フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
第10回

「男らしさ」を擁護する──ファシズムと鉄道オタクとミソポエティック男性運動と

2025.08.05
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
  • 被害者意識を軸にしたアイデンティティ政治による動員のポピュリズム

     さて、ここまで、現代のネットの状況や文化戦争を意識しながら、「男性性≒男らしさ」についての色々な議論を確認してきた。「男性性」は、もっともネガティヴな場合、核兵器、戦争、苛烈な資本主義の競争、科学、非情さなどと結びつけられる。男性学の古典的文献であるコンネル『マスキュリニティーズ』がそのような考えを採用しているのを我々は確認してきた。しかし、生物学的な男性が皆そのようであるとはステレオタイプに過ぎず、それは偏見であり、本当は多様であり、同様の性質の生物学的な女性もいることも、くり返し述べてきた通りである。

     前回扱った「男性差別」やミサンドリーの議論は、個別には受け止めるべき問題提起を含んでいることは確かであり、それはネイグルやエブナーも認めている。ただし、「男性」「女性」を一枚岩化し、「女性中心主義」社会があるなどの考え方、認識の枠組みには多くの問題がある。さらに、それを受けたマノスフィアの議論では、元の議論にあった慎重さがなくなり、さらに単純化し単なるミソジニーと化した扇動になりがちだという問題があった。ネット上でのポピュリズム化したフェミニズムと同様だが、多くの人を動員するためには単純化した本質主義の二項対立的な図式を作り、敵を示し、集団の輪郭を作ることが、アイデンティティ政治として有効な手法だからであろう。

     参政党の躍進で多くの者がその問題に気付いてきているが、「日本人ファースト」「日本人が外国人に犠牲にされている」という認知のパターンは、二〇年以上前からある「在日特権」という差別的デマと同じ構造になっている。「白人が絶滅させられている」「男性こそが被害者である」などの被害者性を強調するアイデンティティ政治も同じだろう。林志弦が『犠牲者意識ナショナリズム』で指摘したことだが、歴史的文脈を抜きにした犠牲者・被害者意識によるアイデンティティ政治が世界中で猛威を振るっている。自分たちが被害者・犠牲者であるという意識が強まれば、自分たちの加害性が自覚できなくなりどのような惨劇が起こるのかは、イスラエルを見ていれば分かる。現在では、様々なアイデンティティ集団の間で同様のことが起こっている。男女もそうであろう。本当は一枚岩ではなく複雑で多様であることを忘却する認識は、基本的にそれ自体が暴力である。

     林が出している例として、第二次世界大戦中に日本の少女が避難している最中に韓国人にレイプされたという体験記が、日本でも韓国でも批難されたというものがある。それは、「韓国民族イコール被害者」「日本民族イコール加害者」という二分法の先入観に対して認知的不協和になるから認識し難かったのだ。男女の間でも同様のことが起こっており、それが問題を拗らせているように思う。

     既にこの連載では、男性の中にもケア的な人間や弱い人間はいるということ示した。女性による性加害の犠牲者もいる。暴力的な女性、虐待をする女性、戦争を好む女性兵士もいる。それらが不可視化されてきたのは、「男性」「女性」に対する集団的なステレオタイプに反するからである。社会の中で生きていれば、それに反する個人の複雑性をいくらでも目にするにもかかわらず、その現実が見えなくなってしまい、ステレオタイプのアイデンティティというバーチャルリアリティを現実と混同してしまうのである。あらゆる生物がそうであるように、現実による認識の修正を行うことに失敗することは、生存の確率を下げる。

     男性性を「強者」「原罪」と見なし否定すると、そのステレオタイプ化の暴力に対し、現に「そうではない」男性たちは反発の気持ちを覚えるだろうし、その気持ちは反フェミニズムやミソジニーに吸引されやすくなるのではないかと思われる。

     そこで、今回は、「男らしさ」を原罪化するのでも、女性が自分たちの性質を投影し同じようになってほしいという願望を押し付けるのでもなく、「男らしさ」を全否定するのではない形で、新しい男性性を構築する方向、男らしさを擁護する道について考えてみたいと思う。

