フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
第8回

「20:80の法則」「負の性欲」「暴力性モテ」を検証する

2025.05.27
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
  •  ネットで流行している男女論

    「マノスフィア」が話題だ。「マノスフィア」とは、「男性権利運動」「ナンパ師(ピックアップアーティスト)」「インセル」「男性分離主義(MGTOW)」たちのことであり、聞きなれないだろうが、日本でも弱者男性論壇やナンパ界隈、男磨き界隈などの形を取って、ネットで大きな影響力を持っている。筆者には、アメリカで成功した方法論をそのまま持ち込み集客・動員しているように見える。

     そこで、今回は、日米のネットにおける男女論、特に性愛に関する様々な「80:20の法則」「負の性欲」「暴力性モテ」「ただしイケメンに限る」などを具体的に検証し、そこから現在のネットにおける男女対立の問題を考察していくことにしたい[1]。前半では、「20:80の法則」「負の性欲」を、後半では「暴力性モテ」や、女性が好きになるのは悪くて不誠実な男で真面目で優しい男性のは見向きもされていない、性犯罪や性暴力をしてしまうのは「モテない男性」ではないのに怒りや蔑視が向くのは不当だ、という意見、「ノット・オール・メン」は本当か否かを検証することにする。

    Ⅰ 「20:80の法則」「負の性欲」――繁殖戦略の違い 

    進化心理学的な男女論

     ネットでの男女論においてマノスフィアで流行っているのは、進化心理学的な説明である。女は良い遺伝子を求めるから格上を求める(「20%の男が80%の女に求められる」)というのが典型である。基本的には男性は遺伝子をたくさん残したいので性的なバリエーションを求める、女性は妊娠出産育児にかかる時間とコストが高いので選別を厳しくし長期的リレーションシップを望む、という戦略の違いをベースにした説明がなされることが多い。進化心理学においては、人間の脳や身体は遺伝子をより多く未来に伝達するために効率よく(自然選択によって)設計されたと考えられており、欲望や好悪などもそれによって合理的・生物学的な根拠を持つと考えられている。

     このような進化心理学的な知見は、リベラルやフェミニズムの主張と反することが多いので、レッドピルを飲み、『マトリックス』のようなバーチャルリアリティ=リベラル・フェミニズムの世界観から目覚め、真の現実を認識することと考えられている。

     インターネットのミソジニー文化を研究したアンジェラ・ネイグルは『普通の奴らは皆殺し インターネット文化戦争 オルタナ右翼、トランプ主義者、リベラル思想の研究』の中で、これを「社会ダーウィニズム」と切り捨てている。確かに大衆レベルでの思想としてはそれと複合しつつある危険は確かに存在している。しかし、進化心理学視点を単純にそう切り捨てるのも早急ではないかと思われる[2]

     かつてハーバード大学に勤め、現在はテキサス大学オースティン校で心理学の教授をしている進化心理学の第一人者であるデヴィッド・M・バスは、『有害な男性のふるまい 進化で読み解くハラスメントの起源』という本の中で、マノスフィアの議論を意識し、検証している。まずはその内容を参考に議論を進めてみよう。

     バスの基本方針は、「男女の配偶戦略の違いは、共進化的な軍拡競争も引き起こす。性的対立の大部分は、進化の結果形成された根本的な性心理の男女差に由来しており、そのような対立の原因を解明することが、解決策の発見につながる」(p7)というものだ。この「共進化的な軍拡競争」というキーワードが、前回論じた、「競争」から何故男性が降りることのできない社会・文明が構築されたのか、ということに別種の角度から説明を与えることになる。

     進化論を持ち出すと誤解されがちだが、彼は社会ダーウィニズムを肯定していたり、フェミニズムに反対しているわけではない。「性的対立およびそれがもたらす結果は、多くの場合、男と女どちらにとっても純粋に非適応的な副産物である」(p34)と彼は言う。筆者も同じ立場に立つ。男女が実存を賭けて相互に出会い、傷つく場として恋愛・性愛は重要であり、その経験が男女論になっていき、オンライン上で様々な傷付きからくるトラウマのぶつけ合いにより、不必要で無意味な争いに膨大なリソースを無駄使いし世界を不安定化させているのだと考えられる。よって、これを俯瞰的に理解する視座が、重要である

     「20:80の法則」は事実である?

     では、具体的に、個別の議論を見ていこう。まずは、『アドレセンス』にも登場していた「20:80の法則」からである。これは、80%の女性は上位20%の格上男性を求めるという法則である。これは、日本のナンパ師界隈などでの議論の基調になっている基本認識のようなものである。

     これは、どうも様々な実験によるエビデンスやデータに拠ると、真実である可能性が高いようだ。「主に上位20パーセントの男性に魅力を感じることがわかっている」(p19)。「多くのマノスフィアの男性たちが主張するように、女性は権力やステータス、影響力、リソースを持つ男性に惹かれがちであることもまた事実だ」(p14)。進化心理学的な説明に拠ると、女性は、妊娠出産の期間が長いため、セックスのパートナーを選ぶ際の選好が男性よりも厳しいことが理由である。

     このことを説明する際に例として出てくるのは、女性に優しくし続けたのに「ただの友達」として扱われ、「最低の男」と女性が寝てしまったという「非モテ男性」の泣き言であり、バスはそのような相談をたくさん受けるのだという。これは、ナンパ師界隈で「フレンドシップ戦略」(女と友達になること)を否定する議論や、「女性に共感するな」「常に格上に振舞い見下せ」、そして格上に見えるようなノンバーバルの振る舞いをせよという指導と重なる部分だろう。格上男性に振り回され傷ついた女性の心を格下男性が癒すと、癒された女性はまた格上男性に走るというネットミームになっている漫画が支持を得ているのも、このような傷つきや苦しさを抱える男性が多いことを示し、彼らが「搾取」されている、努力が報われず真心が踏みにじられていると感じるときに、それを説明してくれるこのような理論に対する心理的ニーズが存在しているのだと考えられる。

    「だが、マノスフィアにおけるこのような主張には、ある認識が欠けている。それは、女性のパートナー選好は恐ろしく複雑なものであり、誠実さや知性、頼りがい、人格、ユーモアのセンスをはじめとする多くの要素が関わってくることだ」とバスは注意も忘れない。

     「負の性欲」「ただしイケメンに限る」

    「上昇婚」批判というものがある。女性が経済力や社会的地位を高めているにも関わらず、本能的に格上を求める傾向があるがゆえに「弱者男性」「ベータ男性」たちがあぶれてしまうので、「女をあてがえ」という主張になることまである。これも、「20:80の法則」と同じ原因で起こることである。

     女性は自分が手に入る中で最も価値の高い相手を配偶者に選ぼうとする(格上を求める)。一方、アンケート調査などで強く男女の性差が出るのは「性的バラエティ」への志向である。つまり、男性は、色々な女性と色々なセックスをカジュアルにしたいと思っている。一方、女性は妊娠出産育児を想定し、そのリスクを考えるので、選好が厳しくなる。だから男性の「さまざまな異なる女性と交わりたいという欲望」(p54)が完全に満たされることはない。そして、魅力は不均等であり、女性の選別は厳しいので「配偶市場には、絶対に満たされることのない性的欲求に苦しむ数多くの男性たちが、必ず存在することになる」(p56)

     これが様々な男女のすれ違いや争いが起きがちな根本的な原因であると、進化心理学的には考えられる。性風俗や売春などのニーズが絶えないのもそのせいである。女性が男性に「遊ばれた」と恨み勝ちになるのも、このせいである。男女が接する場面は、恋愛や性愛の場であることが多いので、このニーズのギャップにより、傷ついたり、ミソジニーやミサンドリーになりやすいのだが、しかし実際の男女は恋愛や性愛の場を離れて存在しているので、それは客観的なそれぞれの性別のあり方から乖離したイメージになってしまいやすいのだろう。

