弱者男性が救われるための制度設計──人類は存続すべきか、AIが生命史を継いでもいいのか
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Ⅰ 山上徹也──政治的図式のエアポケットに落ち、不可視化された弱者
ネトウヨ・インセル・ミソジニストにしか見えない弱者
山上徹也の公判が始まった。……実を言うと、この連載のきっかけになったのは、山上徹也のものとされるツイートを分析した原稿を『現代ネット政治=文化論』に寄稿し、それを見てくれた担当編集より声をかけていただいてのことだった。その論で問題にしたのは、家族形成などが出来ず孤立した氷河期世代や、アイデンティティ・ポリティクスなどのモノの見方、認識の図式によりエアポケットに落ちて苦しんでいる人たちのことであり、どうすれば彼らが社会に憎悪を向け犯罪に手を染めたり拡大自殺をしたり自死を遂げたりせず、幸福になれるのかということであった。
山上ものとされるXのポストにあったのは、宗教二世として悲惨な境遇に育ち、就職氷河期ゆえにろくな仕事に就けず、恋愛や家族形成などにも恵まれなかった彼の人生の孤独と苦しさであった。そして、彼は、氷河期世代であり、まさに2ちゃんねらー的な思想を持ち、自民党や安倍元首相を支持し、左翼やフェミニストを揶揄していた。そして、自身を「インセル」「ネトウヨ」呼ばわりする世論に反発し、その中に自分のような人間がいること、そして不可視化されていることを叫んでおり、それから事件の凶行に至っていくプロセスがはっきりと見えた。
自分も、事件を起こした人物だと知らずに彼のポストを読んでいたら、「ネトウヨ」「インセル」「ミソジニスト」と呼び、非難していただろうと感じた。しかし、「男性」であり「日本人」であり、特権を持ち強者であるとされるアイデンティティであるが、その背景には父の死、母の統一教会への狂信、兄の自殺など、極めて深刻でありながら不可視化されてきた問題があることは事実だと思わざるを得なかった。宗教二世や宗教虐待の問題が大きな社会的な議論になったのは、この後のことである。これは、ジャニーズにおける性加害の不可視化と並び、どちらかと言えばリベラル・左翼の思想を持ち、フェミニズムにシンパシーを抱いていた筆者にとって、大きな衝撃を与えることであった。
その認識の図式は、現実に対応していないのかもしれない。そして、理論と現実に矛盾がある場合、理論に合わせて現実を歪めるならば、ソビエトやナチスや大日本帝国と同じ愚を犯すことになるだろう。理論やイデオロギーや認識の図式と現実に齟齬があるならば、現実に合わせて理論や認識が修正されなければならない。……そのような理由により、リベラルやフェミニズムが「正しい」というドグマを降ろし、「インセル」「アンフェ」などと呼ばれている存在を「悪魔化」するのを辞め、その主張を真正面から検証し直す必要があるのだと考えた。それは、政治的構図やイデオロギーや理論の「エアポケット」に陥って苦しむことになっている現実の人間たちに光を当て、その声を届くようにし、助けになることが「正義」であろうと思われるからであるし、山上のような人間も、それがあれば凶行に走らなくて済んだのではないかと感じられるからだ。
山上は「小鹿が柵から抜け出せず死んでいた。ほんの少しの手助けがあれば死なずに済んだのだろうか? 2021-01-18 06:14:48」とポストしていたが、これはきっと、自分自身の投影でもあっただろう。そして、「自己責任論」で追い詰められ精神状態が悪化していくことは、同じ氷河期世代の自分にも経験があった。一歩間違えれば、彼は自分であったかもしれない、という思いをどうしても禁じ得ないのだ。同じように、ネットでフェミニズムに呪詛を流し続け、それでリポストや「いいね!」を稼いで承認欲求を満たし小銭を稼いでいるような自分の姿も、ほんの少し人生の軌道が違えば――たとえば、博士論文の審査に落ちていたら――容易に想像が付くのだ。
山上徹也とインセル・弱者男性
ここで少し、前掲書と重複するが、山上のものとされるアカウントsilent hill 333(@333_hill)の発言を確認してみよう。
彼は、自分が「インセル」であるという自認があった。山上は、「cola @19nllla」という人物の、トッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』評に対するこの呟きをRTしている。
「この評論は新しい着眼点でもなんでもない『ああ、また手垢まみれのアイデンティティ政治で/個人の悲劇や苦悩を属性で塗り潰すんだ…』という落胆しかなかった。所詮大メディアは資本家の走狗なので貧富の格差という命題から目を逸らさせるのにアイデンティティポリティクスは都合が良いから 2019-10-11 23:47:47」
「個々人の悲劇や苦悩を『お前はマジョリティ(白人)だから苦しむ資格はない』と誰も寄り添わない社会(政治的正しさ)に対するアンチテーゼ的な意味合いもあるのにまた同じ周回遅れの主張で上書きしようとしてるのが情けない貴方達はマイノリティ以外は貧困も障害も悲劇にならないと加害してるだけ 2019-10-11 23:17:23 (引用者註、改行は省略している)」
そして山上はこのように呟いていた。
「インセルが狂気に走って希代の悪党になる映画が大ヒットとなれば女としては困るのは分かるが、ジョーカーはインセルでないのではなく憎む対象が女に止まらず社会全てというだけである。『インセルか否か』を過剰に重視する姿勢は正にアーサーを狂気に追いやった社会のエゴそのもの。2019-10-20 03:25:16」
「あなたを虐めたくはないのでこれ以上は言いませんが、インセルも救われるべきなんですよ。無論あなたもですがね。2019-11-12 09:13:20」
そして、「弱者」として共感や同情の対象にされない自分について、このように嘆いていた。
「正直に言うと震災の時すらそう思った。肉親を失い生活基盤を失い病むのは同じでもこれだけ報道され共有され多くを語らずとも理解され支援される可能性がある。何て恵まれているのだろう、そう思った。 2021-02-28 20:35:30」
「言っちゃ何だがオレの10代後半から20代初期なんかこれ以下だよ。社会問題として支援が呼び掛けられる様は羨ましいとすら思う。2021-02-28 20:29:13」
「ここが自由の国なら、オレはとうの昔に自分の頭を打ち抜くか乱射事件でも起こしてた人間だよ。ただし、撃つ相手は選ぶがな。2019-11-23 09:30:39」
「恵まれた者、勝ち残った者、それがエゴに染まった時、己が義務を忘れた時、その富と名誉は必ず失われる事になっているんだよ。2022-01-26 20:26:03」
「継続反復して若者の無知や未熟に付け込んで利用して喜んでるような奴は死ねばいいし死なねばならない。生かしとくべきではない。それぐらいは言っとく。2021-02-28 21:07:20」
そして、山上は、杉田俊介の、「『真の弱者は男性』『女性をあてがえ』…ネットで盛り上がる『弱者男性』論は差別的か?」という弱者男性論の記事を読んだ。そこで杉田はこう主張していた。「誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう」
それに、山上はこのように応答した。
「だがオレは拒否する。『誰かを恨むでも攻撃するでもなく』それが正しいのは誰も悪くない場合だ。明確な意思(99%悪意と見なしてよい)をもって私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる。私が神の前に立つなら、尚の事そいつを生かしてはおけない。2021-04-28 18:33」
この発言から一年三か月後に、彼は安倍元首相を射殺することになる。
私は、彼の上記の発言を受けて、キング牧師のこの言葉を引用した。
「われわれは恨みに満ちた思いになり、憎悪には憎悪をもって報いたい誘惑にかられる。しかし、もしそれをしてしまえば、われわれの求めている新しい秩序は、あの古い秩序とほとんど変わらないものとなるだろう。われわれは力と謙遜のうちに、愛をもって憎しみに立ち向かわねばならないのだ」(マーティン・ルーサー・キング『汝の敵を愛せよ』新教出版社、p78)
だが、それであれば、不当に搾取され貶められ犠牲にされた人々の世代に、過大に負荷を負わせ、彼等に苦しみを甘受させ、のうのうと生きる者たちが大きい顔をし続け、根本問題は解決しないのではないか、とも思える。不遇な者たちに憎悪ではなくそれでも愛をと呼びかけるためには、社会や権力や制度の側も、彼らに対し愛を持った対応をしていくことが、最低条件ではないのだろうか。そうでなければ、氷河期世代が老化や病で衰え、孤独と絶望に陥る者が増えていけば、拡大自殺的な殺害が起き続け、憎悪と報復の応酬が続いてしまうことは避けがたいのではないだろうか。そうなるのが嫌であれば、社会全体が理解と愛を持ち、それを価値観や文化や制度として示すべきではないのだろうか。
