フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
第9回

男性の(性)被害──「男性差別」「司法の女割」を考える

2025.06.23
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
  • Ⅰ 不可視化された暴力――男性の被害と、女性の加害

     今回は、ネットで広まっている「男性差別」「司法の女割」などの議論を検証する。日本のマノスフィア界隈では、女性の暴力や虐待に対する過敏な反応が見られる。弱者男性論インフルエンサーたちの中には「弱者男性が生まれるのは母親の育て方のせいだ」という主張をしており、自身が虐待を受けたことや、虐待サバイバーであることを示唆している者すらいる。女性が子供を殺してしまったときに情状酌量などを受けやすいこと、女性のDVは認定されにくいこと(これらは「女割」と呼ばれる)、男性を保護する施設などが乏しいことなど(これが「男性差別」と呼ばれているものの一部である)が毎日SNSで激しく非難されている。これはミソジニーや反フェミニズムだと見なされることがあるが、どうなのだろうか。

     虐待を受けた者や性被害を受けたものには、特有の後遺症が発生することが分かっている。その加害を行った属性全体に対する恐怖や嫌悪が生じ、回避の症状などが起こることもある。属性全体が同じ性質ではないのに同じようなものにどうしても感じられる場合もある。それは、女性の性暴力やDVなどの被害者にも同様に起こることである。そしてそれがミサンドリーに近い形になり、SNSでの発露が罪のない男性にまで範囲攻撃に巻き込んでしまうこともあるだろう。その中に、女性からの被害を受けた者がおり、彼もまた女性全般に過度に一般化して自己防衛的な憎悪をぶつけた場合、その範囲攻撃に当てはまったトラウマを持つ女性は脅威を感じ、攻撃の応酬が延々と続いて尖鋭化していくというメカニズムがあるのではないか。

     今回は、SNSでの「男性差別」「女割」を主張する人たちの主張を検証しつつ、トラウマやPTSDなどの観点からネット上での男女論を考えていこうと思う。なお、今回は虐待や(性)暴力などに多く触れていくため、フラッシュバックのリスクがある方はお読みの際にご注意いただきたい。残虐な行為についての描写や説明をすることもあるが、それは肯定的に言及しているのではなく、このような行いがこの世からなくなることを願ってのことである。

     男性の(性)被害──不可視化された被害

     男性への性虐待や性被害が「なかったこと」になっていたことを、ジャニー喜多川の事件で多くの日本に生きる者が直視せざるを得なくなった。児童期に性虐待を受けたと一〇〇〇名近くが被害を申告し、中には自死した者もいる。この性加害は、既に一九六五年に民事裁判の中で言及されていた。一九九九年には『週刊文春』に記事が掲載され、二〇〇〇年には国会で質問までされていた。二〇〇四年には『週刊文春』とジャニーズ事務所との民事裁判の判決で性加害を認定している。そうであるにも関わらず、テレビ局、ファンなど多くの者はこれを否認し黙認し続けた。男性の「性被害」は、「なかったこと」になりやすいのだ。

     以下、宮﨑浩一・西岡真由美『男性の性暴力被害』、アンデシュ・ニューマン『性的虐待を受けた少年たち ボーイズ・クリニックの治療記録』、リチャード・B・ガートナー『少年への性的虐待』、アン・シルバース『女性から虐待されている男性へ』、宮地尚子編『トラウマとジェンダー』、宮地尚子『トラウマにふれる 心的外傷の身体論的転回』『トラウマ』、グループ・ウィズネス『性暴力を生き抜いた少年と男性の癒しのガイド』、などを参照して言うが、とにかく男性の(性)被害というのは、社会的タブーになり、議論にならず、本人も認めたり公にしたり治療を受けようとしない傾向がある。その理由は「男らしさ」の規範であり、我々が「男はこうである」「女はこうである」と考えるジェンダーバイアスのせいである。特に性暴力の場合、男性が加害者で女性が被害者であると考えるバイアス・神話が大きく左右しているという。

     既に女性兵士のところで検討した通り、「男性=攻撃的」「女性=平和的」というのは、統計的傾向に過ぎず、ケアをする男性もいれば、戦闘行為に従事する女性もいる。同じように、攻撃的で暴力的で支配的な女性も一定数いる(ダークな性格の割合から推定して、男性と同数かそれより少ない程度の数で存在している)。ジェンダーバイアスにより不可視化され、被害や傷つきを否認されることは、二次被害をもたらし、社会や人々への不信感を増大させる複雑性PTSDの後遺症を齎す。フェミニズムやリベラリズムへの憎悪がここに端を発している者もいるのではないかと思われる。これがバックラッシュやミソジニーと複合することもあり難しいのであるが、このような「真に同情に足る傷つき」に関しては共感と理解をし、インセル・ミソジニー的言動への批難とは切り分けて対応する必要があるのではないか。

     男性の性被害が不可視化され、深刻な後遺症を負った「弱者」が存在しないことにされやすい理由について、『男性の性暴力被害』では「男性の性暴力被害の想定されなさや見えづらさには、やはり社会的な力がフィルターのように」(p8)影響しているのだと推測されている。さらに、社会の性差別やそれに対する戦いも、複雑に影響する。女性差別が存在し男性に優位なこの社会で「男性の性暴力被害を取り上げることは、『男性も被害に遭っているのだから、女性だけの問題じゃない。男もつらいのだ。男がいつも加害者とは限らない!』といった、男性の特権性を見えなくさせる詭弁につながるのではないかと警戒する人もいるのではないでしょうか。残念なことに、このような言葉が男性の性暴力が可視化されつつある中で実際に使われています」(p23)

     男性の「被害」はこのように、バックラッシュにも用いられ、それを警戒するあまり、実在する深刻な被害がフェミニストの一部から否認され軽視されることになる。これが、フェミニズムへの憎悪が生まれるメカニズムの一端であろうと思われる。

    「加害者は男性の場合、女性の場合あり」(p28)、その行為の残忍さ、被害や後遺症も極めて深刻なものであることが多い。一貫してこれらの本が言うには、男性の被害と女性の加害は、否認され、軽視され、研究も少なく、法的にも制度的にも支援が少ないことだ。性暴力は、二〇一六年までは法的に男性の被害者が想定されていなかった。性暴力の加害者は男性であり、被害者は女性であるという「神話」が支援の現場などでも強固に存在していることを、これらの本は報告している。

