第9回 牡蠣が見せる夢

『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

また、あたった。
宝くじの話ではない。食べ物のことだ。
3月の終わり、窓の外では桜のつぼみがふくらんでいるらしい。散歩でよく歩く川沿いに行けば、遊歩道は温くなった水のにおいと生き物の気配に満ちているのだろう。天気はすばらしく、マンションの部屋の中まで透明な明るさに浸されている。天井に流れる光の文様を眺めながらわたしは一人、寝室で横になっていた。ウイルス性胃腸炎だった。

見当はついている。2日前に食べたフレンチだと思う。結婚記念日ということで夫とお邪魔したお店はクラシカルなフレンチレストランで、コースをお願いしていた。メインの牛肉のシンタマのローストもおいしかったし、個人的には2皿目のさっとソテーしてガスパチョソースと合わせたイカがすごく好きだった。いくつかの料理ではジビエや生の貝類が出て、自分にとっての黄信号が途中で何度か灯った。けれど別にアレルギーがあるわけではないし、何度か来たことのあるお店だから大丈夫だろうとそのままコースを横断した。夫もおいしそうに食べ、その後も変化がないから、お店の調理に問題があるとは今も思わない。良い夜だと思いながら帰宅した。
けれどそれはやってきた。夜中に痛みで目覚めると、お腹の中で何かがのたうち回っているのがわかった。哀れな胃腸は暴れるそれを進ませることも戻らせることもできないようだった。薬を飲もうにも体が動かず、なんとか隣で眠る夫を起こし、胃腸薬を持ってきてもらった。薬を飲んだ後もそれはしばらく暴れ続け、明け方に痛みが通り過ぎるとようやくわたしは再び眠った。そして目覚めると熱があった。

思えばずっと、一人で何かにあたっている。一番の宿敵は、今回は食べなかったけれど生牡蠣だ。ちゅるりとしたその身にレモンをしぼり、頬張ってから白ワインを飲む。とてもおいしい。とてもおいしいから、友人がオイスターバーに誘ってくれる。夫が仕事で知り合った養殖所から送ってもらう。大いに食べる。とてもおいしかったから、幸せな気持ちで帰宅し、眠りにつく。腹痛で夜中に目が覚め、トイレに駆け込む。翌朝になると発熱し、病院に行く。とてもおいしかったな、と思いながら診断名を告げられる。それを繰り返している。一緒に食べた人たちは何事もないというのに。
そう話すと、親切な人たちはまず「アレルギーなんじゃないの?」と言い、いや、牡蠣フライなど加熱したものだと大丈夫なんですと返すと次に「じゃあここの生牡蠣なら絶対にあたらないよ」と言っておすすめのお店や養殖所を教えてくれる。「絶対にあたらない牡蠣」と「絶対にあたるわたし」の戦いが始まる。結果は今のところ、わたしの完勝である。真っ暗な寝室で目覚めて痛みと気分の悪さに悶え、「また勝ってしまった」と思いながらトイレへと急ぐ。完勝だけど、状況としては完敗である。

けれどわたしは、具合が悪い日に本を読むのが好きだ。子どものときもそうだし、今も好きだ。今日は学校や仕事を休むのだと決めこみ、母や夫に準備してもらった温かい湯たんぽを抱えながら昼間のベッドに潜りこむ贅沢。眠るためにカーテンはしめるけれど光を完全に締め出すことはできず、寝室の天井や壁は夜のそれらとはちがう穏やかな表情を浮かべている。もちろん起き上がっているのがしんどいわけだからこうして眠って体を休ませるわけだけど、眠りと眠りの間の、しかし次の眠りはしばらく来てくれなさそうだというときに、傍らに置いていた本をぼんやりと読む。具合は悪い、しかし数日で回復するだろうという自信によって支えられている、ずいぶんと安楽な趣味だと思う。
よいのか悪いのか、文学者の中には病弱な人が多く(数えたことはないけれど、不健康なアスリートよりは不健康な作家の方が多いと予想する)、健康な作家が書いたものも含め、小説には軽い風邪から結核やペストまでさまざまな病気が登場する。ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』は、帰宅途中の少年・ミヒャエルの嘔吐から始まる。ミヒャエルは介抱してくれた年上の女性・ハンナと恋に落ちる。ハンナは実は第二次世界大戦中にユダヤ人の強制収容所で看守をしており、そして文字が読めない。そうとは知らず、ミヒャエルはハンナに乞われてさまざまな物語を朗読する。ハンナはあるとき、ミヒャエルの前から姿を消す。
『朗読者』を読みながら、ハンナは病気のときは何をしていたのだろうと考える。わたしはこうしてベッドで本を読んで回復を待っているが、文字の読めないハンナならどうするのか。物語を読むことは、ここではない世界があることを思い出させてくれる。もちろん、人によっては読書でなくてもそんなことは簡単に思い出せるのかもしれないけれど、病気で体が思うように動かないときは読書がもっとも親切な友人であるようにわたしは思う。自らの過去を話して周囲に心を開くことも叶わず、読書をして他の世界へと思いを巡らせることもできずにベッドに臥せるハンナを想像する。その様子はやがてぴたりと固く口を閉じた孤独な二枚貝へと変わる。けれど貝の様子を思い浮かべるうちにわたしの頭は次第に鈍り、また眠ってしまう。ひどく暗い夢を見る。

