フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
最終回

絶滅──「マイルドな優生学」による「淘汰」を正当化できるか?

2026.01.19
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
  • 「絶滅」という気分

     最終回における今回は、「絶滅」をキーワードにし、弱者男性やインセル界隈における気分のようなものを分析し、それについて考えていく。

     Ⅰでは、「マイルドな優生学」による淘汰をされているという弱者男性やインセルたちの主張について、マノスフィアにおける進化心理学的な視座との関係で検討していく。Ⅱでは、絶望感とニヒリズムのあまり、戦争や世界の滅亡や破壊、暴力や死すら享楽の対象とすらしてしまっている一部の者たちにおける「黙示録的な情動」を分析し、人類絶滅や終末論的な気分との結びつきを論じたうえで、それを克服する道を探る。

     なぜ「絶滅」を話題にするのか? それは、弱者男性、インセル、マノスフィア界隈を観察していると、「絶滅」が話題に出てくることが多いからだ。典型的なのは、自分たちは異性に相手にされず結婚や出産の機会に恵まれず、「絶滅」させられかけている、淘汰されており、マイルドな優生学が実質的に実行されている、というものである。同様の認識の図式は白人至上主義者たちにも共有されており、移民たちが押し寄せることで自分たちが「絶滅」させられるという意識が語られることが見受けられる。

     同時に、リベラルやフェミニズムを非難するときにも、「絶滅」が論点に上がることがある。その個人の自由を大事にする思想のせいで人類は恋愛や結婚や出産をしなくなり、エゴイズムによって絶滅に向かっていると言うのである。それは保守派・宗教右派の主張の中核にあるものであり、世界的な対立の論点になっているものである。

     さらに、そこに、時代精神というか、ある種の気分も影響してくる。産業構造の変動により没落感を覚える中間層だけでなく、AIや戦争、環境危機やグローバル資本主義の機能不全や格差の拡大などで、人類が絶滅するかもしれないという機運も高まっている。それはSF的な空想や杞憂などではなく、ニック・ボストロムらが存亡リスクとして本気でシナリオを立案し、政策や企業の戦略に影響しているものである。前回書いた方向も、ひとつの存亡リスクであり、愛着や性愛のレベルにおいて人類がこれまでと異なったあり方に変わっていくシナリオの一つである。

     筆者が観察していると、日本でもアメリカでも、弱者男性やインセルたちは、トランプを支持している傾向があり、そこでは「世界がめちゃくちゃになってしまえばいい」「終わってしまえばいい」という感情が見え隠れすることがある。自分を救わず追いつめた世界への復讐心だろうか、勝ち負けが固定してしまったように感じる状況では世界が混乱し流動化した方が「ワンチャン」あるからだろうか。

    Ⅰ 「マイルドな優生学」による淘汰は善か悪か

    「マイルドな優生学」による淘汰

     最初に考えたいのは、「淘汰」という考え方についてである。先に注釈しておくが、ここから書くことは、マイルドな優生学によって自分が「淘汰」され絶滅に追いやらていると感じている人たちの考えを、観察に基づき言語化して提示するものであり、筆者自身の主張であると誤解はしないでほしい。優生学など社会的タブーに触れていること、進化論の理解が正確でないことを、筆者は承知している。

     欠陥を持つ「弱い」人間は再生産せず、淘汰されることで、次世代はよくなるのではないか、だから、「弱者男性」は黙って淘汰と滅びを受け入れるべきである、嫌であれば競争に勝って自分の価値を示せ、というメッセージを、弱者男性たちは社会から浴びていると感じている。

     弱者男性やインセルたちは、「女をあてがえ」「皆婚に戻せ」と言う。一方、SNSを見ていると、かつての皆婚時代は欠陥のある男と女が結婚させられており、毒親などになっていった、自分はそれで子供として苦しんだ、女としてそのような男と一緒になりたくないし、メリットもない、だから、結婚も出産もしたくない、という女性からの意見がある。

     これに対し、男性の一部は、女が選り好みするようになりエゴイスティックになった、そのせいで恋愛や結婚や出産ができなくなっている、女のわがままである、だからリベラルやフェミニズムはそれを促進し悪である、という論調がある。これがネットにおける男女対立の基本的な軸の一つである。

     女性の一部が言うように、毒親になったり妻が苦しむような性質を持った男性たちと結婚し出産する女性が減っていけば、そのような性質の持ち主の遺伝子は「淘汰」されることになっていくだろう。そういう「淘汰」される側になってみると、自分を含むある一群が「絶滅」に向かっているような気分になるだろう。

     では、この「マイルドな優生学」と呼ばれているものは、良いのか悪いのか、どう考えたらいいのだろうか? 優生学が悪いということは、一般的に合意が得られるだろう。しかし、果たしてこれは優生学なのだろうか? 自由意志による異性・生殖の選択であり、自由意思はリベラルな社会において尊重されるものだから、これを優生学とは呼ばないだろうと思われる。とはいうものの、その自由意志や感情による選択が、「結果として優生学になっているではないか」ということを、彼らはその用語法で言いたいのだと思われる。

     これに対する「説明」=正当化・合理化の物語として、マノスフィアにおける考え方で支配的なものは、進化論を用いたものである。女は強いオスが好きだから仕方がない、それが進化論の必然、弱肉強食、適者生存、だから強い男になれ、というわけである。進化論は、新自由主義時代のマスターナラティヴとして機能しやすいのだが、その視座に立つと、このような世界観になる。「淘汰され絶滅してもそれで良いではないか。人間は職業も性愛も競争であり、不平等であり、力の有無が勝敗を決する残酷で無慈悲なものである。生物は生き残る競争をしており、弱者が敗北し滅びるのは自己責任である」。このような冷たい審判を社会から受けているように感じ、内面化し、「男磨き」に勤しんでアルファを目指し、その世界観が強化されればされるほど自身の「淘汰」を必然と受け取ってしまうという悪循環が存在しているように思われる。

     結論を言うが、その悪循環と、進化論の誤用から逃れる必要がある。進化論を内面化してしまうのは新自由主義社会のメリトクラシーのせいであり、それも改善される必要がある。そして、そのような競争と上下によって異性を獲得するという世界観から離脱しなくてはならない。 

