第8回 映したりしない

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

クリスマスイブの午後、M-1の敗者復活戦をのんびり眺めていた。すると夫が「なんか急にバイト登録のメールがめっちゃ届く、何百件も」と言う。いやがらせかも、と。いやがらせ? そんなことわざわざするひとがいるんだろうか。クリスマスなのにものすごい暇じゃん、そのひと。というかそれがいやがらせだとして、そもそも夫に対してそんなあからさまな悪意というか敵意を剥き出しに攻撃してくるひとが存在することに驚く。とにかく、夫のメールアドレスで勝手に登録されたバイト情報がリアルタイムでじゃんじゃん届くらしい。その間にパスワードを変更しても、新たな手段でメールは届きつづける。もう夫はどこかぼんやりとして、せっかく楽しみにしていたのにM-1どころではなさそうだ。

こんなふうに、だれかにはっきりと向けられる悪意というのをものすごく久しぶりに目の当たりにした気がする。夫はすでに「だれがやったんだろう」と疑心暗鬼になっている。やっぱり学生かなぁ。やだなぁ。まあたしかに大人がそんな幼稚なことをするとは考えにくい。学生たちがその場のノリでやった軽いいたずらなのだろうか。あいつうざいよな、とか言い合って。だとすればそのもくろみ通り、目の前の夫は明らかに沈んでいる。そこまで落ち込まなくてもいいのに、と思わなくもないが、自分に「悪意を向けられている」こと自体がどうにも気持ち悪いらしい。

でも、たとえば親しい友人や尊敬しているひとに嫌われる、ということとは全然違う気がする。というか、その場合よりましなのではないか。たとえばちょっと注意や指導をした学生からこうして反撃に遭うというのはある意味で教員の宿命というか、いやそんなくだらないことするなよってあきれるけれど、でも夫がそこまで気落ちしているのに正直すこし驚いたのだった。

わたしの慰めだけでは限界がありそうだったので、とにかく職場でだれかに話を聞いてもらいなよ、と翌日夫を送り出したのだったが、あそこまで食らうものだろうか。そんなにダメージ受けてしまったら相手の思うつぼじゃん。なんかそういうタイトルの本があった気がする。相手のことでこちらがいくら悩んでたって、あいつ今ごろパフェとか食べてるよ、みたいな。でも、そいつが今ごろパフェを食べていたとしても、気にしてしまうのは仕方ない。パフェを食べているなんて想像すればなおさら憎いんじゃないか。でもたぶん、その憎しみを自分だけが抱えているのが損なのだ、という主旨なのだろう。しかも今回は、その相手がだれかすらわからない。

誹謗中傷ってこれがひとつやふたつじゃないってことだから、ほんとうに堪えるのだろう。そう考えれば、知り合いから嫌われたわけじゃないんだからいいじゃん、というわたしの励ましは見当違いだったと気づく。今朝もまだ元気がなかった。そう考えると急に心配になってくる。ひとりで、さらに思いつめていないだろうか。思い立って電話してみると、声は思ったよりむしろ元気そうだ。先輩に話を聞いてもらったらしい。「私だったらぜったい犯人つかまえてぶん殴るね」と真面目に言われたらしく、物騒で笑ってしまう。

いたずら自体は一過性のものだったようで、以来とり立てて動きはない。誰かを特定することはできないし、なんだったんだろうね、嫌だね、とこうして周囲と話して消化するしかない。夫はM-1もっとちゃんと見たかったなー、と言うくらいいまは元気である。

夕方、保育園のお迎えに行くと、担任の先生から「今日はAちゃんとケンカして、叩かれたからって引っ掻き返したらAちゃんの顔けっこう傷いっちゃって」と言われた。うちの子どもがお友だちに怪我をさせてしまったらしい。逆に、ケンカしてここちょっと噛まれちゃいました、引っ掻かれました、と報告を受けことはよくある。けれどそのときに「だれから」と言われることはなかった。もしだれが/だれに、と聞けばお互いややこしくなる、だから基本やってしまったほうにも、やられたほうにも双方名前は言わないルールなのだろうと思っていた。こんなふうに自分の子がやってしまったことを報告されるのは初めてだ。つまり、それはAちゃんの傷がかなり大きいという意味なのではないか。そう察知して気後れがした。あるいは、うちがAちゃん親子とふだんから遊んだり連絡を取っていると知っていて、の報告だったのだろうか。帰り道手を引く子どもはいつも通りけろっとしている。自分が怪我させてしまったなんて、三歳児には自責の念などないと知りながら、けれどこっちは気が気ではない。

