フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
第12回

弱者男性たちがノーベル平和賞を受賞する日

2025.10.07
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
  • Ⅰ 男性たちがありのままの存在を受容されるために

      ここまで、十一回に及ぶ連載を続けてきて、反省していることがある。それは、当事者たちの気持ちについての配慮である。

    連載に対する反発として、「リベラルだ」「フェミニズムだ」という意見が一番多いのだが(単純にそうではないと思うのだが)、次に多いのが、「当事者の気持ちを分かっていない、配慮していない」という意見だ。これについて、「男性は論理的・科学的ということを誇っている癖に、結局お気持ちに配慮しろということではないか」「矛盾しているだろう」と思い、これまでは正直、軽視していた。「科学的・論理的なことを誇るのであれば、学術的な研究をこれだけ並べてエビデンスやデータも示しているのだから、当然理解できるし、受け止めるだろう」と。

     しかし、それは間違っていたかもしれない。そう思うようになったのは、鈴木大介+石田月美+漫画Tokinによる『好きで一緒になったから──死にたい私でも恋愛・婚活で生き延びる方法』を読んだことによる。ここで、家出少女だった石田が、支援者などについて「分かっていない」と反発する気持ちを当事者として語っていた。居場所がなく、安全性や受容されている感じを持っていない人にとっては「正しい」意見や「支援者」の救済すら、自分を否定するもののように感じられ、反発し、逃げてしまうのだと。そのぐらい、心の溜めがない状態なのである。その反発は、自分にも覚えがある。

     そのような傷つきや脆弱さを抱えている女性たちがいる。その原因が、本書が言うように発達障害や、成育歴における不幸にあるとすると、男性たちにもそれなりに同じ数のそういうタイプの人間がいるはずである。その一部が「弱者男性」を構成しているはずであり、家出少女や非行少女と同じように、社会の主流の規範とは異なるサブグループやサブカルチャーを持つことで生き延びているのだとすると、彼らに対して「正しくなれ」「成長しろ」「これが真理だ」と押し付けることに暴力性はなかっただろうか?

     阿佐ヶ谷ロフトAで開催された鈴木大介と石田月美のトークイベントに観覧に行った際、壇上に上がることになってしまい、そこでも話した話なのだが、居場所がない女性たちが性愛やパートナーシップで救われ、否定や排除されるという不安なく存在を受容され愛される安心感を回復していくプロセスを経ているのだとしたら、男性の場合はこのような場がないのではないか。ぼくも含めて、「変われ」「成長しろ」「努力しろ」とばかり言っているのは、マッチョであり、存在そのものを否定され排除される不安感がまず先に立ち、意見を聞くどころではないのではないか。男性だからこそ、受容や理解のプロセスをすっ飛ばして、成長や克己を最初から押し付けてしまうジェンダーバイアスが確かにあったのではないか。

     「女性は楽だ」「体を売ればいいから」「男には『ガラスの地下室』がある」「女性支援はあるが男性支援はない」「男性差別だ」という意見は、単なるバックラッシュでありミソジニーであると見做してしまいたくなるが、家庭に居場所がなく非行に走ってしまう少女たちと似たような境遇の男性たちの視点から見るならば、本気で救済のための資源が自分には届かなく、本気で羨んで発言している可能性がある、と思えてきた。実際、日本の弱者男性論壇を見ていると、障害持ちや、虐待のサバイバーを開示している者たちは少なくない。彼らにとって「ガラスの天井」や大学の「アファーマティヴアクション」などは、非常に贅沢な、貴族的な問題と見えてしまうのだろう。

     では、改めて、壇上でも発した問いを繰り返すが、こういう男性たちが救われるにはどうしたらいいのだろうか? 自分の存在そのものを受容され、社会から排除されたり自尊心を破壊されるという恐怖や不安が収まっていき、回復していき、他者や世界への信頼を回復するにはどうしたら良いのだろうか?

     男性の場合は、女性と比較し、収入や社会的地位とパートナーの有無が強く相関していることが統計的に明らかであり、「努力」「達成」「勝利」なしに、性愛のパートナーシップによって救われるということが起こりにくい。そのような男性たちが、東畑開人の言うdoing(何をしたか、達成・地位)ではなく、being(存在)を、(誰かに受容されることなどを経由することで)ありのままに受容することができるようになるには、どうしたら良いだろうか? 男性同士の友情、オープンダイアローグ、カウンセリング、宗教などなどがその候補として想定され、本連載では提案してきた。おそらく、フェミニズムや女性たちへの反発の一部には、誤って女性にそのような受容を過剰に期待してしまい、対人距離を見誤るがゆえにそれが裏切られるという傷つき体験も背景にあるだろう。そして、この連載も、そのようなbeingの受容を志向してこなかった。それが反発を産んだ原因のひとつだろう。

