フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
第7回

『アドレセンス』と「女だけの街」──なぜ「男らしさ」にこだわるのか

2025.05.04
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
  • Ⅰ 『アドレセンス』は何を描いているのか

    『アドレセンス』が描こうとしたもの

     ネットフリックスのドラマ『アドレセンス』が、グローバル再生ランキングトップを何週間も飾り続けた。本連載と通じる部分があるので、今回はこの作品について考えるところから議論を始めたい。

     本作は、フィリップ・バランティーニ監督で、脚本はスティーヴン・グレアムとジャック・ソーンが書いている(この二人は役者で、前者は父親役、後者は本作の企画・製作総指揮を行っている)。ドラマが作られた英国では、インセルやミソジニーが問題化しており、英内務省は「過激なミソジニー」を過激主義として取り扱うと二〇二四年に発表している。そのような、深刻化しているミソジニーを扱ったのが本作だ。そこには、フェミニズム(だけ)では救われないような「男」の姿が描かれている。ネットの「有害な男性らしさ」の情報=マノスフィアに影響され、過激な事件を起こした「インセル」を描いたものだと多くの観客は受け取っている様子がSNSでの感想を見ていると見てとれるが、実際のところ本作が暴発する「インセル」に向ける視線はそう単純ではなく、もっと複合的で多層的な要因を描いている。

     作品は、一三歳の少年のジェイミーが、同級生のケイティという女の子を殺害してしまったことをきっかけに、その動機や背景を探ろうとする複数の人々を巡って構成されている。筆者自身も六歳になる男の子を育てているので、他人事ではなく、本作を観た。そこで、台詞だけでなく、画面の設計などで示唆されている無数の要因を、筆者が読み取れた範囲で列記してみよう。

     まずは、ジェイミーがイジメを受けていたことである。ジェイミーは決してマッチョな男ではなく、大人しく内向的な「非モテ」「弱者男性」系の男性だ。そして、被害者のケイティは、インスタグラムを通じて彼を「インセル」であるとからかっており、それが暴発に繋がった。ケイティは親友によりポルノ的な写真を流出され拡散してしまい、落ち込んでいた。そこを助ければ自分でも恋愛のチャンスがあると思いジェイミーが慰め口説こうとしたところ、「お前のような格下が私を口説くなんて何様のつもり」的な態度をとられ、オンラインでの隠語での「インセル」罵倒という攻撃・イジメに繋がってしまう。ジェイミーの友達たちも、学校の中でスクールカーストの下位だが、にもかかわらず親友は「人気者にならなければいけない」という価値観を持っている。彼らが、ネットで流通している「レッドピル」「20/80の法則」などのマノスフィア思想に染まっていったことが、一番わかりやすい事件の背景である。

     だから、インセルとネットが悪いのだ、という単純な結論に飛びついてしまうと、本作が四時間も掛けて多角的に事件を描いた必然性を見逃してしまう。それ以外にも、無数の背景がある。まず、学校はほとんど崩壊している。スクールカーストが残酷に支配し、新任教員は教育をほとんど放棄しているように見える。舞台はイギリスのウェイクフィールドという地方都市であり、イギリスの地方都市などでは(アメリカもそうだが)無気力な無力感が蔓延し、学習意欲が低下する傾向がある。脚本・製作のジャック・ソーンの出身も製造業が盛んだったブリストルという港町だが、ウェイクフィールドもおそらく産業が衰退していると思われる。たとえば衰退する製造業に従事する男たちなどは、そのアイデンティティや尊厳を維持する資源がなくなり、不安に駆られやすいので、「男らしさ」に固執する傾向がある(サム・バーズ「新自由主義メリトクラシーにおける白人労働階級の少年たち」)。そして、その「男らしさ」への拘りは、中産階級や聖職者階級などでは薄く、労働者階級に多い。ジェイミーの家庭も、労働者階級だろう。本作のジェイミーが内面化した「男らしさ」の背景には、そのような地域の問題や階級の問題が関係している。筆者もまた北海道出身であり、一次産業や二次産業に従事する大卒ではない(それどころか小卒である)親族が北海道各地にいるので、その「差」は体感している。

     第三話では、女性のカウンセラーが視点人物となり、ジェイミーと対話していくが、大人しく内向的に見えたジェイミーが激高し、怒鳴り、暴力的な振る舞いをして、カウンセラーに対して威圧的で支配的な行動に出る瞬間が描かれる。観客は、このように暴発して事件が起きたのだと理解するのだが、その原因は「男らしさ」である。カウンセラーはそこに拘り、何度も聞き出そうとした結果、感情の暴発が描かれる。

     ジェイミーが語るのは、スポーツの試合で彼が失敗したとき(彼はスポーツで活躍するような「男らしい」性格ではない)、父親が恥ずかしそうに目を逸らしたことである。この父親からの「恥」の記憶がトラウマのようになり、そしてジェイミーが自身を「醜い」と否定的に思うようになったのだと観客は推測させられる。だから、愛を求める対象であるケイティが「男らしさ」を否定し見下したと感じたときに、フラッシュバックのように溢れだした感情が(本来向かうべき対象である父ではなく誤って)ケイティに向かい、暴発的に事件を起こしたのではないかと視聴者は思わされる。そのようなトラウマに拠る暴発は、オンライン上で頻繁に見られる現象である。

     では、父親は「男らしさ」にこだわる人間かと言えば、そうではない。第一話でジェイミーは父親を頼ろうとするし、父は不器用であるがマッチョな男らしさにこだわる人物ではなく、息子を想い守ろうとし、被害者の墓に花を供え、息子がやった加害も認める人物である。第一話で父からの虐待などが刑事らに疑われ、調べられるが、そういう背景はないとくり返し確認される。第四話では、父と家族の背景が具に描かれるのだが、そこで明らかになるのは、父が祖父に暴力的な虐待を受け、そのサバイバーであり、息子には決して同じことを繰り返さないと誓っていた人物だったことである。彼は、最後に力が及ばなかったと泣き崩れる。彼が悪かったわけでもない。いや、悪かった――実際、その振る舞いに、「有害な男らしさ」の典型を見る解釈をXの感想をリサーチすると出てくるし、筆者もそう感じるのだが、そうとだけ断ずると、本作がシリーズの結末でこれを描いたことの意義を解釈し損ねてしまう。より悲劇的で重いことは、彼も努力しており、むしろ、「有害な男らしさ」=暴力や支配を否定しようと努力してきたということである。その結果が裏目に出たか、功を奏さなかったというのが、本作の批評性・悲劇性の真の重さである。それは、「有害な男らしさ」を単純になくせば解決する、という言説に対するツイストとしても機能している。なくし損ねたから悲劇が起きたのか、なくそうとする努力こそがこの悲劇を招いたのか、作品は確言していない。だが、ギリシャ悲劇のように、「何かを避けようとする努力がそれを実現させる」「善意が別の形の悪に予測しない形で帰結してしまう」ことこそが「悲劇」であり、我々の社会や歴史はあまりにも複雑なフィードバックに満ちているので、そのような予測不能性や意図の反転を避けることはできないということを本作が描いているのだと考えた方が、より作品の重みは増すだろうと思う。