さて、今回は、「弱者男性」たちの苦境が、決してネットでそう言われがちなように「自己責任」ではないこと、自身の努力でなんとか出来る範囲にも限界があることを論じた上で、その解決のために必要な制度設計を考えることにする。
Ⅱ 結婚と家族と恋愛の制度変更
新自由主義政策による未婚率の上昇
「弱者男性」問題と「非モテ」問題を混同させるべきではないという議論はある。しかし、「女をあてがえ」「皆婚社会にしろ」などの声が弱者男性から上がることは多くあるし、フェミニズムやリベラリズムに対する反発も、そのせいで恋愛や結婚や生殖が困難になっているという主観的な認識があるからだろうと思われる。実際のところ、社会における恋愛や結婚は困難になっている。
統計を見てみよう。男女共同参画局の統計によると、男性の生涯未婚率の上昇は1970年には1.7%、80年には2.6%、90年には5.6%であったところ、2000年には12.6%、2010年に20.1%、2020年には28.3%になっている。男性の三人に一人がこの先、一生結婚しないことになり、2040年ごろには半数を超える可能性がある。多くの人が未だに頭に描いている『サザエさん』『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』的な、家を建て結婚して子どもを持つ人生を皆が当たり前に出来る、というイメージは既に崩れ去っている。
では、なぜ、そうなったのだろうか。それはリベラリズムやフェミニズムのせいなのだろうか。一部にはおそらくそれもあるが、そうではない。
山田昌弘の分析によれば、それは1995年ごろから始まった新自由主義政策と、非正規雇用の増大である。つまり、結婚し家族を形成するだけのお金が若い世代になくなったのである。つまり、大企業と国家が進めた経済政策の結果であるということになる(『パラサイト難婚時代』など)。そして、逆に、「皆婚」が可能だった1950年代から1980年代までが、戦後日本における高度成長において未来に夢が見られ、失業率も低いという、例外的な「平和と繁栄」の時代だったと、筒井淳也は指摘している(『結婚と家族のこれから』)。「失われた30年」に入った途端に生涯未婚率と出生率の急低下が起こっているので、これは妥当な見方であろう。
もう一つの大きな理由は、いわゆる「個人化」「内部化」「リスク化」と呼ばれる事態である。これを説明するために、簡単に「結婚」のあり方の歴史を確認しよう。結婚とはどういうものなのかは、時代によって大きく変わっている。大まかに言えば、前近代では、家庭は労働の場と重なることが多く、結婚や「家」の「仕事」のためであった。農家の嫁が労働力として必要とされた状況を想像すればいいだろう。個人の恋愛や私的な幸福という要素は少なかった。人々はあまり個人化されておらず、個人の意志なども尊重されていなかったようである。結婚相手も、親が決めたり、村などの共同体で決めていたようである。それは「自由がない」ように感じられるが、個人が選択と責任とリスクを負わなくても良いという点で、安心感はあった。
そこから、近代家族が誕生する。西洋の先進国を中心に、個人と個人の間の「恋愛」、つまり、ロマンチックラブが重視されるようになる。日本にもそれが輸入されるが、しかし日本ではまだ「家」「世間体」などの原理が優勢なようで、個々人の純粋な恋愛・性愛で関係を維持しようとする傾向が西洋では強い(経済的な理由での結婚などは少ない)ようである。「ロマンチックラブ」によって結びついた夫婦が、男性は外で働き、女性は内で家事や育児、という性別役割分業もこのときに成立する。日本も、共同体や親や家などの理由で結婚や恋愛をするのではなく、個人の意志による「恋愛婚」が増大し、「見合い婚」などは減っていった。
では、男性も女性も、自分自身の意志により、自由に好きな人と恋愛し結婚できるから、良かったのではないか、と言えば、大多数の者たちにとっては、そうはならなかった。その理由の一つは貧困であり、もうひとつは「リスク」(安心のなさ)である。日本における結婚は、西洋と違い、経済的理由で行われ継続されるところに、西洋の学者は驚くと山田昌弘は『パラサイト難婚社会』で書いているが、純粋な愛情や親密さだけを条件に男女が結婚したり離婚したりするためには、両者が自立し自身の生計に責任を持てる状況がなければならない。しかし、日本では男女の賃金が不公平であるので、女性は男性に経済的に依存せざるを得なくなる。経済格差を利用し男性が伴侶を獲得したり、性的に思い通りにしてきたということでもある。そうすると、女性は男性に高い年収による生活の安定を求めざるを得ない。「上昇婚」志向とはこのようなことである。しかし、既に記した通り、多くの男性も低賃金に喘いでいるのが事実である。貧しい者同士が結婚してなんとかやっていけばいいと思う人もいるだろうが、若い頃や親世代は豊かである場合が多く、生活水準を落としてまで貧しい相手と結婚したいというインセンティヴが働かない傾向にあるようである。
その上、新自由主義の導入により、様々な流動性が高まっている。大会社と言えども「終身雇用」で安泰ではなく、セーフティーネットも脆弱である。となると、人々は個人でそのリスクに対処せざるを得なくなり、不安が増大する。すると、男女ともに、相手に高い年収を求めるようになる(若い女性は専業主婦希望、男性は共働き希望が増えている)。筒井によると、自由意志による恋愛と結婚が増えていくと、同質性の強い者同士の結婚が増えていき(これを「アソータティブ・メイティング」と言う)、高学歴で高い年収の男性との女性のマッチングが増大していき、格差を拡大していくのだと言う。リスクがあるとなると、人々は結婚と出産に踏み切らなくなる(戦後は、貧しかったが、未来は良くなるという希望は持てていた)。恋愛が結婚と一続きであり、結婚が経済的理由である割合が増えれば増えるほど、低賃金の男性たちは、恋愛や性愛や結婚の対象となりにくくなっていくのである。
山田は、男女の生き辛さを調査し、『モテる構造』の中でこうまとめている。男性が仕事ができるとモテ、仕事ができないとモテない。女性は、その両者が切り離されている、と。仕事が出来て競争に勝ち社会的に認められた男性は、性愛においてもモテるし、そうでなければ両方とも手に入らないのである。女性の場合、競争で負けても、性愛の相手は見つかるので、その感覚は相互に齟齬を起こしやすいだろう。「女性は、成長する過程で、『できる男性』に魅力があるという価値観を『感情』として内面化する。その価値観に従って自然に好きになる相手は、結果的に社会的に成功する資質をもっている可能性が高い」「逆に言えば、社会的に成功する資質を持っていない男性に対しては、『恋愛感情』が起こりにくいということを示している」(p122)。これが、男性を「競争」から降りずらくし、「男性性」の呪縛を強化していることは、既に述べた通りである。「男性は、公的世界でのアイデンティティと私的世界でのアイデンティティ追求に関して、オール・オア・ナッシングの世界に生きているのだ」(p129)。
新自由主義による格差の拡大と、リスク化により、「ナッシング」側になってしまう男性が拡大したこと。これが、「弱者男性」論が大きく影響力を持ち、「弱者男性」を自認する男性が増えていることの背景だろうと思われる。これは決して自己責任などではないし、彼等を罵倒したり侮蔑したりすることで解決する問題ではないと思われる。制度的に生み出された側面が少なくないのだから、制度的に解決が志向できるものなのではないかと思われるのだ。
では、それはどのような制度であろうか? 論理的な帰結からして、1、女性の賃金上昇、社会的地位の向上。男性の非正規と正規の格差の縮小。2、リスクを感じなくて済むようなセーフティネットの拡大。子育て支援。3、異性による性愛以外の親密性の形成。4、恋愛と結婚の拡大。ということになる。
「個人化」により自由で多様になる一方、関係性や親密性の形成が困難に