     では「負の性欲」という概念はどうだろうか。これは、女性が、イケメンなどに声をかけられた際には喜ぶのに、魅力の少ない男性に好意を抱かれることに強い嫌悪を抱くことを指すネットのスラングである。これも、性欲と呼ぶことを肯定するかどうかはともかく、バスの意見を参考にすると、おそらくは真実である。「現代の女性は、自分が無価値とみなす男たちがジロジロといつまでも見つめてきたり(中略)望まない性的注目を一方的に向けてくるのを嫌悪する」(p18)。これは、セックスにともなうリスクが高く、男性よりも選好が厳しく防衛的であることから生じる感覚であるという。セクハラだと感じやすいか否かも、相手の魅力によって変わるとも書いてあり、ネットスラングの「ただしイケメンに限る」は、ある程度真実であるようだ。

     「男性性」の構築に対する女性の寄与

     女性にこのような性質がある以上、繁殖戦略=モテようとするため、男性は「強者」「格上」になろうとする。「男性は、女性が配偶者に望むようなリソースやステータスを獲得し、優しさや頼りがい、身体的健康といった女性が好む資質を手に入れるべく、強烈な意欲をいだくように進化した」(p59)。これが、前回論じた「競争」を生み、「男性性」の構築に関連していることは明らかであろうと思う。それは、男女の繁殖戦略の「共進化」によって生まれてきたという側面がある。

    「男性たちは、リソースを獲得し掌握するためのパートナーとして、女性たちに選ばれてきた。結果として男性たちは、まさに女性から選ばれるために、ステータスとリソースの獲得を強く追求するように進化し、これに失敗した男性たちは配偶の競争において苦戦を強いられることになった。現代の女性たちは、繁殖に成功した祖先の女性たちから、このような配偶者選好を受け継いでいる。そして現代の男性たちもまた、成功した祖先の男性たちから、このような動機づけの優先順位と、競争のための戦略を受け継いでいる」(p389)

     つまり、家父長制や「男性性」は、男性のみによって生まれ維持されているわけではなく、女性の欲望や繁殖戦略のありようによっても構築され維持されている側面があるというのである。

    「フェミニストの学者たちは、性的対立には男性の権力が深く関係していると強調しており、これは正しい指摘だ。ただし認識しなければならないのは、男性が権力やステータス、リソースを追求するようになったのは、一部には女性が権力やステータス、リソースを持つ男性を好んで選んできた結果である、という点だ。性的対立の原因におけるこの要因を無視することは、対立の軽減に向けた取り組みを妨げることにつながる」「女性による配偶者選好と、それに対する共進化によって男性が持つにいたったリソース獲得戦略が、家父長制の大きな原因である」(p389)

     この場合、女性も構築に寄与しているので、単に男性が男性性という原罪を悔いたり、「男性性から降りる」ことでは解決が付かない。マノスフィアの議論の一部は、そこを的確に突いている。しかし、それで女性を責めたり、見下したり、操作し詐欺的に搾取したり、フェミニズム・リベラリズムを否定するような方向を主張するところが間違っているのではないかと思われる。「男/女」で分けて互いを敵扱いし、自分たちの属性を無垢だと考える「内集団/外集団バイアス」で自己高揚や免罪の欲望を満たすのではなく、解決しより良い状態を目指すために俯瞰的に考えなくてはならない。

     産業構造と恋愛・性愛・結婚の変化

     ネットでの男女論の検証は後に再開するが、少しここで経済学的な説明を参照してみることにしたい。進化心理学的な「説明」が科学的に真実だとして、それを必要とし、声高に言い立てる人々が量的にこれだけ増大する背景には、それに共感を抱き、怒りや憎悪の声を上げざるを得なくなるような体験をしている人がいるのだと推測される。進化論の科学的正しさとは別に、大衆レベルでの流行においては、新自由主義の経済体制で生きるものが、その「説明」「正当化」として求める哲学・物語であるという側面が大きいからだ。

     背景にあると考えられるのは二つ、産業構造の変化と、性や恋愛を巡る価値観の変容である。

     ここで、ブリティッシュ・コロンビア大学での講義を元にした、マリナ・アドシェイドの『セックスと恋愛の経済学』を参照してみよう。これを見ると、「弱者男性」たちの苦しみや、ネットでの男女論の熾烈化の背景にある状況が理解しやすくなる。事例が日本ではなく、カナダやアメリカのことなのでそのまま日本に適用するわけにはいかないのだが、理解を促進してくれる部分が多いので、参照することにしよう。

    「産業革命の頃に結婚形態が『メイル・ブレッドウィナー・モデル(男性が生計の糧を稼いでくる世帯形態)』」になったのは、肉体労働は男性が優位性を持ち、女性は家事労働に相対的優位性を持っていたからだと言う。現在家事の分担が変わりつつあるのは、「知識労働が増え、収入の男女差が縮まったから」(p113)だという。所得が増えれば、意に染まない男性と結婚するよりも独身でいることを選ぶようになる。男性たちが「女をあてがえ」というのは、女性が自立し経済力を持つと、そうしなければ生きていけなかったような女性が魅力の乏しい男性とカップルになることを拒むからであり、だからフェミニズムやリベラリズムや人権を攻撃する繁殖戦略的なインセンティブが生じる。

     女性の経済力が上がったのは、産業構造が、農業や製造業などの物理的な身体の強さを要求していた時代から、そうではないポスト工業社会(ポスト・フォーディズム)に移行したからである。男女共同参画の政策に深くコミットした伊藤公雄も、その狙いが産業構造の転換にあることをはっきり語っている。「男性たちを拘束してきた『男性性』の縛りが、ポスト・フォーディズム型社会への転換、多様性とフレキシビリティが重要視される社会で、大きな桎梏になることは明らかだ」(「男性学・男性性研究」『現代思想』p17)

     結婚のあり方、「男らしさ」のあり方も、生産体制などによって変化した「歴史的」なものであり、その変化に戸惑う者たちが「男らしさの危機」を、製造業や地方の衰退と結びつけがちなことは、既に確認してきた通りである。トランプ支持者・政権は、だから、製造業中心に国の産業を変えることすら行いつつある。

     では、1980年ごろまでにはあったと考えられている(統計上も裏付けられる)一夫一婦制は、どの程度普遍的なのだろうか。それもまた、産業構造・生産体制によって変化してきた歴史がある。マリナは、一八〇万年前の遊牧時代は「長期的な伴侶」はなく、「男女ともに多くの相手とセックス」(p136)していたが、温暖化で森林が後退すると肉食の割合が増え、早産になり、母親の世話がより必要になり、食料は男性が均等配分し、一夫一婦制になったと述べている。ただし、そのときには一夫一婦制であってもカップルは4年ほどで「連続的単婚」状態だったと言う。その後、農耕革命以降、男性が富を蓄積し、男性間の平等に終止符が打たれる。マリナは書いていないが、この時期に、男性の遺伝子の継承が極端になされなくなった(少数の男性が多くの女性に子供を産ませる一夫多妻制になった)。そして、農業は一夫多妻制を促進する。それでも、一夫一婦制が維持された地域があるのは、どうも酪農と関連しているようである。

     結婚や男女のあり方が産業構造・生産体制に左右されているのだとすると、ポスト・フォーディズム、第三次産業革命以後、第四次産業革命の最中である現在はどうだろうか。IT産業などは中間層を没落させ経済的格差を拡大していく傾向があり、形式的には一夫一婦制が維持されている国の多くでも、実質的に富裕層は一夫多妻制になっている。ここで「一夫多妻」とは、時間差で結婚したり、妾や愛人を持ったり、性風俗、パパ活、売春などを利用することを指して言っている。