     シリーズの結末近くの大仕掛けとしてこれが描かれているのに、「X」で「アドレセンス」「虐待」で検索し、父の受けた虐待に言及しているポストは二件ほどしか見つからなかった(四月上旬時点)。ミュートやブロックなどもあるので統計的に有効とは言えないが、おそろしいほど少ないのは確かである。しかし、この悲劇性と困難性、要因の多層性と多重性と複雑さこそが、本作が見つめることを要求しているものであり、我々が真摯に思考するべきものであると思われる。

     彼は事件で動揺し、街の人から落書きをされるなどで傷ついていても、それを認めることができず、強がっており、なんとか落書きを消そうと努力し、家族を連れて強引に外に出かけもする。それが「有害な男らしさ」であると言えばそうなのだが、そのような内なる感情を認めて解決したり泣いたりできない原因の一つに、虐待を受けたこと、祖父による暴力を伴う「男らしさ」の教育を受けたことがあることも確かであり、彼は被害者でもある。共感的ではない養育者に育てられた場合、感情を表出することが出来ず、自身の感情についての認識や言語化が苦手な「失感情症」という症状が出ることがある。それは、暴力や強制を伴う「男らしさ」を要求する教育の結果なのか、複雑性トラウマの症状なのかは分からない。彼は治療や支援を拒むような「男らしさ」を持っているわけでもなく、カウンセリングも受け、結末では泣いており、一般的な「男らしさ」に反する人物として描かれていることは確かだ(「男性性」には、それらを拒むという特性があると既存の研究では語られている)。

     彼は、努力してはいるが、感情を抑圧し、それを暴発的に表出してしまう癖があり、ストレスなどが溜まると(かつて自分がされたように)暴力的な行動で相手を威圧し支配してしまう行動に出てしまう(第四話のホームセンターで行なったように)。しかし、それを恥じ、コントロールする努力をしており、息子に暴力を振るったことはないと言う。おそらくこのような感情の暴発が家庭などでも起こり、ジェイミーにも影響してしまったのだろう。それは父の責任であるが、同時に、彼の責任だけとは言い難い部分もある。何故なら彼は被害者であり、サバイバーであり、努力しており、それは祖父からの被害によって生じてしまったものでもあるのだ。加害と被害の複雑な分けられなさが、第四話の父の姿を通じて描かれている。

     そのような複合的な要因がミクロに積み重なった先に、ある暴発として事件が存在している、という視点が『アドレセンス』にはある。分かりやすい敵や原因を決めつけた方がスカッとするし、安心もするだろう。しかし、そうではなく、もっと無数の、我々自身も加担者であるような様々な構造の総合的な歪みの発露として事件が存在すると、本作は描いていないだろうか。そのような自覚に促すことこそが、本作のもっとも重要な価値ではないだろうか。ただ涙を流す人物がたくさん登場する本作の事件を見つめる目線は、現代におけるマクロとミクロが複合した複雑な状況を「悲劇」として見つめる本作の態度を示しているように思う。

    「マノスフィア」とは何か

     ジャック・ソーンは「男らしさもまた、ほかのすべてと同じようにスペクトラム(多様性のある連続体)です。スペクトラムの片側に合わせる必要はありません」「物事には、ほかのやり方もあると思っています。わたしは、その対話を始める準備ができています」(「Netflix『アドレセンス』のクリエイターが語る“マノスフィア”の深層──その引力に潜む危うさ」『Wired』)と語っており、「男らしさ」をもっと多様に自由にすることが、このような悲劇を避ける方向だと示唆している。筆者もそれは賛成する。フェミニズムが「男らしさから降りる」ことで男性はより自由になる、と主張するのも、そのような意味だろう。

     しかし、現実には「男らしさ」「男性性」に強固にこだわる「マノスフィア」がネット上で大きく展開し、訴求力を持っている。そのことをどう考えたら良いだろうか。

    「マノスフィア」とは、オンライン上で「男らしさ」に拘り女性蔑視的な傾向のある言説を続けるグループの総称である。「マノスフィア」は、男らしさや女性蔑視、反フェミニズムなどを奨励するインターネット上の潮流のことをまとめて指す比較的新しい概念である。この中には、次のような多様なグループが含まれていると言われている。「男性差別」を掲げる「男性の権利活動家」、「インセル」「弱者男性論壇」「非モテ論壇」、「MGTOW」(反フェミニズム、反女性主義)、「ナンパ師」(ピックアップアーティスト)などである。

     上記記事は、「マノスフィア」をこう説明する。「マノスフィアとは、男性がより“男らしく”なる方法や異性との関係構築に関するアドバイスを提供するオンラインコミュニティの総称である。しかしその内容には、女性を単純な性的ステレオタイプに還元したり、男性の孤独や社会的挫折の原因がフェミニズムにあるとするなど、女性蔑視的な見解がしばしばみられる」「マノスフィアの思想は決して曖昧なイデオロギーではなく、むしろその主張や著名なリーダーたちは、ドナルド・トランプ大統領の再選キャンペーンにおいて大きな影響力をもっていた」

     この思想は、現在の日本でも、弱者男性論壇のインフルエンサー、ナンパ師などにおいて流布されている言説であり、Xなどで恋愛の悩みを検索すると多く現れる。作中に登場する「女性の80%は男性の20%にしか惹かれない」の法則も、進化論を援用したこのようなマノスフィアで用いられている典型的な議論である。

     これらの思想の延長線上に、女性をターゲットにした銃乱射事件や、ジェイミーが起こした殺人事件のような悲劇は確かにある。しかし、マノスフィアそのものを悪魔扱いし、「反フェミニズム」「反リベラル」の敵と一緒くたにしてしまうことは、おそらく間違っているだろう。マノスフィアの言説、特に恋愛や性愛についての進化論的な説明などの部分については、次回以降に改めて扱うことにし、今回は「マノスフィア」などで「男らしさ」へのこだわりがなぜ生じているのか、彼らの主張などを参照した上で、男性学の知見と考え併せて考察していくことにしたい。