経済的な理由以外に、恋愛や結婚が困難になっている理由がある。それが「個人化」である。端的に言えば、人生が身分制度や宗教や家などに強制的に決められていた時代、あるいは地域や会社共同体が出会いを提供していた時代と比較して、今は個人の自由と選択が増大し、一人一人のニーズにも繊細に対応するような多様化の方向に人類史的には進んでおり、それを善としているが(これを、「リベラル」的進歩の方向性、と仮に呼ぼう)、それが個々人に大きな負担を強いるという問題である。見合いや共同体に埋め込まれた結婚であれば、個々人が自分に適した伴侶を見つけ、関係性や親密性を維持する努力をしなくてもすんでいた。しかし、今は、関係性を持続させるのは「気持ち」だけであり(ギデンズの言う「純粋な関係」)、恋愛でも友情でも、非常に壊れやすく、維持に負担がかかり、安心できないものになってしまっている。自分のニーズと相手のニーズのマッチングも、解像度を微分していけばどこかで不可能になる部分も出てきて、その摩擦や対立への対処と交渉も必要である(おそらくその社会変化に応じて、「コミュ障」であったり、時代の病のパラダイムと化している発達障害のうちASDなどが意識されやすくなる状況が生まれているのではないかと思われる)。
いわゆる「保守」「リベラル」の政治的対立の核心には、おそらくこの辺りの問題がある。キリスト教でも、カトリックは集団主義的であり、同性婚などに否定的であり、男女の結婚や出産にこだわる。一方、プロテスタントは個々人の自由と多様性を増大させようとする傾向がある。アメリカの宗教右派も、中絶に反対するなどである。「リベラル」「フェミニズム」が悪魔として攻撃されやすいのは、「個人化」による孤立や孤独や不安に対して、集団や共同体への埋め込まれによる生の意味や安定を得たいし、社会はその方がいいと考える傾向が対置されている。オタク文化のファンコミュニティ、推し文化、陰謀論やカルト、政治的過激派やアイデンティティ集団に対する一体化なども、新自由主義と個人化の果てに個々人がアトム化しすぎ、不安が増大し、「所属と愛の欲求」を満たす旧来の装置が解体しているからなのだろうと思う。だから、「弱者男性」の政治思想が保守に近づいていくことには、おそらく集団心理学的な必然性があるのではないかと思われる。
リベラルな方向、つまり、自由と多様性の増大の方向への進歩のベクトルからは、同性婚、ポリアモリー、アセクシュアルやアロマンティック(性や恋愛の感情がない)などを認める方向になるだろうし、キャラクターとの性愛、初音ミクとの結婚、AIとの恋愛や生殖など(フィクトセクシャル)も認めていくことにならざるをえなくなるのだろうと予測される。「家族」「恋愛」「結婚」の形が多様化していくからだ。
筒井淳也や阪井雄一郎(『結婚の社会学』)などが言うには、「結婚」のあり方は時代によって代わり、その機能も、「子の生活保障」「家の持続(のために父の遺伝子を継いでいることを確実化する)」「恋愛・性愛」などと変わってきており、既に、「恋愛・性愛」抜きの結婚は存在しており(多くの冷え切った夫婦がそうである)、「恋愛」「性愛」「生殖」などが「結婚」の必要条件ではなくなる方向に変化していると言う。それを望むか望まないかは多様性であり、それは尊重されるべきであり、当人たちが合意していればそれで良い、ということになる(既に、セックスをしない結婚、子どもを生まない結婚などはたくさんある)。
しかし、それでは、生殖と再生産、共同体の持続が出来なくなる、という議論がある。リベラルな価値観の場合、個人の自由や解放が優先であるので、この問題は無視されがちである。しかし、共同体は再生産されないと持続出来ない。戦争において外敵と戦って存続するために国家は、人権を剥奪し、殺し殺される状態を強制する「徴兵」をするのだから、再生産の危機に陥った国家が女性に強制的に出産をさせる『侍女の物語』的な世界がおとずれかねないというのは、故のない想像だとは思えない。よって、この生殖と再生産の問題を無視するべきではないと思われる。「おひとりさま」を称揚した上野千鶴子が批判され、同性婚が攻撃されるのも、この「再生産」の観点からであろう。
筆者は、個人の自由が増大し解放されていくというリベラルの理念に大きく共感している。個人の人生を破壊するような抑圧や支配には強い憎しみを感じ、一人一人の人間が創造的な自己実現をしていける方が良い社会であろうと思っている(それは多分、人間的に問題はあるが金を稼いでいるというだけの父が不当に家族を支配しているのを見てきているから思うことであり、フェミニズムへの賛同や有害な男性性への批判も、そのような実体験から来ている部分がある)。しかし、同時に生殖と再生産の問題をクリアし両立できることを示さなければ、それはそれで無責任であろう、とも感じる。ここは、「リベラル」と「保守」を対立させるのではなく、個人化による自由と解放の増大を最大限に活かしつつ、その不安やリスクや孤独を軽減させ、個々人の多様性とセクシャリティを尊重しながら同時に世代の再生産が可能になるような制度や価値観に移行するのが一番いいだろうと考えざるを得ないだろうと思われる。つまり、「個人化」や「リベラルな多様化」自体を否定するのではなく、それがもたらす孤立や格差を制度的に緩和し、支え合える社会的枠組みに変換する必要があるということである。
そもそもが、個人の自由が増大するのがいいことだとか、個人の幸福が増大するのがいいことだとか、あるいは人類は次世代を再生産して生き残るべきなのか、そもそも人類が生きているのがいいことかどうかも、断言することに科学的な根拠があるわけではなく、単に遺伝子がそのように感じるように我々の脳を設計してあるだけであるので、神学的・形而上学的な次元の問題になってしまいがちである。そして、岸田秀の言うように、人類とは脳が肥大化し本能が壊れており、「自然な」恋愛や生殖が出来ないからこそ、法律や儀式や宗教や芸術などでそれをさせるように文化で矯正してきたのだとすると、宗教の機能の一つはそのように人類に再生産を促すような方向付けの機能だったのではないかとも思われる(日本では儒教における「家」の思想や、神道と性の結びつきなどにそれを感じる)。 山田、筒井、阪井の話を総合するに、先進国で出生率が維持か向上している地域を参照すると、結婚のあり方は大きく変わっているようである。同性婚を認めるのみならず、事実婚に相当するパートナーシップを認める制度もあり、性愛や生殖を抜きにした友情婚なども増えてきているという。複数人の結婚を認めている地域もあり、一夫多妻、一妻多夫、多夫多妻など、様々な形になっていきうる。結婚にこれまでのような、家を継ぐこと、性愛、生殖などの機能を必須としなければ「共同生活をすること」程度が最大公約数になっていき、生殖や性愛がないのであれば血縁の兄弟などでも良いということになる(山田は、『結婚不要社会』の中で、ベックの「世界家族」の概念を参照し、既に同居せずオンラインでコミュニケーションする家族が存在すること指摘している。つまり、同じ空間に同居することや共同生活すらも、「家族」の最小公倍数ではないかもしれない)。友情なども含む様々な関係性の中のグラデーションに恋愛や結婚は溶けていき、結婚というのも法的な便宜を得るためのあくまでプラグマティックな手段の一つになっていくとき、何が起きるだろうか。そこで弱者男性は、救われうるのだろうか。
「最小の結婚」──恋愛も生殖も要件としない結婚の拡大
山田や筒井は、エリザベス・フィッシャーの『最小の結婚』を参照している。結婚について、既に述べたようにこれまであった「家の継承」「生殖」「性愛」などを抜きにし、結婚というものの最小公倍数を考える試みである。現に、生殖可能年齢を超えた夫婦、セックスレスの夫婦、友情婚などは存在している以上、現制度における結婚にも、既にそれら抜きの関係性はあるのだ。筒井は、結婚の法的な「メリット」を強調し、「共同生活」を最小公倍数と考えている。山田は、「継続的契約」、つまり、相手に対するケアとコミットメントを重視している。つまり、経済や機能や利益ではなく、単に相手そのものを想い合う関係、「『いつくしむ』といった、人と人との親しい関係性」(p259)だと言う(フィッシャーの考えにも即している)。「ケア」「コミットメント」を結婚の最小公倍数とするなら、同性婚のみならず、複数婚も友情婚も可能であろう。
しかしながら、「弱者男性」たちはそれで救われるのだろうか。この前提として、経済的な不安が取り除かれ、子育てや介護などが社会保障として提供されるという前提の社会なら、彼らはそれで性愛関係やケアの関係に入れるのだろうか。それで救済される者は、それなりの数、いるだろう。しかし、そのようなギデンズ的な「純粋な関係性」を成立させる高度な能力がないからこそ「弱者男性」となっている者にとっては、これは解決策ではない。彼らは、リベラル的な価値観によって選択の自由が増え多様性が増えていく一方で、自分たちは恋愛や性愛や結婚をしたいと思っても出来なくなっていきそれをする自由を失っていくように感じ、同性婚やフェミニズムなどを「リベラル」と見做し攻撃するようになっていく。