     とはいえ、だからフェミニズムや女性が敵である、と考えるのは、おそらくは誤っている。男性の性被害・虐待などの被害の「現実」に気付くのは、カウンセラーなどの臨床の現場であり、つまり「ケア」をしている職業の者が多いが、日本で男性への性暴力やトラウマの問題をリードして研究してきた宮地尚子や、『女性から虐待されている男性へ』を書いたアン・シルバースは女性であり、フェミニズムに親和性の強い人々である。トラウマ、PTSD、複雑性PTSDを、戦争だけではなく日常における(性)暴力や虐待などにまで使える概念に鍛え上げたのも、ジュディス・ハーマンら、女性やフェミニストの貢献が大である。彼女たちに「バックラッシュ」に加担したり、フェミニズムを攻撃しようとする意図はおそらくないだろう。政治的議論のエアポケットに落ちて不可視化されている現実の苦しみを、臨床ゆえに直面せざるを得ないことが、これらの議論を導いているのだろうと思う。

     では、どのぐらいの数の被害者がいるのだろうか。これが「性暴力」などの定義が曖昧なこともあり、数字のブレがものすごく大きいので、詳細は各自検討して欲しいのだが、アメリカの場合二〇一五年にCDCが行った調査では、「2.6%のアメリカ人男性が生涯にレイプ未遂・既遂の被害」、「7.1%が挿入させられる被害の未遂か既遂」、「18歳未満の男性の6人に1人が性暴力被害」に遭っているという調査もあるという(p39)。日本の場合、令和二年の内閣府・男女共同参画局の「男女間における暴力に関する調査」で「無理やりに性交等をされた被害経験」があるのが、1%(女性の場合は6.9%)。性暴力は暗数が、特に男性の場合はより多いが、メタ分析をすると「男性において何らかの性暴力被害は20~30%、挿入を伴う、いわゆるレイプで0.41.5%ほどとまとめられています」(p42)とのことである。

     『性的虐待を受けた少年たち』によると、国際的な研究では「子ども時代に何らかの性的虐待を受けた人の割合」(p47)は女性が1530%、男性は515%ほどである。Fergusson&Mullenの『Childhood sexsual abuse, an evidence based perspective』によると、男性被害者の「およそ二〇パーセントは女性から虐待を受けている」。彼らのクリニックのデータでは、「少年被害者のうち一〇パーセントが女性から虐待を受けていた」(p49)。少年への性的虐待者の五分の一、子どもへの性的虐待の加害者の一〇パーセントが女性であるという(p98)。これがあまり知られていないのは「女性による虐待が告発されにくい、あるいは否認されやすいためであると考えられる」(p99)

    女性の(性)加害

     少年への性暴力で圧倒的に加害者として多いのは男性である。そして、女性の性暴力被害者の方が圧倒的に多いのも事実である。その前提の上で、女性による性虐待に注目したい。それは自分の息子になされることも多く、家庭で密室であるが故に長期化し残虐化もしやすく、極めて深刻な後遺症を与えている(凄まじい虐待の詳細をここに書くことはしないので、各自読んでいただきたい)。

     『性的虐待を受けた少年たち』は、女性による性的虐待を多くの者が理解することが難しい理由を「男性が虐待や裏切り、そして衝動的行動をとることにはなじみがあるが、女性が同様の行動をとりうるという事実は、私達のもっとも深い心性と観念をくつがえしてしまう」(p97)ことにあると述べている。「母親あるいは女性は子どもにとって最大の保護者であり、究極の慈愛に満ちた存在である。母性は社会に最後に残された砦ともいうべきものであり、私たちはそれが崩壊するのに耐えられないのだ」(p97)

    「女性のセクシュアリティ、女性的な優しさに対する私たちの思いこみである。私たちは、無力で無垢な子どもたちの安全と安心を保証するために、女性あるいは母性は人間社会の要であるべきだという理想を抱いており、その理想をなかなか手放すことができない」「女性による子どもへの性的虐待は社会的に構築された女性像の許容範囲を超えているために想定外のこととみなされ、私達の精神に大きな不安をもたらす。それゆえ、私たちはその事実を否認したり別の説明を探したりして、自らの世界観を安定的に保とうとするのである」「このような姿勢が、法廷での女性虐待者に対する判断にも反映されている。女性虐待者に対する判決では、男性虐待に比べて精神治療が提供されることが多い」(p100)。「母親から性的虐待を受けていた被害者の治療に際しては、虐待者が母親であるというだけで子どもへの害が否認されたり軽視されたりすることがよくあるという」(p104)。これは「司法の女割」や、「かわいそうランキング」などとネットで言われている事態に相当するだろう。

     しかし本質的な問題は、フェミニズム(だけ)ではなく、「男らしさ」「女らしさ」に関する社会のジェンダーバイアスであろう。それらの多様性を社会が認識し「男性=加害者=暴力的」「女性=被害者=優しい」などのステレオタイプを放棄し、ありのままの現実をそのまま直視できるように社会を変えていくべきであろう。それは、男女対立やミソジニーやフェミニズム批判に拠らない方法で実現可能なのではないだろうか。

     女性から男性への暴力や虐待

     では、性暴力ではない形の、女性から男性への虐待についてはどうだろうか。「男女共同参画白書 令和6年版 」によれば、「結婚したことがある人の25.1%、性別でみると女性の27.5%、男性の22.0%は、配偶者から暴力を受けたことがある」「そのうち10.7%、性別でみると女性の13.2%、男性の7.2%は何度も被害を受けている」。Yahoo知恵袋などを見ると、その具体的な実例には事欠かない。警視庁の「配偶者からの暴力相談等受理状況」(二〇二五年六月五日)では、「女性からの相談が7,133(77.1パーセント)で、男性からの相談は2,121(22.9パーセント)」。最高裁判所事務総局の「令和4年司法統計年報 3家事編」での裁判に離婚を申し立てた者の動機は、「暴力を振るう」が総数640件中、男性87・女性393、「精神的に虐待する」が男性115・女性332である。女性の被害の方が圧倒的に多い現実があり、その改善が必要だということに異論は全くないが、男性の被害も無視できないほど多いことも分かる。法律や賃金などによって男女の力関係が平等に近づいていけば、力関係の問題として起こるタイプの支配や暴力や虐待も増えていく(生物学的に男性と女性の性質が決まっているわけではない)のだと推測される。とすると、拡大するその問題にフォーカスし解決していく必要はあるのだろう。