    Ⅱ なぜ「男らしさ」にこだわるのか

     没落する産業との結びつき

     なぜ「マノスフィア」の人たちは、「男らしさ」にこだわるのか? 当人たちはそれをフェミニズムへのカウンターであると語ることが多い。確かにそうであろう。しかし、それだけでは説明できない部分がある。これから書くことは、筆者なりに現代日本の「マノスフィア」的言説をたくさん読み、インフルエンサーを観察し、時にXなどで対話したり批判を受けながら観察しながら考えた仮説であることを、あらかじめお断りしておく。

     ひとつめの理由として考えられるのは、ラストベルトなどに典型的な、産業構造の変動による製造業などの没落だ。

     エヴァ・バロン「男性性、身体化された男性労働者、そして歴史学者のまなざし」によると、中産階級男性における、筋骨隆々で肉体的に強い人間が「男らしい」と見做されるようになったのは、技術と機械化が彼らの職やアイデンティティを脅かした一九世紀からだと歴史学者は見做している。現在における「危機」を齎しているのは、ITAI産業や、ケア・コミュニケーションを中心とするポスト工業社会への転換である。

     日本でのその移行を画期する年は一九九五年であろう。政治経済的には「構造改革」が起こり、非正規雇用の増加が政策的に実行され、自己責任論が流行した。と同時に、インターネット元年であり、『新世紀エヴァンゲリオン』の大ヒットによる第三次アニメブームが起こり、オタク文化が現在のようなメジャー文化へと変化していった。その後、格差は拡大し、製造業などが衰退し地方が没落していった。男性たちは、「一人前の男」=正社員、稼ぎ手、結婚し子供を作り家庭を構えるという『クレヨンしんちゃん』のひろしのような生き方を達成するのすら困難になっていく(多分ひろしは、エリートではなく、むしろ情けない存在として描かれているが、当たり前になれると思っていたそれにすらなれないことに気が付く)。その結果として少子高齢化は加速する。このような変化の中での不安や危機意識、不全感、絶望感、アイデンティティや尊厳の維持できなさの感覚ゆえに、一九九五年以前の「一億総中流」や皆が結婚できた時代に「戻りたい」というレトロトピア的願望を引き起こしているのだと考えられ、それが右派や保守派の心情と結びついているのだと推測される(筆者はそれを「八〇年代への回帰願望」と名付けた。『現代ネット政治=文化論』参照)。

     兼子歩は「ポスト工業化とともに進展する新自由主義的政策は、古典的な〈男らしさ〉としての『パンの稼ぎ手bread-winner』像の前提となる雇用の安定を掘り崩した」ことが「『男であること』の意味を当然視することを困難にした」(『男性学基本論文集』p275)と指摘している。

     ネットにおけるマノスフィアには、被害者意識と、没落感、危機意識、淘汰され絶滅させられるという危機感や切迫感が見られる(白人主義の言説だが、グレートリプレイスメント=置き換え理論などの「陰謀論」もそうである)。フェミニズムや女性の社会進出が自分たちを脅かし、資源を奪うという感覚もそうだろう。「男性差別」などを訴える論者たちの中には客観的に強者のマジョリティもいるだろうが、筆者には本気で怯えて防衛し守ろうとしているようにも見える(アメリカの事例を見ても、事件を起こす者たちの主観的には本気でそう考えているようである)。これを解釈するには、産業構造などの変化に対する、没落と衰退とアイデンティティの危機の感覚(世界が終わる、絶滅が起こるという切迫感)がまずあるのではないか。一〇年前にラストベルトのあるミシガン州のミネアポリス郊外を散策したことがあるが、ポストアポカリプスのゾンビ映画的な世界が展開しており、「世界の終わり」感を覚えるのはよく分かると思った。その原因や理由を恣意的に帰属させ、その帰属先の一つに「男性」「男らしさ」があり、恣意的な敵のひとつに「リベラル」「フェミニズム」があるように、筆者には見える。

     なぜ「リベラル」「フェミニズム」が敵に見えてしまうのか。それは、都市の高学歴層、つまり、新しい産業構造に生きている確率が高い人々のほうが、リベラリズムやフェミニズムに賛同する傾向があるからだ。江原由美子は「マスキュリニティからの解放──ナポレオンからバブル崩壊、ブラック・ライブズ・マターまで」(『VOGUE JAPAN』)で、「ねじれ」を指摘する。「高学歴の男性で力がある人間ほど男女平等論を支持し、LGBTQの権利を擁護し、リベラリズムをとります。それはなぜかというと、彼らは伝統的な男性性に寄りかからずとも自尊心を持つことができているからです。けれども、父権制の権力をもっとも享受しているのは実はエリートの人たちだったりもする。他方、格差社会の中で搾取され自信がなくなった人たちの中には、あからさまな女性蔑視やマイノリティ叩き等に走る人もいます。自尊心を維持するために、伝統的男性性に頼る、いや逆に、女性が男性を尊重しないということに、自分の社会的地位の低下を見出すのだろうと思います」。つまり、ここで「リベラル」「フェミニズム」の名で問題化され対立になっている背景にあるのは、産業構造の変動に伴う地域と階層の対立であり、そこにあるのは見捨てられ置き去りにされたという悲鳴なのである。

     レイチェル・ギーザは『ボーイズ 男の子はなぜ『男らしく』育つのか』の中で、ギャリー・パーカーのこんな見解を紹介している。「彼らは社会的にも経済的にも激動の時代に大人になり、その不安感からジェンダー役割についてより伝統的な考え方をもつようになっているのかもしれない。『彼らは今の世界を見て『ギグエコノミー(訳註:インターネットを通じて単発の仕事を請け負う働き方)のなかで、これからの仕事はどうなるかわからない。人間関係もより流動的になっているから、結婚もどうなるかわからない』と感じているのでしょう』とパーカーは言う。『そこで、ほぼ消えてしまったと思われていたタイプの男性性が復活してきて、男性たちは今もそういった男らしさのしるしにしがみついているんです』」(p44)。これらの分析の主張は、ほぼ一致している。

     そして「男性であること」に「ごく狭い考え」を持ち、そこに「経済的・政治的不安の高まりが組み合わさり、『そうして生まれたのが、彼らの怒りと恨みの体現としてのドナルド・トランプ大統領だ」(p39、ジェフ・ペレラ)と言う。