     男性性とファシズム

     まず最初に、男性性と関連付けられる最悪のケースのひとつであるファシズムについて検討し、「男性性」を変える、降りるという議論がなぜ浮上してきたのかを検討しよう。

     日本における男性学の第一人者であり、男女共同参画の政策にも深く関わってきた伊藤公雄の問題意識の核には、ファシズムがある。伊藤は元々はイタリア・ファシズムの研究をしており、その延長線上に「男性学」の着想を得ている。では、イタリア・ファシズムと男性性との繋がりを、伊藤の論考「〈男らしさ〉の革命と挫折」はどのように記述しているのか確認してみよう。

     ファシズムは、ロマン主義と関係している。ロマン主義は、近代における産業社会の中で進行した「平準化」に相即し、それへの反動現象だと言う。一人一人の人間の個性が意識されず、誰もが取り換え可能なものと化す、軍隊や工場労働などを想起すればいい。その世俗化された世界の中で「唯一独自性」「自我崇拝」への熱望が「自己確証の運動」として起こっていくようになる。前近代における神話や有機的共同体が力を失った結果、存在意義をそうやって証明するしかなくなった、とも言える。神が持っていたとされる力を人間が持つように感じられた「近代」の帰結でもある。

     しかし、そのような時代の思想が流布したにも関わらず、神のように支配し自由に創造できる主体は、実際のところはエリートに限られる。そこでエリートではない者は、家庭の中で女性を支配しようとした。「〈男らしさ〉の神話の根本原理である力・権力・所有への無規制な欲望は、実はほとんどいかなる男にとっても実現不可能な要望」(『〈男らしさ〉のゆくえ』p115)であり、資本主義や革命のユートピアニズムと同じように、無限後退し続け、常に未達の不全感を覚えるものである。

     イタリアにおいては、一九世紀ヨーロッパで進行した産業化の中で「平準化と分化の展開に対する不安と恐怖としてのあのロマン主義的熱情」(p117)が高まり、「民衆的熱望」と「知識人たちの焦燥」が結合し、「『暴力』が至上の価値として登場してきた」「『戦争文化』の継承としての暴力性という問題と同時に、破壊の喜びという能動的ニヒリズムがはっきり見てとれる」(p118)

     「戦争への愛」も登場する。そこには「勇猛さの称揚、力の賛美、権力への意志、総じていえば〈男らしさ〉の誇示がはっきり示されている。/ファシズムは『性』という観点から見れば、明らかに〈男らしさ〉の革命であった。勇猛さ、力の誇示、権力への意志、それらは『戦争』という概念と強く結びついて男たちを魅了した。男たちに、自らの性に対する誇りを強く抱かせたのだ。戦後の無規制状態の深化に媒介され、いっそうの不安と焦燥のうちにあった男たちのアイデンティティは、ファシズムのうちに示された〈男らしさ〉のイデオロギーと強く親和しあったといえるだろう」(p118)。そのファシズムは「『反個人主義』の革命」(p119)であった。それは、近代の産業構造や価値観の変換の中で苦しんでいた精神の見出した道だった。

     「男らしさ」が、近代化・産業革命と結びついていることは既に述べた。「産業社会の産物としての〈男らしさ〉の神話が、そのもって生まれた矛盾を――戦争を媒介としつつ――解消しようとした」(p119-120)のが、ファシズムという道であり、それは「〈男らしさ〉の革命」であったと伊藤は考えている。W・ゴリュックスは「(ファシズムは)生活の全価値を再建し、男たちには無欠の男らしさを与えた」(p121)と述べていると引かれる。

    「〈男らしさ〉の革命としてのファシズムは、産業化の生み出した〈男らしさ〉の神話と男達の現実との間の矛盾を、〈男らしさ〉のイデオロギーの充満する世界へと彼らを連れこむことによって解消したかに見えた」(p121)が、それが別のさらに大きな問題を生み出していく。言うまでもなく戦争の惨禍である。

     つまり、男性の置かれている客観的現実と、〈男らしさ〉に関する神話(思い込み)の矛盾は、それを埋めるために、ファシズム的な社会体制や戦争すら望み、それを実現させることがある、というのがイタリア・ファシズムから学ぶべきことであると、伊藤は考え、これが彼の展開する男性学の基調になっている。

