第11回 なめらかな過去

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

子どもの保育園のお迎え後、自転車に乗りながら今日あったことを聞くのが日課になっている。

機嫌の良し悪しにもよるが、「今日はどこ行った? 何したの?」と聞くと、「こうえんでかくれんぼしたよ」「こうえんの帰りにね、ゆうちゃん(先生)がうんちふんだ!」「それでさっきはねえ、ゆうごとさきと、どろんこしたよ」などと話してくれる。前乗せ自転車なので表情は見えないが、たぶん得意顔で話している。おずおずと言葉を話し始めた一年前には、「公園行った?」「楽しかった?」と訊いて「うん」と答えるのがやっとだったことを思えば感慨深い。わたしの知らない子どもの一日があり、その一日の出来事は子どものなかに記憶や思い出としてたしかに存在する。それを、自分の言葉にできる。だから毎日しみじみと聞く。

途中、深い側溝の脇を通りかかると、「あっ、ここさぁ、さっきザリガニがいたよねえ」と指さす。以前、雨の日にザリガニの手足の破片らしきものを発見したことを言っているのだろう。でも、それはもう何週間も前のことだ。今日はいないねー、と言うと「さっきいたのにねえ」と子はなお残念そうにつぶやく。

子どもは過去にかんするすべてを「さっき」と言う。昨日のことくらいなら、まあ、ざっくりと「さっき」と言えるかもしれない。子どもが「さっき」と名指した昨日の後ろには、一昨日がある。一昨日の前にはさき一昨日、そのように過去はより過去へと、なめらかにつながっている。「さっき」はイオンモールに行った先週のことであり、あるいはまた半年前に訪れた祖父母の家の不機嫌な猫の記憶へとつながっている。「おばあちゃんちのねこちゃんがさあ、あーちゃん(子ども)にヒーってしたよね」そのように、「さっき」のことをいつでも取り出して子は話す。

眠る前、布団で恐竜の絵本をひらいていたときのこと。「さっきはさ、ほんとにいたんだよね、トリケラトプス」と言う。読んでいたのは『きょうりゅう300』という図鑑で、それを読むたびにわたしが「いまはいないけど、ほんとに恐竜って同じ世界にいたんだよねえ、でも信じられないよねえ」と話すものだから、その感慨に似た感覚を子どもなりに噛みしめているのかもしれない。さっきいたんだよね、信じられないね。そう返してしばらく図鑑を一緒に見つめる。子の好きなトリケラトプスは首にある襟飾りがいかにも不思議だし、スーパーサウルスは図鑑をはみださんばかりに、首も尾も長すぎる。やっぱり信じられなくて、「全部ほんとにいたのかねえ」としみじみこぼしてしまう。子どもが園庭で泥んこ遊びをした昨日と、切れ目なく繋がる遥かな過去に、白亜紀やジュラ紀が存在していたことがやっぱりとても、しんそこ不思議だ。と、常識をもつわたしはそう思ってしまうけれど、子どものほうではきっと昨日も、恐竜がいた太古も、「さっき」のことで、それはひとつながりなのだろう。自分にもあったはずのそんな感覚のときのことはもう、もちろん思い出せない。

それが近ごろ、子どもの過去に「昨日」が加わった。

「昨日の夜たくさん雨がふってさぁ、それでこのすべりだいがぬれちゃったんだねえ」と言ったのだった。おお、アップデートされている。使い分けはまだ厳密ではないにせよ、「昨日」は「さっき」よりも前のことをちゃんとあらわしている。子どものなかに、より「過去」が認識されるようになったと思うと興味深い。「昨日」がわかれば、一ヵ月も、一年も、いずれ把握できるようになるのだろう。少し前までは赤ちゃんの頃の写真を見せて「これは赤ちゃんだったあーちゃんだよ」と話してもピンと来ていなかったが、3歳から遡って、2歳、1歳、そうして生まれたての赤ちゃんの過去の自分というのが存在していたことを、認識するようになるのかもしれない。

 

ところで、夫は何も覚えていない。

まず、自分の年齢を覚えていない。お互い同い年なのでそれをいいことに自分は記憶することを放棄して「私っていまいくつ?」とよくこちらに訊ねてくる。「いまって令和何年?」もかなりのペースで訊かれる(そのたびに自分でもわからなくなって一緒に混乱する)。あるいは、一緒にあれをしたここへ行った、という共通の記憶にかんしてはひどいことに何ひとつ覚えておらず、そのことで何度でもわたしを苛立たせるのだった。

一緒にいる時間が長ければ共有する思い出もそれなりに多くあり、とすれば一緒にヨロン島に行ったのは何年のことだったのか、じゃあ盛岡に行ったのは? 京都は? とすべてが「わたしたちの過去」という大きな箱のなかの記憶に埋もれてしまうのはわかるけれど、でもそれにしたって夫は、なんにも覚えていない。もうこのひとは過去のわれわれにかんする一切を覚えていないし、そもそも記憶しようとしないのだ、と割り切ればいいものをわたしのほうでも「前に一緒に◯◯行ったじゃん」などと共有しようとするから揉めることになる。最後はたいてい「ほんとになんにも覚えてないんだね!」とわたしが吠えて終わる。ほんとうに、夫はなんにも覚えていない。

