第5回 もしもぶつかれば

やさしい夫がいて、かわいい子どもがいて、食卓には笑いがたえなくて。実家の両親はたのしく暮らしているし、おばあちゃんも気丈で元気だ。なのにどうしてこんなに不安で怖いのだろう。明日あの角を曲がると、奈落が待ち構えているのかもしれない……。誰も死んでほしくない。死なれたくない。なにげない日々の出来事から生の光と死の影が交錯する、おだやかで激しい日常の物語。

隣のひとのフライドポテトを盗み食いしそうになったことがある。

もう何年も前、東京のあるカフェでわたしは誰かを待っていたのだったか、それともただ時間を潰していたのだったか、とにかくひとりでぼんやりしていた。すると、隣の席に熱々のフライドポテトが運ばれてきた。けれど男性客は、ポテトを置き去りにして席を立つ。トイレか、電話か。視線のすぐ先には揚げたてのポテト。なぜ、ひとの注文した食べものはこんなにも美味しそうに映るのだろう。暴力的ですらある。横からひょいっと一本つまんだって、きっとばれない。わたしはもうほとんど、手を伸ばしそうだった。子どもだったらたまらず食べてしまっていたかもしれない。あの、見知らぬひとのポテトの異常なまでのかがやきのことを、よく思い出す。

あるいは、わたしは文鳥がこわい。

文鳥は、うつくしい紅色のグラデーションの嘴に、からだは真っ白で見るからにすべらかである。陶器のようにつやつやしている。けれど実際に間近で見たことはほとんどなく、SNSでよく目にする。文鳥は、そのひとの手のひらにすっぽりと収まっている。親指でやさしく撫でられて、とても気持ちよさそうだ。けれど、わたしにはその光景がおそろしい。わなわなしてしまう。もしも「どうぞ、触ってみますか」と手渡されたら、その瞬間に無表情で文鳥を握りつぶしてしまうのではないか。想像するだけでどきどきする。とにかく文鳥がこわい。その無防備でつやつやの、真っ白な命がこわい。文鳥を大切に飼育しているひとは、決してわたしに文鳥を触らせないでください。ひとたまりもありません。そのうつくしさは、遠くから眺めるだけで十分だから。

たぶん、多くの人は自分自身の振る舞いに自信がない、というか、より正確には、自分の中に眠っているものが、何かの拍子に急に目覚めて、とんでもないことをしでかす可能性を否定しきれないまま、生きているのだろう。(『鳥肌が』穂村弘)

そうかもしれない、と思う。しかしわたしの場合は「文鳥を握りつぶすかもしれない」という自覚がすでに、ある。わかっていれば文鳥に近づかなければいいだけだ。「赤ちゃんを手渡されたら窓から放ってしまうかもしれない」、「低い柵の屋上で自分をぽいっとしてしまうかもしれない」といった例を挙げながら、穂村弘はそれを、何をしでかすかわからない「自分フラグ」と呼ぶ。

いま、アパートの三階に住んでいるということ自体に、ふと発狂しそうになることがある。ここへ引っ越す前は一階に住んでおり、今度は見晴らしのいい部屋にしよう、と軽い気持ちで決めたのだった。けれど、子どもが生まれてからは事情が変わった。三階は、子どもがうっかり落ちれば死んでしまう高さである。いくら窓の近くには物を置かない、不用意に窓を開けない、など対策を取ったとしても、「もしも落ちれば死ぬかもしれない」高さにこうして暮らしているということ自体が、どうにも恐ろしい。たとえ頼まれたとしても、タワーマンションには絶対に住みたくない。

玄関を出るタイミングで、家のすぐそばの踏切の音が聞こえると、二歳の子どもは決まって「ママ、電車だよ!だっこして!」とせがむ。地上からだとよく見えないので、階段の踊り場からこうして電車を見送りながら、身を乗り出そうとする子どもをしっかりと抱き抱える。落ちないように。子を抱えて何度となく見せてきた、三階の踊り場からのこの景色。

もしここでわたしが手を離してしまったら。そう想像してはゾッとする。もちろん離すわけがない。しっかりと子どもの身体を抱え直しながら、けれどどうしても、想像してしまう。なぜなのか。

穂村弘は「自分で自分をぽいっと捨てちゃうフラグ」について、「『飛び降りる気はない』のに『絶対に飛び降りてはいけない』と思うと、マイナス×マイナスで実行してしまいそう」と書いているが、その心情に近いのかもしれない。絶対に子どもを抱える両手をゆるめてはいけない。そう思いながらほんとうには、わたしはありありと想像してしまっている。子どもの身体がふわっと宙に放られてしまうことを。その一瞬の出来事は映像としてすでに脳に焼きついている。ほとんど擦り切れたそれを再生しながら、もはや刷り込まれた現実のように錯覚するとき、脳がバグってしまわないかと、たまらなくおそろしい気持ちになるのだ。

こんなことなら、もういっそ地下に暮らしたい。けれど、似たようなことは生活のなかにいくらでも溢れている。使い切った炭酸水メーカーのガスシリンダーを交換しようとしたときのこと。箱から取り出したそれはずっしりと両手に余る大きさで、ちょっとした鈍器であった。これで思いっきり殴ったらひとは死ぬのだろうな、と思う。むろん、そのときに浮かぶのは憎いだれかではなく、すやすやと眠る夫の横顔であったりする。なぜ。そうしたいわけじゃないのに。