     とはいえ、では、攻撃的で自他に破壊的な言動まで「受容」「寄り添う」ことが正しいかと言えば、そうではないだろう。そうではなく、存在を受容しつつ、主張や考えは修正するべきところは修正するという難しいバランスで本連載は進んできた。男性当事者からもフェミニストからも誤解や批難を受けてきたのはそれゆえもあるだろう。ただ、本連載は「受容」の側面に乏しく、「弱さ」を認めろという主張に反し、マッチョ的だったことは否めない。感想などでも、「きつすぎる」、「これを読んで納得できるのは心が既に強いものだけである」、「残酷心理解体ショーである」というものがあった。確かにそれはそうだろう。弱さを認めて内省できる「強さ」を要求するという点で、本連載は明らかにマッチョである(これだけの文章を読んで理解せよ、という知性と読解力の要求によっても)。

    Ⅱ 汝の敵を愛せよ

    非暴力による反差別運動の成功事例

     では、フェミニズムでは救われない男たちが、攻撃や陰謀論的な集団との一体化、反社会的な逸脱を通じた仲間形成などに拠らない形で、その存在を自身で受容していくために必要なのは何なのだろうか?

     唐突だが、それは愛、なのではないだろうか。誤解しないでほしいのは、それは恋愛や異性愛(のみ)を意味していないということである。では、ここで言う「愛」とはどういうことか。それは、存在そのものの全的な受容のことであり、もうひとつは、マーティン・ルーサー・キング牧師の言う「神の愛」すなわち「理解」のことである。「神の愛」とは、神による無条件の存在の受容のようなことである。

     キング牧師は、黒人差別と戦い、多くの勝利を齎した人である。「男性差別」「オタク差別」と戦っていると主観的に感じている人にも、女性差別と戦っている人にも、どのようにして勝利に至ったのかを知ることは意味のあることだと思う。差別との戦いにおいて、彼が重視していたのが、「愛」なのである。

     彼は非暴力を謳い、反差別の行動においても暴力を使うことを諫めた。暴力を使えば、より大きな反発の暴力が起こり、白人による黒人弾圧がより強まると考えたからだ。彼は、自宅が爆弾で爆破されてもなおそれを貫き「汝の敵を愛せ」と言い続けた。では、その「愛」とはどういうものか。彼の演説や自伝から、いくつか引いてみよう。

    「愛こそぼくたちを導く理想でなくてはなりません」(『自由への大いなる歩み』p70)と彼は黒人たちの前で言った。そして「憎悪にむくいるに憎悪をもってすることは、いたずらに宇宙における悪の存在を強めるにすぎないだろう。憎悪は憎悪をうみ、暴力は暴力をうみ、頑迷はますます大きな頑迷をうみだす。ぼくたちは憎悪の力にたいしては愛の力をもって、物質的な力にたいしては精神の力をもって応じねばならない。ぼくたちの目的は、決して白人をうちまかしたり侮辱することではなく、彼らの友情と理解をかちとることでなくてはならない」(p101)と言う。

     そして、「愛」の原理を説き続ける。「非暴力的抵抗者は、反対者をうち倒すことを拒絶するのはもちろんのこと、彼を憎むことさえも拒絶するのだ。非暴力の中心には愛の原理がある」「全世界の抑圧された人々は人間性の尊厳をまもるための闘いにさいして、反対者にたいして寛容さを失ったり憎悪の闘いにふけったりする誘惑に屈してはならない」「人々は、生活の歩みのなかで憎しみの鎖をたちきるにたりるほどの理性と道徳とをもたねばならない」(p125)

     その「愛」とは、「理解」のことである。「ここでぼくが愛というのは、理解ということであり、救済する力をもった善意ということだ」「それは、純粋に自発的な、動機のない、理由のない、創造的な、あふれでる愛のことなのだ。それは、対象の性質や機能によって動かされるものではなく、人間の心のなかに働いている神の愛なのだ」「ぼくたちは、憎しみにたいして愛をもってこたえるのでなければ、破壊された共同体の割目をとざすことはできぬ」「アガぺ〔引用者註、神の愛〕とは、一切の生命がたがいにつながりあっていることをみとめることだ。全人類はただひとつの過程のなかにふくまれており、一切の人間は兄弟なのだ」(p126-128)

     暴力や抑圧すらも赦し、非暴力を貫くという、愛と徳の高さを見せつけることにより、黒人たちは、白人たちからの尊敬や共感すら勝ち取り、その魂の高貴さを証明することで差別する人々の気持ちを変えていった。「ニグロは、非暴力的抵抗によって、不正な制度を維持しようとする人々を愛しながら、しかもこれに反対するという、高貴な立場にまでたかまることができるだろう」(p280)

     では、なぜ、暴力や怒りや憎悪によって差別と戦うことを、彼は否定したのだろうか。それは、憎悪に対する憎悪、報復に対する報復、敵意に対する敵意が悪循環し続けるからだ。