     背景にあるのは、働き方と対人関係の急速な変化と「流動化」であり、それへの不安である。「生き残れるのは変化するものである」「自己責任」などの新自由主義標語は、このような時代への適応を促す教育的効果のあるものであったと思うが、そのように意識転換やライフスタイルを変えることが出来うるか否かは、環境に大きく左右されるだろう。筆者の親族が住む田舎のように、クリエイティヴ産業やIT産業に従事するという可能性が全く想定できない地域などに生まれれば、意識の格差は当然生じるのであり、それは当人たちの「責任」とは言えない不平等であろう。その変化に対する不安が、未来への希望の持ちにくさを生んでいると、ギーザは指摘する。

     それは、ジグムンド・バウマンが『退行の時代を生きる』の中で、人々がなぜ近過去=レトロトピアに惹かれるのかの心理的背景を分析したことと同じ結論であろう。安定していた働き方や生き方が流動化し、対人関係もギデンズが『親密性の変容』などで言うように、自由で多様になればなるほど複雑化し、コミュニケーション能力やモテるための資源に乏しい者にとっては成功する難易度が非常に高いものになってしまう。そのことに適応することの困難や恐怖や不安が確かにある(洗練された恋愛や性愛やコミュニケーションの方法を学ぶ機会の配分も公平ではない)。

     経済や労働の変化の原因はおそらくリベラリズムやフェミニズムではなく、むしろネオリベラリズムやIT産業なのだと思われる。むしろ、本来の(ロールズ的な)リベラリズムはこのような不公平や不公正を是正する立場であるだろう。後者の対人関係の側面においては、「自由化」「多様化」「女性の意志や考えの尊重」などにおいて、フェミニズムが自分たちの利益を低下させる「敵」だと感じられ、それが没落やアイデンティティの不安と重ねられ、女性やフェミニズムが「敵」であり、「男らしさ」を守らなければならないし、これまで通りのやり方に戻らなければいけないという衝動を生んでいるように思う。

     学校の「女性化」の問題

     しかし、そのような産業構造の変化だけでは、「男性性の危機」の言説は説明できないという意見もある。

     先に触れた、レイチェル・ギーザ『ボーイズ』は、自身がレズビアンであり、フェミニストであるが、民族的マイノリティでADHDのある養子の男の子を育てている。彼女は、学校という環境に問題があるのではないかと、『ボーイズ』の中で示唆している。

     彼女はASDADHDの診断は男性の方に統計的に多いこと、そしてASDADHDの症状について、「これらの症状と、『男の子らしさ』に特徴的とされる性質とが非常に似通っている、という点を指摘してもよいだろう」(p158)と述べる。そして、「オタク」的な子供やエネルギッシュで反抗的な子供たちが過剰な診断をなされ、さらにジェンダーによるバイアスで厳しく当たられ追放されているのではないかとすら示唆している。

     アメリカにおいて公教育では男性の方が停学や退学の数が多く、学校から追いやられた子供たちは犯罪から刑務所に繋がっていくリスクが上がることを指摘した上で、エドワード・ハロウェルの発言「我々は、男の子であることを病的なものと見なしているんです」「小学校は、全体的に女子化されています」(p158)という発言を引き、問題視している。「男性性」の過剰な病理化と社会的排除が起きているのではないかと言うのである。ちなみにアメリカでは70%以上の教員が女性であり、レイチェルが示唆している通り、アメリカの場合は、ジェンダーにおける内集団・外集団バイアスがあり、男性的な性質に対し過剰に否定的・厳罰的な傾向が存在しているのかもしれない。

     彼女は、レズビアンのフェミニストであり、「有害な男性性」を批判しつつ、実際に男の子を育て愛しているので、「男性性」は構築されたものだけではなく、「生得的なもの」もあることを認めているように読める。彼女は脳の性差を支持する理論を検討し、「彼らの理論によると、感情的知性と読み書きを重視する現代の教育システムは、男の子には生来適しておらず、ソフトスキルを得意とする女の子の脳が評価されるようにできている。そういうわけで現在は、成績が良く、女性の先生に好かれる女子生徒が優勢になっているのだと言う」(p165)という説を紹介している。

     また、彼女は、男性が社会を支配し権力を持つトップエリートと、学校などからも排除され「落ちこぼれ」になる者たちに二極化しやすいという現実を、子育ての中で痛感している(養子の里子に出される子供は問題を抱えているケースが多く、様々な交流の中でシビアな現実に出逢い、支援などを行ってきているからだ)。彼女はこのような統計的事実に触れる。「学業成績と卒業率については、男女間の差異よりも、男の子のあいだにある差異のほうが大きいことがわかっている」「男子のテストスコア分布には偏りがあり、多くが最上位と最下位に近いところに分かれて集中しているのだが、女子のスコアは真ん中あたりに集中している」(p167)。これは、IQの分布とも合致している。

     この二極化は、「強者男性」を批判するつもりで男性を批判することが、「弱者男性」たちの反発を生む根拠の一つになるかもしれない。男性は確かに二極化しやすい傾向を持っているのである。勝ち組になり、権力や金を持つ「覇権的男性性」を体現する男たちの方が、女性たちには見えやすい。性愛などの現場で深く交わるのも彼等だからであり、社会的に活躍が目に入りやすいのも彼等だからである。しかし、それを批判することで、「弱者男性」たちをより苦境に追いやっているかもしれず、それが見えていないことが「不可視化された弱者」の叛乱を招いたのかもしれない。

     アメリカのケースであるが、学校における「女性化」やジェンダーバイアスに苦しめられた男子たちが、アンチフェミニズムになっていくことは、理解できるような気がする。小学校において先生は絶対的な権力を持っているに等しく、男女における男性の権力性とは別に、「生徒・教員」間の力関係があるのだ。そしてそれが深いトラウマや恨みに繋がるということはあるかもしれない。安田峰俊は、筆者との対談で、「ネトウヨ」になっていく動機として、学校への反発があると述べていたが、その心情は、高校を中退した筆者にはよく分かる。

     逃避による「仮想的な男らしさ」

     『アドレセンス』で描かれたジェイミーや、ネット上のミソジニー的言動や、英米で大きく議論になっているゲーマーたちとマノスフィアの繋がりという観点から重要なのは、三つ目の、疎外され、アイデンティティや自尊心を保ちにくい者たちがゲームやオンラインの中で縋る「仮想的な男らしさ」という観点を考えるのが重要かもしれない。

