第6回 はらはら落ちる

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

子どもがTシャツの首元から片方の肩をずるっと出して「ねえ、ここになんか入ってる」と言う。かたいんだけど。「それは骨だよ」「ほね?」「うん」「ほねはなにするの?」

「◯◯はなにするの?」がもっぱら最近の口ぐせだ。意味とか、存在意義を何に対しても確認したがる。「骨はね、というか骨がないとね、ぐにゃぐにゃで動けないの。たこさんみたいになっちゃうの」と言うと、ふーん。とわかったのかどうか、ふしぎそうな顔でまだ自分の肩をぐりぐり触れている。

自分の身体のなかに、なんだか固いものが埋め込まれている、と子どもは思っている。ここにもあるし、こっちにもあるね。と腕や膝を触る。ママにもあるね。あるよ、ママのはもっと大きいよ。

骨より先にまず心臓がつくられる、ということは妊娠してから知った。というかそんなこと、考えたこともなかった。病院でまず心拍を確認する。ただ点滅するその頼りない粒のようなものに、やがて背骨が通る。その途方もない細胞分裂の果てに、子どもはいま自分の骨のふしぎを確かめている。

夜、布団に入ろうとすると、夫が「あ、そうだ」と台所に引き返し、すぐにまた戻ってきた。何か口に入っている。え、なんか食べてる? と訊くと「氷砂糖」と言う。そしてそのまま「おやすみ」と布団をかぶってしまった。から、ころ、と氷砂糖を口のなかで転がす音が布団を隔ててかすかに聞こえる。せっかく歯磨いたのにやめなよと言うが、返事がない。ついさっき、寝る前にチョコが食べたいとわめいた子どもに「食べてもいいけど、いつもの倍歯磨きしなきゃだめだよ」なんて言ったくせに、自分は眠りながら氷砂糖を舐めるとは。ずいぶん都合がいいもんだ、というかシンプルに虫歯になっても知らないよ、と思う。

「でも歯ってさあ、どうせ生え変わるならだいたいいまくらいの30代とかで一新したほうがいいのにね」と、もう寝ているのか、聞いているかどうかわからない夫に話しかける。子どもの乳歯に虫歯を作らせまい、と毎晩歯磨きを死ぬほど嫌がるのを追いかけながら、よくそう思う。

歯が抜ける夢をよくみる ぱらぱらと さういふふうに降る天気雨(睦月都)

10歳そこらで生え変わってから、70年とかあるいは長く生きた分、ずっとその歯を大事に使い続けないといけないなんてけっこう大変じゃないか。もしいま抜けてしまったらそれは永久歯だから、代わりは生えてくることはない。それならだいたい寿命の折り返し地点で生え変わったほうがよさそうだ。夢のなかで抜ける歯は、いつもかんたんに、それこそ天気雨のようにぱらぱらと落ちていく。抜けた歯が天気雨のようで、天気雨が夢のなかでこぼれる歯のようで、どこかあっけらかんとしている。

そもそも、わたしは「歯が生え変わる」という事実がいまでも端的に気持ち悪い。

こうして生え揃っている歯も、当たり前だが元々あった乳歯が全部抜けて生えてきたのだった。初めて前歯が抜けて、やけにすーすーして落ち着かず、その穴に舌を沿わせていたことはよく覚えている。けれどそれ以降の記憶はあいまいで、同じようにすべての歯が抜けてまた生えてきたなんて、なんだか信じられない。だいたい6〜12歳にかけてすべての歯が生え変わるらしいが、それはつまりほぼ小学生の間ということになる。

でも、たとえば教室にだれかの歯が落ちている、なんてことはこれまで一度もなかった。先生が「今日も歯の落とし物です」とちいさなその歯をつまんでこちらに見せることもなかった。そこにいたすべての子どもの20数本の歯が生え変わるのだから、学校のどこかにひとつやふたつ、転がっていたってふしぎではない。ふいに抜けてしまった歯を、みんなどうしていたのだろう。ティッシュでくるんで大事にランドセルにしまっていたのだろうか。授業中に「先生、歯が抜けました」みたいな出来事も、もしかするとあったのだろうか。あったのかもしれない。けれどなぜだかぜんぜん覚えていない。

一生に一度歯が生え変わることを、二生歯性と呼ぶらしい。歯のことを考えはじめたら眠れなくなって、スマホで調べた。ちなみにサメは数日単位で歯がどんどん入れ替わって、生涯で2万本以上の歯が生え変わる多生歯性、らしい。