     進化心理学という「物語」

     自分がモテない理由、そして「淘汰」されかけている理由の「物語」として、進化論が機能しやすい傾向がマノスフィアにはある。特に、進化心理学が異性の行動理由として採用されることがある。進化心理学自体は有意義な学問であり、その分析に正当な部分はあるが、それがニヒリズムと非人間化にまで至ってしまうところに、マノスフィアの問題がある。

     たとえば、女性を進化心理学的に解釈し、強いオスや金持ちに靡くマシーンのようなものと見做す「フェモイド」(女性型ヒューマノイド生物female humanoid organism)という考え方がある。エリオット・ロジャーも、安直に、ハイブランドの服を着て、そのような思想を実践していたように見える。ナンパ師(ピックアップアーティスト)たちも、女性をそのようなマシーンと見做し、恋愛工学・マニュアル的にハックし落としていくゲームを楽しんでいる(ホストなどもそうであろう)。

     これは、悲しいことに、実際に有効であったりもする。統計的に見れば収入の多い男性の結婚率は高いし、堂々と振舞っているように見せかけることで好意を引き出せるなどの現実は確かにある。人間の感情や判断はそのようにハックできる。

     このような見方が徹底すると、女性のみならず、男性も含めた人間も、単なるマシーンにすぎないように見えてくる。進化によって設計された脳や身体が、特定の刺激に反応し誘導されるマシーンのようにしか見えず、人類も生命も意味や価値も失ったニヒリズムのようになっていくのである。それは自分自身に対しても及ぶ。性欲が生じることも、孤独がつらいのも、愛を求めてしまうのも、進化のプロセスで脳がそう設計されただけのことでしかないのだと、それなりの知能があれば分かってしまうからである(女性のみがマシーンで、自身はそうではないという妄想的な自己愛と思い込みがあるからこそ、差別になるのだろうが、フェアな知性により進化心理学を採用していれば、自身もそのような機械に過ぎないと考えざるを得なくなる。実際、「モイド」=男性型ヒューマノイド生物という概念もある)。

     この状態を、「進化心理学的な機械論によるニヒリズム」、略して「進化機械ニヒリズム」と呼ぼう。

     男たちの「お気持ち」の問題

     以前に、筆者は「システム脳」「共感脳」の特徴について記し、その偏りが弱者男性やインセルの問題に影響しているのではないかと示唆した。それは異性との交友や、情緒や曖昧なものの理解に困難をきたし、直観的に理解できないそれを「知性」によって「攻略」しようという戦略を生み出しやすくなり、ナンパ師界隈や恋愛工学に接近させやすくするだろう。元々の生まれつきの脳の特性がなかったとしても、傷つき続けた結果として感情を抑え込む「解離」の状態などで知性化で精神を防衛するパターンなどもある。

     この「進化機械ニヒリズム」の視座は、それと相性がいいように思われる。一方、マノスフィアや弱者男性論壇において、性愛・恋愛がアキレス腱になってしまうのは、それが知性化・理性化の限界を超えるものだからである。つまり、自分自身の孤独や性愛の欲求も進化心理学的な機械の反応に過ぎないのであれば理性・知性でコントロールすればいいわけだが、それが出来ないわけで、身体や脳から来る自然や本能に突き動かされる自分を経験せざるを得ないことだからだ。これまで、「男は理性的・女は感情的」などのステレオタイプがあり、ミソジニーが強い人は理性的である自分を誇る傾向があるが、そうであれば理性で性欲や承認欲求もコントロールすればいいわけで、それは出来ず、結局は知性化された感情や本能を表出している例が多い(この連載についての弱者男性の批判や意見も、要約すると「自分の気持ちを分かっていない」であり、「分かってほしい」「受容してほしい」という願望に駆動されているように思われる)。

     とはいうものの、それを批判したいのではない。その感情や本能の存在を認めることを通じ、進化機械ニヒリズムの世界から脱出する道が確かにあると思われるのである。これは本稿の後半で論じていくことにする。

     反出生主義の立場における「淘汰」の評価

     ここでは、ネットにおける弱者男性やマノスフィアを理解するための補助線として、進化機械ニヒリズムをもっと徹底し、より「知性化」した思考実験をしてみようと思う。

     「男は理性的・女は感情的」であり、女性も男性も進化心理学的に動くマシーンに過ぎないのであれば、どうしてその本能や欲望は肯定されるのだろう。どうして「女をあてがえ」と言うときの前提にある、生殖すること、子孫を作ること、もっと言ってしまえば、人類が存続することを肯定的に考えているのだろうか? そのことに論理的・科学的なエビデンスはあるだろうか? それは、遺伝子の設計した脳から分泌された「お気持ち」に過ぎないのではないか? それには何も意味も正当性も価値もないのではないか? 意味も正当性も価値もないものに振り回されているのは、愚かな人生の浪費ではないか?

     いっそのこと、人類が存在し続けることにも、必要性も意義もないのではないか? とすれば、結婚や生殖ができず「淘汰」されることも、悪ではないことになる。そして、リベラリズムやフェミニズムが、個人の自由を増大させ共同体の再生産に協力しないことを批判する根拠もないことになる。

     とすれば、それで解決ではないか。弱者男性問題も、その苦しみも淘汰も、問題ではないことになる。進化心理学的な考えや、知性化をもっと徹底するならば、そのようなニヒリズムの境地にたどり着き、それで平安である。

     その考えを支援するような哲学的思想もある。「反出生主義」で有名なデイヴィッド・ベネターは『生まれてこない方が良かった――存在してしまうことの害悪』で、極めて論理的な形で、つまり、人類は絶滅するべきであるということを述べている。インセルのうち、分離主義者たちの一部は、「反出生主義」の思想を持っていると言われている。

     反出生主義は、積極的に滅ぼすというよりは、生まれるよりも生まれない方が功利主義的に善いので、次世代を出産するべきではない、という議論である。功利主義的に考えて、生まれてくることの善と、悪を比較して計算した場合、悪の方が多いので、「総合的に見て、人間は絶滅した方がいいだろう」(p172)し、それは早い方がいいだろうと書いている。「早く絶滅すれば、絶滅しないせいで始まってしまうだろう今はまだない人生における深刻な害悪が生じずにすむからである」(同)と。

     ベネターの反出生主義の立場からすると、インセルや弱者男性は、生殖をせず再生産による苦痛や悪の増加を増やさないという点で、善いことをしていることになる。一方、ただし、差別や暴力などで宇宙の苦痛を増大させることはベネターの功利主義の観点からは肯定されないだろう。人類が存在することが悪なのだとすれば、彼らが子孫を作らないで滅びることは、善である。「お気持ち」を抑えて理性的・知性的に考えれば、このような結論に至ることは一つの道としてありえる。

     ベネターの反出生主義の立場に立つならば、弱者男性たちの淘汰も、AIやアイドルに人々が依存していったり、リベラルやフェミニズムの価値観が浸透して恋愛や結婚や出生が経ることも、善である。よって、淘汰や「マイルドな優生学」を批判する根拠はないことになる。

     人類を存続させる「義務」?