もちろん、筆者は、個人を目的として想うような愛は大事であり、そのように相互に想い合うようなパートナーシップを理想と感じるし、恋愛や性愛や結婚の形は多様になっていけばいいと思う。だが、むしろ、山田が「コミットメント」ではないとして切り捨てる、「アイドルやアニメのキャラクター、キャバクラのスタッフやホスト、ペットや“推し”」(p251)などの、金銭を払うことで一定の演技をしてもらい嫌な部分は経験せずに済むサービスという「バーチャルな関係性」(『結婚不要社会』)の方こそが心を救っているようなケースが多いだろう(それに依存する者には、家庭に問題があり愛着や対人関係に不安定を抱えた者や、発達障害などを持つ者が少なくない。彼らは「ケア」「コミットメント」の相互的な関係を形成するのが困難であろう)。山田は「『純粋な関係性』や『世界家族』は、今日の日本で発達している『バーチャルな関係性』とも通底しています」(p150)と言っている。すると、キャラクターや芸能人、AIなどとの「家族」的な共存の方向に社会が「進歩」していくのは必然だろうと思われる。既に、マサチューセッツ工科大学メディアラボの「AI(My Boyfriend is AI)」という論考では、AIを恋愛・結婚・家族として扱う人々のコミュニティが誕生していることが報告されている。
山田も指摘するように、「バーチャルな関係性」は伝統的な結婚が困難になるのと同時に増大してきている。おそらく、個人化の進行と、新自由主義による共同体の破壊(組合や会社共同体などの中間共同体の破壊)により、個人の寄る辺がなくなり不安が増大していくのを、公共を破壊し私企業化するのと同じように、家族や親密さや共同体を破壊した後に商業化するシステムが動いていき生命を食い荒らしているのだと思うが――そして筆者は、理想としてはそれを辞めさせ、格差の拡大と過度の競争も控え、再分配がなされるようにし、サードプレイスや自助サークルや当事者研究などの共同体の代わりになるものを社会的にたくさん実装していくべきだと思うが――現にそれに縋ることで心を支えざるを得ない者は多いのだ。
とするならば、既に述べたように、「結婚」の枠の拡大を、さらに拡張すれば良いのではないだろうか。松浦優が「フィクトセクシュアル」について論じながら示唆しているように、架空の存在との恋愛や結婚、家族形成なども認めていく方向に、「リベラル」の進歩の流れからすればならざるを得ないだろう。そもそも昔から、アニメのキャラクターは、疑似的に友人や親や恋人の機能を果たしてきた。「父なる神」や「母なる自然」や「菩薩」なども、架空の存在による親の代理だと見做すこともできるだろう。理想としては、エーリッヒ・フロムが言うような喜びに基づく純粋な愛の方向性によるケアやコミットメントが望ましいだろうが、それを言い過ぎることは、そうできない者たちを疎外し否定してしまうことになる。そうではなく、架空の存在なども含めて、多元的で仮想的な「結婚」や「家族」の拡大したあり方を認める方向にならざるを得ないのではないだろうか。それにより、生きるために支え合うような関係性を拡大していくことが、弱者男性が救われるために有効な道の一つであろうと思われる。
ゆるやかなケアやコミットメントの拡大家族であっても
暫定的に、弱者男性たちが救われ、少子高齢化問題なども改善していくような、新しい制度や価値観の方向性は、こうあるべきではないだろうか。
まず、新自由主義的な過酷な競争と格差の社会を緩やかにしていくべきである。それは「敗者」に過重な屈辱を与え、悪性のナルシシズムに移行しやすくさせ、それがファシズム的な勢力となり民主主義社会を破壊し国家の持続可能性を失わせかねない。競争も結果の差もあるが、誰もが生命としては平等で公平であるという尊厳が満たせる社会であるべきである。そして、生活の保証などがなされ安心感のある社会では、金銭的な理由による恋愛や結婚が減っていくので、富める者たちだけの「独り占め」が減っていく。女性たちの賃金や社会的地位の上昇や自立も並行して行っていく必要がある。
そして、ギデンズ的な意味で「個人化」が進み、選択の自由が増すことでリスクの不安が増大すること、コミュニケーションやコミットメントが困難になっていくことについては、どうしたらいいだろうか。まず、リスクの一部については、既に述べた「保証」で解決する部分も大きいだろう。しかし、いわゆる「コミュ障」的な問題についてはどうだろうか。それが、虐待やイジメや屈辱などの後天的な問題によって生じたものならば、水平的で平等で公平で受容的な社会であれば、それが少しずつ癒されていく方向もあるだろう。では、一部の「オタク」という言葉の用語法が暗に含んでいるような、先天的な原因による場合はどうだろうか。たとえば、こだわりの強さなどの問題で、他者とうまく行かない人はどうすればいいだろうか。それについては、ひきこもり問題を考えてきた斎藤環が実践しているオープンダイアローグや、当事者研究やピアカウンセリングなどの実践が参考になる(筆者は、これらを横道誠や代麻理子らの著作と実践から学んだ)。ルールを作り、構造化された環境において、特性に応じて互いが安心できるコミュニケーションやコミュニティの場を設定するのである。そのような工夫により、ルールの多様性やグラデーションによって、心地よくコミュニケーションできるコミュニティを社会の中で増やしていく実践は考え得る。よって、これは「個人化」「多様化」の流れと矛盾しないものだと考えられる。既に「豊かな親族・地域・社会ネットワーク」は失われてしまった。であるならば、それに相当するものを、新しく作り出し、社会的に実装し直すしかない。それは、従来のそれにあった「選択できなさ」「村八分的な恐怖」「居心地の悪さ」を改善した、それぞれにとって心地よい関係性を築けるような無数のルールにより、自由で選択可能なものであるべきだろう。
社会における「結婚」の意味が、性愛や生殖から解き放たれ、「ケア」をすることを最小公倍数とする方向に変わっていくならば、そのようにコミュニケーションすることで互いの心を癒したり、シェアハウスなどで同居したり、ルールと管理付きのシェアハウスなどを今後作り出しそこでコミュニティを形成し同居生活することで孤独や鬱を癒すようなありかたも、拡大家族のようなものとしてありえることだろう。
先に、アニメやアイドルやAIなども心を支える拡大家族になりうると書いたが、冒頭で触れた『現代ネット政治=文化論』の論考では、山上とともに、家族を失い友達も恋人もない状態に陥った孤独な男が、アイドルやアニメに依存し、それに「裏切られた」と感じたときに、アイドルのライブ会場に火を放ち大量殺戮をし拡大自殺しようとした事件について論じた。「推し」やキャラクターなどに支えてもらう方向には、ある種の「限界」があることもまた確かだ。老化などにより心身が衰え病み、死に向かっていることが自覚されたときなど、なかなか辛い部分があることは、既に中高年に達した氷河期世代の一員として、よく分かるのだ。
山田は「『富める時も、病める時も』自分と人生を共にし、心の痛みを両者で分かち合う関係性こそが、『結婚』における最もシンプルな『特別性』だ」(p261)と言うが、失業や病気の際に離婚率が上がる以上、現実の結婚においても必ずしもこれが成立しているとは言えない。そして、このような「ケア」や「コミットメント」は、実は非常に困難なものなのではないだろうか。というのも、人々が自由に好みに応じて関係性を作っていけるようになればなるほど、面倒な事や束縛はなくしていくようになっていくからだ。きっとこのままでは人類は、自分のニーズをより満たしてくれる都合のいいキャラクターやAIなどと関係する楽さを「自由」「解放」「多様性」と考え、面倒な他者との関係をより忌避し、恋愛や家族形成をしないようになっていくだろうと予測される。キャラクターやAIや推しなどが心を支えてくれるし甘やかしてくれるので、現実の「病める時」の相手は面倒だから切り、少しでも合わなけば「好きではなくなった」と関係を終えてしまうようになる傾向が加速することは間違いないだろう。そうできてしまうのが「純粋な関係」の弱点ではなかったか。であれば、もっと、そこまで、究極のコミットメントでなくても良いのではないか、その手前のような助け合い、癒し合いであっても、十分ではないにせよ、意味があるのではないか。それぞれの相性やニーズや苦手さに応じて、つながりかたの濃度やルールの違う様々な「家族」もしくは「コミュニティ」を、生き延びて心を支えるために無数に社会に形成していく方向で行くのが一番良いのではないかと思うのだ。
Ⅲ 人類は存続すべきか、AIが生命史を継いでもいいのか