     ジェイミーが、覇権的な男性性とは異なる性質を持っているのに「男らしさ」に過剰にこだわったように、「男らしさ」に向いていないのに「男らしさ」に過剰に拘る者たちがいる。レイチェルはこう書く。「インターネットの一部、特にゲーム関連の世界では、マスキュリニティのもっとも悪い側面も助長されてしまう。彼らに権威と巨大な発言の場がある世界では、男の楽しみを邪魔したがるうるさいフェミニストや、ユーモアの分からない女たち(と彼らが思うところの相手)に対して、好きなだけ反抗することができる。/ゲームは『逃避マスキュリニティ』を提供するとも言われる」。「これらの男性は、子どもの頃から人気者ではなく、クールでも魅力的でもなかった人たちである。コンピュータやゲームのようなオタクっぽい興味のためにいじめられ、拒絶されてきたかもしれない。しかし彼らは、インターネット上に、自分たちが権力を握る世界を見つけたのだ」(p261

     二次元創作物の「表現の自由」にこだわりフェミニズムを攻撃する「表現の自由戦士」たちはこのタイプだろう。「逃避マスキュリニティ」とレイチェルは言うが、筆者は「仮想的な男らしさ」と呼ぶことにする。現実でモブ扱いされ、攻撃などを受けているが、ゲームなどの中では主人公に一体化し「無双」をして憂さを晴らしたり、現実ではモテないのに漫画やゲームの中ではモテモテになる存在に感情移入して有能感や自己愛を維持しようというのは、よく分かる心理であり、筆者にもよくよく経験がある。インターネットは、メディア的にはゲームと同じように、人間と人間の間にコンピュータやモニタが媒介するメディアなので、そこはゲームの延長のような場と感じられやすく、たとえばアニメやマンガの主人公のように超人的な推理力(認知プロファイリング)などが出来るという幻想などを持ち込んでしまうものも出るのだろう。インセルやマノスフィア問題の震源地と呼ばれる4chanRedditも、日本の2ちゃんねるやふたば☆ちゃんねるのスクリプトを模して作られた場であり、オタク的趣味を持つ者たちの逃避の場であったのだ。

     「仮想的な男らしさ」は、ジェイミーと似ていて、拒絶に敏感であり、思い通りにならない相手を暴力や威圧で支配しようとする傾向を持つのかもしれない。ゲーマーゲート事件がそうであり、ネットでの炎上や殺害予告がそうであろう。筋肉や運動能力や魅力や金銭や社会的地位などの「力」ではなく、オンラインで手に入る集団の「力」で他人を攻撃し威圧し言うことを聞かせるマスキュリニティがここにはある。

     日本のマノスフィアの中で、感情的で視野の狭い反応と行動を集団で行う女性・フェミニストを侮蔑する用語として「ダチョウ」という言葉があり、また、フェミニストが行う行為として集団で殺到する「キャンセルカルチャー」を批判しているにも関わらず、その行動を自身が体現してしまうという奇妙な現象があるのだが、そのような行動をしてしまうのはこの「仮想的な男らしさ」の観点から理解可能だ。その侮蔑は、結果として自己否定や自傷のように機能してしまい、悪循環のスパイラルが続いてしまう。このようなケースでは、「覇権的な男らしさ」への囚われやそれを目指さなければいけないという強迫観念から降りて、自身の弱さやつらさを認めて、セルフコンパッションやセルフケアを行い、多様で柔軟な男性性へと変わっていくことが救いになるように思う。

     文化的には、一九九五年以降のオタク文化は、一人前の「男」になりにくくなった経済的環境において、そのような提案をする文化だったように感じる。筆者は『新世紀エヴァンゲリオン』や新海誠の書籍を書いたことがあるが、『エヴァ』のシンジは「男になれない」主体であり(第十八話「男の戦い」というサブタイトルのエピソードを見るがいい。父に反抗したシンジは一瞬で鎮圧されている。作り手の篭めた意図は明白である)、新海誠が描いてきたのは、センチメンタルに恋愛にこだわってクヨクヨする男性たちであり、当時のオタクたちはそれに共感していた。ゼロ年代に流行した美少女ゲームも、トラウマなどで心の傷を負った美少女を「癒す」こと、その際の親密やさや心の交流を味わおうとするものであり、決してマッチョな「男らしさ」に拘ってなどいなかった。一九九五年以降、「男らしく」なりにくくなった社会におけるニーズに応えるように、男性の描き方やロールモデルも、異なる内容が描かれ、それこそがオタク文化が世界に飛躍した大きな理由の一つであった(海外では日本アニメは「クィア」と結びつけられて論じられやすい)。たとえば、その延長線上に、現代日本おける「男らしさ」を新しく作り上げていく方向性の方が良いと思うだけに、現在、オタクたちの一部が「仮想的な男らしさ」に囚われ、ミソジニー的な行動に移っていることが、自身の文化の価値を毀損する痛ましいことのように思われるのである。

     「男らしさ」に入っている亀裂

     さて、マノスフィアの議論を見ていると、「男らしさ」という言葉を用い、フェミニズムやリベラリズムを仮想敵にすることで誤魔化されているが、実はそこには亀裂や対立があることが分かる。製造業などにおける「筋骨隆々」な男らしさと、ゲーマーやオタクの「仮想的な男らしさ」は、全く異なっているのである。むしろ、学校やコンビニの前などで会えば、仲間意識などは持ちにくい、むしろ対立しているグループなのではないかと思われるのである。

     ネット上では当人たちの身体が見えず、言葉ばかりが流通するので、当人たちも観察者も混同しがちであるが、そこは分けて考えた方がいいだろう。そして、「男性性」の全てを有害であり原罪とするのではなく、その必要なところ、尊敬すべきところと、有害で軽蔑すべきところを切り分けて、丁寧に見ていく必要がある。

     ここからは、ネット上で「男らしさ」に拘るマノスフィアの言説のうち、真剣に検討するべき価値のある部分を議論する。それは、「物質」「外敵」「自然環境」などとの格闘としての「男らしさ」の価値についての議論である。

    Ⅲ 現実と仮想

     物質や現実と格闘する労働

    「女だけの街」がネットではよく炎上する。そのパターンは、女性だけの街があればという女性の願望について、批判として、インフラなどは誰が担うのか、という意見が男性から殺到するというものである。

     この男性の批判において、このような意識が見え隠れする。女性は「キラキラした」「ケアやコミュニケーションなどの非物質的労働に従事し」「インフラの維持などの物質的で物理的でタフな仕事は男たちが担っているのだ」「そのように自身の好悪や感情ではなく全体のために尽くすのが男らしさである」という「男性性」への誇りの感覚と、裏返しになったミソジニーである(そのような仕事に従事している女性もいる)。