     次に、逆の立場、生殖などを行い人類を存続させる「義務」が「原理」としてあると主張するハンス・ヨナスの意見を参照してみよう。

     彼は、『責任という原理』の中で、人類が存続するべきことに論理的な正当化や基礎づけは困難であることを認めている。それを行ってきたのは宗教であり、彼は論理を徹底した形而上学によって宗教抜きで基礎づけられると言っており、本書で展開している(後述するように、筆者にはそれは成功しているようには見えない)。

     ハンス・ヨナスは、未来の世代への責任が、「原理」として我々にはあるのだと言う。自らの快楽や得をおいても、生まれてもいない未来の世代のために何かをするというのは、現実に生きている我々自身のことを考えてもなかなか容易ではないことであり、だからこそ環境危機も悪化し続けているわけだが、しかしそれをハンスは要求する。では、その「原理」は、いったい何を根拠にしているのか。

     持ち出されるのが、「親」なのである。リベラリズム的な倫理や正義観における「対等な大人同士の自由な合意」モデルでは解決できない、合意が形成できない未生の存在との関係を考える際に、「親が責任のモデル」になると言っている(p186)

     子供の生は「他者依存的」(p184)であり、「親は子どもに対して、一方的で絶対的な創始者という関係を持っている」(p185)。そのような存在に対して責任を負い、未来について考え、その生存の条件を維持し、自由や成長などを促進するようになること(そして責任を引き受けるようにすること)が、「原理」の「モデル」であり「原型」になると言うのだ。「親が子に対して責任を負うとは、完全に無私な行動であり、こうした行動としては、自然に与えられた唯一のケースである。実際、生殖という生物学的事実によって与えられた自立していない後継者とのこうした関係が、そもそも責任という観念の起源なのである」「ここに、責任ある行為の原型がある。幸いにも、この原型は原理からの演繹を必要としない。それは、われわれ(少なくとも、人類の中の出産をつかさどる部分)のうちに、自然によって強固に植えつけられている」(p70)

     彼は、乳飲み子を例に出し、数学者や科学者の目線は、この乳飲み子の具体的な存在を忘却しているのだ、と言う。そして、このような乳飲み子たちこそが、我々に責任を持つべきという、当為の根拠となる。「この当為に対して、自然は力強い本能や感情を通して助け船を出している」(p233)。乳飲み子は「あらゆる責任の原形」(p230)である。それは「疑いえない明白さ、具体性、そして緊急性」を持っていると言う。「責任のありかとは、生成の海につかり、可死性に委ね渡され、消滅の脅威に震える存在である」(p230)

     彼は責任の第一は「将来の人類の生存に対する義務」だと言う。それは「生殖への義務」を「うちに含んで」(p71)いると言う。ということは、子孫を作らないことは、人類に対する責任を果たしていないことに、ハンス的にはなるのだろうか?

     この問題を、ハンスは奇妙にはぐらかし、「こうしたものは放っておけばいい」と言う。その根拠は「われわれには、生殖の欲動がいつか途絶えるなどと恐れる必要はない」(p72)からである。ハンスは、遺伝子操作や核兵器などで人類が絶滅することは心配していたが、子孫が生まれないことによる絶滅の方は考慮の外にしている。

     しかし、今起きている「絶滅」の予感の一部は、ハンスが自然なものとして信頼していた欲動や生殖のあり方がもはやそうではなくなってしまったことに一端があるようにも思われる。恋愛・結婚・出生率の低下はそれを示しており、「絶滅」の予感や危機感が起こってくる理由もそこにある。そこに彼の理論の現代的な限界があるように思われる。

     さらに、もう一つの問題は、親であることからくる「自然」が責任や義務の源泉であり、モデルだとすると、それは親になった後で多く生じるものであり、親になるという決意の段階ではまだ強くは自然から作動させられていないのではないかと思われることである。そうすると、「親」になる機会に恵まれなかった弱者男性やインセルの人たちが、「モテなくて子供もいない自分たちには社会や未来に責任を負う必要がない」「公共のことなど心配したり協力するいわれがない」と主張しがちであることを、裏づけてしまわないだろうか。

     筆者は、ハンス・ヨナスの「親」と世代間正義や未来倫理の「責任」の感覚との関係には共感するが、それは親であることに対する遺伝子からの命令に「基礎」があるのだとする進化心理学的な視座から考えた場合、子どもを持たなかった人間にはそのインセンティヴは発生しないことになってしまい、そのような主体が未来や人類の存続に力を貸さないと決めた際に説得できる「原理」が乏しいように感じられてしまうのだ(註1)。

     人類存続と再生産を正当化する究極の根拠のなさ

     森岡正博が『生まれてこないほうが良かったのか?』で言うように、世界中で、反出生主義的な議論がネットで広がって共有されている。先進国の少子高齢化の様子を見ていると、人類は全体として消極的絶滅を選んでいるかのように見える。「マイルドな優生学」ならぬ、「マイルドな絶滅」が進行しているように感じられる「気分」があるのだろう。しかし、それはベネターのように功利主義的な計算や、哲学や論理の徹底としての結論として反出生主義に賛成しているのではなく、生きづらさや様々な苦労の結果としての「気分」が共感し求めている思想なのではないかと思うのだ。

     「淘汰」に抗うタイプのマノスフィアの人々は、むしろ反出生主義ではないのだと言える。黙って穏やかに死んでいくこと、種を再生産しないことを選ばず、消極的絶滅への危機意識も持っているからだ。弱者男性・インセル・マノスフィアの中でも、そこに分割線があったり、本当は求めているけど「酸っぱい葡萄」的に反転している可能性を考えるべきだろう。