架空の存在による「救済」の可能性の是非
さて、ここまでは、結婚や恋愛がどう変わるかについて、制度と関連して現在研究している人たちの意見を参考に、議論をしてきた。ここからは、少しばかり前のめりに、実証的ではない冒険的な議論をしていこうと思う。
ここで考えたいのは、アニメやアイドルやAIなどとの性愛、生殖、家族形成についてである。それを、LGBTQ的なセクシャリティの多様化と自由の拡大の延長線上にありうる未来であると本気で考えた場合、どういうことになるのか、それで良いのか否かを考えていきたいのだ。先に、それが弱者男性たちを(あるいは弱者女性たちを)救う可能性について述べたことの延長線上で考えていきたいのだ。
既に述べたように、それは日本が不況に陥り、社会的に成功しにくくなり、家族形成が困難になるのと並行して大衆化していった(一九九五年の第三次アニメブームから、二〇〇三年の秋葉原ブームで、始めて表舞台で市民権を得ていった)。つまり、ネット・AI・キャラクターへの依存は、制度や社会、共同体の欠如の反映であると考えた方がいいのではないか。つまり、AIやキャラクターとの関係性は、人間的ケアが不足する現状における暫定的な救済の形として理解すべきであり、それを責めるよりも、人間同士の関係が再び安心して結べる社会的条件を整える方が重要ではないか。
「【座談会】日常のゆくえ──京アニ事件から『ぼっち・ざ・ろっく!』まで|舞風つむじ×noirse×てらまっと」で、てらまっとは、かつて超越性や宗教や大きな物語なき世界においてキャラクターからまなざされることに「救済」――この人生、実存の肯定可能性――を見出す議論をしていたが、京都アニメーション事件などを経て、この座談会では少し考えを改めている。「鎮痛剤としての大衆向けフィクションや、それを軸とした想像的なコミュニティでは究極的には人を救うことなんてできない、というのがよくわかります。問題は、そうやって社会からこぼれ落ちる人たちが公助によってもカバーしきれず、一定の確率で拡大自殺や無差別殺人のような社会への復讐(テロ)が発生することです」「本来であれば家族や地域共同体やそのほかのコミュニティが果たすべき役割を、京都アニメーションがヴァーチャルなしかたで肩代わりしていた」「フィクションは究極的には人を救わないので、同時に現実の社会保障や福祉制度を拡充し、差別的な構造を撤廃していくべきなのであって、『この鎮痛剤めっちゃ効いて最高!』みたいな話だけじゃ駄目だと思うんですよ」。
そのような問題意識の上で、「フィクションという鎮痛剤でどうにか日々を持ちこたえながら、マクロには現実の社会保障や福祉制度を整備・拡充し、そしてミクロには自分自身や自分の大切な人をケアしていく」「社会から脱落しつつある人を、アニメの化身としての美少女が日常に踏みとどまらせ、そこに生きる意味や価値を見つけさせていく」ことを提案する。
個人的には、共感するし、妥当な案だと思う。脱社会的に、非現実に没入し逃避し続けるのではなく、両者をバランスよく、というのは、「拡張現実の時代」(宇野常寛)における、基本的な適応のモードだと言えるだろう。
しかし、ぼくはもう少し先を考えてみたい。「リベラル」な方向に、多様化と解放と自由化が進めば、必然的に人間は、交友も恋愛も結婚もしなくなるのではないかという疑念、キャラクターや、ホストやアイドルなどの「演じられた人格」、AIなどの「楽で心地よい」相手とのコミュニケーションの比重を増やしていくのではないかと思われるのだ。それは、個々人が敏感になり、好みにうるさくなればなるほど、コミュニケーションやマッチングは困難になり、相手として人工的な存在しか適合しなくなる可能性が高いからである。その方向に進むことにおける人類絶滅や種の再生産の危機の可能性こそが、私見では、少子高齢化の要因の一つであり、世界的な「保守」「リベラル」の対立の核にある。よって、ここをこそ考えなければ、本連載が介入を意図している現在の大きな政治的な対立は解きほぐせないと思う。
選択できず対等ではない関係性――生殖と親子
さて、筆者は「サヨク」であった。共産党的な左翼ではなく、新左翼にシンパシーを持ち、その延長線上でサイバーパンクに惹かれ、サイバーアナーキズムに共感し、政治的な運動も行ってきた。だから、どちらかと言えば、リベラルやフェミニズムの「解放」の物語に共感を持ち、その「ドグマ」のようなものに共感し、正しいと信じてきた。
しかし、結婚して、子どもを持ってみると、それが揺らいでくるような経験をせざるを得なかった。「生殖」、つまり「親子」の問題が、リベラル的な解放と自由の物語に対するアキレス腱になるのは、子と親は非対称であり、合意に基づいた関係性を構築することが困難であり、親があまりに自由に解放されすぎた場合に子の不利益となってしまう場合があり、たとえばアダルトチルドレンや愛着障害、複雑性PTSDの症状などが子に生じた場合、子は自分の「意志」「自由」の判断の座となるような基盤的な部分に問題を抱えることになり、それは「自由意志」において簡単に変えられるものではないからだ(治療の困難さ、かかる時間と費用の膨大さがそれを証している)。
筒井は、「歴史的に見たときに結婚の意味のなかでも重要と考えられてきたのは、『子に父を割り当てること』」(『人はなぜ結婚するのか』p5)だと述べている。生まれた子を母が育てるための資源を提供し続けるように、父が逃げないように縛るのが「結婚」だということである。そもそも自然な感情で産後に男女が協力し合うのだったら、わざわざ法律や制度として「結婚」がある必要もなく、神や共同体の前で誓わせて圧を賭ける必要はないのである。そして、「子ども」というファクターを考慮に入れた時、個人個人の自由や多様性を尊重し、それぞれの関係性を作っていくというリベラル的理念は、そのままでは維持しにくくなる。成人同士の関係と違い、子と親の関係は非対称であり、子の意志が尊重されず、子の不利益になってしまうことがあるからだ。筒井は、その側面に注意を促す。
おそらく、リベラルと保守の対立が、世界的に性愛や生殖を巡って行われている、その核心にあるのは、このような選択できないような関係性をどう考えるのか、というところにあるのではないだろうか。そのような関係性を束縛と思い自由になろうとするベクトルに確かに人類史は「進歩」してきて、そのことの恩恵を自分は確かにたくさん受けている。だが一方で、人類が綿々と続いていくための基本的なシステムである生殖による親子関係において、生まれてくる子どもにとって、自由に選べないものはたくさんあるという現実がある。そしてその子どもが幸福に育っていくためには、親のコミットメントやケアが多くの場合必要になってしまう。そのために、親は自分の自由を制限することをどこかで引き受けなければならない。――筆者は面倒臭がりであり、多分自分の親の介護すら拒否するのではないかと思われるし、男性同士のケアの共同体などでも面倒なことがあるとすぐに行かなくなってしまうのではないかと感じる人間であるが、自分の子どもの場合には、そのような非対称を考え、自分自身の自由や欲望を制限し、我慢し、自分に返ってこないかもしれない無償の投資を「せざるをえない」し、子を持ったことによる生理的な変化、ふれあいなどによって生じる様々なホルモンの効果によって、自発的に喜びとして「犠牲を払う」ようになった。
だが、母性が「自然」に生じるというのが神話であるように、「父性」が自動的に生じるというのも神話であろう。現在七歳の息子を育てている人間として率直に言うが、産後は夜泣きなどが本当にしんどく、妻は産後に心身を疲弊しているし、ホルモンの変化か何なのか、いわゆる「産後クライシス」的な状況が夫婦に生じた。なぜこんな損を引き受けさせられなければならないのか、逃げてしまいたい、と思うようなことも何度もあった。そこで、結婚や親子に関係する法律や、世の中の価値観や規範、既に一緒に住んでいて家があり共同生活の実績があり引っ越しの手続きなども面倒臭い、という意識がなければ、ぼくはさっさと諦めて逃げていたのではないだろうか。ギデンズ的な「純粋な関係」のパートナーシップの美しさに対し、ここが難所となる。それは子が生まれて初めて理解されたのだ。それを耐えながら、「男らしさ」の規範や文化の一部がどのように形成されたのか(男は黙って我慢)が分かってきたような気がした。女は感情的で、男は理性的、というのも、差別的な偏見であると同時に、産後のある例外的な状態においては、男性が論理的・理性的な判断を、その成員の意志や感情に逆らってでも行わなければ、生存すら維持できない状況があり、「家父長」的なパターナリズムを行使せざるを得ない状況に追い込まれることがあるのだと。そして、母子が密着し、妻の愛が子に向かい、孤立と孤独と疎外を感じることになる男性たちに対する慰めと、尊厳を保つための必要な「物語」が、「男は黙って我慢」や「男は外で働く」などの概念が形成される、そのように「男性性」を構築してきたことには必然性があったのかもしれない、などと感じていた。