そういえば小説の新人賞に応募をした日の夜も、わたしは懲りずに牡蠣を食べていた。締め切り当日の夕方に原稿を送ったものの印刷に不備があったことに気づき、もう一度印刷し直して夜中も営業している郵便局に出しに行った。帰ってきたのはもう少しで日付が変わるというところで、家にあった牡蠣を夫が蒸してくれて食べた。加熱すれば大丈夫かと思ったが駄目で、翌日の夕方、会社で打ち合わせをしているときに吐き気がしてトイレに行った。
トイレから戻ったわたしの顔色がよほどよくなかったのか、打ち合わせをしていた同僚は「早く帰って休んだ方がいいのでは」とすすめてくれた。その言葉に甘え、「帰って薬でも飲もうと思います」と話すと、同僚は「薬はあまり飲み過ぎない方がいいと思う」と小さな声で言った。どうやら妊娠のつわりだと思われていたようだった。
妊娠したと主人公が周囲に嘘をつくその小説で、わたしは小説家になった。

 

 

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。著作に『休館日の彼女たち』。

第8回 2月の日記(後半)

『空芯手帳』『休館日の彼女たち』、ユニークな小説2作を発表し、国内外で注目を集める作家・八木詠美。本書は著者初のエッセイ連載。現実と空想が入り混じる、奇妙で自由な(隠れ)レジスタンス・エッセイ。

2月15日
会社の同僚たちとオンラインで打ち合わせ。本題の話をしつつ、お互いの近況も少しずつ報告。わたしは時短勤務だけど、同僚たちはフルタイム勤務。勤務時間が2倍なのでストレスも2倍、ではなく2乗しても到底足りないくらいで、話の端々に疲れと怒りがにじみ出ている。
「この話、いつか小説にしてね」と彼らは言う。まだ形になっていなくて申し訳ないけれど、どうか待っていてほしい。今頭の中で発酵させているから。

 

2月16日
会社の仕事のため外出。社外の方と打ち合わせ。すごくエネルギッシュな人で、会った後は元気になる。この2、3年はオンラインでときどき話していたけれど、対面で会うのは久しぶりだった。
コロナ禍で最初の緊急事態宣言が明けたあと、用事があって新宿の伊勢丹に行った。たくさんの生身の人が行き交う中、人ににおいがある、と驚いたことを覚えている。バターたっぷりの何かの箱を持ち歩く人、木工ボンドっぽいにおいがする人、お揃いのコーディネートだけどまったく異なるにおいがする2人組。オンラインの画面からは伝わってこないにおいの情報量に圧倒された。外見や声よりも、においにこそ隠し切れないその人の性質が出るような気がした。
生身の人間はスパイスが効いている。

 

2月17日
気になっていたギャラリーに行く。かつて歯科医院だったという建物のドアを開けて靴を脱ぎ、二階に上がると古い器や調度がゆったりと並んでいた。
明治時代に灯明皿として使われていたという銅の器を買う。ところどころに入った緑青が冬の池の水面に射す光のようにも、岩間に息づく苔のようにも見えて、家でずっと眺めている。

 

2月18日
一日中家にいた日。小説の続きを書く。

 

2月19日
小説の続きを書くものの、自分が主人公についてあまりに知らないことに呆れる。この人は、誰?

 

2月20日
編集者の方と小説について打ち合わせ。汗ばむほど暖かい日で、帰りは少し遠回りをして歩く。通りかかった公園で花を眺める。濃いピンクの蕾。
いつのまにか消えてしまったけれど、以前は花の種類を調べられるアプリをインストールしていた。カメラを向けるとその花の種類や分類が推定され、表示される。夫がわたしにカメラを向けると、画面には「イネ科」と表示されていた。

 