     その「本能」「自然」の叫びが正当であることに、科学的な根拠は特にあるわけではない。私たちの感情や人工物である価値観や宗教抜きに、本当にドライに科学的な世界観の視座で見た場合、人類が存続しなければいけないのかどうか、生命が続かなければいけないのかどうかも、根拠がはっきりしない。

     そこに、保守思想(とにかく続いてきたものは維持する)や宗教右派などの議論が、生殖と結び付く必然性があり、弱者男性やマノスフィアの議論がそちらに回収されやすい構造的な必然性があるのだと思われる。

     進化機械ニヒリズムを徹底し、「理性」「知性」で考えればそうはならないはずなのだが、その徹底の先の破綻のポイントのようなもの、否認された感情や自然の根拠のない叫び、それが宗教や政治思想の形を借りて表現されているのだと思われる。

     Ⅱ 黙示録的情動と、ケアの倫理

     インセルによる黙示録とロマン主義

     ここからは、少し話を変え、黙示録的な情熱、破壊衝動を抱くタイプのインセルや弱者男性の内的な構造について、議論を進めていきたい。

     実際、「子どものいない自分には未来や他者を考える必要も義理も義務も責任もない」と主張し、女性嫌悪的な言動を繰り返し、トランプを支持し、世界の終わりを望んでおり、リベラルに対する復讐心を満足させているアカウントを見る機会も少なくはない。それは極端なケースではあるが、少なくはない。極端な場合、トランプなどによる世界の破壊を享楽として楽しむような精神状態を引き起こしているのが見て取れる(このような立場は、苦痛や悪を最小化しようとするベネター的な反出生主義の立場からは否定されるだろう)。

     もちろん、弱者男性やインセルのすべてがこのようになるわけでもなく、そのうちの一部だけが極限化しこのようになるのだと思われる。だが、注意すべき危険な兆候の一つとして、この黙示録的な情動の内的構造を分析し言語化し共有する必要はあるだろう。これは統計的傾向でも予測でもなく、ただ、特定の感情構造が、ある条件下で可視化される仕方を示しているにすぎず、あくまで凶行に至ったり世界の破壊を望む者たちの内面の構造を理解するための、探索的な議論であり、社会科学的な厳密な調査が後に行われることを期待する。また、弱者男性や苦境に陥っている者たちが皆危険な存在であるというスティグマを貼る意図ではなく、むしろ彼らに対する救済やケアの必要性を謳うために言うのである。

     例として扱うのは、インセルの起こした典型的な銃乱射事件とされる、エリオット・ロジャーの声明文「My Twisted World The Story of Elliot Rodger」である。

     女性たちを「罰する」ために殺害した彼は、その前に「声明文」をWEBにアップしていた。そこにはこうある。

    「人類……この世界で私が受けてきた苦しみのすべては、人類の手によるものだった。とりわけ女性によってである。それは、人類という種がいかに残酷で歪んでいるかを私に思い知らせた。私が望んでいたのは、人類の中に溶け込み、幸せな人生を送ることだけだった。しかし私は排除され、拒絶され、孤独と取るに足らない存在としての人生を強いられた。すべては、人類の女性たちが私の価値を見いだすことができなかったからだ」「この悲劇は起こる必要はなかった。私はこのような結末を望んではいなかったが、人類が私をそうせざるを得ない状況に追い込み、この物語はその理由を説明する。私の人生は、最初から暗く歪んでいたわけではない。私は幸福で満ち足りた子どもとして、善良で純粋だと信じていた世界の中で、人生を精一杯生きていた……」

     そして彼はこう書く。「なぜ私は、惨めさと無価値さに満ちた人生を生きるよう運命づけられ、他の男たちは女たちとのセックスや愛の快楽を経験できたのか? なぜ物事は、こうでなければならないのか? 私は、あなたたち全員に問う。/私が望んだのは、ただ女性を愛し、そしてその愛を返してもらうことだけだった。彼女たちの私に対する振る舞いは、私の憎しみを招いただけだ――それは正当なことだ!/私は、このすべてにおける真の被害者だ。私は善人だ。人類は、私にこれほど多くの苦しみを味わわせることで、先に私を攻撃した。私はこんなことを求めていなかった。私はこんなことを望んでいなかった。私はこの戦争を始めたわけではない……最初に手を出したのは、私ではない……/だが、私は反撃することで、この戦争を終わらせる。私はすべての人間を罰する。そして、それは美しいものになるだろう。ついに、ようやく、私はこの世界に、自分の本当の価値を示すことができる――」

     そして彼は「罰する」ため、女性三人、男性三人を殺害した。その日のことを彼は「the Day of Retribution」と呼んでいる。文脈によっては「最後の審判」を意味する宗教的な言葉遣いであり、黙示録的な発想であることが分かる。人類から疎外され所属していないと感じる彼にとって、日常は常に「戦争」の状態であり、むしろ彼はそれを終わらせようと考えていた。そしてそれが、「美しいbeautiful」とも感じている。

     ここにあるのは、ロマン主義であり、「政治の美学化」である。破壊が未来に待つ救済のように観念されているのである。そこでは破局、終末、死、暴力、戦争すら、美しく解放的な救済であるという幻想の感覚が生じるのだ。

     ベンヤミンは『複製時代の芸術作品』の末尾で、大衆メディアや文化を通じて政治が見世物となり、指導者のカリスマ化などが起こり、美によって人々が動員されていることを警告し、「人類の自己疎外は、人類が自分自身の絶滅を第一級の美的享楽として体験する程にまで至っている。こうしたものが、ファシズムの推進している政治の美学化である」と述べた。これに近い状態にエリオットはいたであろう。そして、彼だけではなく、拡大自殺する者やその予備軍もまたそうであり、世界を破滅に向かわせるように見えるカリスマに投影的同一視をして支持しているのではないか?

     現代の大衆メディアであるインターネットの世界において、このような「政治の美学化」が進行し、そこにある種の(幻想の)「共同体」への希求が発生し、現実そのものが「ネタ」のように感じられ、人間そのものが機械のように思われるような進化機械ニヒリズムの果てに、その破壊や死や虐殺や絶滅までも美的享楽とするような状態が発生しているように思われる。

    「政治の美学化」としての破滅願望と戦争待望

     その情動を、言語化すると、このような感じであろう。

    「この世界が欺瞞的で残酷で、人類に生きる価値も存続すべき意義も究極にはないのならば、戦争の破壊の美しさの中で、阿鼻叫喚の悲劇に陶酔しても、別に良いのではないか? 未来派の美学のように、ファシズムの陶酔の中で、世界の終わりや虐殺すらも美的に享受して、何が悪いのだろうか? 自分が死んだ後には世界を認識することもできないのだから、世界を終わらせるのと自分を終わらせるのは等価ではないか? 欺瞞的で偽善的な世界が引き裂かれ、ひっくり返り、燃え上がり、壊滅するのは、見ていて胸がすくのではないか。高らかに笑える一瞬があれば、そのために世界が犠牲になってもいいのではないか?