     ここには、物質的なリアリティ/非物質的なリアリティ(工業/ポスト工業、モダン/ポストモダン)という対立があり、それが誤って性別の問題と認識されていると推測される(「誤って」と言ったが、統計的には従事者の数や、従事を希望する性別の性差はあるだろう)。

     これらの発言の背景にある思想は、物質的現実とタフに格闘し、集団のために自己犠牲することこそが「男らしさ」だという考えである。そうなると、「仮想的な男らしさ」はむしろポストモダン的で女性的なものと扱われるはずである(ゲームの中で強く戦って成果を出しても、所詮はゲームである。その「ゲーム」を「現実」に変えようとするのが、オンラインでの集合行動から政治的アクションを行うARGとしてのピザゲート事件やQアノン、暇空茜らなのだと思われるが)。

     男性性と、物質的現実の結びつきをもう少し考えていこう。それは、「男性性」が構築される際に一つのモデルとなっているのが「軍隊」であり、そこには殺す・殺されるという物質的現実の避けがたい一つの極があることと関係しているだろう。市民権と戦闘への従事が結びついている欧米では、戦争への参加を女性が求めてきたことは既に述べた(ゲーマーたちも戦争のゲームは好きであり、素人「軍師」もたくさんいる)。

     江原由美子は前掲「マスキュリニティからの解放──ナポレオンからバブル崩壊、ブラック・ライブズ・マターまで」で、「近代の男性性がどんなふうに形成されていったのかを簡単に説明すると、その原型は国民軍の創設に、見出すことができると考えます」「軍隊という存在が男のロマンになり、自国を守るために戦える男こそが、勇気のある素晴らしい人間なのだというイデオロギーを持つ近代国民国家ができた」「日本においては、こうした軍隊のやり方がそのまま官僚制に引き継がれ、日本の企業社会や組織論に採用されていった」と述べている。

     軍隊・学校・会社にはつながりがある。そこには「男性性」の「構築」の「ロマン」は存在するが、しかし、それは「殺す・殺される」という究極の物質的現実と関係があるものであり、「仮想的な男らしさ」はそれとは異なっているのだということを、ここでは論じる。

     「男性性」の構築──軍隊を例に

    「男性性」を全く構築しなくて良くなれば、皆が「男性性」から降りられ自由にハッピーに平和になれる、というユートピア像が、おそらくは暗黙のうちに存在している。筆者自身にも、そういう気持ちが結構ある。しかし、「男性性」が構築されてきたのは、その必要があったからではないとも思われるのだ。

     「(軍事的)男性性」を構築しなければいけないのは、戦争のときである。生物学的に男性に生まれたからと言って、即座に競争や戦いを好むわけではない。戦場で戦って殺して死んだり、心身に深い傷を追うリスクの可能性の高い場所に行こうとまで自然に生物学的に思うわけがないというのは、若い男性と接したことがある者なら誰でも分かるだろう。むしろ、怖いし面倒臭いし嫌だ、という感覚が普通ではないだろうか。

     しかし、それでは誰も戦争に行かなくなってしまって困る。現実に戦争はある。備えなければいけない。「有害な男性性」がなくなり、世界から戦争が消えたらいいなと思いつつも、目の前の敵との戦いにも備えればいけない。そんなとき、あなたが統治の責任を負う立場であったら、どうするだろうか。戦場に行くためのインセンティヴを設計しなければいけない。それはどういうものだろうか。

     戦場に行って戦って勝って帰ってきた男に価値があるという価値観を広める、彼を表彰する、高い地位に付かせる、などがその手段として考えられる。戦場で戦う「英雄」を崇高に美化する物語を流布することもその手助けになるだろう。戦場で起こる残酷な状況は教えず、貴族たちの「名誉」になるように思い込ませたり、死んだら「神」になって尊崇されるという宗教的なシステムを作ったりするのが良いだろう。恐れず、命を惜しまず戦って勝つことが「男らしい」ことであり、価値があることであり、「女々しい」男は「おかま」で「価値がない」という価値観を流布するのが良いだろう(「軍事的男性性」は、軍事に適合しないそのような性質を、女性、ゲイ扱いし侮蔑することとセットで出来上がっている)。

     価値観のレベルでは、そのように男性たちを「駆りたて」、名誉や尊敬や侮蔑などでインセンティヴを設計する。そして具体的に軍隊の中ではどのようにして生物学的な男性たちを「(軍事的)男性」に作り上げられているのだろうか。実際の米兵の訓練を取材して作られたスタンリー・キューブリック監督『フルメタルジャケット』が分かりやすいので、参照してみよう。

     まず全員頭を丸坊主にされる。強制的に制服を着せられ、個人や個性をファッションとして表現することが禁じられる。集団生活を強いられ、ひたすら訓練を受け、心身が過酷な状況に追い込まれ、人格や尊厳を否定する言葉を吐かれ続け、全ての上官の命令に「サー イエス サー」と答えることが叩き込まれる。戦場では上官などの命令に背くと、場合によっては軍法会議にかかり、死刑にされることがある。このように、個の気持ち、意志、自由などをまず破壊される。このようにして、集団の一員として自らの命も捨て、敵の生命を奪うような存在に作り変えられていく。そこまでしなければ、戦場において命のやりとりをさせられるように人間を促すことは難しいだろう。そこに適応できない「落ちこぼれ」はイジメや侮蔑やリンチを受け、精神を病んだ「ほほえみデブ」という人物は、教官を射殺し、自らを撃ち抜いて自殺する。「戦士」たちを作るためには、そのような代償が必然的に伴う。

     男性の持っている、自分の感情の知覚の出来なさ、他者への共感のなさ、援助を求めることの出来なさ、組織や肩書と一体となったアイデンティティなどは、このように一度自己を破壊された後に作り直された「軍事的男性性」に近いものなのではないだろうか。軍隊と企業とスポーツのつながりなどは、つとに指摘されている通りである。

     昭和の会社は、第二次世界大戦の際の総動員体制を、経済に振り向けたような側面があった(「企業戦士」「二四時間戦えますか」などの戦争の語彙を用いた言葉が象徴している)。だから、そこで働く男たちが、軍人的なメンタリティになっていくことは十分に考えられる。ある意味で、心的外傷を強く与えることで元々あった柔らかく繊細な魂や感情を殺し、その外に強い殻のような人工的な人格や仮面を作り上げるという側面が、「男性性」にはあるのではないか。