     日本よりも遥かに男女平等が進んだアメリカの事例だが、アン・シルバースは、女性による男性への虐待を臨床の立場から触れながら、以下のように文化やジェンダーバイアスの問題を指摘している。「女性が男性を虐待すると認めることは、女性が受けてきた虐待への認識を弱体化するものだと主張して、この問題を厳しく封じ込めようとする人もいます」(p19)「私達は、いろいろな意味で反男性的・親女性的な文化の時代に生きています。こうした固定観念や偏見によって、女性からの虐待で男性が苦しむこともあり得るのだという認識が妨げられます。女性から(肉体的、精神的、経済的に)傷つけられた男性を思いやることすらできなくなっているのです」(p21)。「男性は女性よりも危険だと思われる傾向があり、男性は悪いことをし、女性は無実だと見なされます」「私達は悪いことを男性のせいにしがちです。逆に、女性が悪いことをしても許しがちです。男性が『悪いこと』をするのは、そもそも男性が『悪い』からで、女性が『悪いこと』をしても、正当な理由があったのだろうと推測します」「これは男性にとって二重拘束となります。男という者は自分の行動に責任があると同時に女性の行動にも責任があるというわけです。女性が何か悪いことをしたら、それは男性のせいに違いありません」(p22)「女性の行動を許容する現象は、女性を無能だと決めつける長年続いた固定観念の残留物かもしれません。女性は理性的でないし、弱くて精神力もないので、責任を負わせることができないというわけです」(p23)

     女性による男性への虐待を想像しずらいのは、力の差があるので、男性が被害に遭い続ける状況がないと思ってしまうからである。しかし、それは現実の人間に対する想像力があまりにも足りない。女性による男性への虐待や暴力は、精神的な支配や関係性の操作などと組み合わさることで破壊的な力を持つ。そのような支配性や操作性を持つ者の数は、ダークな性格を齎すパーソナリティ障害の疫学的なデータからすれば、女性でもそれなりの数いる。筆者はこれを身をもって経験した。経験した本人ですら理解が困難であり、話したときの反応からすると、経験したり身近で見たことのない人には、そのような人がいることは脳が受け入れがたいことのようであった。

     レイチェル・シモンズ『女の子どうしって、ややこしい!』などが明らかにしている通り、女性の暴力性は、直接的な有形力ではなく、関係性や情報を用いた形で発現されやすい。虐待の場合、「侮辱」「支配」「罰する」ことを恒常的に続け、累積的な効果として精神的に支配・洗脳状態に置いていくことが多いと、アン・シルバースは書いている。「虐待の主な目的は支配です。言葉や口調や身振りなどを駆使してパートナーを操ったり、支配したりすることができます」「人は一瞬にして、あるいは時間をかけて相手を疲弊させたり、条件づけをしたりすることによって、支配することができます」(p48)。そして、相手を精神的に支配するために「泣く」「責任を転化する」「か弱さ」「無力さ」を装う、「誘惑する」などが、おそらく男性による虐待とは異なる特徴であろう。さらに、子どもを人質にしたり、精神的な不調で自死を仄めかしたり受難者を装ったり、虚偽の告発をするなどで相手を心理的に支配しコントロールするタイプの「虐待」も特徴的である。注意が必要なのは、これらひとつひとつにチェックリスト的にあてはまるだけで「虐待」になるわけではなく、複数を長く深刻に度を越して行う場合に虐待になるということである。

     具体例として、「延々と繰り返される非理論的な議論」(p62)を仕掛け、相手を疲弊させて支配するというもの、「彼女のせいであっても、自分のせいにされる」(p53)こと、セックスを「支配」「屈辱」「懲罰」を与える道具として用い「支配」すること、セックスで誘惑し罠にかけること、物を買わせること、わざと避妊せず妊娠すること、セックスを餌に焦らし続けること、「レイプや性的虐待をされたとうそをつく」(p82)ことなどが挙げられる。これらが暴力・虐待・搾取・支配であると認識されているが、日本ではそのような認識はまだ普及していないのではないだろうか。

     また、「経済的虐待」もある。財産を盗む、クレジットカードを乱用するなどは分かりやすいが、「自分の欲しいものを買わせる」「家計を支配する」「もっと稼ぐように要求する」「家計に貢献するのを拒む」「所有物を破壊する」(p85-86)なども挙げられる。男女同権になっても「女性に有利な不平等な権利に、今でも必死にしがみつく女性も多いのです」(p86)とアンは言う。これは、男女の金銭や権力が平等に近づいていくことと意識や行動の変化のアンバランスであり、日本のデートで奢るか奢らないか論争とも通じるものであり、あるいは夫のコレクションを妻が破棄するなどでSNSなどで問題になることである。アンの本ではそれが「虐待」だと名指されている(繰り返すが、これらひとつひとつがあれば即虐待であるという判定ではなく、虐待的・支配的な性質のダークな女性が、これらの手を駆使し、その累積として凄まじく陰惨な状態が発生するのである)。

     身体的虐待も行われる。男女に力の差はあるが、不意打ち、物や武器を使う、睡眠中や運転中などに攻撃する、(男性が有形力を行使するとDVなどになるので)「相手が反撃しないことを考慮に入れる」などによって、女性からの一方的な暴力が振るわれ続ける状況が生まれる。筆者も、座っているときに後ろから瓶で殴られ、包丁を突きつけられ、睡眠が取れないように喚き続けられたことがある。「睡眠のはく奪はよくある拷問の方法です」(p114)「虐待を行う人は、しばしば、明確に考えられなくなるトランス状態に対象者を陥れることがあります」(p178)。それが何日も何日も、何週間も何か月も続いた。殺人未遂だと思うが、何度も一一〇番し警察を呼び、生活安全課に相談しても解決せず「引っ越せば?」しか言われず、逮捕にも解決にも動いてもらえなかった。しまいには、自分自身が契約し家賃を払っている住居から逃れ、その場に権利もない人間が居座り続けるという状況になったが、それでも逮捕したり退去させるようなことは出来なかった。何故、ぼくは自分が契約し権利のある自宅を、権利のない人間が占拠し、包丁や瓶を用いた暴力による殺人未遂の被害に遭っているのに、逮捕や法的な対処がなされないのか、本当によく分からなかった。よく女性の被害を警察が軽視しているという意見がSNSであるが、それは決して女性だけではなく、男性もそうなのではないか。被害の訴えに社会や人々が対応してくれない二次被害の苦しみや、不当だと感じる気持ち、理解されないことによる絶望や傷つきは、よく分かる。

    「恋人や夫を虐待する女性もいる。そして一部の研究者は、女性の加害者は男性の加害者と同じくらい広く存在すると主張している。この研究は、何年ものあいだ無視されてきた。男性による暴力のほうが身体的に大きな被害を生むということもその理由だが、もう1つは、パートナーによる暴力の主要な原因は『家父長制』にあるとする見方に、この主張が沿わないためでもある」(デヴィッド・バス『有害な男性のふるまい』p214)「ときに、女性が男性に加える暴行は、男性によるものと同じくらい深刻な場合がある。男性の被害者は、パートナーから殴られたり、蹴られたり、噛みつかれたり、首を締められたり、刺されたりといった被害を報告している」(p215)