夫に思わず伝えると、
「じゃあ海底にはいまもサメの歯がたくさん沈んでるんだね」なんて半分寝ながらロマンチックふうなことを言ってきた。でもそんなこと言ったら、海底には歯どころかさまざまな魚の骨が積もっている。砂浜にだってそれらが混じっているかもしれない。

 われにある二十の鱗すなはち爪やはらかに研ぎゐるゆふべ(睦月都)

骨が身体に埋まっていることを心底ふしぎがる子どもに、いまある歯はそのうち抜けて新しいのが生えてくるんだよ、と教えたらさぞかし驚くだろう。信じないかもしれない。大人になったってこんなに解せないのだから。身体のあれこれについて、普段は見過ごしているけれどほんとうはふしぎ、と思うことはいくらでもある。爪だって、たしかにふしぎだ。形も大きさも質感も、そう思えばもう鱗そのもののような気がしてくる。そんなものがわたしたちの指先には張りついている。以前、妹にジェルネイルというのを施してもらったことがあったが、力が加わってぽろっと剥がれたうす紫のそれは、まさに一枚の鱗だった。わたしたちの鱗はすこしずつ伸びるから、この一首のように研いだり切り揃えたりする必要がある。

「そうなっている」としか言いようがない。

実家にいた頃、たまたま床に落ちていた猫のヒゲが太くて、しげしげと見入ってしまったことがある。なんとなく捨てるのも憚られて、すると母に「お財布に入れるといいよ」と言われたが、縁起でもいいのだったか。猫の髭は感覚を司るセンサーのようなもの、と聞いたことがあったが、あんなに太いのが抜けてしまって大丈夫なのか。けれどまたすぐに新しいのが生えてきた。人間の髪もそうだ。毛先から伸びるものとばかり思っていたら、根元から生えると知ったのはいつだったか。だから毛根が大事なのか。怪我をしたら血が出るし、出てくるその血は赤い。赤くて、でもそのうちちゃんと止まってくれる。代謝ってものがある。汗をかいたりする。汗をかくには毛穴が要る。ごく微量でもわたしたちの体調や感情を左右するホルモンは未知すぎる。そして心臓は、いまも休まずに動き続けている。

ひとつひとつ、どれだけ合目的的で精巧なのだろう、と感心する。子どもの顎では小さくて想定の本数は収まらないから、ある程度成長した段で歯を生え変わらせる、なんてほんとうによく考えられている。これが有機体ってやつか。そういえば、わたしは生まれつき腎臓がひとつしかないが、それでもいまのところ元気に過ごしているから、そういう雑さでも案外いける、というのもまたふしぎだ。緻密で精巧で、見えないところは案外雑で、こんなのだれが考えたんだよ、と思う。

だから、なんで死ぬってことに決めたんですか、と訊きたい。訊きたい、と思うその宛先にはぼんやり創造主みたいなものを想定する。みんないつか死ぬなんて、いつ死ぬかわからないでいまを生きているだなんて、なんでそんなふうに決めちゃったんですか、と思う。そんなの、あまりに意味不明じゃないですか。わたしたちのこの歯は。骨はどうなるんですか。こんなにうまくできてるのに。こんなに精巧なのに。おまけに頑丈。そっか、歯も骨も残るんだよな、と思う。死んで、燃やしたって残るんだ。ますます滑稽だ。めちゃくちゃに燃やして、脆くなったそれを砕いて大事に持って帰る。そのときには骨も歯ももう一緒くたで、というかそれはもう粉で。そうか、骨になる、っていうより粉になるのか。わたしたちは丁寧に、時間をかけて粉になる。その事実について、いったいどんな感情でいればよいのだろう。

翌朝、夫が「ねえ、サメの歯が海底にたくさん沈んでるってすごいロマンチックじゃない?」と起きぬけに言う。昨夜寝言でつぶやいたことを覚えていたらしい。えーなんか陳腐じゃない? それよりわたしは校庭のあちこちに子どもたちの乳歯がたくさん散らばっている光景を想像する。もうこれまでに抜けた自分の乳歯がどこにあるのかなんて、わからない。というか、わたしたちは髪も爪も、自分の身体の一部をはらはら落としながら、生きている。秋の朝のひかりと一緒にそれらを掃除機で吸い込んで、けれどなんとも思わない。歯や骨が最後まで残る滑稽さは、やっぱり解せない。

はなびらをひろい集めて花とするようにいびつな人体模型(塚田千束)

(了)

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。