    「ロマン主義の時代にあっては、自己確証の手段は、他者との関係を通して見出される。つまり、彼の個性は、他者との比較における自己の卓越性のうちにのみ見出されるのだ。そして欲望の無限定性とその実現の他者依存性ゆえに、自らの個性は、あらかじめ挫折を予想された渇望なのだ。/ファシズムは、そうした個性への無限の欲望を――そしてそれによって生じた『個性の地獄』を――全体の名のもとに粉砕しようとしたともいえる。ここでは、ヒーローはもはや個人ではない。たとえそれがムッソリーニの名をもって現れたとしても、ヒーローはもっと別の存在、つまり『大衆』なのだ。/『大衆の独裁』としてのファシズムは、過剰なイデオロギー性をもって人びとに襲いかかる。『国家の神話』『人種の神話』『母性の神話』そして『〈男らしさ〉の神話』」(p126)

     伊藤は、「〈男らしさ〉への過剰な没入」(男だけの世界を作ること)と「〈男らしさ〉からの全面的な撤退」という道ではない、別の道を模索する必要があるという。それは両方とも、女性を排除しているし、フェミニズムの問題提起を受け入れておらず、女性の立場を理解していないからだ。

     別の道として、イリイチやユングの論も検討される。それらは「男・女の象徴的二項対立への復帰あるいは回復による〈男らしさ〉、〈女らしさ〉の矛盾の解消という道」(p135)を示しているが、しかしその方向性も棄却される。その理由は、男と女をめぐる、伝統的な象徴の「コスモス」への回帰は、それが「平準化と分化の進展のなかで破壊され尽くしてしまったのではないか」(p135)と伊藤は考えたからであり、「前近代的な相反相補性原理それ自体のうちに含まれる男性至上主義の破壊をも要求するに至ってはいないか」(p135)と考えるからである。

     本論は、この道の可能性を、むしろ擁護したい。ただし、伝統への回帰は不可能であるという認識を踏まえた上で、である。

    「男性性」を全否定するのではなく

     昨今世界的に隆盛している伝統的な男女観への回帰願望は、これと似た部分を持つように思われる。フェミニズムを否定する議論の中にも、この前近代的な男女の象徴的なコスモスへ回帰したいという願望が見え隠れする。「弱者男性論」やインセルの議論を見ていると、尊厳を失った男性たちからは、世界が滅茶苦茶になり戦争を望むというような意見も少なくない(だからトランプを支持すると宣言している者もいる)。若い世代と話していると、「ネタではない」感じでファシズム待望の意見を聞くことも少なくない。抑圧し否定され、行き場を失った「男性性≒近代におけるロマン主義的情熱」は、ファシズムや戦争をも実現させることになりかねないという危惧を、筆者は抱いている。

     だからこそ、フェミニズムを受け入れてソフトになったり、弱さを認めて鎧を脱ぐべきだというのは、一つの解決法である。しかし、生物学的に、あるいは、社会構築的に、女性が望む理想となるような女性性のみの男性に男性を変えることは、おそらくは不可能である。それは、男性が、「男友達みたいな彼女が欲しい」と望むのと同じような、実現しない願望であり、押し付ければ暴力になり、反発を生み、反動を生む可能性がある。

     では、どうするか。「男性性」を時代に即したもの――ポスト工業、創造産業、知識社会、IT・AI時代、コミュニケーション労働――に変えていき、男性性の神話も変えるというのが、一つの妥当な方向性である。だが同時に、男性性を全否定するのではなく、擁護するところは擁護し、価値を認めるべきところは認め、ファシズムとは別種の形で満たし満足するための様々な方法論、「男性性」「女性性」の両性具有のバランスなどが模索されているのではないかと思うのだ。それはトーマス・ジョイナーの『男はなぜ孤独死するのか 男たちの成功の代償』の提案する路線でもある。少し古いが、渡辺恒夫『脱男性の時代』で言う「アンドロジナス」などもそれに近い。