     女性が学歴・経済力などの「交渉力」で上であると、浮気や不倫、夫にキツく当たるなどの行動も増えることが分かっている。上野千鶴子が問題にしてきた「家父長制」は、生物学的な性別の本質ではなく、経済や権力の問題によって構築されたものだとしたら、社会構造が変わらない限り、「リーンイン」した「男性性」の強い生物学的な女性による家父長制的な支配に苦しむ男性も当然出てきているだろうと推測される。

     「司法の女割」「男性差別」とは何か

     ダークな性質、特に演技性や操作性が強いタイプの人間は、対人操作や関係性の破壊を行うという「攻撃」「虐待」「報復」を行うことがある。「コミュニティの会員が、だまされて虐待の共犯者にされてしまうこともあります。妻の望み通りにするよう夫に圧力をかけたり、彼を貶めたり軽蔑したり、さらには、彼を避けることによって罰したりすることで、妻のパートナー支配に加担することがある」(『女性から虐待されている男性へ』p132)。そこでは、虚言や歪曲した話などが駆使される。虚言癖の人と関わったことがない人は、躊躇いもなく堂々と嘘を吐く人間がいることが信じられず、裏を取らずに信じてしまうことが多いように思う。男性が「セックス」などを餌に罠にかけられ、操作されてしまうことも起きる。「『悲嘆にくれる、か弱き女性』もまた、男性を支配し、彼の思考能力を鈍らせる手段となります。か弱き女性を悲劇から救い出すために、普段はしないようなことを、喜んでするようになるかもしれません」(p181)。これが、ネットで俗語で「チン騎士」(オチンポ騎士団)と呼ばれている人々・現象であろう。

     様々な被害者を支援する組織やカウンセラーたちが、基本的には訴えを傾聴し、「真実」として聞く姿勢は、語ることさえできないほど追い込まれ傷つきやすい被害者たちを助け、二次被害を防ぐために、とても重要であり、本当に大事な姿勢だと思う。しかし一方、ダークな性格の持ち主が、そのことを利用するケースもある。ダークな性格の持ち主は存在し、その言動も加害行為も実在しているのだが、それを批判し指摘することが、「女は嘘つきだ」などと女性への一般化になったり(そのように一般化するべきではないというのが、本連載の一貫した主張である)、本当に被害に遭った人を疑うことになってしまうので、問題化しにくいというジレンマが存在し、そのエアポケットを「被害者を装う加害者」は利用し、本当の被害者を救済するコストが上がるという問題が存在する。

     そして、「被害者を装う加害者」が、自身の脆弱性などを追求を逃れるために利用したり、対人操作に用いるケースもあるので、女性性と誤解されたそのような性質に対する憎悪も蓄積していくのではないかと推測される。

     「法的虐待」というものが存在するとアンは言う。これがおそらく「男性差別」「親権」などの議論に関係する。「法律や司法制度を利用して、パートナーや元パートナーを支配したり、侮辱したり、罰したりすることは法的虐待です。法的虐待では、警察官、弁護士、裁判官、DV被害者支援団体、さらには司法制度そのものも共犯者となり得ます。残念なことに、こうした人たちや制度が虐待を行う女性に協力してしまうことがあまりにも多いのです」「父親と子どもの関係は軽視され、男性が痣や傷を負っても警察に保護される十分な証拠にはなりません。女性の『事実』の供述の方が、男性の供述より重視されているのです」(p138)「女性が『虐待だ!』と叫ぶと、人々は耳を傾け、証拠がなくても信じてもらえることがよくあるのです。たとえそれに反する証拠があったとしてもです」(p139)。それは「偽りの情報によって司法制度を操作する」行為である。

     もちろん、「男性差別」「法的虐待」を受けていると主張する者の中に、認知が歪んでおり、加害行為を自覚しておらず、自身を被害者だと思い込んだ加害者も一定数紛れ込んでおり、バックラッシュに利用しようとする勢力も強く、議論を錯綜させている。ここは事実・現実に基づいて慎重かつ精緻な議論が必要なのである。だが、このような操作的な女性もいることも事実なのだ。

     では、虐待する女性の動機はどのようなものだろうか。それは一般に言われているようにパートナーの男性のせい(だけ)ではないし、「自己防衛」のためでもないとアンは言う。「女性による男性への虐待を、多くの人が最小化したり軽視したりするのは、女性が潜在的虐待行為をするのは、自己防衛のためだけだという思い込みによるものです」(p213)。アンは、親の子どもへの接し方、虐待を受けていたこと、いじめを受けたことなどが、虐待を行ってしまうリスク要因だと言っている。さらに、男性から虐待を受けた女性が「男嫌い」になり「彼女を傷つけた男性に対する怒りが、男性一般に向けられることもあります」(p198)と言う。これはトラウマのフラッシュバックなどに近い現象であり、本来感情を向けるべき対象ではない対象に感情を転移させて八つ当たりする「加害」行為である(過去に虐待を受けたこと、被害を受けたことは、それを行ったわけでもない者への加害を正当化しないし、免罪もしない)。性格の特徴には「低い自尊感情」があり「優越感に浸るために他人を批判する」「得意な気持ちになるために、他人を支配する」「威張ることで自分への気持ちを高める」「自己憐憫と無力感におぼれる」点があり、おそらく自己愛や自尊心、自己肯定感などに傷つきを抱えているのだと思われる。二項対立的思考を持っていることも多い。「単に意地悪なだけの人」もおり、「虐待することが娯楽」(p206-207)の人間もいる。うつ病、不安やストレス、心的外傷後ストレス、双極性障害、依存症と薬物乱用、パーソナリティ障害がその背後にあることもある。

     おそらく、ここに挙げられる個別の小さい一つ一つの事例は、多くの女性に覚えがあるのではないかと思う。それらが深刻な「加害」であると自覚したり、認識したりしにくい理由、正当化したり軽視したくなる理由のひとつなのではなのか。そこには、佐藤文香言うところの「免責の欲望」(『女性兵士という難問』)も働いているだろう。誰しも自分に身に覚えがある行為を問題化されると、自分が責められると感じ、自己防衛的に正当化しやすくなるだろう。おそらく、女性への性暴力や性加害の被害や後遺症の重さを男性が軽視してしまうのと同様のメカニズムが働いているのではないかと思われるのだ。些細な質と量であり、パートナーに余裕がある場合には、かわいい甘えで済むかもしれない。しかし、それらを尋常じゃない量と質で行う特異な人々が一定数おり、彼女たちの行為が深刻な虐待と見なされている。そして、それが不可視化・軽視されてきた[1]

     「男性差別」論の通俗化――コリン・ファレル、久米恭介など

     これらの議論や、「男性差別」としてネット上で語られる議論は、コリン・ファレル『男性権力の神話』や、ポール・ナサンソン、キャサリン・K・ヤング『法制度における男性差別 合法化されるミサンドリー』『広がるミサンドリー ポピュラーカルチャー、メディアにおける男性差別』の問題と関わるだろう。その議論は日本では久米恭介が展開してきた。