    「非暴力のみちを通じてでなければ、白人の社会の恐怖はのぞかれない。罪の意識にひきさかれた少数派の白人たちは、もしニグロたちが権力をにぎるならば、抑制をわすれて無慈悲に多年にわたる不正や残酷な行為に復讐をくわだてるだろうという恐怖のなかに生きているのだ。彼らは、たえず息子を虐待している両親に似ている。こうした両親は、ある日たまたま息子をなぐりつけようとして手をあげるとき、息子の背丈がいまでは自分たちと同じになっていることを発見するのだ」(p282)。加害者意識や罪の意識を抱かせることは、必要なことであっても、恐怖や不安を引き起こし、防衛の反射を引き起こしてしまう。

    「ニグロにあたえられた仕事は、彼らに、ちっとも恐れるには及ばない、自分たちは君たちのことをよく知っており、君たちをゆるし、すすんで過去を忘れようとしているのだ、ということを示してやることだ」(p283)

    「非暴力の余波は愛の共同体の創造である。非暴力の余波は贖いである。非暴力の余波は和解である。だが暴力の余波は虚しさと怨恨である」「この戦いにおいてわれわれの手がきれいであるように努めよう。決して偽りと暴力と憎しみと悪意でもって戦うことなく、常に愛をもって戦おう」(『私には夢がある』p46)

     そのような、道徳的に、相手より高い位置に立つことが重要なのである。それは、相手を変えるよりもまず黒人自身の魂を変え、自尊心を生み出すという(★1)

    「理解」としての「愛」

     では、「(神の)愛」が「理解」であるとは、どういうことだろうか。「汝の敵を愛す」ことが、どのようにして可能なのだろうか。

     キングは、自身を攻撃した白人たちやKKKが、特権を持たず貧しく教育がなく「白人」であること以外で自尊心を持つことの出来ない存在だと同情し、哀れんでいる。黒人差別の条例の撤廃に反対する白人の権力者に対しても、それ以外のことについては立派な人たちであり、長年の文化や慣習によりその判断になっているのだろうと想像し理解しようと努めている。

     それを、この連載で問題にしてきた、ネット上の男女対立に当てはめるとどうなるだろうか。 

     たとえば、過激なミサンドリーを繰り返しているフェミニストのアカウントがあり、それが自分たちの文化や、アイデンティティを否定し脅かす「敵」に見えるかもしれない。しかし、彼女のアカウントの呟きをたくさん読めば、彼女が性暴力の被害や父親の虐待の被害に遭い、そのトラウマにより男性に対して憎悪と防衛的な感情を強く抱いていることが分かるかもしれない。そして、それに反発し、「女性の暴力に対する司法の差別」を問題視している弱者男性論壇のインフルエンサーもまた、母親からの虐待により男性性を去勢された苦しみを抱き、そのトラウマにより反射的に反発してしまっていることが分かるかもしれない(筆者は、これをSNSでの観察に基づき、実在の人々をイメージして書いている)。

     「頂き女子りりちゃん」的な女性に反発し、女性の「テイカー」性や無責任性に怒りをぶつけているミソジニストは、かつて彼女たちを救おうとして失敗し痛い目に遭った者たちかもしれない。そして、そのりりちゃん的な夜職の人々や家出少女の人たちは、石田月美が書いているように、障害があったり家庭に問題があったりし、本意ではなくトラウマや自己救済の試みとしてそうしてしまっているだけなのかもしれない。愛着スタイルに偏りがあるのでホストにハマって搾取され、男性嫌悪になっているのかもしれない。愛着の問題が絡むのでナイーブになり、怒りや悲しみも激しくなるだろうが、しかし、対立や憎悪の背景にあるのは、それぞれの悲しい過去などなのではないだろうか。だとしたならば、対立しているように見えた人々が、実は「同じ」なのだと気付いたりはしないだろうか?

    「敵」を理解するとは、やむを得なくそうなってしまう一人の個人を理解するということである。その悪行は悪行として非難しつつ、そうなってしまうその存在自体に対し、共感と慈愛の感情を伴う理解をし、受容するということである。それが「神の愛」である。そのように他者を受容することが、自己の存在そのものの受容にもつながっていくのだ。

     弱者男性やインセルたちの主張を検討し、彼ら自身を観察し、その背景を論じてきたこの連載は、当事者たちにとっては傷つき反発するような内容だったとしても、「理解」しようとし、その理解を共有することを訴えかけるものであったと思う。

     私たちは、このような「愛」によって、社会を変えるべきではないか? 男女や様々な集団を対立させ、分断し、憎悪を高め、暴力と不安と恐怖が蔓延する社会で、人々は仲良くなり、愛し合い、自分自身を受容し安心して暮らせるようになるだろうか? むしろその反対の状況を生み出しているのではないか。