     本稿では、ロバート・ブライの「ミソポエティック男性運動」の再検討を行ってみようと思う。この運動はコンネルに「共犯的な男性性」として低く評価されているが、今読むと、一九六〇年代以降のアメリカで男性の女性化が進行し、男性が「ソフト」になったあとに起こる、恋愛や結婚などにおける男女の課題を解決するために、再帰的に男性性をインストールする、そのための神話や民話を用いていることがよく分かる。決して単純な保守化や伝統回帰ではなく、「新しい男性性」を模索し普及させることを狙っていたように思う。その意義をまずは検証してみたい。

     その後、宮台真司・辻泉・岡井崇之編『「男らしさ」の快楽 ポピュラー文化からみたその実態』における、「男らしさ」を全否定せず認める生き方の可能性を、ポピュラーカルチャーとの関係から探る議論を参照し、ファシズムとの関係を考察していくことにしよう。

     「男らしさ」の回復──ロバート・ブライ『アイアン・ジョンの魂』

     「男らしさ」「男性性」が悪いものとされるようになったのは、戦争・ファシズムとの結びつきが大きい。阿部恒久・大日方純夫・天野正子編『男性史』においても、戦場に男性を行かせ命を捨てて他者を殺すように動員するために、どのように「男らしさ」が構築され流布されたのかの事例でいっぱいである。田野大輔『愛と欲望のナチズム』によると、ナチス・ドイツのファシズムも、「男らしさ」に訴えかけ、性欲を動員するような形で支持を得ていた側面がある。

     つまり、戦争・ファシズム・大量虐殺・核兵器など二〇世紀最大の惨劇が男性性と結びつけられ、かなりネガティヴなイメージになったのである(自然や環境と女性性を結びつけるエコフェミニズムはその裏返しだろうか)。

     フェミニズムの思想に大きな影響を与えた一九六〇年代のヒッピー運動の中では「ラブ&ピース」が求められ、既存の文明や社会や科学などから降りたのも、これら第二次世界大戦への反発からであった。そのとき、華やかな格好をして愛や平和を説き(ジョン・レノン)、お花の恰好をして歌ったりしていた男性(ピーター・ガブリエル)たちがたくさんいたことを忘れてはならない。イエスのジョン・アンダーソンなど、後のアルバムでは「ぼくたちがお花だったら、太陽を賛美するだろう」みたいな歌詞を書いているぐらいであり(「In the presence of」)、「男性性」=「戦争・ファシズム・新自由主義・科学」のようなステレオタイプには六〇年以上前から反例があり、それらに対抗するべく「降りた」男性たちがたくさんいた(そのことが不可視化されているのが、六〇年代の文化やロックが好きな筆者には不満である。また、ヒッピーで、かなり早い時期にリサイクルショップに勤め、エコロジーにコミットしていた伯父を持つ筆者から見ると、自然や環境保護を女性性とだけ結びつけるのにも違和感がある)。

     男らしさが、戦争・ファシズム・大量虐殺・核兵器などと結びついていれば、多くの者が男性性にネガティヴなイメージを抱くだろう。そのような男性の自己嫌悪による男性性の否定がアメリカでは一九六〇年以降進み、しかしそれでは問題は解決せず、別の問題が生じていたとブライは診断する。一九九〇年、ロバート・ブライは『アイアン・ジョンの魂』(本稿で参照したバージョンの邦題は野中ともよ訳『グリム童話の正しい読み方』)という書物を発表し、男らしさを擁護する「ミソポエティック男性運動」の第一人者となった。

     ここで言う男らしさの擁護は、WWⅡ的な意味での「男らしさ」「マッチョ」への回帰ではない。ブライは「男たちのどこがそんなにひどいのか」と問い「地球資源の、このむやみな開発、女性への蔑視や侮辱・民族同士の争いを煽る妄想」(p11)を強く批判する。「ある男は、歴史上の過去を、圧倒的な父権制を、狂気じみた戦争を、長期にわたって押しつけた厳格さを恥として受け止めている」(p392)ということを、前提にしている。ブライは元々海軍におり、後にベトナム反戦の詩で有名になった詩人である。だから当然、戦争につながる男性性を肯定するのではない。だけれど、男性性を全否定するのではなく、部分的に回復することで、調和した人間になることを彼は提示する。