     これらの書籍において問題化されてきたのは、既に連載で論じた「ガラスの地下室」問題であり、徴兵が男性に片寄っていることなどであり、メディアなどの表象で男性に対するネガティヴな描写が女性のそれのように詳細に分析され批判されにくいこと、司法において親権などにおいて男性が不利になりやすいこと、尖鋭化したフェミニズムの一部が男性を過度に悪魔化し全責任を押し付けること、家父長制に全ての罪を押し付ける循環論法を使うこと、本質主義的に男女を考えること、ミサンドリーに強く駆られる一部のフェミニストが存在することなどの問題などが挙げられている。個々の主張は検証が必要だが、これまで書いてきたように、そのような問題が存在することを筆者は否定しない。しかし、筆者の立場は、「男性差別」を主張する彼らの立場とは微妙に異なっている。

     コリン・ファレルや、ポールとキャサリンの実際の議論では、ファレルはフェミニズムを否定しないと述べているし、ポールとキャサリンは二項対立ではなく「調和」や「対話」が必要であるという結論を『広がるミサンドリー』の中で述べている。久米恭介もフェミニズムを否定したり、保守回帰するのではなく、あくまで男性の権利「も」議論されるべきだと主張している。

     しかしネットで「男性差別」の議論が「弱者男性論壇」のインフルエンサーに参照され、これらの「男性差別」についての議論がネットで通俗化し[2]、アンチ・フェミニズムやミソジニーのような単純な図式と化していく傾向があり、それがインセルなどの議論と合流してしまっている現状がある。

     二大政党制ではない日本において、そのような文化戦争という二項対立的な図式を導入し、分断と対立を激化させ、アメリカのような内戦状態を招くメリットもないだろう。この辺りの議論にも線引きと切り分けが必要であり、「男性差別」の議論のうち妥当なところは認めつつ、ミソジニーなどは否定するという態度が必要だろう。

     『法制度における男性差別』では「女性中心主義」(p11)があると書かれているが、それはおそらく日本はおろか、アメリカでも真実ではないだろう。男性中心主義や家父長制的な男性によって犠牲にされ苦しんでいる女性は間違いなく存在しているし、構造的にはやはり男性に権力が集中し女性差別も温存されている。とは言うものの、「男性差別」として扱われるミサンドリーや司法の問題が存在しないとも思わない。つまり、一面的に「家父長制」的な支配があるわけでも「女性中心主義」があるわけでもなく、社会はまだらでモザイク状であり、権力はミクロ・マクロに複雑に入り組んでいるので、女性が犠牲になるケースと男性が犠牲になるケースの両方があるのだと理解するべきだろう。それを、男女の対立や、フェミニズム対アンチ・フェミニズムなどの図式で理解することがおそらくは間違いなのだ。

    Ⅱ 解離としての男性性

    複雑性PTSDの症状の性差

     話を(性)被害や虐待に戻そう。その場限りの性被害、長期間にわたる性的虐待、パートナーなどからの支配・虐待では、それぞれに異なった後遺症が残ることが多い。多くの場合は、PTSDか、より深刻な複雑性PTSDを発症することが多い。ここでは「男らしさ」と関連するので、性被害における複雑性PTSDを中心に、議論を進めていくことにする。

     宮地尚子編『トラウマとジェンダー』によると、「複雑性PTSD」は以下の症状を特徴とする。「感情調整の障害、自己破壊的および衝動的行動、解離症状、身体愁訴、無力感、恥、絶望、希望のなさ、永久に傷を受けたという感じ、これまでもち続けていた信念の喪失、敵意、社会的引きこもり、常に脅迫され続けているという感じ、他者との関係の障害、その人の以前の人格特徴からの変化」(p11)が起きる。それは、パーソナリティ障害、非行、性的逸脱、犯罪などと結びついていくこともある。

     性被害や虐待を受けた後の性差についての研究というものがあり、上記編著でまとめられているが、重要なキーワードは「解離」である。男性は総じて、自己に起きた被害を認知したり、相談したり、援助を求める傾向が少ない。そして、記憶や感情を封印して頑なになっていく傾向が強い。女性は泣いたり悲嘆に暮れたりすることが多いが、男性は怒りや攻撃性などの形でそれを発露してしまうことが多い。そして、「男らしさ」の混乱を来たし、自身が同性愛者(あるいは女)ではないかとジェンダーアイデンティティを混乱させ、中には過剰に「男らしさ」を求め支配や暴力を行おうとする者も出る(時には性暴力や虐待の加害者になる)。レイプによるPTSD発症率は、女性より男性の方が高いという調査もあるようだ(女性が46%、男性65%、『男性の性暴力被害』p62)

     リチャード・ガードナーによれば、性的虐待を受けた男性は「解離、孤立、フラッシュバック、性的機能不全、秘密、恥辱感、感情と行動の狭窄、激しい怒り、男らしくないことへの恐れ、同性愛者になることへの恐怖」「被害者の方が責任を感じてしまう」(p30)「権力や権威への不信」(p248)という特徴があるという。『男性の性暴力被害』では「回避症状」「過覚醒症状」「認知と気分の陰性の変化」「うつや不安」「自責感と恥辱感」「怒り」「人間関係の持ちづらさ」などが挙げられている。『性的虐待を受けた少年たち』では「学校生活への不適応、摂食障害、肥満、頭痛、腹痛、下痢、漠然とした身体痛、チック、不眠症、悪夢、フラッシュバック、攻撃衝動、事象、自殺企図、自殺願望、性的行動における問題、学習障害、強迫性マスターベーション、解離性障害、不安感」(p50)が挙げられている。性的な親密さへの忌避感、それがネガティヴなものと結びついてしまうこと、自身の身体や存在が汚いものだと思い込むことなども生じるという。

     解離としての男性性

     解離とは、圧倒的な苦痛のある経験を、自己から切り離すことである。たとえば、深刻な虐待を経験した者が、それを第三者の目線から見ているように感じるという。強烈な場合、人格に統合されず、いわゆる多重人格として一般的には知られている解離性同一性障害になることもある。「実際に起きた出来事についてもたくさん記憶を失って」「世界を現実的に捉える能力が、大きく損なわれているかもしれない」「併存する防衛的解離と、その結果」、適応のために「歪んだ現実」を作り出してしまい「世界や自分の身さえもきちんと認識できない」(『少年への性的虐待』p213)場合もある。