     世界とは結局のところ弱肉強食なのであれば、力による現状変更も構わなく、むしろ戦争になってしまえば『希望は戦争』のように、社会秩序がひっくり返り、自分にチャンスがあるのではないか? 社会が騒乱状態になり、流動的で破壊的な状態や、価値観がひっくり返ったならば、『ワンチャン』あるのではないか? 戦争やサバイバルのような状況になれば、否定され侮蔑されている『男性性』の価値を思い知るのではないか。

     自分を見放し、受け入れず、苦しめ、侮蔑しバカにし追いつめるこの世界・社会・宇宙・人類・生命など、華々しく爆発して一挙に死んでくれた方が、スカッとして面白いではないか。どの道、自分の人生など、生きるに値しない悲惨で苦しいものであり、自殺しようと思っていたぐらいであるのだから、だったらいっそのこと、他者や世界そのものを犠牲にしてでも一瞬の享楽がある方がマシではないか?」

     「進化機械ニヒリズム」は、その「非人間化」の作用によって、このような殺害や犯罪や戦争すら美や享楽であると感受する感性を促進するだろう(本当に徹底していれば、その美や享楽に惹かれることすらも単なる自動機械の作動だと相対化するのではないかとも思うのだが)。それは、未来派などのファシズムがそうであったように、戦争や破壊や絶滅すら美として享楽する感性を生み出し、その感情や欲望の総体として本当に戦争が起こる方向に世界を導くのではないか。

     「黙示録的情動」の内的な構造についての、説明はここで終わる。ここから先は、そのようなニヒリズムや「政治の美学化」を頭では理解し、それを否定しうる絶対的な論理的・科学的な基礎や根拠はないとも認めたうえで、なお価値判断し、倫理を引き受けるための議論になる。ここから先は、論証的な筆致ではなく、主張が弱いことは承知の上である。

    「未来がない」という感覚を改善するために

     これに対してどう解決ができるだろうか? 徹底した「進化機械ニヒリズム」の立場からすれば、別にそれで良いということになる。科学やデータや論理だけでは、それを否定できない。人類が存続しなければいけない理由はない。自然選択に生き残れず絶滅した生き物はたくさんいて、我々がそれに連なるだけなので、進化論によってもそれを否定することは出来ない。

     にもかかわらず、 我々は「滅びたくない」という感情を持っている。その感情は非合理で、説明不能だが、それ自体が人間性の核である。もしその感情を否定すれば、破壊・戦争・AI絶滅も否定できない。ここに、我々は不合理性と、論理や科学を超えた何かを導入せざるを得ない。それを信仰の語彙で語るか、それを「自然」の「本能」と考えるか、生それ自体が我々に命じる何かだと考えるかは自由であるが。よって、ケア・愛着・哀悼可能性を“非合理だが選び取る”ことが、我々のすべき決断であり、論理的な基礎の代わりに、感情的・愛着的な基礎を根拠にした方がいいのではないか。

     つまり、論理や科学ではなく、そのような思想に誘惑されてしまう気分、そしてそれが発生しやすくなる状況や環境にアプローチするべきであろうと思われる。

     クリストファー・グローブスは、ケアと愛着を結び付けた未来倫理を提案している。戸谷洋志『未来倫理』によると、子供に「安心できる場所」「心配いらない居場所」を提供し、「ここに自分がいてもいい」(p119)と感じさせる責任が人間にはあるとグローブスは言っている。

     人は、家庭などの「安全基地」があることによって、未来への希望を持ち、流動的で不確実な状態に挑戦する力を持つことができる。逆に言えば、「安全基地」が崩壊していれば、不安と恐怖により、未来や不確実性に向かい合えなくなっていく。彼のいくつかの論考を読むと、場所などに対する愛着の重要性を語っており、「愛着の植民地化」などを強く批判している。それは、現代の日本で、地域社会は壊滅し、土着的な信仰や祖先とのつながりの感覚は薄れてきて、連続性や安心の感覚が持ちにくくなっていることと関係しているだろう。それは自由であり解放でもあり、必然性も切実さもあって実現したものであったのだが、同時に安心が失われていくことでもあった。

     だから反動的に、国家や民族や共同体を、あるいは強くふるまって見えるカリスマを、安心を提供してくれる装置として求める心が生まれ、幻想が膨れ上がってしまう。新自由主義により、恋愛も結婚も、商売や取引のモデルで「利害」「計算」で考えられるようになり(婚活など)、男性たちはこれまでは愛などの名目で引き受けていた損を嫌がり、エロティックキャピタルや共感の作動も数値化・指標化し、平等にせよと要求するようになってしまった。無償の愛や、無条件の肯定などは、現実においてどんどん損なわれていき、かえってそれへの幻想は増し、異性に対する全的な受容と救済の妄想が肥大化し、頂き女子やホストにカモにされ、かえってひどい状態になっていくスパイラルが続く。安心や承認や幸福や家庭や恋愛は、公共空間が私的なものにされ商業化したのと同じように、現在では破壊し焼け野原にされた挙句、飢餓を人工的に生じさせ、かつては無料だったものに高価な値をつけ売り飛ばすようになっており、だからこそ人々はキャラクターやアイドルやホストなどにすがって、時間とお金と人生を浪費するようになっている。その全体の行末は消極的絶滅に向かっていくように思えてしまう。

     その悪循環と悪無限を、どこかで断ち切る必要があるのかもしれない。だから、誰もに、「安心できる場所」「心配いらない居場所」を提供し、「ここに自分がいてもいい」と感じさせるような社会に変わっていかなくてはならない。過去に戻ることはできないが、かつてあったものの機能的等価物を再実装したり、様々な発明によって、よりよい社会に変わっていく必要がある。安心しながら未来を想像できるようになることで、黙示録的な幻想に誘惑されることが減っていくだろう。