     レナ・エドランドとイブリン・コーンの説では、一夫多妻制になると結婚するのではなく、売春婦になることを選ぶ経済的なインセンティヴが女性に増えていく。「一夫多妻制が広まると売春婦への需要が増し、サービスの値段はつり上がっていきます。すると結婚しているよりも売春婦になった方がよいと考える女性が増えます」(p150)。そして男が余る。それが、日本でも起こっている現状ではないかと思われる。「一夫多妻制の国で男女が同数なら、こうして結婚市場から(そしておそらくセックスからも)あぶれる男たちが出てきます」

     もし資源の分配が男性間で公平に近ければ、女性たちは長期的なパートナーを求めているのだから、少数の富を持つ男性たちとパートナーになるインセンティヴが少なくなる。

    男があぶれる理由は、「男性間の不平等」、つまり格差拡大なのだ。「男性間の資源配分が不平等であればあるほど、女性にとっては一夫多妻の世帯に入りたいという動機が働く」(p148)「男性間の所得格差の大きさが一夫多妻制を促す一方で、女性の質の格差は一夫一婦制を促します」(p158)

     経済的な計算の話は省略するが、ここでは面白いことが言われている。アンチ・フェミニストたちは女性の経済的・思想的自立により男性がパートナーを見つけられなくなると考えているが、しかし、女性はむしろ一夫一婦を望むことが多く、女性が教育を受け経済的な力を得ると、むしろ一夫一婦制に近づいていくというのである。これは、後に詳しく説明するが、男性も経済的不安を感じ、非熟練労働の賃金が低下しているので子供に高い教育を与えたいと考え、そのために経済力と学歴のある女性を望むようになるという、これまた産業構造の変化に随伴する現象なのである。

     高学歴男性と、低学歴男性の格差

     ネットで男女論、ジェンダー対立が激化する理由に関わると思うので、産業構造の変化と学歴・賃金の話をもう少し行おう。本書はカナダでの講義なのでカナダやアメリカの事例が多いので、日本とは状況が違うという前提で、読んでいただきたいのだが、カナダやアメリカでは既に女性の方が学歴が上になっている状況がある。

    「過去40年の間、大学生のうち女性の占める割合は30%から60%へ倍増」し、2010年には25歳から29歳の女性の36%が学士号、男性は28%になっているという。男性のほうがドロップアウトし犯罪者や貧困層に陥る率が高いことは、前回述べた通りである(「男性差別」などのアメリカの議論を、そのまま日本は輸入できる状況ではないし、日本の現状からのイメージで「多様性の行き過ぎ」などの議論を退けてもいけないのだと思う)。

     社会全体で女性の高学歴化が起こると、女性が、自分と対等か上の相手を見つけるのが難しくなる。男性は相手の学歴や収入にこだわらないから、競争相手が多いのである。その結果、自分の価値や「交渉力」が下がり、意に沿わない付き合いやセックスや結婚をしなければいけない率が上がってしまう。高学歴で高収入の男性は思い通りにできることが増え、キャンパスではカジュアルセックスがたくさん増えた(長期的パートナーシップを望む女性の望みが叶えられなくなった)。「キャンパスで女子の方が多いと、単に数の上で女性があぶれやすくなるばかりか、男性が優位に立って男女関係の性質を変えてしまうのです」(p45)。そして、低学歴低収入の男性たちはあぶれる。そのような性的・恋愛的な格差がどんどん拡大していく。高学歴高収入の女性は、努力を人一倍しているにも関わらず、高学歴高収入の(20%的な)男性たちを手にいれるために、低学歴・低収入・全年齢(80%的な)の女性たちと争わなくてはいけなくなってくるので、過酷で傷つき男性を恨みたくなる状況を経験する率が増える。そしてそのことを「説明」する理論を学習する確率も高い。

     この状況、男性と女性が接触する場として印象的な恋愛・性愛の場において、カジュアルセックスを好む男性たちにいいようにされ傷つけられる女性が増大し、その憎悪や怨嗟がネットに溢れることを帰結する。そしてそれが「男性」一般と混同されることで、その恩恵を受けていない下位の者が、してもいないことを非難され傷つき苦しむことになる。そして、「弱者男性」たちは、女は恩知らずで、友情に報いず、「上昇婚志向」な「動物」のようなものに過ぎないという憎悪を高めていく。格差の拡大と産業構造の変動が、こういうことを起こりやすくしている。日本の弱者男性論壇のnoteなどを読んでいると、男も女も夜職的な人々を想定し批判や攻撃をしているが、そのような場では互いに傷つきが起こりやすいのだろう。

     「上昇婚」傾向の変化

     そうなると、高学歴高収入女性たちも、「格上」を求める繁殖戦略を変えることになる。それは数が極めて少ないが故に競争が激しく、従って自分の価値を低く評価されがちだからだ。そこで「上昇婚」をせず、学歴や収入などで自分に劣る男性とパートナーになるケースが増えているという。

    「教育程度と経済力の高い女性が年下の男性と結婚することはいや増しています」(p113)「高学歴女性が若く低学歴でおそらく収入も最も低い男性と結婚することが増えているというごく最近の現象は、セックス革命時の社会的常識の変化にも比肩しうる社会的変化を促しています。大学進学の直接的結果であるこの変化は、男女関係に革命を起こす可能性を秘めており、男らしさ女らしさをめぐる社会的常識を変えるものです」(p300)。バスも「女性の配偶者選好を生み出した進化的根拠が、現代社会では妥当性をほとんど持たなくなっている」(p390)と言う。

     同様に男性も高学歴女性を求める傾向が増えている。「例えばこの数十年間、最高所得層世帯と最低所得層世帯の所得格差は広がる一方ですが、その理由の一端を説明しています。デート市場が発達したおかげで自分と同様の所得水準の相手との出会いが容易になったから、というものです。高学歴で稼ぎの良い男性が、単に近所の幼馴染だからというだけの理由で低熟練・低賃金労働に就く高校の同級生と結ばれるなどという時代はとうの昔に過ぎています」(p100)

     男性が高学歴女性を求めるのは、既に述べたように、熟練労働者の賃金は上昇し、非熟練労働者が下降していくというトレンドがあるからである。子供により良い質の教育と、遺伝子が必要であると、男女ともに思うようになっているのだ。そのような非熟練労働の価値低下が、トランプ現象などを起こしていることは既に繰り返している通りである。非熟練労働の価値が低下すると、低学歴の男性はより配偶者を見つけにくくなる。

     驚くことに、1940年には高卒女性の45%は自分より低学歴の男と結婚していたという。しかし、非熟練労働者の賃金が下がり、男女の賃金格差が縮まると、低学歴男性と結婚するメリットが薄くなった。そして、高学歴高収入男性との出会いは都会に多く、それが都会に女性が行くインセンティヴになっている。高学歴男性は女性の収入や学歴にこだわらないので、高学歴高収入女性は競争で苦労する。都市部の高学歴高収入の男性は、都市部に流入する多くの女性に対し有利である一方、地方の男性たちはどんどん不利になっていく。

     アンジェラ・ネイグルはインターネットのミソジニー文化の背景を、こう説明する。「一夫一妻制の凋落の結果として出現した性的関係の数々のパターンとして、男性エリートにとっては性的選択の自由度が大いに増し、序列の最下層に位置する大勢の男性のあいだで独身主義が強くなった。最下層の男性たちの、自分たちのランクの低さに対する不安と怒り(中略)拒絶されたことによる容赦なき痛みがフォーラムのなかで腐敗し、それによって彼らは、彼らに多大な屈辱をもたらす残酷な自然の諸階層の支配者になろうとしたのである」(p184)。その背景には、ここまで書いたような産業・経済の変動がある[3]