     解離の症状の中で、男性で目立つのは、感情の抑制だという。男性の被害者たちの多くはクリニックやカウンセリングでも、被害の経験をなかなか言おうとせず、感情を抑制しており、その経験を語るときも抑揚なく機械的に話し、感情そのものを恐れ、過度に「知性化」する傾向があるという。「慢性的に解離に陥っている人々は、多くの感情を感じることができぬまま生活し」(『少年への性的虐待』p213)ているという。このような、感情や辛さを否認する性質は、一般的に男性にあるとされている性質である。PTSDにおいても、「失感情症」は男性の方に優位に多いという(『トラウマとジェンダー』)。

     解離や「失感情症」は、「男性性」の結果なのか、原因なのか。男性の社会化のプロセスの通過儀礼などにおいて「ほぼ世界中に共通する社会化の過程が、男性に感情を言葉に表せないアレキシサイミア(失感情症)をもたらすことを記述している」(『少年への性的虐待』p99)とガードナーは言う。宮地も「まるで感情の解離が男性には社会的に推奨されているようである」(『トラウマとジェンダー』p19)「現代の、男性による女性支配の問題は、男性が恐怖を否認(および解離)する、させられることが鍵となっていると私は考えている。男性は公的領域において経済競争に勝つこと、戦争があれば兵士になって命をかけることを求められる」(p20)「恐怖や不安」を表現できないのは「敵や競争相手につけ込む隙を与えるようなものだから」(p21)と、それが「男性性」の性質であることを述べている。つまりここで示されているのは、「男性性」そのものが「解離」であり、社会的に構築されているのだという視点である。たとえば戦争などにおいてそれが何故必要となり、どのように作られているのかは、既に述べた通りである。

     これは、地域の祭りで(三島由紀夫が憧れた)神輿を担いでみて痛感された。神輿を担ぐことは、肩に打撃を加え、非常に重いものを担いで叫び続け、過酷な拷問のような状態であるが、それでも興奮と熱狂とトランス状態になり、集団と一体となる高揚感があった。あれは、人工的に解離状態にさせ、火事場の馬鹿力的なものを発動させ、苦痛や疲労をマスクするモードにする訓練なのだと思う(少年マンガで追い詰められると、秘密のモードが目覚め、獣のようになることが多いが、それはこれの寓話だろう)。それは過酷で辛いが、高揚感や陶酔や、集団的熱狂による達成感をも伴う経験でもあった。

     宮地は、このようなトラウマや解離の積み重ねが、「男性性」と関連している可能性を考えている。「先史からのトラウマの積み重ねが、ひょっとしたら現代の人間の『自然』な性差をつくっているのかもしれないのである」(p12)。宮地の考えでは、ミソジニーとそれは関連している。だから私的領域で女性にいたわってもらいたいと感じ、「家でのうのうとしている」「女に恨みを持つ」「身も張っていないやつらが社会において男と同等の権利をもつなんて生意気だと思う」(p21)

     解離による感情の抑制と被害の否認と、男性性の混乱

     この「解離」「男らしさ」の性質が、男性たちに被害を自ら感じたり認識すること、人に相談すること、援助を求めることを妨げており、トラウマは慢性化する。岩崎直子は、この開示が困難で、通報率が低いがゆえに、統計に現れず、対策もされないという悪循環が存在するのだと指摘している(『トラウマとジェンダー』p73)

     その「不可視化」は、フェミニズムのせいだけでなく、「男性性」によっても起こっており、それは被害に遭った者たちも内面化しており加担しているものであるが故に、事態は複雑化していく。男性は強く、能動的で、挿入する側であるという認識があるので、起こったことが被害と認識できなかったり、否認されたり、隠匿されやすい。しかし、心身には様々な症状が現れていくことになる。それはジェンダーバイアスや、開示や援助要請のできなさ、体制の乏しさ、法や警察、PTSDの認定基準などから、支援やケアを受ける機会を逸したままであり続ける(現在では「ワンストップ支援センター」が相談を受け付けている)。社会的理解や共感などの資源も得にくい。

    「既存のジェンダー規範にもとづけば、トラウマを負うということは『女性性』が刻印されるということである」(p19)、だから「男性性」との葛藤や混乱が激しくなる。自身が同性愛者ではないかと思い悩む。虐待者が男性であった場合には男性性への嫌悪が生じることもある。女性の虐待者が男性的性質を否定し続けた結果、自身の男性性を強く嫌悪することになるケースもある。

     「トラウマの核は恐怖や無力感、人間としての脆弱性を思い知らされることである」(『トラウマとジェンダー』p19)が、その感情に舞い戻り続けることから逃れるために「自身の虐待者に同一化」し「過度に男性的」(『少年への性的虐待』p112)になろうとするケースもある。感情を表さないというジェンダー規範ゆえに、トラウマの無力感や恐怖の感情の処理に困難を覚え、感情制御が困難になり、「悲しさや恥辱、みじめさ、恐怖、孤独といった弱さを示す感情」(p113)が抑圧・否認・解離されていき、感情を味わう能力を失っていき、他者にも共感できなくなっていく。それが「怒り」として表現されるのは「怒りはジェンダー規範が男性に許す数少ない感情の一つだから」(p113)だ。そして、このネガティヴな感情から逃れるために、「権力と支配の感覚」、つまり「過度な男性性」を求めるタイプがいる(父親からの虐待を受け、後に暴力団に入った事例が報告されている)。売春をし自身に支配権があると感じたり相手を断ることで自己認識を高めようとする者もいる(女性の性被害の場合と同じである)。職場や家庭で独裁的になるという外在化をする者もいる。過剰な性行動に走る者もいる。反社会性パーソナリティ障害と診断されるようなパーソナリティになる者もいる。

     悲しいことであるが、「男性性=支配・犯す側」を回復するために、性虐待の加害者になる者もいる。それを「吸血鬼神話」として偏見を助長するのだと批判する向きもある(宮地尚子)。『性的虐待を受けた少年たち』によれば性的虐待を受けた男性のうち12%が加害者になっている。『少年への性的虐待』では、若い成人男性の加害者を調査した結果、80%近くがかつて虐待を経験した被害者であった。逆に、子どもの時に虐待を受けた者を調査した結果、その後虐待者になったのは20%ほどであり、80%は虐待者になっていなかったという。多くの者は虐待を再生産していないのは事実であるが、この数字をどう解釈するのかは難しいところである。

     「男らしさ」に過剰にこだわり、「女性的」と思われる性質――弱さやケアなど――を否定し、共感や感情を否定する者の中には、このような被害とトラウマゆえに解離状態になっている者もいるだろう。加害者が男性の場合であれ女性の場合であれ、ジェンダーには複雑な問題を抱えており、「男性性」の肯定にせよ否定にせよ、ナイーブな部分に触れることにならざるを得ないのではないかと思う。「男性性」から降りて弱さを開示し、援助要請を行い、心理療法などを受けるのが一つの解決法なのだが、それは解離で押さえこんでいた恐怖や無力感が蘇って来ることへのおそれを巻き起こす。