     そのロールモデルとして提示するのが「ワイルド・マン」である。それは「野蛮人」ではない。「野蛮なやり方というのは、人の魂も、地球のことも、そして人類全体をも傷つけてしまうもの」であり、ワイルド・マンは「受けた傷について、禅僧のように、あるいは、シャーマニズムの導師や、そう、森の住人のように、心を砕き、調べようとする男を言うのである」(p12)。つまり、ブライの提示する回復された男性像は、日本における「男性性から降りた」男性像と極めて近しい。

     ブライは、男性が「女性の歴史、女性の豊かな感性を知る」につれて、自分の中にある「女性的側面」に気付いたことは素晴らしいことで、内なる「『女性的』なもの」(p18)を歓迎することが重要だと言う。地球を傷つけず、戦争も嫌い、母親や恋人にも喜ばれる「ソフト」な男性たちを基本的に評価しつつ、それだけではまだ足りない、「エネルギー」「バイタリティ」がないという問題が出てきているとし、男性性の部分的な回復を謳う。

     ディスカッションすると五分で泣きだす、「寛容」であるが結婚生活や男女関係で意志や欲望を示すことができない。「精彩がなく、気力が減退し、孤独感に見舞われ、枯渇してしまう」(p54)。若い男性と接する機会の多い人なら、現代の日本でも同じことが起こっていることが分かるだろう。

     このように、極めてネガティヴな「男らしさ」による自己嫌悪や否定から、男性を救い出そうとするのが、ブライの意図である。戦争や競争や核兵器や支配や暴力ではない形の「男らしさ」を救い出そうとしていると言っていい。

     そして、詩や民話や神話をリソースにしているが、背景にあるのはアダルトチルドレンやトラウマの理論である。「内なる子供」や「魂の傷」という概念がくり返し登場する。暴力、親のアルコール依存、母親からの性虐待、戦争に行ったトラウマ(ベトナム戦争の帰還者たちのひどい生活が本書の念頭にある)などにより、アルコール依存になったり暴力や支配を繰り返す男たちの惨状を改善するためのリソースとして、ブライは神話や民話をリソースとして用い、「男らしさ」を提示している。たとえば自他の「境界」を引く存在を「戦士」と言うが、それは戦士だからと言って戦争や民間人虐殺とは結びつかないのであり、全否定するのではなく、自分を守るのだ、ということを書いている。

     最低限の自我の境界すら守れないような深刻な虐待を受けた男たちは、自分を守るための「内なる戦士」すら邪悪なものだと思っていることがある。その考えには、第二次世界大戦の影響も大きい、「現実の戦士は、機械化した戦争の到来とともに、職業としての兵士に風化してしまった」「戦士のうち、残されていたものはことごとく、ドレスデン大爆撃、広島と長崎に落ちた原子爆弾、B-52によるベトナムの水田への爆弾投下で、消え去ってしまった。/機械化され非情な破壊をともなう現代の戦争は、闘争心を不名誉なものとした」(p268-269)。「『女は戦争を憎むが、戦士を愛する』と、よく言われる。だが、これももう真実ではない」(p269)
     言ってしまえば、文明の進展、科学の発達による戦場の機械化と、組織的な虐殺、大量破壊兵器こそが、「男性性」を極めてネガティヴなものにし、かつて男性にあった名誉や尊敬を失わせるようになってしまった。それは二〇世紀が「男性性」に与えた集合的な傷であり、トラウマだとも言える。六〇年代のカウンターカルチャーや、その影響を受けたフェミニズムなどの議論も、その集合的な傷への反応だと理解することができる。