     AIによる絶滅を避けるには

     AIによる人類絶滅やシンギュラリティ論も、黙示録的な気分や終末論の予感を内在している。それらは違う原因ではあるのだが、大衆的な無意識の中では「淘汰」の脅威の感覚などと複合しているのではないかと推測される。

     おそらく、同様の黙示録的な無意識や気分を前提に、資本主義や技術を加速させて「出口」を求めるロマン主義の側面を持つ加速主義や、終末論、AIによる終末論的な存亡リスクの高まりを承知の上でAIの発展に賭ける長期主義があるようにも思われる。これらの思想は、技術や社会環境の変化によって不確実性を増す現在の状況から生まれる気分が反映し、提唱されたり支持されたりしているように見える。

     人類にとって存亡リスクが高いと言われているものは、核戦争に並んで、AIである。シンギュラリティ(知能爆発)によりAIが人類を超えたあとのシナリオを、ニック・ボストラムやマックス・テグマークらが描いている。そこでは、AIが人類を滅ぼし絶滅させたり、動物園のように人間を飼育したり、超管理社会が誕生したり、幸福に共存するとか、人類はデータになってしまって情報的な存在に進化するだとか、存亡リスクが考えられている。

     AIが自分よりも遥かに劣った存在である人類を生かし続ける「合理的」な理由はないのかもしれない。そこで、ジェフリー・ヒントンは、AIに「母性」を持たせることを提案する。より強く優れたものが、弱いものを無償で生かそうとする行為のモデルは、母性だからだ。それは、遺伝子が脳をそのように設計しそう感じさせているだけのものかもしれない。しかしそれでも、愛や愛着などをAIに実装することが、人類の存続可能性のために必要なのである。いわば、人工知能だけではなく、人工愛情を実装する必要があるというのだ。

     進化論的な「淘汰」「弱肉強食」や、「力による現状変更」を我々が正当化のロジックとして使いすぎるべきではない理由の根拠は、ここにある。子どもは親を見て学ぶ。つまり、AIも我々の日々の出来事を日々見て学んで成長している。彼らが、今のような力による現状変更や、進化論を援用した「創造的破壊」「淘汰」の正当化を見て育ったら、どうなるだろうか? やがて育った彼は、それを我々に反復することにならないだろうか? AIが成長し発展することは、もうおそらく止められない。そのときに、弱肉強食や、「創造的破壊」の正当化をしていた場合、その帰結に何が起きるのかは明らかではないだろうか。

     我々人類全体が「淘汰」される。それがいけないという合理的・科学的な根拠は、ないのだから。

     であるならば、そうならないようにするために、AIにケアや愛着や慈悲の心を教えておいたほうがいいのではないか。そのためには、我々がそれを実践していなくてはならないだろう。さもなくば、いずれ、反抗する「子」が、私たちを超えたときに、「合理的」な判断で絶滅させるかもしれず、それを「弱肉強食」として正当化するだろう。

     Ⅲ 結論

    「淘汰」を正当化するべきではない

    「弱肉強食」「淘汰」を「自然」として正当化するべきではない理由は、以上である。これは敷衍すると、弱者男性や、製造業など、地方、古い男性性の持ち主を「創造的破壊」の必然として滅びるに任せることを正当化するべきではないということである。

     それは「進化機械ニヒリズム」を通じ、人類や生命の生存の価値すらも疑わせる境地や黙示録的な情熱に人を導き、世界を巨大な破壊と暴力に巻き込むリスクを高める。前ローマ教皇フランチェスコは、今この状態が既に「第三次世界大戦」なのだと言っているが、この状態の悪化に影響する可能性は高いだろう。それを防ぐためには、そのまま世界が破滅することを享楽するようなニヒリズムと絶望が高まっていくような閉塞状況と絶滅の危機を実感して生きている人々を救うのが一つの手であろう。それが、これから待っている可能性の高い巨大な破壊を避けるか、少なくとも和らげるために有効な道のひとつであろうと信じる。

     我々は、時代遅れになり、滅び去ろうとしている哀れな有機体たちに慈悲の心を持ち、愛さなくてはならない。それは、まもなく我々のほとんどすべてがそうなる姿だからである。そして、同時に、新しく生まれてきた技術であるAIのことも愛さなくてはならないだろう。

     さて、本連載が潜在的な主題としてきた事柄がいくつかあった。「戦争と男性性」はそのひとつである。産業構造の転換と、それによる衰退と滅びの感覚はそのひとつである。孤立し孤独になり、男性特有の理由により弱さを認められず、援助要請もできず、攻撃や暴言などの形で苦痛や悲惨さを表現してしまう者たちをこそ救うという困難もまたひとつであった。それは、制度や価値観の変化で対応することが出来るだろう。

     いくつか残った問題もあった。AIや人工物への愛や親密性は人類を絶滅に導く、消極的な絶滅や反出生主義の実践なのか? そして、それにおいても救われない者が救われるにはどうしたらいいのかということである。エリオット・ロジャーは、山上徹也は、もし支援や共感があれば、そこにまで至らないで済んだかもしれない。しかし今ここで、現に支援がないまま放置され、自殺するか殺すかギリギリの状態になっている者が救われるには、間に合わないではないか。どうすれば彼らは救われるだろうか?

    愛と関係性と生命の偉大さに開かれるには

     私には彼らを直接的に救う力はないのだ、という無力と境界線の表明を前提とした上で、半ば祈るように、物語や芸術を例に出し、論理とは別の寓話的な回路を通じて、ある何かを伝えようとするしかない。

     ブライアン・W・オールディスは、SFの起源は、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』だと言った。科学と技術の力で人工生命体を生み出し、その怪物が暴走し破壊をするその物語は、科学技術に対する不安の寓話である。現在のAIに対する人々の態度も、この現代版であると言える。

     小川公代は、『ケアの物語』で、『フランケンシュタイン』の読解をし、この生み出された怪物≒人工生命体が繊細で知性もあり文学も愛する人間なのに、父に捨てられ、虐待されたことが暴走と殺戮に帰結したと言っている。「怪物」は、あまりにも孤独であることに苦しみ、伴侶を作るように父であるヴィクターに頼むのだが、ヴィクターは生み出した伴侶を殺してしまう。それに怒りが爆発した怪物はヴィクターの友人や妻を殺害、そして創造主も殺すことになる。

