお祭り騒ぎでもなく、生まれてこの方いつものように見ている景色、馴染みの人とのいつも交わす会話、ありふれたなんの変哲もないが故に名付けられない何か。
 つまりは現に私の生きている土地にまつわるあらゆる平常さが何者であるかの証しだてなのだ。だがしかし、そのことが身に染みたのは、ありふれた光景が私の知る神戸から消え去った後だった。

 

インド放浪から4年後、私は上京し、テレビ制作会社で働いていた。
徹夜明けにオフィスでニュースをぼんやり見ていると、そこに映し出されたのは、白煙に包まれている見慣れた場だった。1995年1月17日、神戸を大地震が襲った。
 実家に電話をかけてもまったく繋がらない。翌朝、京都までは新幹線が運行していることがわかり、飛び乗った。そこから阪急線で神戸に向かったが、西宮北口から向こうの線路は飴のように曲がりくねっており、それ以上進むことはできなかった。午後3時頃、岡本までの10キロあまりを国道2号線沿いに歩き始めた。幹線道路沿いの家は捩れ潰れ、臓物を撒き散らすように家財道具や瓦を吐き出し、ことごとく倒壊していた。
 冬とはいえ日没にはまだ早い。けれども西の空を赤黒い煙が覆い、天空の半ばが暗く閉ざされていた。ザクロの実が爆ぜるような格好で破裂し、土を覗かせたアスファルトは救急車と消防車の行く手を阻み、けたたましいサイレン音は虚しく鳴り響いていた。その耳をつんざく音にも避難者は眉根をひそめることはなく、また一言も話すこともなく、私とは反対の東を目指し、表情の見えない顔つきで黙々と歩いていた。万を数える人の足の運びが埃と灰を舞わせ、鼻をついた。不吉で不穏な臭いがした。
 麓でこの惨状なら山頂にある実家は山崩れでとてもダメだろうと家族の死を想った。どんな結果も素直に受け入れられそうな気がした。が、案に相違して家族は無傷だった。
 その夜、まんじりともせず眼下の町のあちらこちらに火柱が立つ様を見た。いっこうに消火される様子もない炎の広がりを、ただじっと見ていた。

今はもう聞かれることもなくなったが、震災直後は被害の実情について尋ねられることが多かった。聞かれても 「警官は道路をバイクが逆走しても何もいわなかった。あれはいつから注意するようになったのだろう」 「大阪に食料の買い出しにいったら、震災募金を迫られた」 「東京での暮らしは貧乏だったので救援物資のおかげで太った」 といった、茶化す話しかしなかった。
 定型の「お話」にするのがいやだったのだ。相手の聞きたいことに呼応したくなかったのもさることながら、 自分の中にあるノスタルジーを明らかにしたくなかったのだろう。

震災後、「がんばろうKOBE」の掛け声とともに神戸は再生に向けて歩んで来た。10年も経つと、あれほどコンクリートの建物が倒壊した体験があるにもかかわらず、タワーマンションが建ち並ぶようになった。再開発された街にチェーン店が軒を並べるようになり、どこかで見たようなキラキラしたセレクトショップが増えるごとに、どうにも場末の匂いが漂うようになった。
 その時節から「神戸ブランド」という自己言及が盛んに行われるようになったと睨んでいる。

かつては地元に根ざした喫茶店とケーキ屋、パン屋がやたらとあった。そうしたありふれた光景が実は、私の情感を育ててくれていたのだ。バブル期と震災を経て、大半は一掃された。
 記憶の源泉を断たれることがこれほど辛いものだとはそれまで知らなかった。体の一部がもがれる感覚を味わったとき、はじめて故郷を失った祖父母の世代の痛みがわかったような気がした。
 同時に、人は覚えた痛みを忘れるため、理想のアイデンティティを伝統や歴史、国や民族に託してしまえることも知った。それがどれだけいびつな虚像であってもいい。贋物であっても本当らしくありさえすればいいのだ。

 

戦前の阪神間モダニズムと戦後の高度経済成長での伸長により、神戸は繁栄を謳歌してきた。それを「コンテンツ」扱いしたところで、もう賞味期限の切れた、追憶としてしか語られない物語なのだ。愛着は過去へのこだわりにすり替わり、かつての栄華がブランドイメージとして宣布される。しかしこだわるべきものが今はもう存在しない。

神戸に帰るたびに侘しい思いをする。風を運んでいた見慣れた山は削られ、建売住宅が空気の通り道を塞いだ。
 故郷の風景がすっかり変貌したことに耐え難い気持ちになる。神戸が必死に喧伝する己の姿は、もう私の知っているそれではない。
 けれども郷愁にかられそうになる時、私の違和感や寂しさの出どころは、かつてはあったが、今はもうなくなってしまったものへの執着だと知る。私は自分の弱さに気づかされる。そして、中世フランスの神秘主義思想家サン=ヴィクトールのユーグの言葉を思い出すのだ。

「世界のあらゆる場所を故郷と思えるようになった人間はそれなりの人物である。だが、それにもまして完璧なのは、全世界のいたるところが異郷であると悟った人間なのである」