     もうひとつ、男性性にダメージを与えたのは、産業革命であり、子どもたちのいる場所と働く場所が分離されたことだとブライは言う。「父親が家に持ち帰るいつも何かに怒っているムード」「長いあいだ辱められ、感覚が麻痺してしまい、もうどうしようもないや、という感じ」(p173)に影響を受け、「父親が、ますます脆弱、卑屈、貧弱になると、暗黒勢力の手先にすら見えてくる。映画『スター・ウォーズ』の、『ダース・ベーダー』」(p176)のように感じられ、そこにある悪魔的な暗さ、つまり「ワーカホリック、弱虫、屈従、孤立、アルコール中毒、耽溺、虐待、逃避、臆病」(p179)を子どもたちは嫌悪するようになり、「男らしさ」は悪いイメージのものになっていく。筆者の実家もこういう感じであった。

     ブライは、「通過儀礼」と、兵士たちが戦場に行きトラウマを負って帰って来ることなどを結びつけて論じている。トラウマと解離が「男性性」と結びつくという点においては、前回論じたことと似ている。ブライは、若い男性を大量に生贄にする社会は辞めるべきだと訴える。その上で、ブライは「傷」をポジティヴに読み替えようとエンパワメントしているように見える。

     傷について、ブライはこのように言う。「殴られ、頬を平手打ちされ、悪口雑言で罵られると、傷跡が残る。自尊心を引き裂かれ、威厳を損ない、熱中する心に水をかけられ、自信を毒され弱められ、魂に憂鬱な影を投げかけられ、肉体のイメージを侵食され、劣悪化する。こんな打撃は、ことごとく当人を汚してしまう。当人はダメージを受け、深く深く傷ついてしまうのである」(p68)。その傷の意味を、ポジティヴなものに本書は変えようとする。「男の傷はどこにあるのかを教えるのだ。そして、そこにこそジーニアスが存在すると教える。傷がその人の心の、どこに現れたっていい。たとえば、アルコール中毒の父親、恥ずべき父親、恥ずべき母親、虐待する母親からの傷。また、孤独、障害、病苦からくる傷であろうと、かまわない。その傷があるがゆえに、私たちが社会におおいなる贈りものをすることができるのだから」(p84)。これらの記述は、「トラウマ後成長」という概念を思い起こさせる(スティーヴン・ジョゼフ『トラウマ後 成長と回復』)。

     「男性性」に問題があると感じるのは、二〇世紀の歴史を知る者にとって当然のことである。しかし、男性性を捨てようとする試みの実践の結果も芳しいものではないとブライは考え、女性性を持った男性たちが男らしさを回復することで、両性具有的になることを肯定している。

     傷を癒すのは、「メイル・マザー」つまり、「母親的な男性」の役割だとブライは言う。そして、「傷」は、男性の「子宮」だとも表現される。それは、宮地尚子が、トラウマを負うことは「女性性」と関係すると論じていたことと通じ合う。そのような両性具有的な男性性をブライは提案しているのだと考えていいだろう。

     そして、男性が誇りや自己肯定感を回復するために、アドレナリンや競争なども否定せず、それを戦争や核兵器や虐殺や家庭崩壊などと結びつけない形で満足させるものとして、詩や芸術、儀礼などを提案している。儀礼空間の中で美を誇示する、見せびらかすことを男性に示唆している(祭りで神輿を担ぐ男性には、そういう部分があるだろう)。宮廷における舞踏会や、詩や音楽の会を想像してもらえば、それが分かるだろう。それらにより、性欲なども、性暴力や性支配などでネガティヴな印象になりがちであるが、否定せず受容し肯定し、そのポジティヴな側面を男女ともに感じられ、聖なるものすらあることを感じられるようになることを提案している(★1)。この辺りは詩人らしい提案なので、手法は他の様々なものがありうるだろう。