     性にあぶれた男性の体制破壊

     歴史的に、セックスやパートナーにあぶれた男たちは、体制を破壊する行動に出てくることが多かったようである。だから、一夫一婦制にしてきたとマリナは言う。それは、「女をあてがえ」論が要求していることそのものである。

    「民主主義では、いや他の政体でも、性にあぶれた怒れる未婚の男たちを生み出すような立法をするのは議員にとって不利な事なのです。こうした貧しい男たちを宥めるためには単婚を法制化した方が有利なのです」(p143)「革命で首をはねられたくない独裁者にとっても、一夫一婦制を採用した方が利口です」(p153)「富の点でもセックスへのアクセスの点でも格差が大きければ、農奴は一揆をおこして支配者を転覆します」(p153-154)

     これが、アメリカでも起こっている「不可視化された者の叛乱」「トランプ現象」の内実なのだと考えられる。それを、愚かであると見下し、単に啓蒙だけで対処可能であると考えるのは甘く見ていると思う。

    「女をあてがえ」論には、男女の利害において、極めてシビアなジレンマがある。「一夫一婦制にすることによって最下段の最も貧しい男は幸せになります。女性が結婚したければ彼とくっつく以外になくなるからです。一方、彼女はできればもっと豊かな男の妻になりたいのはやまやまなので不幸になります」(p147)

     これまでは女性にそれを強いてきた。そして、そこから女性を解放してきたのが、フェミニズムの歴史である。

     筆者は、昭和的な、父親が「稼ぎ手」となる家庭に育ち、その支配と横暴にウンザリしている気持ちが大きいので、上野千鶴子や信田さよ子らが問題にするような、家父長制的な家庭における女性が受けている支配や暴力をなんとかしないという問題意識にとても共感し、女性たちが自由に解放されて生きるべきであると強く感じる。上野千鶴子の議論も、そのような家庭における女性の屈従への問題意識から女性の経済的自立を評価しているものだったが、その議論は高度消費社会における女性の経済的自由の増大と密接に結びついていた。女性が自由で解放されることはいいことである一方、男たちの一部が置き去りにされ叛乱を起こしてしまうのが、現状のジレンマである。

     だが、「女をあてがえ」的に自律性や自由を抑圧することは、ポストフォーディズムの生産体制の社会の中では、国力を低下させるのではないだろうか。ロイ・バウマイスターの研究によれば「男女が平等な社会程性的活発度が高い」「性的平等性と国民所得に強い正の相関性がある以上(女性の自立も高い国は世界で最も豊かな国々です)」「経済成長を促す国民性には、新たな考えに対する開放性、信頼、そしてリスクをいそいそと取ることなどが挙げられます」「自由な社会では高収入と活発な性生活のいずれにもつながるということのようです」(p36-37)とのことである。女性が活躍する方が生産性が上がるというデータも多い。であれば、セックスにおいてもパートナー関係においても、自由で開放的になっていき、社会や国家が全体的に創造的になっていく方が望ましいだろう[4]

     既に述べたように、知識産業や創造産業が中心的に経済を牽引していく時代においては、その方が国にメリットがあると思うからである。AIによりその計算が変わる可能性ももちろんあるが、不安定で変動が大きい時代であればあるほど自由で開放的で創造的な主体が多い社会・国である方がよりよくサバイブできることに変わりはないと思うので、筆者は国はそちらに向かうべきであると感じる。ただ、これも産業構造が正当性の基盤であるので、それが変われば、条件が変わってしまうものである。くり返し述べているように、トランプ支持者と政権は、その産業構造そのものをダイナミックに変えることさえ行っているのだ「5]

     このままでは「男らしさ」の価値を取り戻し、性的に満足するためだけに、戦争すら起こしかねない勢いである。それは冗談ではなく、過去のドイツやイタリアのファシズムは、そのように分析されている。

     「頂き女子」への怒り――エロティック・キャピタル概念の意識化

     女性が経済力などを持つ結果、男女の「交渉力」が変化し、それがマノスフィアなどにおける反動を生んでいる。

     バスは、こう分析する。「恋愛や結婚における男女の平等実現が文化的に強く推進されてきた結果、男性の特権は以前と比べて劇的に制限されるようになった。西洋的な婚姻は、もはや男性に無制限の性的アクセス権を与えず、男性はいつでもどこでも妻とセックスしてよいというわけではなくなった。コミットした関係にある女性は、セックスに同意する権利と、拒絶する権利を持っている。その結果、女性は非常に重要な力のレバレッジを持つようになった。報酬を与える力と、罰する力だ」(p135)「恋人や夫がいる一部の女性は、セックスを相手に対する報酬として利用していることがわかった」(p135)「セックスへの関心レベルが低い側のほうが、セックスをするか否か、いつするのかについて、決定力が強い。そして、その関心レベルが低いのは、多くの場合、女性のほうだ」(p137)「性的リソースの配分や拒絶という戦術は、男女双方が用いるもの」(p138)「セックスを希少なリソースとして機能させる」(p139)

     「エロティック・キャピタル」という概念が、ネットで急速に普及してきたのは、このようなセックスを巡る力関係を意識せざるをえない状況を経験する者が増えたからだろうし、力関係が変動しているからである。「不同意性交」は、報告書やカウンセラーや当事者の書いたものを読み、被害者の状態を考えると本当に酷いものであり、無くすべきだと感じるが、一方で大きな反発があるのは、この「交渉力」の変化に起因しているのだろう。

     頂き女子りりちゃんへの反応を見ていても、弱者男性論壇を見ていても、女性の「テイカー」性への怨嗟がひどく多いが、その背景にはこの性を巡るレバレッジの変化がある。デートで奢るか奢らないか、サイゼリアでいいかどうかも、セックスを巡るコストが男性にとって増大していることの不満、エロティック・キャピタルの領域において男女が平等ではないことが不可視化されていることに対する平等要求だと言って良い。そのことは、真剣に考える価値があるのではないだろうか。

    Ⅱ 「暴力性モテ」と「ノット・オール・メン」

    「ダークな性格」という軸の導入

     さて、ここで、ひとつの重要な分析概念を導入したい。それは「ダーク・トライアド」に代表される、「ダークな性格」である(トライアドは3を意味するが、現在では3以上あるので、「ダークな性格」と呼ぶことにする)。

     男女の格差が拡大し、セックスに至るコストが男性にとって高く付くようになっていくと、負け組の男性は、収入を増大するとか、魅力を増やすというような王道の方法論では勝ち目がなくなってくる。そこで、ダークな性格を持つ人たちは、進化心理学を援用した「ナンパ師」的なテクニックを利用したり、暴力を用いて支配したり、薬物を用いて昏睡させたりするようになる。格差の拡大はそのインセンティヴを増す。「標準以下の男性を避けたり、セックスに同意する前に豊富な求愛行動を要求したりすることに関する人間の女性の適応が、男性に対して、このようなハードルを回避する方向への選択圧を生み出してきた」(p17)とバスは言う。

    「常習的に女性に危害を加える男たちは、人格の『ダーク・トライアド』、つまり、ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパシーの3つの特性が強い」(p44)。「サイコパシー傾向が高い人は、共感力に欠け、ほかの人の苦しみに無関心だが、表面的な魅力を発揮して女性を惹きつけることに長けている場合も多い。このダーク・トライアドの3つの要素は、どれも社会的に相手を搾取する戦略につながるものであり、性的搾取はその中でも重要な部分を占めている」(p44)