どうしよう、と思うそばからひとまずAちゃんのお母さんに連絡した。するとすぐに「傷はあるけど本人も痛がってないし全然気にしないで」と返信があった。でも、もし自分が逆の立場だったらほんとうに「全然気にしないで」なんて言えるだろうか。いや、思えるだろうか。そんなふうに裏をかきたくなって、その思考回路にはまってしまっては何もいいことは起きない、と言い聞かせてぼんやりする。しかも、女の子なのに。そう咄嗟にわたしは思ったのだった。女の子も男の子もないでしょう。だれの顔にも傷が残ってしまうことは、残してしまうことは申し訳ないはずなのに、でもわたしは咄嗟にそう思ってしまった。

翌日、お迎えのときにAちゃんのお母さんと会う。Aちゃんの頬にはやっぱり大きな引っ掻き傷が残っている。うわぁ、Aちゃんごめんね、と言うと、Aちゃんもけろっとしている。「ぜーんぜん」と言うAちゃんのお母さんの言葉と、というよりそのおだやかな表情にちょっと泣きそうになる。そのままふたりがうちに遊びに来てくれた。

子どもたちは、昨日のケンカのことなんてなかったかのように、ふだん通りの様子で遊んでいる。でもわたしはやっぱりまだ申し訳なさでいたたまれない。ケンカってお互いさまだから、と言うAちゃんのお母さんの鷹揚な声が、まっすぐに届く。もちろんケンカなんていくらでもすればいいとは思うけれど、怪我させてしまってはやっぱり話が変わってくる。もちろんそれも含めてお互いさま、と言い合えるのが一番いいのだけれど。

子どもの頃、きょうだい喧嘩ってしました? という話の流れで、「わたし人生で二度しか怒ったことがないんですよね」とAちゃんのお母さんは話す。それもどっちも部活で、大会前の後輩に怒ったって話でもう何年前? しかも怒り慣れてないからか二回とも知恵熱出して寝込んで、とにこにこと話すのを聞いて、きっとほんとうに今回のことは気にしていないのかもしれない、と思う。そのくらいおだやかなひとだから、というよりも、だって何度も「全然気にしてないよ」と言っていた。でもそれは建前で、ほんとうにはどう思っているかどうかなんて、わからない。そう思い込んでわたしはずっと申し訳なさでいっぱいだった。大丈夫だよ、って言ってくれるそのままの言葉を受け取ればいいはずなのに、どうしてもいつも裏を読もうとしてしまう。でも、たぶん、ほんとうに、Aちゃんのお母さんは気にしていない。大丈夫だよ、って思ってくれている。だって表情がそうだった。ほんとうに大丈夫じゃないときには、きっとわたしに伝わるように、違う言葉をかけてくれるはずだ。

どうにも、言外の何かを感じとろうとしてしまう。そして、気づけばそれこそがコミュニケーションだ、とまで思うようになっている。裏をかき合うのがコミュニケーションなんて、なんだかとても貧しい。子どもたちも、Aちゃんのお母さんもすでに気にしていない、としたら自分だけその場で考え込んでいる。そういうことばっかりだな。いいよ、っていうその言葉と表情を受け取ればいいだけなのだ。そして、それはほんとうには、Aちゃんのお母さんに限ったことではないのだと思う。

目の前の相手の表情を、つい盗み見る。わたしに向けられる笑顔に、真顔に、表情以上のなにかを読みとろうとする。そのとき推し量るべき情報というのは表情の背後にもたくさんあるのだろう、と踏んで。けれど、いまはわたしに向けられたひとつの表情と、言葉を受け止める。見つめつづけても暗号が浮かび上がるわけではない。これ以上、何か読み取れるのではない、読み取ろうとしない。それでいいはずなのにな。

だからいっそいやがらせをするなんて、潔い。と言ったらこの一件で心を痛めた夫に悪いのだけど、でもそんな直球の悪意なんてなかなかひとに向けられない。むしろ深く考えていないからできるのだろうか。もう自分のしたことなど忘れて、パフェでも食べているのだろうか。言葉が通じるのだから、思ったことを言えばいいのに、なんて言葉も伝わらないのだろうか。いやがらせって、なんだかものすごくアクロバティックなコミュニケーションではないか。いや、ほんとうにはそれはコミュニケーションとは呼べない。言葉を交わすか、目の前に立って表情を見せるか、そうでないと、だってこちらからは何も返せない。交換できない。けれどきっと、交換などしたくないからそういう手段に出るのだろう。

相手が目の前にいたって、いつも何もわからないのだけど、でも言葉と、その表情をひとまず受け取っている。あるいは自分がどんな表情をしているか、いつもわからない。わからないまま、何かをわたしは渡してしまっている。たぶんいろんな行き違いがあるのだと思う。つねに間違っているかもしれない。でも食い違いこそコミュニケーション、だなんてやっぱり言いたくはない。渡されたものをそのまま受け取ろうとする。たまに間違えておろおろする。それでいい。だってたぶん、ずっとそのくり返しなのだ。

公園のどの池で見るどの鯉もこころを映したりしないから

(了)

 

 

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。