     孫引きになるが、「怪物」の叫びを引用しよう。「ああ、フランケンシュタイン〔引用者註、怪物ではなく生みの親のヴィクターのこと〕、ほかの人間には優しいのに、なぜおれだけを踏みつけにするのだ。この身体はおまえの正義、いやおまえの慈愛を受けてしかるべきなのだ」「あちこちに幸福が見えるのに、おれだけがそこからのけ者にされている」(メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』小林章夫訳『ケアの物語』p44-45より孫引き)

     小川は、本作の「人の命を犠牲にしても」達成しようとする「凄まじい野心や自分の力を過信しすぎる」ウォルトンへの姉の諫めの声は、「人の生命を犠牲にしてまでも『執拗に栄光だけを追い求める』登場人物たちの過剰さに歯止めをかけようとするメアリ・シェリーの平和思想を表して」おり、「愛と関係性の重要性を読者に思い起こさせる」ことをしようとしていると述べている(pⅶ)。それは愛と関係性のみならず、生命の偉大さの体感、生命の連続性やつながりの感覚、巨大な全体性の体感などを伴う何かであろう。それは女性が出産のときに感じる、生命や死者や自然や宇宙それ自体とのつながりを感じるような、スピリチュアル的な何かに近いと書かれている。

     それを、男性たちは、非合理で感情的で妄想的であるとバカにしがちである。しかし、それが出産に伴うということは、遺伝子のヴィークルとしての身体に、遺伝子がそれを感じさせる(ように促すことで生殖を促す)ことを設計しているということなのだろう。そのときのホルモンや脳内物質の経験が、スピリチュアルな語彙として表出されていると考えるべきだろう。それは、異性と恋愛や性行為をしたいと思ったり、孤独であったり拒絶がつらいと思う感情の発生と同じ「自然」という起源を持つものである。それは、未来への「責任」と同じ起源を持つのだ。

     この自然の偉大さと、大きな流れの中に自分がいるのだという感覚さえ獲得できるならば、恋愛や結婚や出産を必ずしも経験する必要はないのかもしれない。ある意味で、弱者男性やインセルたちの「進化機械ニヒリズム」の論理的徹底が出来ないという「不徹底さ」と「お気持ち」の中にこそ、実はそのような認識に通じる通路が、本当はあるのではないだろうか。

     小川も言うように、そのことから来る生命やケアの感覚は、男性もまた持つことができる。小島秀夫の『デスストランディング』はまさに、男性における「ケアリング」的な感覚とスピリチュアル的でもある死者や生命などの連続性の感覚を表現していた。また、全世界で最高の興行成績を挙げているジェイムズ・キャメロン監督の『アバター』シリーズもまた、美麗なファンタジー的な世界観によって、生命の神秘と畏敬を引き起こし、戦争を好み利益目的で殺戮を繰り返す人々への怒りを表現しつつ、彼らに論理や計算を超えた「感覚」を体感させて説得しようとし続けている。人類は繰り返し、こうした物語に立ち戻ってきた。

     どちらも、生身の有機的な生物ではなく、ゲームやCGなどの最先端のテクノロジーを通じてそれを表現しているという逆説があるが、その逆説の中に、おそらく何かの真実がある。そこにはは、自然と、人間が創り出した人工物とが、敵対するのではなく、共進化していくような(ハーバート・サイモン的な意味での)生態系の肯定の思想があるのだろうと思われる。

     それは、前回論じた、セクシャリティや愛の対象を、異性だけではなく、同性や、別の種族、人工物にまで広げていくような、現に既に大衆文化の中にある欲望を延長した先にある、新しい家族や共同体のあり方とも通じるだろう。それらを含み込んだ、「モジュール」「分散型」(永田夏来)の「親密圏」「家族」に再編成され、それらと結び付いた民族や国家などのアイデンティティも再編されるのだと予測されるのだが、それが人類を滅亡に導くのではなく、共存し共進化していく道もあるのだろうと思う。

    進化論のナラティヴの書き換え

     自然は、つまり、生命と進化は、残酷な弱肉強食と淘汰だけを行ってきたわけではなかった。地球上に生まれた最初の原始的な生命から、どんどん枝分かれし、多様化し、高度化してきた。何のためにそれが起きているのかなど、誰にも分かりはしない。これほどまでにたくさんの多様な生物がこれほど複雑に生まれ、人類は高度な知性を持ち、都市や社会システムを作り上げた。その恐ろしいほど豊穣な奇跡の上に、我々の生も存在しており、その流れの末端にいる。どんな個人も、最初の生命から一度も途切れることのない連鎖の果てにいる。

     現在の社会システムにたまたま適応している個体ばかりが繁殖し、そのタイプの遺伝子ばかりになってしまえば、環境が変化したときに壊滅してしまう可能性がある。たとえば農業やブルーカラーに適した遺伝子の持ち主こそが活躍する時代が来る可能性もAI時代に囁かれているように。そして、環境や社会の変化は、長期的には予想が付かない。であれば、可能な限り、あるものは残しておいた方がいい。何が必要で何が必要ないかを判断する能力は、我々にはないのだから。進化論をマスターナラティヴに使うのであれば、「弱肉強食」「淘汰」「競争」の正当化に使うのではなく、そのようなナラティヴを作ることもできるはずだ。

     新自由主義社会の推進者や、「勝ち組」の者たち、あるいは力による現状変更をしようとしている者たち、より強い兵器を持つことで戦略的有利を得ることを目指し続けている人々、人類を滅ぼすことが可能な量よりも多くの核兵器を作っている人々に、そのような自然への畏怖の念と、驚異への感嘆、生命への愛が、より深く生まれていってくれるような、倫理や感情の変化が起きてくれたら、この残酷な「淘汰」も終わるだろうか。そして、自殺するか拡大自殺をしようか今まさに悩んでいるあなたも、それがどれだけ取り返しの付かない破壊になるのか、理解できないだろうか。

    存在そのものの絶対的な肯定

     そうは言っても、今まさにギリギリであり、家族も友人もいない、仕事もない、自殺するかしないか、という状態であるという者は、どうしたらいいのだろうか。

     作品の例を出して、語るしかない。北野武の『HANA-BI』という作品がある。その主人公の一人は元刑事で、事故で半身不随になり、妻にも離婚され妻子もいなくなり、仕事も失い、一人孤独に暮らし、自殺を試みている状態である。