     現在、女性差別などと戦おうとするフェミニスト(の一部)と、「男性差別」や「オタク差別」などと主観的には感じられる何かと戦おうとする者たちが衝突し、対立と分断が加速している。その行先に、一体何が待っているのだろうか。相互の憎悪と攻撃、報復の応酬の先に待っているのは、終わりなき憎悪と報復であり、その結果、関係性は険悪になり、愛や幸福は減っていくことになるのではないだろうか? 戦争や内戦で考えれば分かるが、どちらかが勝ったとしても、行末にあるものは良いものではないだろう。

     人と人が二人いるとき、彼らは憎悪し殺し合いをしていれば、警戒のコストなども高く、不快でネガティヴな気分も続き、殺害に成功すれば死者が一人と罪悪感を負ったもう一人が生まれる。しかし、両者が愛し合っていれば、喜びと楽しみが生じ、協調することによりより豊かで幸せな生存が生まれるかもしれない。喜びや快楽や陶酔すら生まれるかもしれない。それは、両者が協力するという意志によって、変わるものであり、生み出せるものなのだ。少子高齢化や共同体の再生産を憂いる者が、どうしてこれを忘れているのか、愛の次元を無視するのか、ぼくには理解できない。愛と信頼は、創造的で、一人では決して生み出せないような幸福と高揚と快楽と満足と安心を生みだせる、魔法のようなものである。

     しかし、敵に対して何故自分から愛さなければならないのか、損をしているのではないか、と思うのは、当然のことである。だがそれは、虐待やハラスメントをされたものが、それを次世代に繰り返すようなものであり、損を引き受けてでも、自身がそれを継承しないことこそが、尊いことなのだ。損得勘定をまず自分から放棄し、先に愛することが重要なのだ。そのことにより相手の警戒や防衛が解け、愛と協調が生まれたならば、そのメリットは、最初に引き受けた小さな損を遥かに上回るものになるのだ。

     社会には競争があり、資本主義があり、勝者や敗者が出るのは必然である。自然界も、弱肉強食の生存競争が存在している。しかし、それとは別の次元に、全ての存在や生命が受容され愛される次元があるはずである。あるいは、そう考えることを人類は共有してきた歴史がある。仏教などにおいて、座禅などを繰り返して悟りを開いた境地には、そのような絶対的な受容の感覚がある。キリスト教における「神の愛」もそのようなものだろう。

     我々の多くはキリスト教徒ではないかもしれないが、そのような無差別かつ無条件の愛を自分の中に持つことが出来る。それを持つことを通じて、自分自身もまたそのような「神の愛」の目線で見て受容することが出来るようになるはずだ(★2)

    Ⅲ 戦争を人類が放棄し、男性性の尊厳が回復するために

    戦争と環境危機による「傷」

     キング牧師は、黒人への差別を撤廃するだけでなく、ベトナム戦争で起こっている残虐な行為や、そこに従軍する若く貧しい男性たちの苦境を止めるために、戦争につながるような価値観こそ革命しなければいけないと述べた。それも、「愛」と関係している。

    「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識へのいざないは、実際はすべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛への招きでもある」、そして「愛」は「人類が存続していくために絶対不可欠なものとなっている」「愛は究極的な生への扉を開く鍵である」(『私には夢がある』p180)

     本連載で繰り返し確認してきたが、「男性性」に強いネガティヴイメージが形成され、ありのままで十全に肯定され受容され誇ることが困難になったのは、第二次世界大戦の経験に拠る。いわば「男性性」にはそこで「傷」がついているのだ。機械化された無差別大量殺戮、原子爆弾の投下、計算されたアウシュビッツでの集団殺戮、世界各地で起こった性暴力などが、「男性性」に世界を滅ぼす危険なものという印象を形成し、「戦争」「科学」「資本主義」「植民地主義」などと「男性性」を結びつける観念を形成していった。

     そのような、歴史的に「戦争」と結びついてしまった「男性性」の価値を回復し誇るためには、戦争的な価値とは異なる方向を男性が志向していく必要がある。その道は、キング牧師が示している。戦争は男性のするもので、女性は平和を志向するというドグマがあるが、それは女性兵士や拷問や性的虐待をした女性たちによって否定されているし、キング牧師が男性であるという現実によっても否定されるだろう。「戦争」ではなく、「愛」の方向に向かっていくことこそが、男性が男性性を回復させ、「新しい男性性」を誇るようになっていくために必要なことである。

     そのためには、自らの「傷」や「弱さ」を認めることが必要である。それが惨めで無力感を覚え屈辱的だから困難であり、だからこそ目を逸らしたり、「鎧」を作り出し強がったりすることはあるかもしれない。男性とはそうなるように社会的に方向づけられたジェンダーなのかもしれない。その「鎧」によってなんとか生き延びてこられたのかもしれない。