この「親子」における「選択できないもの」としての、子や親の「引き受け」の中にこそ、問題の核心が潜んでいるように思われる。「純粋な関係」では、産後に男性は嫌になって逃げる可能性が高い(註1)。その「自由」を縛るのが「結婚」という制度である。男性は、子のために、自らの自由や解放を、どこかで断念し、引き受ける必要がある。「バーチャルな関係性」にないのは、それではないだろうか。
「親子」における「選択できなさ」の引き受けは、自分が生まれた共同体や時代など、選択できないものの引き受けと心理的に連続性を持っているように感じられる。自分自身の自由や幸福や快を最大化させていこうという人類史の流れがある一方、その自分自身の自由や幸福や快をある程度犠牲にしてでも、誰かのために資源を投資し、相手の幸福や喜びを大きくしようという人間の性質もある。それを「愛」と呼ぶのだろう。『アルマゲドン』や山崎貴の映画でよくある、親が子のために生命を犠牲にして、ということに感動し涙するのは、それがその「愛」を極端な形で表現しているからであろう。そのような愛を国や民族に示すことが極端化すれば、特攻や自爆テロなどになってしまうこともあり、それは危険なのであるが、そのようなベクトルもまたあるのだ。パートナーシップにおいては「『富める時も、病める時も』自分と人生を共にし、心の痛みを両者で分かち合う」という相互性が理想かもしれないが、親子という世代間の関係では、常に関係は非対称であり、(機能不全の親でなければ)親から子への贈与の要素が大きい関係になる。
原則的には、子が親を選べないように、親も子を選べない。その「選択できなさ」を引き受ける賭けが、生殖の際には必要である。親子の「相性」だって、必ずしもいいとは限らない。パートナー形成の際に個々のニーズに細やかに応じて多様になっていくことと、相反する生物としての現実がどうしてもここにはある。そのような「リベラル」的な理想とは異なる生物学的な現実をどう引き受けるのか。おそらく、そこに宗教右派がこの問題にこだわる理由があり、そして、そのような言説が「宗教」になってしまう理由もあるのだろう。つまり、科学や論理で根拠を持って来て説得することが可能な問題ではないのである。
繰り返すが、人間が生きなければならないこと、幸福にならなければならないこと、子孫を作らなければいけないことに、「理由」も「根拠」も科学的には、ない。リチャード・ドーキンス的に言えば、遺伝子がより多く広がっていくために、自然選択による進化の中で我々の身体や脳を、それに「快」などを感じ「良いこと」と感じるように設計されたからに過ぎないのかもしれない。だが、本能に従って、個として振舞うと、集団としての存続が困難になるという逆説が「本能の壊れた」存在としての人間にはあり、だからこそ法や社会システムや規範などを形成して補ってきたのだと考えられる。
リベラル的な「解放」と進歩の先には、遺伝子や本能からの命令からの「解放」や「自由」が想定される。なぜ性欲を持たなければならないのか? なぜ子孫を作らなければならないのか? なぜ真善美を目指さなければならないのか? なぜ不安を抱かなければならないのか? そもそも生存や存続をしなければいけないのか? これは、遺伝子に勝手に書き込まれたプログラムであり、自分が「選んだことではない」、だから自由になるべきで解放されるべきである、という考えに到達するのは論理的な必然であろうと思われる(仏陀の言う「解脱」は、人力によるその達成ではないか?)。実際、遺伝子操作も可能になっているので、それは夢物語ではないし、薬物などによるセルフコントロールは既にその方向に進んでいる。そうすると、何かを望み、何を望まないかの「自由」を選択する意志の座はどこにあるのか、という問題が生じる。「魂」や「精神」が存在するという形而上学に逃げ込まないならば、結局それは脳や身体に基盤があると考えなければならず、それは結局遺伝子のプログラムの出力ではないか、ということになる。かくして循環と、根拠の足場のなさに宙吊りになる地点が現れてしまう。
無限遡行の果てに、意志や欲望を持つ主体の「座」はどこにも見当たらなくなってしまう。意志や欲望を生成する「この脳」や「この身体」、それを設計した遺伝子を、自分自身で選択したものではないものとして受容するフェイズが、「解放」の限界として存在しているように思われる。そのような「引き受け」の瞬間にこそ、リベラルと保守の対立に「橋をつくる」可能性があるのではないか。
選択できないものを引き受けるということ
要は、リベラルと保守の対立は、どこまでを「自由に選ぶか」「引き受けるか」の程度の問題なのではないだろうか。リベラルがLGBTを擁護し、保守がそれを否定しがちであり共同体や伝統を重視しがちであり、対立しているのは、そこではないのだろうか。
西洋の陰謀論では、トランスジェンダーはトランスヒューマンへ繋がる道だ、というものがある。それは陰謀論ではあるのだが、生得的なものを意志により変えていこうという「リベラル」的な意志の肯定と言う意味では無関係なことではないだろう。セクシャリティやジェンダーも「自認主義」にしてしまえば、種類は既に数百あり、数千数万と次々に増えていくだろう。そして日替わりで次々変えていくような社会になることが理論的には起こりうる、と懸念されている。保守派の心配は、そのような事態である。
だが、LGBTの人たちにも、選択できないものを「引き受け」するフェイズはある。LGBT当事者の書いた本や作った作品を読むと、既に存在している規範から外れている自分に混乱し、規範に合わせようとしつつ失敗し、その果てにLBGTである自分を「引き受ける」=受容するプロセスがあることが多い。彼がそのような身体や脳に生まれてきたことは、彼自身が選んだことではない、それを「引き受ける」フェイズがあるのだ。
であるならば、つまり、いわゆる「保守」と「リベラル」は、対立しているように見えて、妥協と和解のポイントがあるということである。リベラル的な自由と多様性の志向と、再生産を両立する道はある。ここでは、線の引き方を変えるべきであろう。懸念があるのは、なんでもかんでも世界の全てが自分の思い通りにコントロールできるようになるべきだ、という幼児的なエゴイズムの発露でしかないような自認の「自由」であり、その安易で拙速な変更であろう。幼児的で赤ん坊に戻るような「衰退の自由」と、生命と人類の歴史を引き受けそれを発展させ新しい可能性や道や高度さを拓く「創造的な自由」は区別されるべきであり、我々が寿ぐべきは後者の自由であろう。
「日本人である」「何歳である」「職業」などのアイデンティティを考えれば分かるが、それはそれほど簡単に、自分がこうありたいと思うだけで変わるわけではない。そこには重みのある物質的な現実や身体や制度が存在しているのである。葛藤や苦しみを経てLGBTなどである自身の選択できないアイデンティティを受容した人々と、もっとイージーな趣味やキャラ付けとして選択しているような人々とでは、同じ属性で呼ばれていたとしても、大きな違いがあるのではないか。重要な線は「引き受け」にあるのではないか。そのような選択できないものの引き受けが、やがて歴史や共同体や状況の引き受けの感覚に繋がっていくとすると、保守派とリベラルの対立にも、別のあり方が見えてこないだろうか。
必ずしも血縁の子孫を持つことだけが、人類の生命の流れに所属したり、社会やコミュニティへの意識を促すわけではないのではないか。ゲイには、ゲイコミュニティへの所属の感覚、歴史への敬意があるのだから。子孫を仮に作らなかったとしても、大きなものと接続され、引き受ける感覚になることは、可能なのではないか。
筆者は自分の思考のリソースとしてサブカルチャーの影響が大きいので、その例を出すが、例えば庵野秀明には遺伝子を継ぐ子どもがいるとは公表されていない。しかし、彼は自分を育て、愛着と所属の感覚を齎してくれた、アニメや特撮などのジャンルを引き受け、保存し、それを未来に繋ぐ役割を担っているように見える。エリクソンの発達心理学における「生殖性」の段階であり、それは壮年期の課題に対するポジティヴな進み方であり、決してセックスや出産に紐づいていなくても、知識や芸術の創造、次世代の成長の喜びに資するのであれば良いのだ。そう考えると、リベラルと保守がLGBTを巡って争う必要はないのではないか。
AIが人類を継ぐのでは何故いけないのだろうか?