2月21日
近くに住む作家と編集者の方々と食事。こうした年上の方々が集まる、でも仕事ではない場所に、何を着ていけばいいか未だによくわからない。場所にもよるし、変に畏まっていてもおかしいし、でもあまりにラフでは失礼な気がして、結局いつも「強そうな後輩」というテーマで洋服を選ぶ。「強そうな後輩」に明確な定義はないが、何かトラブルが起きたときに意外な能力や武器で助けてくれそうなイメージ。アイテムとしてはヒールが鋭利なパンプスなどが該当する。お花見ではアクセサリーの代わりとして胸ポケットに栓抜きを入れていった。スワロフスキーからメリケンサックみたいな指輪が出ていると知ったときは思わず買いそうになった。
今日お邪魔したのは川魚のお料理を出すお店でどのお料理もおいしかったけれど、悪天候のせいか他にお客さんが誰もいなかった。

 

2月22日
ネットやラジオで「今日はにゃんにゃんにゃんの日ですね」と猫の話題を多く見聞きする。
家の猫は普段「むるむるっ」と鳴く。「にゃん」「にゃー」と鳴くと、こちらがびっくりして「どうしたの、猫みたいに」と尋ねてしまう。

 

2月23日
『夜明けのすべて』を観る。観終わった後、世界が透明に、明るく見える映画だった。

 

2月24日
ウクライナへの侵攻開始から2年。終わらないまま報道を目にすることが少なくなってきた戦争や紛争と、世界のどこかで誰かが血を流していることと、わたしはどのように向き合い続けることができるんだろう。

 

2月25日
スヌーピーミュージアムに行く。PEANUTSは昔から好きだけど、決定的に好きになったのはスヌーピーの言葉は人間のセリフとは吹き出しの形が異なり、スヌーピーの考えていることが目の前の人間に伝わっていないという設定を知ったときだったと思う。その設定におかしさと切なさが漂いながら、けれどときどき見せるチャーリー・ブラウンとスヌーピーの結びつきが愛おしく、『完全版 ピーナッツ全集 全25巻』が出たときは迷わず全巻予約した。
会社に行ったりSNSを見ていると、人間同士で同じ言語を話していても唖然とするほど会話が成立していない場面を目にする。スヌーピーの吹き出しに入れられればいいのに。

 

2月26日
ハンガリー語の翻訳者の方から、自著について質問のメールが来ていたのでお返事をする。ハンガリーでは日本語に精通した編集者の方が少ないので、日本の小説は英語版やドイツ語版と照らし合わせながら編集されているとのこと。翻訳者と編集者で解釈が異なる箇所もあるそうで、いくつかの質問にお答えする。
こうして翻訳者の方とやりとりをしていると、主語や目的語を頻繁に省略する日本語というのは翻訳する際厄介なんだろうなと想像する。海外からの書面でのインタビューが来たときは、わたしが日本語で答えたものを翻訳していただくことになるので、なるべく言葉を省略せず、時制などもわかりやすくと心がけるが、それを続けていると、いざ小説を書こうとしたときにリズムが狂って書けなくなる。わたしは何によって文章を書いているんだろうか。

 

2月27日
ホタルイカを買う。食材としても好きだけど、その姿がスーパーで買える宇宙人という感じがして、見かけるとつい買ってしまう。ジャガイモと空豆と炒めるべく、ひとりで黙々と下処理をする。ホタルイカの目玉とくちばしが台所を転がる音を聞いた日が、春の始まり。

 

2月28日
確定申告の書類を税理士さんに送る。去年から税理士さんにお願いするようになり、すっかり楽になった。
思えばわたしは確定申告というものを過剰に恐れていて(小説を書くまで年末調整しかしたことがなかった)、新人賞に応募した作品が最終候補に残ったと知ったときも、受賞したときは賞金を、受賞しなくても最終候補作として冊子は掲載した場合は原稿料をお支払いします、と編集者の方から説明を受けてまず「それって確定申告をしないといけないのでしょうか……?」と質問していた。憧れていた作家の方にお会いしても「この人からあの作品が生まれたんだ」という感動に加えて、「この人も確定申告をしているんだ」という妙な感慨が湧き、何をどこまで経費に入れていいのか尋ねたくなる場違いな衝動と戦わなければならなかった。税理士さんにきちんと相談できるようになって本当に良かったと思う。

 

2月29日
4年に一度の日。こうして日にちを書くだけでも、幻の日に迷い込んでしまったような気分になる。この日に生まれた人は「閏年以外の年はいつが誕生日なの?」「4年に一度しか年をとらないの?(笑)」ときっとうんざりするほどよく質問されているだろうから、せめてわたしは尋ねないようにしようと思うのだけど、わたしにはこの日に生まれた知人がいない。

 

 

1988年長野県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。2020年『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞。世界22カ国語での翻訳が進行中で、特に2022年8月に刊行された英語版(『Diary of a Void』)は、ニューヨーク・タイムズやニューヨーク公共図書館が今年の収穫として取り上げるなど話題を呼んでいる。著作に『休館日の彼女たち』。