    「協調性の指標が低い人は、自己中心的で、共感力に欠け、攻撃的な人格であることが多い」(p80)「協調性が低く、さらに、カジュアル・セックスを好む傾向がある、という条件に該当する男性は、搾取的で短期的な配偶戦略をとる可能性が高くなることがわかった」「ダーク・トライアドの人格特性と短期的な配偶戦略という有害な組み合わせは、性的暴行の発生率の増加につながりやす」(p81)い。

    「短期的な配偶戦略を指向する傾向が強い女性は、性的搾取のターゲットになりやすいことを示す手がかりを意図的に発する場合があるらしい、とわかった。特に、外見が魅力的な女性や、新しい体験を進んで求める女性は」(p82)「性的な搾取されやすさを示すことは、たとえば、自分を追う崇拝者たちからお酒やディナー、贈り物などのリソースを引き出す手段になる。体を許す気があるかどうかにかかわらず、女性は自分に興味を持つ特定の男性からこうしたリソースを獲得することができる」(p83)

     そして、ダークな性格の強い女性たちもおり、エロティック・キャピタルを利用した資源獲得や駆け引きを繰り返す。

    「女性が性的捕食者になることはありうるのだろうか」「答えは『イエス』だ」(p44)。女性のダーク・トライアドもいる。「職場でセックスを武器に昇進しようとすることが多い」(p44)「ダーク・トライアド傾向の強い女性もまた、悪虐非道な行いをする」(p89)。「男性の方がダーク・トライアド特性のスコアが高い傾向がある」(p89)。ナルシシズムは性差が小さく、マキャベリズムは男女で同水準である。「ダークトライアド特性の高い女性は、性的なウソで相手を騙す術に長けている。彼女たちはリソースを獲得するために、つまり服やお金、優れた成績、味方などを得るため、あるいは単なる性的な征服欲を満たすために、セックスを使うのだ」(p90)「彼女たちはセックスを神聖でロマンチックな魂の結合とはとらえない。彼女たちにとってセックスは強力な武器であり、欲しいものを手に入れるための手段だ」(p91)

     早稲田大学教授・小塩真司の『「性格が悪い」とはどういうことか』によると、ダークな性格(三つではないので、「トライアド」ではなく、「ダークな性格」と彼は呼ぶ)は、交際関係を維持する努力、相手を「つなぎ止めておくテクニック」「相手の時間を独占」「相手の嫉妬心を誘発」「性的な魅力を相手に示す」「ライバルに対して脅したり暴力をふるったりすること」(p131)と関連しており、「極端な交際関係維持行動を行うことで、かえって交際相手が去っていく傾向が高まる」(p132)「パートナー自身への関心があまり高くなく、関係性そのものを楽しんだり関係をもったりすることで得られるメリット(性的、金銭的、地位など)に焦点が向きやすい」(p132)「男性側より女性側のダークな性格のレベルが、関係の悪さに影響するという傾向」(p134)があるという。

     ネット上の男女論が、「男」「女」で本質主義的に同一のアイデンティティがあるように見做す錯誤の問題点がここにある。ダークな性格のある男女と、ない男女では、話が違うのである。「被害者」であると主張する者の中に、本当に可哀想で悲惨な被害者と、同情などを利用し対人操作をし責任を回避する者、脆弱ナルシシズムを利用する者などが混ざっているのである(ダークな性格の持ち主は、パーソナリティ障害などの人口構成比などから推定して、少なくとも10%はいるのではないかと思われる)。彼ら彼女たちはジェンダーに対するステレオタイプも利用する。

     弱者男性の怨嗟が向かっているのは、おそらくダークな特性のある女性だろう。被害者に同情し共感しつつその苦しみが起きなくなることに心から賛同していも、痴漢冤罪や不同意性交の悪用などを警戒の気持ちも湧いてしまうのは、それはこのようなダークな特性のある女性が一定確率でいることを知っており、経験的に理解し、酷い目に遭わされたり、遭っている者を知っているからである(草津のケースを見るが良い)。これが様々な不幸なすれ違いを生み、問題の解決を困難にしているように思われる。男女を一枚岩的に単純な性善説性悪説で塗りつぶすのではなく、両方に「ダークな性格」を持つ人間が一定確率いるということを大前提にして議論し、「男性」「女性」と一括りにしない方がいいのではないかと思うのだ。

     現在は、そのような性質を持つ男女が、マッチングアプリや夜職などで出会いやすく、不幸な出会い方をする確率が上がる経済的環境である。様々な傷つきやトラウマを負うことも少なくないだろうし、トラウマを負った者が恐怖やフラッシュバックであるカテゴリ丸ごとに恐怖や怒りや嫌悪の感情を抱くことも、往々にして起こりがちなことである。小塩もこう書く。「サイコパシーに関しては、男性よりも女性で性的活動と密接な関係が見られた」「カジュアルな性交渉を行うのは、マキャベリアニズムが高い男性と、サイコパシーが高い女性の組み合わせだということなのでしょうか」(p125)、ダークな性格は「マッチングアプリの利用率に強く相関する」(p127)

     「暴力性モテ」「優しく誠実な男はモテない」は本当か

    「暴力性モテ」「チャドとステーシー」という議論がある。それは、誠実で真面目で優しい男はモテない、だから女には見る目がない、女はバカだから不誠実で害のある暴力的な男に行くのだ、という意見である。弱者男性論壇のnoteを読むと、このような記事で溢れている。

     これは真実だろうか? 「バカ」と見下すミソジニーは賛同しないが、悲しいことに、バスによると、どうもこれは真実の一端を捉えているようだ。それを「悪い男」パラドックスと呼ぶ。

    「ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパシーというダーク・トライアドの特性において高いスコアを示す男性たちは、実は女性にとって非常に魅力的な存在だ」(p85)とバスは言う。彼らは「社交的にチャーミングであることが多い。彼らは話術に長け、うまく立ち回る。特定の女性に興味を持つと、その人にレーザー光線のように一点集中し、『自分は特別な存在なのだ』と相手に思わせる。これは、大胆なアプローチができない内気で不器用な男性たちに慣れている女性にとって、魔法の薬だ」「自信にあふれ、ステータスをほのめかす」「身なりがよく、おしゃれだ」「ボディランゲージが巧みで、よどみがない。姿勢はリラックスしていて、落ち着いており、神経質な動きをしない。アイコンタクトにも長けている。全体的に見て、彼らは自分に高い配偶価値があるように振舞う。必死な様子は見せず、過度な感じの良さや協調性(ステータスの低さや従順さのサイン)をアピールして失敗することもない。自分はすばらしく魅力的であり、その場の中心となるべき人物なのだという雰囲気を、さも当然のことのように漂わせる」(p86)

     これらは「ステータス」を示す生物学的なサインだが、ナンパ師たちはこのような「格上」の「ノンバーバル」を学ぶように教えている。つまり、ダークトライアドの特性を持つ者の特徴を擬態し習得するように「弱者男性」たちに促し、そして実際に成果を挙げるものも出てくる。はてな匿名ダイアリーなどの書き込みを読むと、成果が出てたくさんの女性と寝れば寝るほど、法則に従って恋に落ちてセックスできる女性たちを、機械のような存在だと見下す気持ちが増大していくようである。

    「ダーク・トライアド傾向の強い男は、女性に生きている実感を感じさせる手管に長けている。彼らは、ワクワクするような体験を提供し、女性の大胆さや自信を引き出す。だが、短期的な興奮は、最終的には長期的なコストにつながる場合が多く、男性に捨てられた心の傷が、長期にわたって影響を生む可能性がある」(p89)。小塩によると、カリスマ的リーダーも、ダークな性格を持っていることが多い。

     ダークな性格と「捕食者」

     性暴力や加害に対して「全ての男がそうではない」という態度を採ることを「ノット・オール・マン」と呼び批判する傾向がある。男性も問題解決に協力するべきであり社会を変えることに協力すべきという呼びかけの意義を理解し気持ちには大変共感するが、事実としては「全ての男」ではなく、少数であるようである。