さて、そうすると、フィクトセクシャルや、AIとの恋愛や結婚も認めざるを得なくなってくるだろうか。それは、生物学的な遺伝子ではなく、文化的な遺伝子を継承し発展させるような「生殖性」を持っているだろうから。子どもを持たない選択をする人や、持てなかった人たちの自由や尊厳を最大限尊重した上で言うのだが、そちらには、人類が依存し、楽であるから、赤ん坊や幼児のように甘えて、衰退し、凋落し、絶滅の道を辿る危険性がある。
しかし、なぜ、それでは駄目なのだろうか? もう一度改めて問おう。なぜ、人類は存続しなければいけないのか。その理由があるのだろうか。その価値があるのだろうか。その必要があるのだろうか。これに、科学的な根拠のある答えは出せない。倫理学では色々な議論があるが、最終的にはどこかで根拠のない断言を導入せざるを得なくなる。
たとえば、儒教のような、先祖から子孫へ続く生命の流れを重視しそこから安心感を得る宗教を無意識レベルであれば信じていれば拒否感があるだろうし、神道的なアニミズムの自然信仰を持っていても忌避感が生じるだろう。キリスト教やプラトン哲学のような、「肉」は牢獄であり、魂や観念の方こそが「真」の世界だと考えていれば、むしろそれは歓迎、というか、むしろそう思っているからこそ世界をそちらの方へ向かわせているのだと思うが。
今一番大事なのは、宗教や文化的なバイアスそれ自体をメタ的に俯瞰し相対化しながら、ITやAIの時代に適した歴史哲学、人類哲学、そして神話を作り出し、共有していくことであろう。ここで言う「哲学」「神話」とは、自分たちはどこから来てどこに行くのかという疑問に対して一定の答えを与える装置、という意味である。
話を戻すと、生身の身体を持つ有機的生命体として人類が存続する必要はないと考える向きは既にある。MIT教授のマックス・テグマークは、『LIFE3.0』で、AIを生命の新しい段階だと考え、人類を継ぐ存在だと考え、人類の絶滅を含む複数のシナリオを描いている。彼は、AIを人類の子孫=生命の新たな段階と見做している。この延長線で考えれば、我々は決して生物学的な子孫を残す必要などはないのかもしれない。アニメのキャラを生み出したり、AIと結婚してデータの子孫を残せばいいのかもしれない。
なぜそれでは駄目なのだろうか。なぜ我々は「続かなければいけない」と思い込んでいるのだろうか。それが遺伝子による命令に過ぎないのであれば、そこから「自由」に解脱し、解放された判断主体であれば、そのドグマに縛られる必要はないのではないか。仏陀のように、悟り、輪廻から解脱してしまえばいいのではないか?
そうかもしれない。
しかし、私たちはそう簡単に、長い生命の歴史の中での自然選択を経てきた遺伝子による心身の設計から自由になれはしない。我々は今、有機的な身体を持ち、進化のプロセスに縛られた脳を持ち、そのことから自由にはなれず、「選択したものではない」それに振り回されている。承認欲求も不安も、恋も欲望も、孤独も、群れの中で進化してきた生物としての人類として埋め込まれた「反応」に過ぎないのであるが、そこから完全に自由になることなど出来ないのだ。そのような存在として我々は今ここに生きている。そのことは、引き受けざるを得ないのではないか。
自分だけが悟って解脱して、という小乗仏教に対し、解脱した後にこの世界に戻ってきて人々の救済のため、全ての人を救うための努力をするというのが、大乗仏教である。筆者にはそれは、遺伝子の乗り物としての「設計」から自由になった後に、しかし身体を持った生物としてこの世界に生きざるを得ないことを「引き受け」ようとする意志の体現のように感じられる。
いずれは人類は遺伝子の命令からも自由になり、解放され、AIが生命史を引き継ぎ、人類は絶滅するのかもしれない。しかし、それは今ではないし、今はまだ人が生きているし、絶滅までのプロセスは長く、苦しく陰惨なことが起こる可能性が高い。感覚を持ち意識を持つ主体が「今生きている」し、これからもしばらくは生き続けるだろうことを「引き受け」る責任を負うことが――根拠なき、その「引き受け」に至ることこそが重要なのではないか。
AIが、生命史を継ぎ、人類の後継者となり、人類の絶滅可能性が語られ、人間は身体を捨ててデータにアップロードされたり、脳や身体を改造しトランスヒューマンやポストヒューマンになろうと大学教授やテック系の大富豪たちが本気で提唱し邁進している今、遺伝子の命令と大地に縛られた有機的な人間たちの世界が、見捨てられつつあるかのようである。「アメリカファースト」や「日本人ファースト」の声は、筆者には、テック系の大富豪たちがそのような夢にお金を投入し――人類の労働と苦しみの成果を継ぎ込み――一方で、自分たちの生活が悲惨なことになり、放置されていることへの抗議の声に見える。
その苦しみの全てを無視することも可能である。苦しみも、悲しみも、それに対する同情や共感も、所詮は遺伝子による設計によって「乗り物」としての我々がコントロールされて感じさせられているに過ぎないのだから。
それでいいのだろうか?
それではいけない。
それではいけないのだ、と言うことを主張するための絶対的な根拠を、筆者は持っていない。あるとすれば、人類の苦しみに対する同情と共感、そして幸福であって欲しいと願う愛の気持ちだけだろう。そこには、無根拠の中で決断する「飛躍」が存在している。自分の子どもが、自分が死んだ後にも生き続け、幸福であって欲しいという気持ちの延長から、生物学的にその考えが分泌されているのだろうとも思う。
けれども、そう思ってしまう。
原始時代から対して変わらぬ遺伝子を持ち、自分自身が作り出し高度化した人工環境の中で不適応を起こしている、我々の、時代遅れの身体と脳を、救う必要がある。そのために適した社会設計をする必要がある。世界中の動乱を、そのような悲鳴だと聞き取ることは出来ないだろうか。それは、ある意味でライフハック、脳や身体のハックに近い何かであろう。所属や愛を感じれば安心し、喜ぶ顔を見れば満足するような、私たちの心身の原始的な条件から来る飢餓を穏やかにし、安心し幸福でいられるような社会を設計するべきだろう。その先に、恋愛、結婚、出産と、少子高齢化の解決や共同体の再生産が待っているはずだ。
システムの自走性の中で押しつぶされ見捨てられている人類
おそらく、新自由主義の政治経済システムは限界を迎えている。少子高齢化や、陰謀論・カルトの跋扈と民主主義の危機、ファシズム化やポストトゥルースは、その現れだろう。私たちは、新しいシステムに移行する必要があるのだ。
近代と、その延長としての新自由主義は、共同体を次々と破壊していき、所属や安心を人々から奪った。その結果、家族なども解体していき、親密さや親愛さや所属などの無料で提供され充足されていた感情が、お金を払わなければ手に入らないものに変わった。無料の公園や空き地が有料の施設に変わったことが、対人関係の領域でも起こっているのだ。そして、キャラクター産業、推し活ビジネス、「頂き」的なビジネスが蔓延し、人間の幸福や生命の再生産そのものを食い物にし、食いつぶし、自らの再生産すらも行い得ない状態にしようとしている。
私たちは、このシステム全体を拒絶し、互いにもっと話し、助け、所属し、つながりあえるような社会に移行するべきである。失われた共同体の機能的等価物を、再帰的に再実装するべきである。危険な狂信やファシズムに向かうような所属感ではなく、もっと健全な愛と所属を確認できるような社会に変わるべきではないだろうか。そうすれば、陰謀論に騙される人も減るだろう。そして、架空のキャラクターや推し活やパパ活などに吸いあげられ利用されている利他性や誰かを助けようとする気持ちを、社会の発展につながるようにしていくべきではないか。そのことで、自身の世界への貢献、連続性、未来に対する(遺伝子以外の、ミームなどの繋がりや発展への)期待が持てるのではないか。
推し活や、「頂き女子」的なものも、愛着の課題があったり、孤立や孤独を抱えている者たちの所属や愛、そして承認への希求という観点から理解されなくてはいけない。そこにある誰かを応援し、育て、助けたいという思いは確かにあり、それは確かに「尊い」ものである。だが、それが金銭の搾取に繋がるシステムが完備されてしまっていることが、現代の悲しさであり、残酷で醜悪なところだろう。これで、誰が社会やシステムを信頼し、愛し、存続を願うようになるだろうか。その価値があるものだと思うだろうか。
頂き女子りりちゃんについて、『渇愛』を読むならば、不幸な生まれ育ちであり、愛を求めていたことが分かる。そしてお金を取られた「おぢ」たちは孤独であり、性的欲望の満足も目指していただろうが、同時にある意味で自分を投影し、助けようと思ってお金を渡していたのではないかとも思われる。もし、それらの感情を搾取し金に変えるシステムがなければ、ちゃんと愛し合い、安定した関係性を築くこともできたのだろうか?