     しかし、それを降ろした方が、多分、生きやすくなる。その弱い自分を受容することは、先に述べた「神の愛」と関係するからだ。そして、自身の弱さを受容することを通じて、他者の傷つきや脆弱性をも受容し共感していくことに繋がっていく。おそらく、これからの時代に必要なのは、そのような男性性なのではないか。

     繰り返すが、力強く、支配し、勝利し、発展するというような意味での「男性性」は、第二次世界大戦と、1970年代以降の「成長の限界」や環境危機によって、もう実現することは困難である。人類はもはや無限に成長や発展するものではないかもしれないという陰りの兆しが世界的に広がっている。予測では2050~2100年頃に、人類の総人口は歴史上はじめて減少に転じる。資源の枯渇から奪い合いという世界観がリアリティを増してきている。環境危機による絶滅に至るまでのプロセスで陰惨な奪い合いと殺し合いとしての第三次世界大戦が起こる――既に起こっている――と予測する人々も少なくないだろう。

     つまり、近代以降の、無限に発展し成長し世界が良くなり続けいつか神に到達するかもしれない存在としての人類の自己愛は、既にへし折られているのである。「男性性」だけではない。近代以降の「人間」が既に傷を負っており、この変化に対応しなければならないのである。

     既に、このような現代で「時代遅れ」になった男性性などを仮想的にロマンとして維持するジャンルとしてサブカルチャーがあることは述べた。ゲームなどの中では、成長や発展のみならず、植民地的な支配や領土拡張が起こり続けており、それと「男性性」を結びつけた批判もなされている。

     現実で困難になった領土的拡大や無限成長の欲望が、サイバースペースを生み出し、アニメやゲームなどのフィクション空間を拡大させた。イーロン・マスクはアシモフの「ファウンデーション」というSF小説を読み火星への夢を育んだが、彼の真の商品は「無限の拡張」がまだ続くという幻想である。シンギュラリティ後の世界では「不死」が訪れるというシリコンバレーの言説、AIへの幻想もまた、「無限の成長」「拡大」の夢を吸いあげ利用しているのだと考えられる。コンピュータ産業は、既にへし折られた「男性性」「近代」がまだ続いているという幻想を維持し続けた。

     大柴行人がXで「シリコンバレー全体がトラウマに突き動かされている感覚がある。みんなでセラピー受けてトラウマ克服したらどうなるんだろう。一旦他地域の競争をおいて考えた時に、ドデカ企業とかは生まれにくいかもしれないが、その分独占、バブル、996とかを超えた分散型で長期的で静かで美的なイノベーションが生まれる気がする。どちらかと言うとユートピアになると思う。70s-80sとかWhole Earth Catalog時代のシリコンバレーってそういうところだった気がするんですよね」と呟いているが、イーロン・マスクの「幻想」が過酷な虐待やイジメの中でサバイブしてきた中で、SFやコミックブックのヒーローによって生き延びる中で生まれてきたことは確認した。自身の心に傷がついているからこそ、それを埋めるために、成果を出し続け、達成し続けなければならず、それが成果を生むのだが、それが倒錯し「傷を与えて追い込むことによって生産性が生まれる」となり、人々を過酷な状況に追い込むシバキ主義になり、人類への脅威になりつつある今、大柴の提案は本気で考える必要があるだろう。優れた知性と実行力と富を持つ者たちが、トラウマを癒し、その鎧を脱ぎ、達成や成果への依存、成長幻想を脱いだ方が、人類全体のために良いのではないだろうか。

     私たちは、自身の弱さを受容し、鎧を脱ぎ、他の弱い者たちに共感し、奪い合いや殺し合いではなく、愛と慈しみの方向に向かう方が良い。成長の限界を迎えているかもしれないこの地球の上で生きていくためには、それが自分のためにも良いことなのではないだろうか。

    傷ついた「男性性」を受容するための文化としてのオタク文化

     私たちは、既にそのような弱さを受容し、「無限の進歩」や、あるはずだった未来が存在しないことを哀悼し、受容していくための文化を持っている。それが、世界に誇る「オタク文化」であることは、前回詳述した通りである。

     オタク文化は2000年代に大衆化し大きく隆盛したが、そこには「男性性」の傷、成長や発展の困難という無力感の受容という主題が大きく影響していた。

     筆者自身の話をすると、筆者は1983年生まれで、父親が勤めていたのはおそらく誰もが名前を知っている一部上場の電機メーカーであり、日本の高度成長を担っていた。大袈裟に言えば、その会社は永遠に続くのではないかとすら思われていたのだが、今は上場廃止の憂き目に遭っている。日本の「家電・科学・技術」は世界一ではないかという幻想も80年代にはあった。1970年万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったが人類は科学の力で無限に成長し世界はどんどん良くなっていくと、素朴に信じていた。