     子供向けの特撮番組である戦隊モノ、仮面ライダー、それからロボットモノのアニメも、「変身」して無機質で機械的な身体を手に入れ敵と戦うものばかりであることから、今でもそのような「構築」の側面があるのだろうと思う。科学に従事するために必要な「論理性」「客観性」だって生得的に出来るわけではなく、主観や感情を抑制する長くつらいトレーニングの果てに獲得される。ある意味で、そこでは一度、素朴な自己が「殺されて」いるのである。ボーボワールは、人は女に生まれるのではなく女になると言ったが、男だって同じなのだ。

     戦場で結果を出せること=「覇権的男性性」となるという価値観は、スクールカーストなどにも反映され、イジメられたりバカにされたり、異性からモテなくなるのを恐れる男性たちは、「覇権的男性性」に向けて駆りたてられるように出来ている。それは、その内部にいて、そう簡単に降りられるものではない。

     学校におけるスポーツマンたちを頂点とするスクールカーストも、資本主義社会における経済的な競争も、基本的にはこれと同様の原理による「駆りたて」によって動いている。一般的に言われている「男性性」の性質は「身体的な攻撃性、性的な支配性、感情的にストイックで、タフで、自己制御力がある」(『ボーイズ』p17)というものであると言われるが、これが「優しさ、従順さ、感情豊かで、繊細」のような通俗的な「女性性」を排除したものであることは明らかだろう。それは軍隊を一つの範型として作られているのだ。

     男性の問題と言われている、内面や感情やつらさへの無感覚、援助を求めることができないこと、集団における肩書抜きの関係性を作ることが難しいことなどは、先天的な原因による生物学的な特徴だけではなく、そのように「壊され、作り直されている」部分があるのだと理解した方がいい。ある意味、痛ましいのである。そのような軍隊を規範とする「男らしさ」の構築が、不必要で有害であるなら、変えた方がいいのは確かであろう。

     「男らしさ」によって支えられていた職域

     もはや戦争中ではないし、様々な仕事があり、職場は軍隊ではない。だからそのような「男性性」が不適応を起こしているから変えるべきである、という意見に個人的には賛成する(宮台真司が『日本の大衆文化はなぜ「終末」を描くのか』での筆者によるインタビューで示唆していたのは、戦争により男らしさを正当化するのではなく、男らしさを正当化するために戦争を起こそうとする倒錯がトランプ支持者たちに存在しているのではないかという疑惑である)。

     しかし、未だにそのような「男性性」の構築を必要としてしまう場面もあるのだろう、と思わざるを得ない。筆者が例として思い浮かべるのは、福島第一原発が事故を起こしているときの吉田所長であり、ウクライナのゼレンスキー大統領である。「怖い」「嫌だ」と思うからと言ってそれを表出し逃げるわけにはいかない場面や立場は、多分今でもあるし、なくならない。戦争や自然災害が、その顕著な例である。社会は配慮が細やかになっていくが、一方で敵や自然はこちらの都合を何も考えてくれない、それでも立ち向かわなくてはならないこと、集団のために自分を犠牲にせざるを得ない局面はあると思われる。

    「女だけの街」を批判する人が例に出すのが「インフラ」や「警察」であることを思い出してほしい。それらも、シビアな物質的現実に直面し、誰かのために身体と命を張らざるを得ない仕事である。筆者の父は電力の仕事をしていたが、真冬の鉄塔の上で高圧電線が切れたとき、誰かが直しに行かなければいけない(直さなければ、多くの人命に関わる)。そこには、ポストモダン的な非物質的な労働とは異なる、命を賭けなければならず、集団のための使命感で自分を駆りたてることが必要となってしまう場面があり、ここには軍事的男性性と似たものを感じる。これら男性性の「構築」「駆りたて」が必要なくなるユートピアが実現すればいいと思うが、それなくしてこれら過酷だが集団には必要なことを担うインセンティヴが設計できるだろうか(賃金を高くすればいいのだろうか? 移民などに従事してもらうのだろうか?)。誰もやらなくなれば、社会は維持できない、そういう仕事はたくさんある。「ロマン」や集団的な尊敬やアイデンティティが人を駆動させ、自己を支える物語としてどうしても必要となってしまう場面が存在していることは、筆者は否定しえないのだ。そして、そのような「男らしさ」に支えられたプライドやアイデンティティが、私達の生活や安全を維持していた部分も決して否定できないと思うのだ。その意味での「男らしさ」を単に有害な原罪として扱うのは、有益で公正なことなのだろうか?

     ここで問題になっているのは、タフな物質的現実と格闘し、心身を損なうリスクを背負いながら、集団のために働く存在の「評価」「位置づけ」の問題なのである。これまでは、損を引き受け黙って集団のためになるのが「男らしさ」であると評価され、「背中で語る」などと美学化され、社会的に昇華されていたこの「損」の引き受けの問題が、公共の意識やナショナリズムの感覚が薄れてきた現在、噴出してしまわざるを得ないだろうし、男女平等になるなら女性たちも従事すべきであるという意見が出るのは当然だろうと思われるのだ。「女だけの街」への反発には、不可視化されてきた社会維持のための彼らの姿への反発と、感謝や尊敬の要求があるように思われる。

     「男らしさ」の名においてこれを引き受けている者たちが、「男らしさ」から降りた場合、生活を維持している基盤が崩れるのではないか、という問題意識は、真面目に考える価値がある。「覇権的男性性」の姿がこのような昭和的な「男たち」から、令和的な共感的でケア的な男性へと変わることへの危機意識の中には、このような仕事に従事する人が減るかもしれないこと(憧れる男性も減るだろうし、女性の選好が変われば当然このような職業に就く男性も減る)、それによる社会維持の問題がある。

     そのような「男性性」を必要としてしまう仕事に従事する確率は、都市部や富裕層・中産階級で低く、地方や労働者階級で高い。私達の安全や平和や豊かさを構築し維持する作業には、そのような「男性性」の構築によって仕事に従事せざるを得ない人々がおり、彼らの「男らしさ」の誇りによって生活が支えられている部分がある。このような仕事を担う誇りやアイデンティティであった「男らしさ」を否定し攻撃した場合、では代わりに何が彼らを支え得るのか、従事する人のインセンティヴになるのかという問題は、真剣に考えるに値する。