     ネットで怒りに基づいた恫喝や、集団で攻撃することで女性を黙らせたり、気に食わない言動を抑圧しようとするのも、このような「過度な男性性」によって、自身の無力感や惨めさを埋め合わせ、自己愛的に強い自己を感じ、そうではない弱い自己を否認しようとする心的メカニズムなのではないだろうか。

     アンジェラ・ネイグルは『普通の奴らは皆殺し』の中でマノスフィアを分析し、ニーチェと関連付けている。ニーチェは「力への意志」「超人」などの誇大化した自己を思わせる概念を提示していたが、それは現実の「近眼、精神衰弱、慢性的な体調不良、消化器の不調」「女性たちからの無情な拒絶」(p184)を埋め合わせ否認するためであった。インセルたちの特徴と言われる、孤独、鬱、悲観、絶望と、オンライン上での振る舞いのギャップも、類似のメカニズムであろう。

     「男性性」の結果として解離が起きるのか、そもそも「男性性」そのものが解離として作られているのか、それはどちらなのか分からないが、その状態における「被害」や「つらさ」は特有の問題を孕むのは事実だ。西井開が非モテ研究で言うところの、男性からのいじりなどによる傷つき体験の累積という説は、男性だけによるものではなく、男女問わない加害者によるコミュニティの内外における様々な傷つき体験の累積にまで拡張して理解されるべきなのではないだろうか。

     社会や周囲の人や「公正な世界」からの裏切り

     さて、筆者のこれまでの、noteなどの文献調査、当人とのやりとりなどを繰り返してきた「観察」から主張したいことは、ネット上で攻撃的だったり差別的言動を行っているインセルや弱者男性界隈、「男性差別」論者の中には、このような被害のサバイバーがいるのだと推測されるということである。精神疾患、障害、虐待やイジメの経験を開示している者の数も少なくない。もちろん、全員がそうではないし、だからと言って彼らを免責するべきだと言うのでもない[3]。女性の方が遥かに被害者も多く、加害者も少ないという事実を否定するつもりもないし、フェミニズムを批判したりバックラッシュを促進したいわけでもない。ただ、不可視化されたその被害を受けたものも混ざっているという事実は、認識する価値があるのではないか。そうすることは、不可視化された被害者たちがフェミニズムへのバックラッシュに吸引される傾向を減らし、男女対立を減らすことに繋がるはずである[4]

     おそらくこの問題の解決は、男性が男性性を降りるだけで解決されるわけではないだろうと思われる。「男性性」「女性性」両方にある、現実と対応していない神話を、私達が相対化し、現実や事実に対応している認識に更新する必要がある。

     岩崎直子は「男性の性被害とジェンダー」の結論部で、男性の性被害者は「公正な世界」「自分自身の身体」「周囲の人々/社会」からの裏切りの感覚を持ち、味方になるはずの周囲や社会から「『その(被害者としての)存在を認めない』との(場合によっては死刑宣告にも等しい)通告を受け取」り、「社会が被害者を無視し、排除し、責める時、その人は”社会の被害者”となる」。「性被害が“男性加害者―女性被害者”の間でのみ起こるものではな」いことが理解され、「ジェンダー規範に対する思い込みや偏見が取り除かれ」ることによって「被害者が理解や共感を得ることができ」「適切なサポートを受けることができる世の中」(『トラウマとジェンダー』p78)にしていくことを提案している。

     