     生まれ育った頃はバブル景気であったが、思春期にそれが崩壊し、「失われた30年」に突入していくのを体感した。誰もが結婚し家を建て子どもを持てるという「一億総中流」「皆婚」が当たり前であり、企業に就職すれば安泰という価値観があったが、その約束は守られなかった。1995年には日経連の「新時代の日本的経営」提言に象徴される非正規雇用を増やす路線が始まり、正社員であっても過酷な生存競争が、非正規であれば貧困に陥り、恋愛や結婚にも困難を抱えるようになった。就職氷河期の同世代は、正社員になっても心を病んで辞めたり、非正規雇用では恋愛も結婚も出来ない貧困に陥り、世間からは「自己責任」だと非難された。

     その1995年には『新世紀エヴァンゲリオン』が放送され、ロボットに乗って戦い勝利し続けても無意味であり、それに心を病み、「男」になろうとして父に反抗しては鎮圧される「男らしくない」主人公が描かれた。筆者はこの作品に強いインパクトを受け、今のような道に来てしまったと言っても過言ではない。

     1996年には『宇宙戦艦ヤマト』のマッチョなロマンを相対化する『機動戦艦ナデシコ』が放送されたが、そこでは艦長は女性、主人公の男性はロボットの操縦ではなく料理をしたいと思っており、トラウマで戦うのが苦手であり、「男らしい」劇画調のアニメを部屋で蹲って見続けていた(第一話のタイトルが「『男らしく』でいこう!」)。それは、当時のぼくたちの姿であった。

     新海誠の実質的なデビュー作『ほしのこえ』(2002)では、ロボットに乗って戦争に従事するのは女の子であり、男性主人公はうじうじと内向的にポエム的な呟きをして、メールが来るのを待っていた。当時のライトノベルの主人公もこのような人間たちだった。美少女ゲームではトラウマを負った少女たちを癒そうとし続けた。発展、達成、勝利、家族を持つ、家を建てるという意味での「男になる=成熟する」可能性を経済状況によってへし折られ、その代償と受容という心理的ニーズが、オタク文化にはあったようにぼくには感じられた。

     オタク文化は「敗者の文化」であり、傷を受けた者たちの文化であると筆者が感じるのは、このような背景に拠る。35歳ぐらいまで、筆者は年収150万円ぐらいで生活していたので、そのことはよく分かる。現実を否認し、自尊心や尊厳を守るために、既存の主流の価値観に背を向け、逸脱的でオルタナティヴな文化や価値観を内面化していった。

     そこには、「鎧」で自分を守り、強がり、イキがり、人に迷惑をかけ、他者を軽視し侮蔑し呪い、妄想的な自己愛を肥大化してしまう道もある。一方、弱さを認め、普通ではない生き方や傷に共感し、受容していく道がある。

     かつては「オタク」は「オタク差別」を言う人たちなら理解しているだろう非常にネガティヴな存在として扱われ、オタク文化の地位も価値も芸術性の評価も低かった。それが、自分に傷を付けた人々を反復するように、別の集団やマイノリティを攻撃し傷つけるならば、その文化の価値をも貶めることになるのではないだろうか。そうではなく、自身と似たような「主流でなさ」「敗北」「傷」を抱えた人々を包摂できる文化や価値観の方向へと進んでいくことにこそ、可能性と、尊厳と栄光がないであろうか。自身は傷を負いながらも、報復することのない、その精神の高みによってこそ、オタクやオタク文化への尊敬が増し、「オタク差別」と人が呼ぶ物がなくなっていくことを期待できないだろうか。

    人類を既に滅亡した存在として眺めるということ

     戦後日本のオタク文化は、トラウマによる創造性を発揮してきた。筆者はこれまで、宮﨑駿、新海誠、小島秀夫、『攻殻機動隊』などについての研究・評論書を刊行してきたが、彼らが皆、社会的・歴史的トラウマと個人的なトラウマを起点とし、創造性を発揮しているように見える。その点では、イーロンとも同じなのだが、イーロンと比較し、彼等には反戦反核や平和への希求というヴィジョンが存在しているという違いもある。その差は、自身がされたことを反復しないという強い決意と意志にあるのではないか。

     戦争のトラウマと憲法9条の話には既に触れたが、トラウマが存在しているからこそ、未来に起こるかもしれないそれに対して過敏になり、それを防ごうとする意志も強く生まれるのではないか。『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『メタルギアソリッド』『すずめの戸締まり』などにはそれを強く感じる。傷を負った者だからこそ、出来ることがあるのではないだろうか。彼らの作品は、そう我々をエンパワメントしていないだろうか。

     たとえば、新海誠は、東日本大震災以降の作品は、巨大な災害が起きてそれが失われてしまった後の視点から都市を眺めて書いている旨をインタビューで述べている。今存在しているものを、未来において失われてしまったものとして見る、この視線により、今存在するものが美しく、愛おしく見えてくる。それは、川端康成が言った「末期の眼」つまり、死に直面した者の眼に、この世界や自然が美しく愛おしく見えてくる現象に極めて似ている。この視線により、あらゆる存在が脆弱で儚く、簡単に失われるものであると認識することが出来る。キリスト教徒ではなく、「神の愛」を感じるためのリソースに乏しい我々には、「無常観」や和歌の美学にも似た、このような「末期の眼」によるあらゆる存在への愛おしさの方が、感じやすいかもしれない。