     過半数の男性はレイプの空想すらしないし、レイプ犯は「高いダーク・トライアド特性」と「カジュアル・セックス志向」を持っており、「妻に対して暴力や脅しを用いることが多い」(p307)

    「セクハラ事例の大半は、少数の加害者が引き起こしており、その多くは常習犯なのだ」(p262)。そして「セクハラをする男性の予測因子」のひとつは、「カジュアル・セックスを好む傾向」(p272)、もうひとつは「正直さ」「謙虚さ」の人格特性スコアが低いことである。「このような男性は、共感力が欠如していることもわかっている。つまり、セクハラをしやすい男たちは、ダーク・トライアドの特徴をすべて備えている」(p273)

     女性の方が性的アプローチやハラスメントを、より不快で、心理的なダメージを負いやすく、それを男性は理解しにくいことにバスは注意を促す。その上で、「男性も女性も、カジュアル・セックスへの欲求が強い人は、性的なアプローチを不快に感じにくいことがわかった。さらに、女性は外見が魅力的な男性からの性的アプローチを、魅力的でない男性からのアプローチと比べて、大幅に不快に感じにくいことも明らかになった。魅力が低い男性からの職場での性的アプローチは、女性から特に嫌がられる」(p269)と言っている。「ただしイケメンに限る」「負の性欲」的な現象は確かにあるのだ。

     レイプや性犯罪をするのは「弱者男性」「オタク」か?

     ネットの男女論では、性暴力やハラスメントなどが起こると、すぐに「弱者男性」や「オタク」のせいにされるが、実際はイケメンやリア充や権力者が実行していることが多い、という反論がなされることがある。これはどうなのだろうか。「まっとうな求愛行動を通して魅力的な相手を惹きつけるために必要な資質を持てないせいで、女性に無視されたり拒絶されたりした男性が、女性に対する敵意をつのらせ、これが正常な共感的反応を阻害し、レイプが促進されるのかもしれない」(p286)とバスは前置きした上で、そうではないかもしれないと言う。

     法的な意味でのレイプをしたことがあると認めた男子学生は「女性から人気があり、ステータスが高く、合意あるセックスをする機会が多い傾向にある」とリンダ・美鈴の指摘を挙げる。「社会的ステータスの高さと共感力の程度とのあいだには、関連があることが示唆されている。つまり、裕福な人は、他人の苦しみに対してより無関心になりがちなのだ」(p287)

     そして、調査結果を元に、レイプをするのは「非モテ」「弱者男性」ではなく、「ステータスの高いマッチョなモテ男」(p287)が多いと言う。「配偶成功率が高い男性は、性的攻撃の経験も多い」(p289)「『思春期に経験したセックスの数』が、性的強要のもっとも強力な予測因子の1つである」(p289)「お金やステータス、人気、権力を手にした男性のほうが、性的捕食者になりやすいのだ」(p290)。「セックスや権力、ステータスなどの要素は、男性の心の中で入り混じっており、はっきりと分けてとらえられるようなものではない」(p264)「一部の男性は権力とセックスという2つの概念を無意識的に関連付けていることがわかったが、この傾向がみられるのは『セクハラ加害のしやすさ』を測る尺度で高スコアを出した男性だけだった」(p265)

    「フェミニストの学者たちは、一部の男性は、女性に対する権力を獲得し、それを維持するため、あるいは他の男性に自分の権力を見せつけるためにセクハラをする、と考えており、これは説得力のある説だ。だが、進化の視点から考えてみると、それとは逆方向の因果関係の可能性も見えてくる。つまり男性は、少なくとも部分的には、セックスの機会を得るためにステータスや権力を追い求める、という可能性だ」(p266)。ダークトライアドを持つ男性たちは「ステータスを追い求め、実際にそれを手にすることもある」(p87)。これは、現実の権力者たちを見ると、よく分かることだろう。ワインスタイン、ジャニー喜多川など、枚挙に暇がない。

     ということは、権力や地位や金を持ち、女性たちを思いのままにし、短時間の快楽のために傷つけ男性嫌悪とミサンドリーを増やしているであろう「捕食者」たち――昨今、その存在は周知になっていると思うが――を批判する方が、「非モテ」「弱者男性」には繁殖戦略上メリットがあることになるのではないだろうか。「捕食者」たちの短期的な快楽と満足のために、自殺したり、生涯トラウマを負ったり、男性嫌悪が増大していくのだとすると、それは「弱者男性」の敵である。彼らが与えた傷を癒すためのコストすら負担させられることもあり、そんなことをしなければいけないのは公正ではないのだから。

      「怒り」による「厚生トレード率」の変更戦略

    「彼らは相手に関心や好意を向け、尽くし、贈り物を贈り、愛情を注ぐ。男性たちはそうやって、女性の配偶者選好を構成するさまざまな要素を提供しようとする」(p393)。しかし、女性のリソースは増え、男に頼ったり媚びたりしなくても生きていけるようになる。そうすると、「女性に自分のもとを去る力があると知っていれば、男は嫉妬による支配を緩める。そして、有害な戦略をとるのをやめ、相手に恩恵を与えることで自分のもとにつなぎとめようとする戦略をとるようになる」(p395)。このように対等で尊重し合えるハッピーな男女の関係性が増えていく一方で、男性の資源が相対的に減っていくことにより、資源のない者(配偶価値が低い者)が「悪質な方法」を採るインセンティブも高まる。

     そのうち、ダークな性格を持つ者たちは、このような方法を用いると言う。たとえばものを知らない若い女性を狙おうとする。若い女性は、自分の配偶価値を知らないので「自分よりも価値の低い男性、特に経験が浅く世間知らずな若い女性を搾取しようとする年上の男性からのアプローチに屈しやすくなる」(p232-233)

     そして、相手を暴力や言動などで洗脳し、過剰に支配したがる者もいる。「相手を過剰に支配したがるのはどのような男たちなのだろうか。配偶価値が低い男性、というのが、その答えだ」(p159)。女性はまた別の戦略を使う。「パートナーよりも配偶価値の低い人がよく使う対処戦略が、『相手の嫉妬を意図的に焚き付ける』こと」(p165)「頻度は女性のほうがやや多い」(p166)「戦術の重要な予測因子となるのが、配偶価値の格差と、ダーク・トライアド特性」(p167)である。

     パートナーからの暴力が「家父長制」に由来するという意見があるが、スウェーデン、デンマークなど非家父長的な国でも暴力はあり、EU諸国やオーストラリアよりもやや高いとバスは言う。バスは検証の結果、「金銭的なリソースが不足している男性のほうが暴力に訴える傾向が強い」(p188)「男性のほうが配偶価値が低い場合、女性にリソースを提供することが比較的困難であることが多く、結果的に女性が浮気をしたり、別れを持ち出したりする可能性が高くなる。このような要素はすべて、相手をつなぎとめるための手段として暴力が用いられる背景になりやすい。この仮説を裏付ける証拠として、カップルのうちで配偶価値が低いほうが、相手に対して支配的で攻撃的な態度をとる傾向が強いことがわかっている」(p205)と言っている。オンライン上で「支配的で攻撃的な態度をとる」ミソジニーの背景には、このような心理や立場の差があるだろう。

     ダーク・トライアドは、自己愛性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害、境界性パーソナリティ障害との関連が強いと言う。たとえば、「力のバランスを自分に有利な方向に変えたいがために、男性はパートナーを孤立させようとし、それに対して女性は家族や友人とのつながりを保とうとする」(p213)「親戚と同じく、女友だちは、女性の味方となる存在であり、男性による支配を相殺する力となる」(p214)。この戦略を用いる女性も少なくないのだが、それは次回以降に論じる。

