第2回 夢のPDCA

『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

「夢の話」と入力すると「つまらない」「どうでもいい」「しない方がいい」といった言葉が検索ワードに並ぶくらい散々な嫌われようだが、わたしは夢の話が好きだ。

最近見てつらかった夢はモーニング娘。'23のオーディションを受ける夢で、わたしはダンスの審査を待っているところなのだが、まだ受かってもいないのに「合格してもわたしのスキルでは他のメンバーに迷惑がかかるのでは」「けれど早々に卒業するにしても、加入してすぐのメンバーの卒業ライブとなるとファンの人もどのような気持ちで臨んでいいのかわからず困惑するのではないか」などと悩み、オーディションの辞退をいつ言い出すべきかタイミングをうかがっていた。なぜそんなに合格できる自信があるのか、そもそも何目線でそんなに悩んでいるのかよくわからない。

そんなことも含めて夢の話題を許してくれる人がいると嬉しくなってすぐに話し、相手の夢についてもあれこれと尋ねてしまうのだが、夢の中でよくあるケースは「足がもつれてうまく歩けない」だ。これは比喩としてもよく使われるので多くの人にあるのだと思う。わたしも長年苦しんできた。うまく歩けないがために追ってきた殺人鬼にめった刺しにされたり、苦手な知り合いにつかまって執拗に話しかけられて困ってきた。駅のホームに向かう階段をうまく下りられずに乗り遅れた電車は数知れない。

けれどあるとき夫にその話をすると、「後ろ向きに進めばいいんだよ」と当たり前のように言うので驚いた。

夫は足がもつれるのとは少し異なり、「前に進もうとするとポワーンポワーンって足が浮き上がって全然前に進めない」タイプらしいが、そんなときでも後ろ向きならばスムーズに進むことができ、なんと走ることもできるらしい。「もちろん、ちゃんと進行方向をよく見てぶつかりそうなものがないか確認しなくちゃだめだよ」とまで言う。

エクセルの便利なショートカットキーを教えるようにアドバイスし、「やってみなよ!」と実際に後ろ向きに走る動作をする夫にわたしは軽く戦慄を覚えた。夢の中のライフハックをていねいに教えてくれる夫に対して「なんていい人なんだ」という感嘆と「それって他人の夢でも有効なんだろうか」という疑問が頭の中でぐるぐると回っていた。

だいたい、夢の中の行動というのはそんなに自分の意志で改善できるものなのだろうか。わたしはこれまで夢の中だとうまく歩けないことを自覚していたものの、歩く方法を探そうと考えたことすらなかった。どうしてそんな方法を見つけたのかと夫に尋ねると、「確かに“初回”はうまく歩けなかったけど……」と少し言葉を探したのち、「でもその次からこの方法に気づいて、毎回夢の最初は歩けなくてもすぐにこの方法が思い出せるようになった」と言う。

わたしは新卒で入社したばかりのころに受けた研修の「PDCA」という言葉を思い出した。P(Plan計画)、D(Do実行)、C(Check評価)、A(Action改善)のあれだ。そういえば入社したときは社内のいろいろな場面で聞いたこの言葉は、最近はなぜかあまり聞かない気がする。この言葉が持つ「問題解決!」「次の高みへ!」みたいなポジティブさが少し苦手だったが、過ちを振り返らない、あるいは起こっている問題をきちんと問題として認めない社会に同調しているんだとしたらそれはそれで嫌だと思う。

しかし夫もやはり夢の中での困難なことはまだあるらしく、最近は「エレベーターを自分の狙った階で降りられない」ことが課題らしい。「本当は8階で降りたいんだけど、エレベーターが行きすぎちゃって10階あたりにいて、次は下がって降りようとしてもまた行きすぎて今度は5階あたりにいる」というのを延々と繰り返し、いつまで経っても目的の階にたどり着けないという。

こういうのを悪夢と呼ぶのだろうかと思いながら話を聞いていたものの、夫は試行錯誤をしているらしく、「最近は8階に着きたいときはあえて6階のボタンを押すようにしている」と言う。それでもあまりうまくいかないらしいが、わたしは夫が希望通りの階でいつか降りられることを応援している。

そして肝心の「後ろ向きに歩く」だが、まだうまく試せていない。足がもつれて歩けないというシーンは変わらずよくあるものの、後ろ向きに歩くことを夢の中で咄嗟に思い出せず、相変わらず追ってきた殺人鬼にめった刺しにされたり、苦手な知り合いにつかまって執拗に話しかけられたり、駅のホームに向かう階段を下りられずに電車に乗り遅れ続けている。

それがわたしのPDCAの至らなさなのか、「足がもつれて歩けない」と「足がポワーンポワーンと浮き上がって前に進めない」という歩けなさのタイプのちがいによるものなのかはわからないが、夢の中での対応策を共有できないという事実が夫と自分が言うまでもなく他者であることを思い出させ、他者の隣で暮らすことの喜びがささやかに瞬く。

「おやすみ」と毎晩眠る前に他者は必ず言う。「良い夢を見てね」とも。

 

今まで見た一番嫌な夢は、夢に現れた上司に「うちの会社、夢の中を監視できるシステムを作ったんだよね」と言われる夢だ。あれは本当に嫌だった。

 

 

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。著作に『休館日の彼女たち』。