といって、わたしとて元より記憶力のいいほうでは決してなく、友だちとの会話のなかで「あのとき◯◯で◯◯したよねー」などと向けられてもまったく覚えておらず、むしろあきれられる側だった。「あんたさあ、中2のとき教室のドアの上の棒みたいなところで逆上がりしてたよね」などと言われてそんな無茶苦茶なのはわたしではない、と思ったりする。教室のドアの上部? で逆上がり? なんて、わたしはぜったいにしない。だからそのとき他者によって語られる自分というのはほんとうには別の誰かなのだ。そう大真面目に思う。恥ずかしかったり、きまりが悪かったりする記憶は都合よく消し去ってしまうのかもしれないが、けれどそういう「知らない自分」を後から聞くにつけ、過去がいまへと切れ目なくつながっていることなど、ほんとうには信じがたいことのように思える。

先ごろのわが家の片付けブームのさなか、手つかずにしていたダンボールから、夫と付き合いたての頃に撮ったプリクラが出てきた。「ひえー」と言いながらふたりで眺めた。ほとんど出土である。小さな写真立てに収まった大学生のわたしたちは大層若く、それこそほとんど別人だ。試しに子どもに「これだれ?」と訊いてみると、少し考えた末に「わかんない」と言う。客観的に見てもそれくらい違うということなのか。プリクラ上部に印刷された日付によれば、わたしたちは2011年3月21日22:12にそのプリクラを撮ったらしい。でも、その正確な日付と時間を渡されても、あああのときね、などと合点がいくようなことはない。

その日のことは、ただぼんやりと覚えているだけだ。震災の直前に付き合いだして、不安な日々をメールでつないだ。たしかその後、初めてゆっくり会ったのだと思う。神奈川の実家ではまだ計画停電があったが、東京では電車は動いていたし、店も営業していた。代々木のカラオケに行って、それから新宿も歩いたような気がする。プリクラはどこで撮ったのだったっけ。たしか、夜には雨が降っていた。

付き合うってことになった日は、たしか岡本太郎展に行ったよね、と夫が珍しくわたしたちの過去について話し出した。そう、別にどちらも熱心なファンというわけでもないのに、竹橋の国立近代美術館でひらかれた岡本太郎展にわたしたちはわざわざ出向いたのだった。その日が初日だったはずだ。入口のところにあったオリジナルの岡本太郎ガチャガチャで、たまたま色違いの「赤い手」と「青い手」が出た。歩いて飯田橋まで行って、魚民だか白木屋だかで飲んだ。

夫はなおも饒舌に語る。「私がさぁ、その前日だかに自転車で思いっきり電信柱に激突して、そのまま横に自転車ごと倒れてトラックに轢かれそうになったんだよね。って話をメールでしてて、それで死ななくてよかったです、死んだらやだなと思ったから付き合いませんか、ってあーほりさんに言わせちゃったなぁってそのとき思ったんだよね」やけによく覚えている。というかそんないきさつだったんだっけ。「あなたが死んだらいやだと思った」なんて、わたしほんとうにそんなこと言ったっけ。それは別の誰かではないのか。全然覚えていない。

過ぎ去ればこの悲しみも喜びもすべては冬の光、冬蜂/堂園昌彦

起きたことも、思ったことも、すべては過去へと追いやられて、追いやられた過去からわたしたちは都合よく「わたしの記憶」を引っ張り出す。あのときたしかにあったこと、起きたこと、そこにはわたしの感情があった。かなしかったのか、うれしかったのか。もっともっと、複雑な、あるいは想起さえされないような単純な感情。あなたと付き合えて、わたしはきっととてもうれしかったのだろう。うれしかった高揚感は、けれどどこへいってしまったのか。あなたが死ななくてよかったです、と言ったときのわたしは、どこにいるのだろう。竹橋であなたと待ち合わせた曇り空の3月8日、友人と三鷹へと繰り出した3月11日。それからの不安な日々。それらはすべて途切れることなくつながっていて、だからいまここにわたしがいて。たまたまあなたも一緒で。

過ぎ去ってしまえば雑多なものばかりが詰め込まれたその大きな箱のなかに、あったはずの感慨も感情も、それらに付随していたはずのその機微も、見えなくなってしまう。記憶の箱とは、そういう暗がりなのだと思っていた。けれど、上記の一首のなかでそれらが「すべては冬の光」と提示されれば、知らなかった記憶の、けれどほんとうにはずっとそこにあったささやかなかがやきを渡されたような気持ちになる。わたしの、わたしたちの過去のすべては、そんなにやわらかなものだっただろうか。「冬の光」は高い空からたしかに注いで、寒さに弱った冬蜂がよろよろと辺りを飛んで、そういううつくしいもののなかに、わたしの記憶もちゃんと、あったのだろうか。ただわたしやあなたが忘れているだけで。知らないだけで。

思い出は思いが出てくることなのに君の野太い腕が横切る/花山周子

(了)

 

 

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。