     「男らしさ」とは異なる形で、彼ら彼女らを賞賛し評価する社会的価値観を作ったり、誇りやアイデンティティの感覚を持つことも必要だろう。そして、女性もこれらの職種に従事し、公共や社会の維持をより担っていくべきであろう。女性は自分のことしか考えていない、個人主義だ、みたいなミソジニー的な批判の背景には、このような公共のためのキツい仕事を女性がやらないから自分たちは引き受けざるを得なかったのだ、という怒りと裏腹の誇りの感覚がある。それが、「女子供」を見下す意識にも繋がったことはよく分かるだろう。産業構造の転換により、もはや物質的な現実と格闘しなくても良い職種が増えたので、このような意識も変わっていくのが当然なのだが、このような仕事が存在しなくなるということはない。このことは、真剣に向き合うべき価値のあることではないかと思われる。

     破壊し犠牲に捧げられた存在としての男性

     最後に、少しばかり飛躍を承知で、「男性性」の本質についての私見を展開したい。「男性性」の究極の形態は、「私」を殺し、己を無にして「外部・現実」の法則に従う、ということである。ここまで「男性性」を、戦争や災害などへの対峙を一つのモデルとして書いたが、つまり、こちらの意のままにならず、コミュニケートも困難で、容赦なく命を奪ってくる「存在」との対峙から逆算して形成されたものが「男性性」なのではないだろうか。

     「科学」もまた、自然=宇宙を作った神を知ろうとする努力だが、その方法論には、自身の主観や気持ちを抑制することが必要とされる。つまり、神が作り給うたこの世界の法則を、自身の主観などを排して知ろうとする努力が科学であり、「私」「感情」などの否定が存在している。かつては、自然災害や不作などで大量に人々が死んでいた。自然や物理の法則を知ることは死活問題であり、宇宙の法則を知り応用可能にし自然を制御可能にしていくことで、現在のような平和と繁栄が達成され、そのような「外部」「現実」のシビアさを日常的に我々は意識しなくてもよくなった。集団のために一度魂や私を殺して人工的に作り上げられるものが「男性性」なのではないだろうか(これをラカンの用語で「去勢」、つまり、「父の名=法」に対する服従である)。そのプロセスで、非常に深刻なダメージやトラウマも蓄積し、後遺症も出る。男性は、権力があり、特権がある。同時に、破壊された存在であり、集団のために犠牲になる生贄のようなものであるように、筆者には思われる。

     戦争や災害は、いつ来るのか分からず、相手の意志も分からない。いざというときには、疲れや痛みなどを無視してでも必死にやらなければいけない。警戒も不安も疑心暗鬼も起きがちで、自身の感情や内面や気持ちの問題に関わり合っているような余裕などはないことも多い。目的を達成するために最適の方法を合理的に考えて実行し勝利しなければ自分が死ぬようなこともある。

     そのような「死」による脅迫への対抗のために、男性の「男性性」は構築されている。もし外敵がおらず、戦争もなく、自然災害も飢餓も疫病も存在していなかったら、軍事的訓練も、科学的トレーニングも、資本主義による過酷なイノベーション競争も必要ないのかもしれない。そして、死からの脅迫に基づき暴力的で理不尽な相手と対峙していることから、虐待の連鎖や抑圧の委譲のように、女性や子供や他の男性たちに反復してしまうのではないか。

     現実には、戦争も災害もあり、戦争がある限り兵器のイノベーション競争は止まることなく(強い方が勝つのが法則だからである。ITAIの開発競争もそのためにある)、競争や勝利に人々を駆りたて、経済的・科学的・軍事的な優位に立たねばならず、そのための「男性性」の構築も完全には辞めることが出来ない状況にある。

     エヴァ・バロンは「男性性は『決して完全に証明できるものではなく、永久に疑念に晒される、未解決のものである』ため、男性性の『危機』は常に進行形である。『男性性は常に立証が必要であり、その追求は絶え間なく続くのである』」(『男性学基本論文集』p291)と言ったが、このような人類史的状況と「男性性」は、卵が先か鶏が先か分からないが、同様の構図になっており、無限に到達できず達成できず、誰もが未達の不全感と自己否定感に囚われるようになっている。

     ここでは、無限に到達も証明もできない何かのため、男性たちの健康や幸福が絶えず犠牲にされ、その苦痛や不満が他への攻撃性に転嫁される。「男性」が「男性性」から降りるためにはそのような人類の戦争や進歩と随伴する「悪無限」をなんとかしなければならない。

     このような「男性性」のある部分は、決して近代から始まったわけでもないし、ただの構築だけでもなかろう、と保育園や小学校を観察していて、筆者は思っている。幼児の頃から、強い存在への憧れは存在している。それは、弱い存在になることが、いじめを受けたり、敗北して屈辱を受けて自尊心を損なうことと裏表の願望である。支配欲とは、支配されない安全への欲求でもある。野生の獣、他の集団などの外敵、自然災害などで、人間は悲惨な屈辱を受け続けてきた。それに勝利し、制御し、不安や恐怖から逃れ、安心と安全の感覚を持ちたいという願望を、人間は必然的に持つだろう。その願望を最高度に達成した存在が一神教における神であろう(一神教の神は男性や父で象徴される)。人間、あるいは文明は、神に向かう強迫観念によって駆動し続けているように思われる。

     その結果、平和で安全な環境で多くの者は豊かに暮らせるようになった。そして同時に、人類は自身を絶滅させる核兵器を手に入れ、地球環境を破壊し環境危機による絶滅の危機に追い詰められ、史上最大の豊かさであるにも関わらず苛烈な競争で生きづらさを感じ精神疾患や自殺が大量に起こる社会を作ってしまった。私達が「男性性」を矯めなければならないのは、人類を破局へと向かわせる慣性に逆らい、方向を変えるためである。膨大な男性たちを犠牲にし生贄にして無意味に膨れ上がる、虚無に捧げられたかのような文明のあり方を根本的に変え、平和と安全な世界を達成することが、男性たちを真に救うために必要な事なのだろう。

     

「女が差別されている」「いや、男の方がつらい」などと、今日もネットではバトルが繰り広げられている。統計的事実からすれば、どちらの主張も可能であるにもかかわらず、お互いに攻撃し合い、対立の度合いを深めていく泥沼とも言える事態が生じているのが現在だ。かようにネットで展開しがちな男女論、フェミニズムとミソジニストの衝突に一見見える対立を解きほぐし、丁寧に中間の領域の議論を積み重ね、対立図式からの脱却を目指す新連載。その方法論となる「男性学2.0」とはいかなる理論か。女性・男性問わず読んでいただきたい考察。
フェミニズムでは救われない男たちのための男性学
藤田直哉
藤田直哉(ふじた・なおや)

批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。