     未来における災害により既に滅び去ったものとして今存在している都市を見るように、既に起こった第三次世界大戦で死んでしまった人々として現に生きている人間を見たり、環境危機により既に絶滅してしまった存在として人類を見たらどうだろうか。その哀しい宿命に対し、慈悲の心を持ちたくならないだろうか。既に確定した未来なのであれば、可能な限りその痛みや悲惨さが少なくなるようにしたいと願わないだろうか。巨大な災厄の前に、人間は無力であり、支配し征服し超越することなどは出来ないのだという深い諦念の先に、自身の弱さとの和解と、あらゆる存在の脆弱さと儚さへの共感や慈愛が発生しないだろうか。そこから、一神教的な神なき「神の愛」――キング牧師の言葉で言う「一切の生命がたがいにつながりあっていることをみとめることだ。全人類はただひとつの過程のなかにふくまれており、一切の人間は兄弟なのだ」という境地に、到達できないだろうか。

     今生きている全ての者が、既に未来の犠牲者であり、被害者である。そのような傷ついた者たちであると見たならば、我々が弱さと和解し、争いではなく愛によって助け合う道も出来ないだろうか。トラウマによる防衛の攻撃を応酬し合う憎悪の再生産から抜け出す道があるのではないか。

     傷を持つ者同士が、フラッシュバックや恐怖による防衛反応で攻撃し合い、憎悪とトラウマを連鎖させ続けてしまう状況が、現代のSNSで多く見られる。国家や民族やジェンダーなどでアイデンティティの枠組みを認識してしまうと、同じ傷を持っている人間同士が、敵として憎み合ってしまうことも多い。しかし、似たような傷を持つ者同士が共感し、連帯し合う回路もあるはずだ。

     村上春樹は、ドレスデンで遭遇した空爆を『スローターハウス5』を小説化したカート・ヴォネガットの影響を大きく受けた作家であるが、『ノルウェイの森』で傷を抱えた二人の交流を描き、その後、『神の子どもたちはみな踊る』『アンダーグラウンド』『ねじまき鳥クロニクル』『騎士団長殺し』などで、時間や場所や国家や民族を超えた、歴史的な傷の共鳴を描こうとしているように見える。濱口竜介の映画『ドライブ・マイ・カー』もそうであろう。

     筆者は、アウシュビッツや光州やトゥールスレンや東日本大震災の被災地や神戸や広島など、歴史的惨劇のあった街に多く足を運んだが、そこには、国家や民族を超えた、歴史的傷同士の共鳴による、別種の共同性のようなものが生まれているように感じた。「属性」などで線引きをし、「友敵」で考えると、トラウマを報復や攻撃で誤魔化したくなる誘惑に駆られてしまうが、慰霊や喪や悲嘆を経由し、自他のそれを癒していくことの先には、そのような共同性の可能性があるはずだ。

     「敵」であったとしても相手の事情や背景や思考を理解するという意味での「愛」により、互いの「傷」に共鳴し合い、既にある政治や国家や民族の輪郭を超えた共同性や愛おしさの感覚が生まれて、拡大していくことにより、戦争や、戦争に勝つための開発競争に膨大に費やしている人類の愚かな行いが、少しずつなくなっていき、人類全体の様々な問題を解決することにより多くの力を割き、この危機が克服される夢を見てはいけないだろうか(★3)。誰もが置き去りにされたり無力感を覚えたり見捨てられる不安を抱いたり屈辱感を感じないで済む社会の実現を夢見てはいけないだろうか。

     1981年、教皇ヨハネ・パウロ二世は広島で「戦争は人間のしわざです」と言った。貧困も差別も不平等も、人間のしわざである。とするならば、もし本当にそのような連帯と愛の感情に世界中全ての人が満たされたならば、搾取的なシステムも、残酷な戦争も、辞める方向に努力していくはずではないか。

    弱者男性とオタクたちが、世界を救い、栄光と尊敬を手に入れる未来

     前教皇フランシスコは「橋を作る」と言い、対立や分断ではなく、和解と協調を、すなわち愛を訴えかけた。先進国と発展途上国、リベラルと保守、エリートと非エリートなどが分断しているこの現代のグローバルな社会の問題を改善するために重要な呼びかけであり、必要な呼びかけであろう。そして彼は拝金主義的な社会の傾向を強く諫めていた。