台所のシンクの扉を開ければ、包丁がある。毎日、それを握って料理をする。それが凶器として使われることがあるという事実を、普段は忘れている。刺せば血が流れる。より注意深く刺せば、ひとは死ぬ。なぜなのだろう、そんなことひとつもしたいわけではないのに、いつもこうして想像することをやめられない。

あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな(永井祐)

一行書きで、三十一文字であるがゆえに、これが短歌であるとわかる。そうでなければあまりにもポエジーからは遠い、これはもはやありのままの「実感」である。「あの」とあるからその場所からは距離がありそうだ。青い電車が滑らかにホームにやってくるのを目視しながら、ぼんやりと思う。絶望でも恐怖でもない、ただそれを実行すれば「はね飛ばされたりする」という事実がここにある、そのままの実感が一首に収められている。

「そうなってしまう」可能性がここにあることそれ自体が、わたしはこわいのかもしれない。ポテトを盗み食いするくらいなら、まだお金を払って謝れば許してもらえるかもしれない。けれど、もしもガスシリンダーで眠る夫を振りかぶって殴ってしまったら。身を乗り出した階段の踊り場から、子どもが落ちるあの映像通りに両手を離してしまったら。青い電車が滑り込む、ホームにあと一歩大きく踏み込んだとしたら。

やっぱり、可能性はそこらじゅうに満ちている。そんなことしたくもないはずなのに、なぜ飽きずにこうも考えてしまうのだろう。どろどろに溶けた鉄屑のなかに、どんどんおもちゃが放り込まれるという謎のYouTube動画を子どもと見ていたとき。あそこに落ちてしまったらどれくらい痛くて、どれくらい意識はあるのだろう、などと思う。想像しながら、恐れと同時に、なぜかうっとりと恍惚している自分に気づく。全然、やりたくない。死にたくない。なのに、なぜ。

昔から、少し前まではここになかったものを思っては不思議な気持ちになることがあった。誕生日にうちへやってきたハムスターは、当たり前だけれど昨日まではここにはいなかった。でもいま、目の前の新品のケージのなかにいる。さっきまでなかった切り傷や、いま降りだした大雨。たまに高熱を出せば、元気に走り回っていた昨日のことが遠い昔のように思える。いまはこんなに苦しいのに。一年前はここにはいなかった、妹。なかったものがある、その変化が不思議で、どちらかというとそれはポジティブな気分と結びついていた。しかし長じるにつれ、同時多発テロや震災など、決定的に世界が変わってしまうようなことが起きるたびに、昨日までは平和だった(はずな)のに、ついさっきまでたしかにあった日常が攫われてしまった、と思うことがどうしてもこころに残るようになった。みんなに共通の出来事として記憶され、都度語り直されるというのも大きいかもしれない。去年の今頃はコロナなんてなかったのに、とか。常に何かは起こる前で、そして、もう起こってしまった後なのだ。目の前の景色は何も変わらないのに。世界は残酷だ、なんて勝手なことを言うのではない。

死もそれに似ているのではないか。「いつか死ぬ」という可能性だけがずっとある。いまも、わたしの背中に張り付いている。背中だから見ることはかなわない、触ろうとしても手は届かない。死にたくなんかない、とずっとずっと思ってきた。自分が死ぬことも、誰かが死ぬことも、こわくて仕方ない。なのに、こんなにも想像してしまう。いまここに「あった」ものがなくなってしまうことが死であるなら、それはどんなに恐ろしいことだろう。何度想像しても、やっぱり全然わからない。あったものがなくなることを、わたしはまだ、うまく想像できずにいる。

 かんこは、霞む視界のなかに街を見た。誰かが突っ込まなかった交差点がある。誰かが飛び降りようとしたビルがあり、飛び込めなかった線路がある。誰かが首を吊ろうと縄をかけた杉の木があり、一家心中を起こしかけた車がある。街は張り詰めていた。何かが、起こるか起こらないかの違いで、その気配は常に迫っているのに街はいやに平和に見える。むしろその突発的に起こる事件の気配まで含めて、平和そのものだった。(『くるまの娘』宇佐見りん)

つねに何かが起こる前であると思えば、世界はいまこんなにも張り詰めている。この数秒間で、何が起きているのか。目の前の景色は変わらない。

九月も終わろうというのに、まだ蝉が鳴いている。下校する小学生の弾んだ声が聞こえる。平凡としか思えない平日の午後、部屋のなかのわたしは、数時間前のわたしと何も変わらない。けれど、ベランダに朝から干していた洗濯物はもう乾いているだろう。そんな些細な変化にしか、気づくことができない。

ほんとうには何が起きるのか、起きているのか。誰かがいまこの瞬間に死を選んでも、目の前の世界は変わらない。変わったようには見えない。わたしの身に起こったことでなければ、変わったようには思えない。世界はなぜこんなにも、わたし以外のすべてに無関心なまま振る舞うことのできる、できてしまう恐ろしい場所なのだろう。わたしは昨日の空を覚えていない。一年前のこの秋の空気を覚えていない。同じスピードで夜が来て、同じように朝が来る。何も変わらなかった、と安心して胸を撫でおろす、その瞬間にどこかで起きる世界の変化を、わたしは見逃しつづけている。

 

堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)、連載に「わからなくても近くにいてよ」(だいわlog)、「うちにはひとりのムーミンがいる」(晶文社)がある。