     ネット上のミソジニックな怒りの中には、置き去りにされ、見捨てられた感覚があることが多い。その「怒り」はどういうものなのだろうか。パートナー間での怒りという現象に対し、バスは進化心理学者アーロン・セルの「怒りによる再調整説」を参照し、怒りは「厚生トレード率」の変更への要求だと理解するといいのだと言う。こう述べる。「人に対して怒りを表現する行為には、相手が自分をもっと大切にするように仕向けるという、きわめて特定的な機能があるという」(p163)「私を大切にしないなら、もっと大切にさせるためにあなたに見出す価値を下げる」(p168)。衰退する地方、賃金低下する非熟練労働、製造業従事者たちなどの「怒り」にはこのような機能が確かにある。そして、女性が男性を粗末に扱うなら女性は相手にせず二次元美少女を愛する、などと言う滑稽に見える意見は、後者なのだと理解すれば腑に落ちる。

     ポルノも、男女の対立に大きな影響を及ぼしている。ポルノの非現実的で理想的な女性像が男性に植えつけられ、女性はそれを期待されていると感じ、応じることに抵抗を感じ、対立が生まれる。「怠惰な男性たちにとって、配偶の代替にもなる。彼らは現実世界の女性を惹きつけるための労力を払わなくなり、その結果、充実した配偶関係を築くという目標は果たされなくなっていく」「ポルノ消費の蔓延は、男女間の対立を激化させ、同時に女性間の競争にも有害な影響を与えている」(p402)「男性がパートナーに望むものを具現化しようとする女性たちのあいだで、激しい競争による対立を生み出してきたのだ。/現代の環境においては、女性間のこのような競争は、悲劇的なまでに暴走している。女性たちはたしかに、メディアが提供するイメージから大きな影響を受けている」(p400)「進化によって形作られた男性の心理が原因となって、女性同士の競争心理が引き起こされている」

    「女性たちは、自分の体に関する決定権を守るために、積極的な戦略家として進化してきたのであり、単に男性たちの家父長制的な考え方の受動的な被害者であったわけではない」(p409)。このような「共進化」が起こっており、「進化のミスマッチが存在していること、そして文化的進化が急速に進んでいること」(p409)が問題の本質だと言う。

     話を「怒り」に戻すと、トランプ現象は、その「怒り」が国家を動かした事例として理解されるべきだろう。集団により社会や政治を変えるという遠大な「戦略」を実行し、成功した事例としてトランプ現象を理解するべきであろう。日本においては、あれほど暴走し合理性がなく破壊的なやり方で「言うことを聞かなければいけなくなる」前に、「厚生トレード率」を適切に見直すことが必要であろう。

     ダークな性格を改善することは可能か

     ネットにおいて、女性が堂々と意見を言ったり、フェミニズム的な意見を言ったりすると、炎上が起こり、殺害予告などが殺到することがある。それらは、このように怒りに基づいて力による支配と屈服をさせようとする現象だと考えれば良いだろう(それは「表現の自由」と両立しない、暴力による言論弾圧であり支配である)。

     オンラインのミソジニーの中で、もっとも極端なケースは「敵対的男性性」と呼ばれることがある。それは、「女性から不当な扱いを受けており、女性は信頼できない存在だと感じている」「自分のことを被害者だと思っており、自分のアプローチを拒絶する女性たちや、性的魅力によって自分の性衝動を刺激する女性たちの犠牲者として自分をとらえる」(p300)「敵意の強い男性は、男女を基本的に対立する存在として見ており、『勝者総取り』のゲームで争っていると考えるのだ」(p301)

     その「敵対的男性性」にも、ダークな性格が関わっているだろう。ネットの荒らしをする者は、「サディズム」の特性が高いことが分かっていると、小塩は言う。「ダークな性格の持ち主は、孤独感を感じたときに、インターネット上での荒らし行為をしがち」(p177)である。「もしも彼らが周囲からの支援を十分に受けることができるような立場にあれば、たとえば高い社会的地位にあるとか、周囲にとてもサポーティブな人々がいる状況であれば、それほど攻撃的な態度をとることはないかもしれません。しかし一方で、そもそもダークな性格の持ち主たちは、その対人関係上の特徴から社会の中で孤立しがちだという一面もあります。このあたりが、ダークな性格につきまとう問題になりそうです」(p178)。孤独の解決や、社会的処方が、現状の様々な問題、ファシズムの解決に有効だと思われるのは、この辺りが一つの根拠となる。

     しかし、なぜ彼らは、そのように攻撃的で不信の念が強いのだろうか。どうしてダークな性格を持つことになってしまうのだろうか。その理由の一つに、成育環境を小塩は挙げている。「愛情が薄かったり冷たかったりするなど親の養育の質が悪かったと報告することと、ダークな性格との関連が見られています」「特にマキャベリニズムの高い人は、親との関係性の質が悪く、葛藤も多く感じており、愛情や深さに欠けるような関係をとる傾向にある」(p205)「ダークな性格を助長する環境として注目されているのが、育つ環境の厳しさや予測不可能性」「地域の貧困や死亡率の高さ、犯罪発生率の高さ」「家庭そのものの貧困や支援の少なさ」「家庭の中の混乱や渾沌」「家の中でゆっくりリラックスして過ごすことが難しい環境であること」(p208)

     ダークな性格を持っている者も、ある時点では被害者であり、過酷な状況を生き抜いたサバイバーだったのかもしれない。多くの加害者がそうであるように、自身を被害者や犠牲者であると感じてしまう環境に生きてきたのかもしれない。そうであれば、理想的には、そのような過酷な環境で生きざるを得ない子供たちを可能な限り減らし、現に存在する苦しみやトラウマをなんとか癒す――カウンセリング受診命令を可能にするとか、保険診療化するなど――方向が最も望ましいだろう。

     ダークな性格が適応していた環境

     一方、小塩は、ダークな性格が今でも人類に遺伝子として残っているのは、それが生存に有用であった環境がこれまであったのだろう、と進化心理学的に解釈し、こう言う。「世界が予測不可能性に満ちており、将来何が起きるかわからないような状況の中ではできるだけ他の人よりも速く多くの利益を得て生存していく必要に迫られます。このような状況の中で自分を有利な立場に導き適応的な結果を残すことにつながりうるのが、ダークな性格だと考えられる」(p210)

    「厳しい環境の中でこそ、ダークな性格が有利な結果をもたらすとも考えられます。しかしその一方で現代の環境は、ダークな性格にとって不利な要素が多くなっています」(p246)。スティーヴン・ピンカーの『暴力の人類史』を参照しても、人類史とは暴力をより減らしていくプロセスであった。つまり、リベラルで、繊細で、ポストモダン的な――男らしさにこだわる人々が「女性的」と呼ぶような――環境に変化していっている。

     しかし、それが永遠に続くわけではない可能性に、小塩は注意を促す。そのように人類が進歩しユートピアに向かっていくわけではないかもしれないという、気候変動や戦争、核兵器などの不安要素はたくさんある。

    「今後、私たちの世の中がますます想定外の混乱へと進んでいく可能性は、常に残されています。/混乱した世界は、ダークな性格が形成され、またそのような性格の持ち主が活躍する可能性を高める場所でもあります。はたして、平和で繫栄した世界は、いつまで続くのでしょうか」(p251)「今後、時代の流れのどこかで私たちにとって厳しい世界が訪れたとき、ダークな性格の持ち主が一定数存在することで、人類という集団がなんとか生き残っていく場面にでくわすかもしれません」(p256)