     しかし、それでも、男とは男、女は女であり、LGBT的なものはあまり認めない傾向があった。藤原佐和子『現代エキュメニカル運動史 ジェンダー正義の視点から読み解く』に拠ると、カトリックとプロテスタントが殺し合いをした歴史を踏まえ、和解と赦しを志向し、霊的問題だけではなく社会の問題の改善を志向したエキュメニカルというキリスト教の運動の中でも、ジェンダーの問題における平等や正義は達成していないという。藤原は、女性だけの権利だけでなく、男性やLGBTの権利をも認める「ジェンダー正義」がエキュメニカル運動の中で盛り上がっているが、現在になっても主流になっていない現状を論じている。「神の愛」があっても、男女の対立と分断に「橋を作る」ことは困難なのだろうか。

     社会や共同体の再生産のための神話や物語の提供という宗教の使命ということから、男女の伝統的な役割の強調がなされている、ということはよく分かる。そのことを理解した上で、我々は「男女」の本質主義的な分割を否定し、それらが複雑に入り混じっている現状を、「クィア」などの比喩を使って表現してきた。

     我々には、その「橋をかける」ポテンシャルがあるはずだ。男性か女性かを本質主義化して二項対立的に考えない文化も存在している。アイデンティティポリティクスによる集団の輪郭の主張が事実ではないことを、本連載では繰り返し主張してきた。輪郭はもっと曖昧で、男性に男性性が自明にあるわけでも、女性に女性性が常にあるわけでもないというのが、人間の生きている現実そのものであり、実際に生きている人間の真実の姿である。

     傷つき、女性的になってしまった弱き男性たちには、そのような対立と分断を超えて、平和と愛をもたらす「橋」になるポテンシャルがあるはずだ。傷ついた男性性を受容しようとし、ジェンダーの自由で解放的なあり方を模索してきたオタク文化にも、そのような橋を作るポテンシャルがあるのではないか。本当は、心に傷を負った弱き男性たちや、オタクと呼ばれてきた人たちこそが、世界を救う存在へと変わり、ヒーローになることもできるポテンシャルを持っているのではないか。

     私は、夢を見る。

     前教皇すらも成し遂げられず、踏み込むことのできなかった、世界的な巨大な対立に「橋をかけ」、「愛」による調和を、弱者男性や、オタクたちこそが実現していくことにより、キング牧師のように、ノーベル平和賞を受賞し、その魂の高貴さによって世界に尊敬され、栄光に輝く日が来ることを。その母胎となったオタク文化や日本文化の精神性と魂の高貴さによって、世界から尊敬を受け、暴力や支配によってではなく、愛と協調による平和の道が開かれていくことを。

     そのとき、弱さは強さになり、敗北は勝利になり、損が得となる。過去の傷は未来への創造性となり、救われようとすることではなく救おうとすることこそが、自身を救う。そして、自らを救う者こそが、人類を救っていくのだ。


    (★1)キング牧師が、アイデンティティ政治の罠に対して予防線を張っているところにも注目したい。演説や自伝の中で、問題は「黒人」と「白人」の対立ではないと繰り返し、黒人だけではなく全世界の人々の解放のための闘いであると主張している。黒人が勝利を誇ったりしてもいけないのだとも諫めている。

     そして、自分の属する集団や政治的利害において不利益なことも認めるように注意もしている。それ自体が差別の結果であり白人たちの侮蔑であることも主張しながら、黒人たち自身の「品位のなさ」を指摘し、それを改善しなければならないとも述べている。「人間的な成熟をしめす確実な印のひとつは、自己批判にまでたかまる能力だ」、批判の「反面に虚偽がまじっていても、そのなかから真実の要素をとりだしてそれを創造的な再建の土台にせねばならない。ぼくたちは、ぼくたちが不正の犠牲者だからといって、ぼくたち自身の生活にたいする責任を解除するようであってはならない」(p294)。

     (★2)損得や、社会的地位や成功の上下とは違う価値観・軸の世界が、あらゆる存在の全的な受容という境地が存在し、世俗的な価値観の世界と並行して存在しているのだ。そのような次元が、恋愛や友愛、親子愛や家族愛にも明らかに、ある。確かに統計的には金銭や社会的地位と結婚率は相関していて、マッチングアプリなどで「条件」で男女ともに選り好みし、推し活などでは「愛」を金銭や数字で示しがちな時代である。しかし、そのような価値観にのみ生きるならば、愛が手に入らなくなる。そして、その空虚さを埋めるために多額のお金を費やすという倒錯の道にハマっていくことになってしまう。問題なのは、そのようなお金や数字の価値のみが一元的に支配しているという「考え」そのものであり、そうではない次元に触れ、移行することが重要である。

     (★3)もちろん、短期的に、侵略してくる敵がいるなら、防衛のために暴力も兵器も必要であるという現実を否定するつもりは全くない。しかし、その繰り返しの無限ループの中で自身の生存するための環境すら破壊し滅亡に至るかもしれない人類の現状を肯定することもできない。

     

     

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。