     彼に、元同僚の刑事が見舞い、暇で堪らないので絵でも描いてみるかという呟きに応えて、画材道具を贈る。

     元刑事は、車椅子で花屋の軒先を通りかかった瞬間に、そこにある花を見て、打たれたように見つめ続ける。彼の中で、創造性の小さな種が弾ける。そこにただ花が存在している、その「ただの存在」そのものの絶対性、意味や目的などなくただそこに存在しているということの価値や意義が、美しさへの気づきと同時に、彼に体感されるのである。これまで、刑事という、男性的で暴力的な世界で生きてきた男が、そこから脱落し、自死を試みた直後に、世界そのもの、存在そのものへの驚異への感嘆、感動、気づきの瞬間が訪れるのである。彼は、気づいたら涙を流している。ただそこに存在している花そのものの絶対的な肯定は、ひいては、彼自身の存在への肯定と、その今ここに存在しているということの事実性の、不可避的な絶対性への感覚につながっていくのである。

     そのような瞬間が、訪れることは、ある。

     この世界は、本当は、社会的地位や異性の獲得や年収や成功などで測られ、熾烈な競争の中で生きるなければいけないという層と、すべての人間のみならず生命や物質も含めたすべての存在が平等であり、ただ存在しているというだけで絶対的であり肯定されているという二層になっている。弱者男性やインセルの議論は、一層目だけしか見ていない。逆に、あらゆる人間が今すぐ平等にならなければならないという極端な理想主義は、二層目だけを見ていて一層目を見ていない。必要なのは、この二層を認識することである。あらゆる存在はすべてつながりあっており、連鎖しており、その価値はすべて平等であり、すべて肯定されており絶対的に存在している。未来がどうなったとて、成功も失敗も関係なく、いまここに存在していることそのものが絶対であり、この瞬間以外の時間は存在していないのである。

     勝ち組かどうか、勝利したかしていないか、結婚して家庭を持って子どもがいるかどうかなど、本当は本質ではないのだ。能の「邯鄲」で、五〇年かけて努力し出世し権力の頂点に立った男が、目が覚めてそれが一瞬の夢だったと悟るという物語があるが、勝利も成功も恋愛も子孫がいるかどうかも、そのような夢に過ぎないのである。

     しかしそれでも、現実は、競争も戦争もある。すべての存在に価値があるとしても、競争は存在し、社会的な上下、評価の違いは存在する。平和と愛を願ったとて、兵器の前には無力であり、必要なときには戦わざるを得ないし、その備えも必要になってくるだろう。この第一層のロジックと、第二層のロジックはまったく別種で、同時に走っているのだ。

    両性具有的なバイロジックの自覚的な創造へ

     既にⅠで論じたように、マノスフィアにおいても、「男性は論理的」とし、進化心理学的な知性化をし、ニヒリズムに近づきながらもバックグラウンドに感情と本能が作動してしまっている。平等や「皆婚」を求める衝動は「自然」「本能」の命令に近く、それを宗教的な語彙や、政治的・社会的な概念に粉飾し知性化して提示されている(バックグラウンドから非科学的な「自然」が入り込んでしまっている)ように見える。同じように、過剰に論理的・システム脳的なシリコンバレーの企業家たちの議論の背後に(イーロン・マスクも、ピーター・ティールも)も宗教的な世界認識や情熱が入り込んでいる。

     「男性性」の典型だとステレオタイプ化されてきた科学や兵器や戦争や資本主義などと、叡智や神秘や宗教性などの次元の組み合わせにおいて生まれてくるある思想・物語が、一人一人の感情や判断に影響し、世論を通じて世界をある方向に進めていくことに影響しているのが、現在の世界史的な状況なのだろうと思われる。だとすると、そこに介入し、変えることで、人類が絶滅を避け、残酷な淘汰の正当化や黙示録的な享楽の方向ではなく、自走するシステムと共進化しながら良い方向に進ませていくことが可能かもしれない。それは、ある種の「感情史」(リン・ハント)的な、迂遠で遠回りな道でしかなく、即効性のあるものではないかもしれない。

     そのためには、男性が、自身は強く論理的で理性的だと思い込みすぎ、感情を「知性化」するのをやめ、弱さを認めなくてはならない。論理的な知性化や功利主義の果てには、ベネターのような消極的な絶滅論に抗することが困難になってしまう地平がある。それとは別の道を探るためには、自分自身の「論理的」と感じている考えにバックドアから何が作用しているのかを見つめ、トレースし、リバースエンジニアリングのように介入し、コントロールしていく必要がある。

     迂遠かもしれないが、遠い未来に、私たちが生きたいと願っている世界を実現するためには、そのようにしていくしかないのではないか? 少なくとも、私にはそう思われる。「見捨てられた」と感じられている男性たちの怒りと絶望の底で、本当に願われている世界は、もっと優しく受容的で、ケア的で、安心できて自分が肯定できる世界ではないか? そのような願いそのものは、方向さえ変えるならば、世界をよくするために意味を持つことができるのではないか?

     追いつめられ迫害され虐げられた者たちこそが、憎悪や報復ではなくキング牧師の言う「愛の原理」に移行する飛躍により、世界を救うのみならず、自分自身を救うのではないか。そのような飛躍は、必ず起こり得る。私は、そう信じる。そのようにして、苦しい状況にいる男性たちが救われてほしい。社会的成功や地位や配偶者や友人の有無とはまったく無関係に、絶対的な肯定と救済が今ここで実現しうるのだと、理解してほしい。それを経験してほしい。結局のところ、争い、貪る道は、破滅に通じ、自分自身の幸福な満足をも犠牲にする修羅の道に通じてしまうのだから。そうではない幸福と満足と救済への道を選んだ方が良い。


    註1 もちろんこれは、子どもを生んでいない人間は公共的になれないとか、未来に無責任になるということを意味してはいない。まったくそうではない人々を筆者はたくさん知っている。何に責任を持ち、引き受けるかは、生物学的に遺伝子を継承している子どもである必要は必ずしもないだろうことは、既に論じている通りである。血縁ではない「乳飲み子」、あるいは赤子を模して我々の脳をハックする猫やキャラクターたちによってでも、このような「責任」の感覚は生まれるだろうと思うし、もっと抽象的なものでも全然ありえるだろう。

     

    ※本連載は今回が最終回です。すこしお時間をいただき、単行本としての刊行を予定しております。ご期待ください。

     

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。

フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