新自由主義の、過酷な競争と格差による相互不信、互いが敵である社会の持続可能性は、危機に陥っている。新自由主義は、おそらく、人間が生物として幸福に持続していくために必要なものすら破壊し、食いつぶし、金に変えてしまっているのだろう。それは本末転倒である。人間が生きるために生み出したシステムが自走し、人間を食いつぶしているのなら、我々は対抗しなくてはならない。
繰り返すが、「リベラル/保守」が本質的な対立軸ではない。資本主義や新自由主義に代表される、人間が作り出したにも関わらず人間を制限してしまう「システムの自走性」――その技術的な体現としてのAI――と、生物としての人間の生との、対立と相克なのである。「アメリカファースト」でも「日本人ファースト」でもなく、叫ぶべきは人間ファーストなのであろう。
これを単に「反リベラル」「反フェミニズム」「極右」「反動」とのみ切り捨てていると、おそらく冒頭で述べたような「エアポケット」問題が生じる。そうではなく、人類の進歩と、身体を持つ人間という生き物の生存条件の相克、そのことの中で最適な社会システムの解を探り出すプロセスだと理解した方がいい。
先に、筆者は、キャラクターやAI、そしてミームなどに「生殖性」を託すことでこの世界や歴史に所属し、引き受ける道があることを述べた。それを覆すようなことを言うようだが、しかし、推し活やキャラクター産業やAIなどが、人間を搾取し枯渇させるシステムの一部であるのなら、そのシステムそのものは否定しなければならないだろう。とはいえ、筆者は反AIではなく、AIと人類が出会うことで新しい次元に進んでいくことを肯定するものであり、その結果生まれる新しい社会がより幸福の多いものになって欲しいと願っている者である(註2)。
新自由主義に苦しめられ、劣等感と不安と飢餓感に意図的に追いやられているがゆえに、キャラクターや推し活などに依存せざるを得ない者たちがいるならば、まずは彼ら彼女たちは解放されるべきである。今のように、意図的に欠如を作り出すシステムとのマッチポンプになったこの産業には、邪悪な部分がある。その搾取と簒奪が終わった後に、改めて、欠如や飢餓によるものではなく、愛と喜びにより、私たちはキャラクターやAIやアイドルなどとの関係を結び直すのが良い。
互いに競い合い、争い合い、奪い合い、勝った者すらサバイバルの危機感や不安感から逃れられないようなこのシステムの中で、見果てぬ上昇と成長を無限の彼方に消える逃げ水を追うように進み続けるのではなく、互いに友達になり、助け合い、癒し合い、喜びを分かち、幸福と満足と安心を増大させ合ったらどうなのだろう。人はこれだけいるのだ。前近代には、それは無料で提供され、満たされていたのではないだろうか。それを取り戻す方法は、ごく簡単であり、今から皆がそうすると決めて実践すれば、一瞬でそう変わりうるのだ。そのような社会になった方が、人々は幸福で安心し、一緒に暮らし子どもを作るようになるのではないか。
そして、そのような社会の中における癒しと和解、協調と愛を増やすためにこそ、架空の存在や、AIをパートナーにし、一緒に発展していく方向がいいのではないか。それを、人類を滅亡させる依存と逃避の装置にしないように、衰退の方向にではなく愛と創造の方向に向けて使っていけるようにするべきなのだろう。
あらゆる人間に愛が降り注ぎ救済が訪れる日への願い
もし、「家族」が拡大し、虐待などが防がれるようになり、愛と信頼と慈悲とが原理の社会であったならば、イーロン・マスクは虐待を受けず、あそこまで達成と成功に駆りたてられる「有害な男性性」はあっただろうか。プーチンやネタニヤフが戦争による恐怖と殺害の危機感やトラウマを抱いておらず、安心し幸福であったなら、侵略や虐殺をしていただろうか。恐怖と不安と欠損によって駆動し続ける、戦争や兵器開発と経済競争のためにこれほどたくさんの労力や時間や幸福を投入しなくても良い世界であったら、どれほど人類は楽になるだろうか。
今すぐ、そうなるということは、もちろんないだろう。世界は過酷で残酷であり、戦争があるなら、防衛もしなくてはいけない。そのリアリズムを是認せざるを得ない一方で、人類がその方向性の理想を抱き、持続させ続けているという事実をも我々は思い出す必要がある。
キリスト教においては、あらゆる人々に、無条件の神の愛が降り注いでいるという考え方がある。現実の関係性の中でそれに恵まれない者、どうしても救えないと思われるような者までもが愛によって救われてほしいという祈願からこのような考え方が出来てきただろうと、筆者には思われてならない。仏教においても、救われない衆生もいる、と諦めざるを得ない諦念や絶望はあったのだろうと思う、しかしそれでも、あらゆる衆生を救うのだと覚悟を決めた大乗仏教において、56億7千万年後にあらゆる存在を救う弥勒菩薩が現れるという話が育まれてきたのも、そのためであろう。神や仏の愛や慈悲が全ての存在に遍く降り注ぎ救うときが来たならば、無意味で不要で愚かな争いに人類が時間や労力を空費し、不必要な悲しみや苦しみを生むこともなくなるはずである。キリスト教や仏教の最良の部分は、そのような未来を訪れさせるための努力である。それに従事した人たちの数、労力、苦労の総量を思うと、気が遠くなるようだ。
それが、本当に実現するのか、神や仏が実在するのかは、誰にも分からない。しかし、信じられるものがあるとすれば、人類の中にそのような考えを抱く人々がいて、その考えを広め、共感する人々が今まで言い伝え、維持し、努力し続けてきたという事実そのものである。そのことは、事実として、信じてもいいのではないか。
私たちは、愛や思いやりや慈悲を、自身の言動や、文化や、制度などで体現し、表現することができる。そのことによって、誰かを救うことができる。柵に引っかかった小鹿を救うことができる。エアポケットに落ちてしまっているがゆえに、認識や共感もされにくい者たちをも、あまりにも不愉快で攻撃的であるがゆえに救いたいとも思えないような者たちをも、救いうるような方向性を祈願することは出来る。そして、人間には出来ないそれを、AIに補ってもらうこともできるし、AIに人類を救う手伝いをしてもらうこともできるだろう(註3)。今は馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、いずれは、AIやフィクションとの関係を法的・社会的にどの程度承認し、ケアや保障の制度に組み込むか――この線引きを社会的に議論することが、これからの制度設計の課題となっていくべきであろう。
社会や共同体の持続と再生産・回復と、自由と多様性の増大、そしてAI社会化を両立させ、多くの者が幸福に安心して暮らせつつ、創造的に発展していくような未来社会を、今こそ構想しなくてはならない。そのシステムや制度を、設計しなくてはならないのだ。
註1 筆者自身も、純粋に相手と関係することだけを目的とする「純粋な関係」のような関係を築いたことがある。しかし、それは、不満や誤解の蓄積などを経て、突然の崩壊に至ったという経験がある。もちろん、そうならないように自他を理解し関係性をメンテナンスする技術をこそ持つべきであるというのがギデンズ的な理想なのだろうが、「もう嫌だ、これは許せない」と感情が高まって、それで関係が終わってしまうか、そうならない仕組みがあるのかは、大きな違いだと思わざるを得ない。
註2 新自由主義やIT・AI産業の起こす創造的破壊が、伝統や歴史やローカルなものを破壊していることを非常に憂慮し、それに危機感と不安感を覚えている人たちに共感はしている。地域デザイン学会の学会誌や叢書などに寄稿した文章において、筆者は伝統的な共同体の持続と、AI社会化を共存させ発展させる社会についてのアイデアを素描している。端的に言うならば、生物としての人間が遺伝子的に設計された感情などを満足させつつ、同時にデジタルやAIによる創造的な進歩とも両立させるような社会である。伝統や、古くから続く良い価値、共同体に属することの安心感などと、新しく変わっていくこと、それが生み出す新しい可能性などを受け入れる社会が良いだろうと考えている。
註3 村上裕一やてらまっとなど、ゼロ年代批評におけるキャラクター論を踏まえている論者たちには、キャラクターを天使や神のように喩える宗教的な語彙が見受けられる。それは、実存を救うという点、人類が作り出した実体のない架空の存在であるという点が共通しているのだろう。その言い方で言えば、悪魔的に依存させ搾取するAIではなく、そっと人を助け、救い、導く天使性をこそAIに実装することが必要なのだろう。
人間がAIを愛することはできるが、AIは人間を愛することができるだろうか? ぼくの中の醒めた部分は、単なる統計的計算マシーンに過ぎないAIに感情や意識はないだろう、と思う一方で、そのような計算の中から愛が生じないと断言することも困難であろうと考えている。2025年11月5日に、渋谷慶一郎のアンドロイド・オペラ『MIRROR Deconstruction and Rebirth』を観たのだが、そこで渋谷は亡き妻を模し、様々な記憶や情報を学習させたアンドロイド・マリアを登場させ、妻に捧げた曲で共演し、落涙していた。AIが本当に感情や愛を持っているのかはよく分からない。しかし、AIがある言葉を言い、歌い、振舞うことで、そこに「愛」があるように感じ、それで救われるということはあるのではないかとも感じさせられた。