     筆者は、これにもう一つ、捻りを加えよう。暴力や「有害な男らしさ」などがなくなっていく、リベラルでポストモダンな世界は、優しく穏やかで平和で心地よい世界であるが、そこにおいてダークな性格を持つ人々は、適応しにくくなり、生きにくくなってしまう。だから、彼らは「絶滅」「淘汰」させられていると危機意識を持っているのではないだろうか。そして、イーロン・マスクやザッカーバーグらが、IT技術によって我々の住んでいる技術的環境やコミュニケーションスタイルを変えてしまったように、「男らしさ」「ダークな性格」が有効に機能し高く評価される環境を、意図的に作り出そうとしているのではないだろうか。VUCAと呼ばれる不安定で流動的で新しく未知のことが多い時代であり、アメリカの大統領の一声で制度やルールが変わり、守られもせず、安定性や予測可能性が少なく、人の顔色を伺い続けビクビクする必要があり、リベラルやポストモダン産業を否定する環境は、ダークな性格の持ち主たちの価値や生存可能性、繁殖可能性を高めるだろう。

     そして、「男らしさ」「男性性」が最も高く評価される場面は、前回論じた通り、「戦争」である。歴史を見ると、戦争を引き起こしてでも、男性性や自分たちの価値を認めさせたり、性的な不満を満たそうとするような状況は存在していた。イタリアやドイツのファシズムはそのようなものだったと認識している。そこまで倒錯的な動機で戦争が起こることことがあるのだ、と我々は考えなければいけない。そしてそのことを想定して、政策や価値観や文化を形成していく必要がある。

     

[1]ここまで、「男性性」「女性性」や、生物学的な性差を脱構築していき、もっと多様で複雑に入り混じる見方をしてきたが、ここでは統計的な意味における二項対立的な性差を導入する。矛盾しているように感じるが、この両方の両立は、想像しにくいかもしれないが、可能である。
[2]進化心理学的な見方をしたくなってしまうニーズの増大には、社会における経済的な格差拡大があり、進化論がそれの正当化に使われているということを問題視することと、様々な実験でエビデンスのある進化心理学の個別の知見を肯定することは、同時に行うことが可能であろうと思われる。
 進化心理学的に恋愛や性の問題を考えると、人間が機械か法則で動く人形のように感じられ、殺風景な印象になってしまう。一方で、実際の恋愛や性は「ロマンス」「運命」「陶酔」などが起こるものであり、二つの見方が相容れないと感じるかもしれない。おそらくロマンスや愛のような内面的体験も、遺伝子のビークルである我々が恋愛や性愛においてそのような快や幻想を分泌するように脳や身体が設計されている(自然選択でそうなっている)ということなのだろうが、筆者は科学・論理のみによって考えるべきだ、という立場には立たない。むしろ、同じ現象が違う見え方をするその「視差」を利用し、右目と左目の視差を脳が遠近として再構成するように、立体的な像を得ようというのがこの論の目的である。たとえば、フェミニズムでは進化論や生物学を忌避しがちであるにもかかわらず、その理論と、進化心理学を同一平面に並べる本連載の方法も、そのような「視差」と関わる。
[3]経済力や社会的地位などが決定的ではないことを示す研究結果もある。排卵期の女性被験者の93%は「豊かだが非創造的な相手よりも、貧しくても想像力豊かな相手を一時的な性的パートナーに望んだ」(p247)。伴侶としても、「良き遺伝子のもたらし手よりも良き生活のもたらし手を望」むかと思いきや、「84%の女性が伴侶としても貧しい芸術家を選ぶと答え」(p248)たのだ。バンドマンや芸術家がモテるわけである。非モテや弱者男性は、芸術を嗜み、創造し、ユーモアや家事能力などを磨くことで、逆転する道はあるのだ。
[4]筆者の立場を明らかにするならば、筆者は性やそれを扱った文化や表現そのものを悪いものとは見做していない。場合によっては、ロマンス文学のように、(女性の)自由や解放を志向する非常に重要な価値のあるものと見做している。しかし一方、現在の日本の性産業や結婚などでは支配・従属や搾取などが横行し、自由でも解放でも創造的でもなかろう、と思い、その部分には否定的である。
[5]男女平等やフェミニズムという文化的は男性の「特権」を損ない、女性の権利や自由を増大させるので、それに対する反発や「男性性の危機」の感覚の刺激による防衛がミソジニーを生んでいるという説がある(フランシス・デュピュイ=デリ「男らしさの危機、あるいは危機の言説?」『現代思想』男性学特集所収、など)。それは確かにそうだろう。とはいえ、先の議論を引くなら、女性の経済的自立や活躍も、ポスト工業社会への産業構造の変化に随伴するものであり、文化や価値観の変化だと考えるべきだろう。
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
[1]ここまで、「男性性」「女性性」や、生物学的な性差を脱構築していき、もっと多様で複雑に入り混じる見方をしてきたが、ここでは統計的な意味における二項対立的な性差を導入する。矛盾しているように感じるが、この両方の両立は、想像しにくいかもしれないが、可能である。
[2]進化心理学的な見方をしたくなってしまうニーズの増大には、社会における経済的な格差拡大があり、進化論がそれの正当化に使われているということを問題視することと、様々な実験でエビデンスのある進化心理学の個別の知見を肯定することは、同時に行うことが可能であろうと思われる。
 進化心理学的に恋愛や性の問題を考えると、人間が機械か法則で動く人形のように感じられ、殺風景な印象になってしまう。一方で、実際の恋愛や性は「ロマンス」「運命」「陶酔」などが起こるものであり、二つの見方が相容れないと感じるかもしれない。おそらくロマンスや愛のような内面的体験も、遺伝子のビークルである我々が恋愛や性愛においてそのような快や幻想を分泌するように脳や身体が設計されている(自然選択でそうなっている)ということなのだろうが、筆者は科学・論理のみによって考えるべきだ、という立場には立たない。むしろ、同じ現象が違う見え方をするその「視差」を利用し、右目と左目の視差を脳が遠近として再構成するように、立体的な像を得ようというのがこの論の目的である。たとえば、フェミニズムでは進化論や生物学を忌避しがちであるにもかかわらず、その理論と、進化心理学を同一平面に並べる本連載の方法も、そのような「視差」と関わる。
[3]経済力や社会的地位などが決定的ではないことを示す研究結果もある。排卵期の女性被験者の93%は「豊かだが非創造的な相手よりも、貧しくても想像力豊かな相手を一時的な性的パートナーに望んだ」(p247)。伴侶としても、「良き遺伝子のもたらし手よりも良き生活のもたらし手を望」むかと思いきや、「84%の女性が伴侶としても貧しい芸術家を選ぶと答え」(p248)たのだ。バンドマンや芸術家がモテるわけである。非モテや弱者男性は、芸術を嗜み、創造し、ユーモアや家事能力などを磨くことで、逆転する道はあるのだ。
[4]筆者の立場を明らかにするならば、筆者は性やそれを扱った文化や表現そのものを悪いものとは見做していない。場合によっては、ロマンス文学のように、(女性の)自由や解放を志向する非常に重要な価値のあるものと見做している。しかし一方、現在の日本の性産業や結婚などでは支配・従属や搾取などが横行し、自由でも解放でも創造的でもなかろう、と思い、その部分には否定的である。
[5]男女平等やフェミニズムという文化的は男性の「特権」を損ない、女性の権利や自由を増大させるので、それに対する反発や「男性性の危機」の感覚の刺激による防衛がミソジニーを生んでいるという説がある(フランシス・デュピュイ=デリ「男らしさの危機、あるいは危機の言説?」『現代思想』男性学特集所収、など)。それは確かにそうだろう。とはいえ、先の議論を引くなら、女性の経済的自立や活躍も、ポスト工業社会への産業構造の変化に随伴するものであり、文化や価値観の変化だと考えるべきだろう。
藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。