[1]このような問題を「左派・リベラル」は無視してきたのだという議論が「弱者男性論壇」やSNSでは通説のようになっているが、それは事実ではないだろう。二〇〇八年に刊行された『フリーターズフリー』という、紛れもなく「左翼」系と言っていい雑誌の中で、これらの問題は杉田俊介・大澤信亮両氏によって問題提起されていた。
 杉田俊介は「性暴力についてのノート」で、かつて自分が経験した女性からの性的な被害について告白し、それが「非モテ」的な陰鬱な気分と結びついていることを示唆している。そして、それが理解されない二次被害について記し、女性たちからも理解されず「ここにありながら未だうまく名指されていない暴力、生のない暴力、女性暴力は、おそらく無数にある」「女性であれ障害者であれ子どもであれ動物であれ、率直に暴力を暴力と言える関係を作らねば、分析も言葉も足りない」(p182)と述べており、「弱者暴力」「複合差別」を早い時期から問題にしていた。
 また、大澤信亮は「触発する悪――男性暴力×女性暴力」の中で、こう予言していた。「『女性は男性のようには暴力を振るわない』という都合のいい錯覚は、見たいものだけしか見ないありふれた精神作用に過ぎない。問題は、個別的な女性暴力のケースがいかに積み上げられようと、それらすべてを『男のせい』として自己を問わない精神構造にこそある。たとえば、予想される切り返しは、『女性にそのような暴力を強いたのは男社会だ』というものだ。この安全装置を外さない限り、すべての議論が無意味になる。それに対する男性もまた、『ごちゃごちゃ文句を言われるのはうざい』あるいは『女相手に本気になるのは男が廃る』を建前として女性を尊重するが、根本的に何かを考えさせられることはなく、それはやがて『男も被害者だ。一方的に被害者面するな』という個別ケースでのバックラッシュを生み、結局、社会を変えるという根幹の主題が見失われるだろう」(p167)
 果たしてその通りになりつつあるのだが、左派やリベラルがこの問題を提起していなかった、認識していなかったというのは事実ではないだろう。SNSで主流となったポピュリズム的なリベラルや左派においては、確かにその傾向はあった。しかし、それを批判する議論は既に提起されていたのだ。――主流にはならなかったのであるが。
[2]たとえば弱者男性論インフルエンサーである小山晃弘は、2022年3月15日のXでのつぶやきで「久米泰介さんとかもそうですが、マスキュリズム左派の論客は基本的に社会構築的な世界観に立脚し、ジェンダーフリー的な未来を是とするんですよね。その気持ちは僕もわからんでもないんですが、やっぱ諸々女性関係を積むと無理だなぁ…と思ってしまう」と述べている。
 この例が示すように、(個別具体的な検証の結果として)実際に存在している(と判明した)ミサンドリー・支援や司法における「男性差別」の問題と、それらについてのアカデミックな議論と、それらを用いた扇動やバックラッシュと、インセル的なミソジニーや憎悪扇動は、切り分けて考える必要がある。それらを一緒にして考えることは不当に不可視化された被害者を生んでしまいかねない。一方、男性差別やミサンドリーの問題を真に指摘し改善しようとする者たちは、ミソジニーやバックラッシュと混同されないように気を配るべきであろう。
[3]客観的・主観的に弱者性を持つ「弱者男性」ではなく、銃乱射事件や無差別テロにまでオンライン越しに過激化させる「インセル思想」に染まった者をのみここでは「インセル」と呼んでいる。もちろん、両者が重なり合っている者もいるだろうが、概念的には違う存在だと考えた方がいい(インセル思想の扇動のために「弱者男性」を装い呼びかける者もいるし、インセル思想の批判への盾に弱者男性を使う弱者男性論者もいる)。それは、周司あきらが『男性学入門』で「弱者男性」と「弱者男性論」を分けて考えることを提案していることを重なる。
 インセルたちの実際にその威圧的で暴力的で差別的な言動に接して、共感や慈悲の念を持つことが可能な者は少ないだろうと思う。怒りや敵意が湧くこともあると思う。しかし、それは同時に持っていいことなのではないかと思う。その姿勢の持ち方において、『The Convesation』というサイトの記事「Why mental health and neurodivergence should not be used to explain incel violence」の結末部分でのまとめが示唆的だと思うので、引用する。「Addressing incel violence requires a more fluid and collaborative understanding of public health and counter-terrorism approaches to dealing with the issue. Greater attention must be paid to balancing accountability for violence and sympathy towards people who need mental health support.」
[4]男性学はフェミニズムの植民地であり手下だから男性学は男性を救わない、という意見がネットであたかも事実であるかのように流通しているが、男性学の第一人者である伊藤公雄は、内閣府男女共同参画会議基本問題調査専門委員会委員として「公的男性相談」などの男性支援を「第三次男女共同参画基本計画」に盛り込み、マニュアルも作成していたが、なぜか第四次男女共同参画基本計画ではそれが消えてしまっていたという。第四次男女共同参画基本計画が作成されたのは、安倍政権のときである。(『現代思想』2019年二月号、kindle版、p22)
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
[1]このような問題を「左派・リベラル」は無視してきたのだという議論が「弱者男性論壇」やSNSでは通説のようになっているが、それは事実ではないだろう。二〇〇八年に刊行された『フリーターズフリー』という、紛れもなく「左翼」系と言っていい雑誌の中で、これらの問題は杉田俊介・大澤信亮両氏によって問題提起されていた。
 杉田俊介は「性暴力についてのノート」で、かつて自分が経験した女性からの性的な被害について告白し、それが「非モテ」的な陰鬱な気分と結びついていることを示唆している。そして、それが理解されない二次被害について記し、女性たちからも理解されず「ここにありながら未だうまく名指されていない暴力、生のない暴力、女性暴力は、おそらく無数にある」「女性であれ障害者であれ子どもであれ動物であれ、率直に暴力を暴力と言える関係を作らねば、分析も言葉も足りない」(p182)と述べており、「弱者暴力」「複合差別」を早い時期から問題にしていた。
 また、大澤信亮は「触発する悪――男性暴力×女性暴力」の中で、こう予言していた。「『女性は男性のようには暴力を振るわない』という都合のいい錯覚は、見たいものだけしか見ないありふれた精神作用に過ぎない。問題は、個別的な女性暴力のケースがいかに積み上げられようと、それらすべてを『男のせい』として自己を問わない精神構造にこそある。たとえば、予想される切り返しは、『女性にそのような暴力を強いたのは男社会だ』というものだ。この安全装置を外さない限り、すべての議論が無意味になる。それに対する男性もまた、『ごちゃごちゃ文句を言われるのはうざい』あるいは『女相手に本気になるのは男が廃る』を建前として女性を尊重するが、根本的に何かを考えさせられることはなく、それはやがて『男も被害者だ。一方的に被害者面するな』という個別ケースでのバックラッシュを生み、結局、社会を変えるという根幹の主題が見失われるだろう」(p167)
 果たしてその通りになりつつあるのだが、左派やリベラルがこの問題を提起していなかった、認識していなかったというのは事実ではないだろう。SNSで主流となったポピュリズム的なリベラルや左派においては、確かにその傾向はあった。しかし、それを批判する議論は既に提起されていたのだ。――主流にはならなかったのであるが。
[2]たとえば弱者男性論インフルエンサーである小山晃弘は、2022年3月15日のXでのつぶやきで「久米泰介さんとかもそうですが、マスキュリズム左派の論客は基本的に社会構築的な世界観に立脚し、ジェンダーフリー的な未来を是とするんですよね。その気持ちは僕もわからんでもないんですが、やっぱ諸々女性関係を積むと無理だなぁ…と思ってしまう」と述べている。
 この例が示すように、(個別具体的な検証の結果として)実際に存在している(と判明した)ミサンドリー・支援や司法における「男性差別」の問題と、それらについてのアカデミックな議論と、それらを用いた扇動やバックラッシュと、インセル的なミソジニーや憎悪扇動は、切り分けて考える必要がある。それらを一緒にして考えることは不当に不可視化された被害者を生んでしまいかねない。一方、男性差別やミサンドリーの問題を真に指摘し改善しようとする者たちは、ミソジニーやバックラッシュと混同されないように気を配るべきであろう。
[3]客観的・主観的に弱者性を持つ「弱者男性」ではなく、銃乱射事件や無差別テロにまでオンライン越しに過激化させる「インセル思想」に染まった者をのみここでは「インセル」と呼んでいる。もちろん、両者が重なり合っている者もいるだろうが、概念的には違う存在だと考えた方がいい(インセル思想の扇動のために「弱者男性」を装い呼びかける者もいるし、インセル思想の批判への盾に弱者男性を使う弱者男性論者もいる)。それは、周司あきらが『男性学入門』で「弱者男性」と「弱者男性論」を分けて考えることを提案していることを重なる。
 インセルたちの実際にその威圧的で暴力的で差別的な言動に接して、共感や慈悲の念を持つことが可能な者は少ないだろうと思う。怒りや敵意が湧くこともあると思う。しかし、それは同時に持っていいことなのではないかと思う。その姿勢の持ち方において、『The Convesation』というサイトの記事「Why mental health and neurodivergence should not be used to explain incel violence」の結末部分でのまとめが示唆的だと思うので、引用する。「Addressing incel violence requires a more fluid and collaborative understanding of public health and counter-terrorism approaches to dealing with the issue. Greater attention must be paid to balancing accountability for violence and sympathy towards people who need mental health support.」
[4]男性学はフェミニズムの植民地であり手下だから男性学は男性を救わない、という意見がネットであたかも事実であるかのように流通しているが、男性学の第一人者である伊藤公雄は、内閣府男女共同参画会議基本問題調査専門委員会委員として「公的男性相談」などの男性支援を「第三次男女共同参画基本計画」に盛り込み、マニュアルも作成していたが、なぜか第四次男女共同参画基本計画ではそれが消えてしまっていたという。第四次男女共同参画基本計画が作成されたのは、安倍政権のときである。(『現代思想』2019年二月号、kindle版、p22)
藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。