     環境破壊、戦争、過度な競争主義、冷酷さ、支配、暴力などの「男性性」の暗い側面によって引き起こされてきたかもしれない二〇世紀の惨劇を理解し、それを恥じ、引き起こさないようにする努力により、男性たちの中には、ますます陰惨な状況になっていく者がいる。たとえば戦場で苛烈な殺戮に従事し見聞きした者たちである。その自己嫌悪や否定は、行き過ぎると暴力や虐待を起こしたり、ファシズムに救いや解放を求める心情を生みかねない。そうならないようにするために、「男らしさ」の一部を救い、「両性具有」的に、詩や儀礼や、男同士の助け合いや、男女の理解や愛によって破壊や悪魔的な方向に向かわない形で、男性が男性であることを誇れるような、穏やかな方向を希求するという点において、ロバート・ブライのミソポエティック男性運動は、コンネルの意見に反し、再評価する価値がある。男性も女性も傷つき疲れ衰弱し否定的なイメージに憑りつかれやすい現在だからこそ、両者を元気にさせ、自分たちを受容し、肯定し、賛美し、賞賛し、しかもそれが肥大化したナルシスティックなナショナリズムやファシズム、民族主義や差別、戦争などに繋がらないような形のそれを探る方向性は、悪くないだろうと思う。筆者自身が文化芸術の世界で生きているからかもしれないが、その方向に希望を託したいという心情がぼく自身の中にはある。

     時代遅れになった「男のロマン」と、オタク趣味

     最後に、このようなブライの男性性の擁護という議論と似たことを、現代日本におけるオタク趣味の問題と繋げて考えた、辻泉の「なぜ鉄道は『男のロマン』になったのか」(『男らしさの快楽』所収)を参照し、次回以降の議論に備えようと思う。

     辻泉は、なぜ鉄道に対する趣味が日本では強いのかを考え、そこに遅く近代化した社会のロマンが関係していると分析している。「男性だから本質的に『ロマン』を追うというよりも、とりわけ後発的に近代化を成し遂げた社会においてこそ、むしろ『ロマン』を追うべきものとして男性性が形成されてきたという歴史的な事実」(『男らしさの快楽』p230)があると。

     ロマン主義の本質は「先進的な近代化や徹底した合理主義に対する愛憎半ばした態度、すなわち羨望と反発の入り混じった態度」(p229)であり、アイザリア・バーリンの以下の言葉を引く。「外来のもの、見知らぬもの、外国のもの、異様なものを目指すあらゆる試み、日常生活の経験的な枠組みから抜け出るあらゆる試み」であったと。つまりそれは、今ここから抜け出し、別の世界を希求する心情と結びついており、それは後から近代化し、猛烈に異なる社会に向けて変化していく社会の中で少年たちに普及されがちなイデオロギーであった。変化し発展し進歩していく先に、何か痺れるような「すごいもの」があるはずというイデオロギー・美学が「ロマン主義」だと言っても良い。『銀河鉄道999』などを考えればよく分かるだろう。ドイツでは「ヒトラーユーゲント」、日本では「少年雑誌」がそれらロマンや理想主義を鼓舞し「ともするとファシズムに繋がりかねないものであった」(p230)と辻は言う。既に述べたイタリア・ファシズムの分析とも通じるだろう。

     「後発的な近代化の中で性別役割分業が徹底化され、軍事や科学に『ロマン』を託すものとして男性性が形成されていった」(p238)。しかし敗戦により、軍隊が解体され、戦闘機や軍艦などはロマンを託す対象ではなくなってしまい、そこで鉄道が「男のロマン」を託す主役に躍り出たと辻は分析している。敗戦から復興の中での「中心的なインフラでありシンボル」(p239)が鉄道だったからであり、それはナショナル・アイデンティティやプライドとも結びついていた。たとえば新幹線は「戦後日本の輝ける未来」(p239)というロマンを感じさせるものであった。

     一九七〇年以降、このような重工業的な「男のロマン」が急速に実用性をなくす社会、ポストモダンやポスト工業社会と呼ばれる社会に移行し、その結果、「男のロマン」にこだわる趣味は、急速に実用性や社会的意義を失っていく。つまり、「男性性よりも、社会的変化の方が早かったために取り残されてしまったようなもの」(p240-241)である。一九八三年生まれで、SFや、ロボットなど重工業が登場するアニメなどを論じてきた筆者には、その感覚がよく分かる(筆者は北海道で生まれ育ち、父が電機メーカーなので、そのリアリティは単純に戦後日本史的な時系列とは重ならないのだが)。オタク文化・オタク趣味の中にはそのような側面が確かにあり、宮﨑駿『風立ちぬ』などは、まさにそのことを主題化していたと言っていいだろう。

     では、社会の変化の中で時代遅れになったロマンや価値観や男性性と結びついた趣味であるオタク文化はなくした方がいいのだろうか。進歩主義的で規範的な価値観を持つ人々は、そのように啓蒙的に裁断するかもしれない。しかし、辻はそうではない立場を示す。「『男のロマン』をうまく組み込んだ、新たな社会を構想することが求められているとはいえないだろうか」「いわばIT産業が鉄道を凌駕する時代になっても、『男のロマン』が役に立つような『方向転換』はあり得るのではないだろうか」(p242)と彼は問う。

     実際、『ゴジラ』の中では時代遅れになったとされる価値観が叫んでおり、宮﨑駿作品も戦後日本の発展の中で置き去りにされかけている価値の重要性を訴えかけるようなものだった。『宇宙戦艦ヤマト』などは、まさに戦争中の戦艦大和へのロマンを戦後民主主義の社会の中で蘇らせるような側面があった。『宇宙戦艦ヤマト』によるアニメブームがなければ、後の日本のアニメ文化は今のように発展していなかっただろうし、海外に大きな影響力を持つ巨大な産業となることもなかっただろう。「時代遅れ」だったものが文化の中で生き続け、役に立つような「方向転換」が起きるようなことは、実際にあるのだと筆者には思われる。

     オタク文化は、ファシズムとの関係が頻繁に議論され(大塚英志)、ナショナリズムとの関係も取り沙汰され(倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』)、差別と結びつけて批判され(野間易通)、最近では女性嫌悪や差別と結びつけられて批難されることが増えてきているが、日本のオタク文化の中にある「遅れたもの」「敗北したもの」への志向という側面を考えると、その批判や警戒には一理ある部分は確かにあると思われる。しかし、それを単純に批判し修正し啓蒙することだけで問題が解決しなさそうだというのが、昨今のアメリカや日本を見ていて、思われることである。であれば、それを擁護しながら、形を変えて、より良い方向性を目指すように修正することも出来るのではないか。ファシズムに向かいかねない、時代遅れになった「男らしさ」の希求の受け皿・ガス抜きであることを超えた、積極的な価値もそこに見出せないだろうか。

     次回、二〇世紀の惨劇や現在も続く深刻な人類史的な危機を理解し、それを克服することを目指すということを前提とし、旧来のマッチョイズム的な男性性を肯定することなく、女性性を理解し受容しつつ、それでも「男らしさ」を部分的に肯定しながら、新しい両性具有的な男性性に向かっていくという今回の問題意識を引き継いだ上で、現代日本のオタク文化にはどのような可能性があるのかを検討していくことにしたい。


     ★1 私たちも、素敵なヨーロッパのお城での舞踏会で煌びやかな恰好をして恋に落ちた男女が行うロマンスと、戦場で村を制圧し虐殺した後に女性たちを残虐にレイプし監禁し性奴隷にしたり、家庭の虐待から逃れた家出少女を言葉巧みに騙し監禁し売春させ搾取するのとでは、どちらも同じ「性」であるが、印象は全然異なり、後者の事例からは、性欲にネガティヴな印象がどうしても形成されてしまうだろう。

     女性性においても、優しく穏やかで受容的で満たされた聖なるイメージもある一方で、現実には頂き女子りりちゃんのように狡猾で搾取する女性も、子供を虐待し風呂で水責めを何年間もし続ける母親もいる。ブライも言う通り、男性も女性も、男性性も女性性も、父親も母親も、性にも、明るく肯定的で聖なる側面と、暗く否定的で悪魔的な側面の両方があり、我々はしばしばそのイメージに振り回されてしまう。

     特に、現在は、後者を目にする機会に事欠かない時代である。性暴力などの報道に男性が反発したり否認してしまうのも、このようなアイデンティティやセルフイメージのネガティヴ化とそれに伴う精神的な症状や状態が耐え難いのだろう(同様のことは、戦争犯罪などを聞いた際のナショナル・アイデンティティにも、前回記した女性の加害を読むときの女性にも生じるだろうし、消費者としての性的消費が性加害・性暴力に加担し温存したことの責任を否認するがために陰謀論を捏造したジャニーズファンたちにも起きているだろう)。

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。