「恋愛におけるルッキズム」の基盤となっているスタンダールの美的恋愛を的確に批判しよう––「美的モノ化」の問題
-
第4回からここまでの議論を通して、ロマンティックラブ・イデオロギー批判をしてきた。準備が整ったので、ここからは恋愛におけるルッキズムという問題に取り組むことにしよう。
近年のルッキズム(lookism)批判とは、身体をめぐる不適切なコミュニケーションのあり方を問題視する議論のことである(と私は考えている)。ただたんに「外見で人を判断するのは良くない」ということを主張しているというよりも、外見がどのように社会的に取り扱われるのが適切(もしくは不適切)なのかをめぐる社会的議論の盛り上がりがルッキズム批判であると捉えるのが適切であるように思われる。
社会やテクノロジーの変化に応じて、身体の境界線もまた変化しており、その身体にどう接するのが適切かという基準やルールもいやおうなく変化する。そのようなダイナミズムの中で登場したのがルッキズムをめぐる議論だと考えることができる。
そこで、ここでも「恋愛における外見の取り扱い方」に焦点を当て、特にその問題事例である女性の美的モノ化の問題を見ていこう(第10回)。
何が問題視されているのかを明らかにした上で、次の第11回で、どのような形であれば恋愛における外見コミュニケーションとして問題がないのかを明らかにしていく予定である。
*
スタンダールの「純粋な」恋愛とは「美的恋愛」である
200年前、フランスの小説家スタンダールは、当時の「腐った社会」に対して「純粋」な恋愛の価値を掲げた。スタンダールが『恋愛論』(1822年)で提起したのは、社交界での評判を得るための虚栄心からなる恋愛とも、家柄、爵位、財産などの利益を得るための恋愛とも異なる恋愛、すなわち、相手の美しさに感動するという純粋な心の動きから始まる情熱的な恋愛であった。
この純粋な情熱恋愛は、同時期に確立していた美学的な態度を基盤としている(☆1)。まず、すばらしい恋愛を経験できるのは、文化的に洗練された感性を持つ人だけである。それのような「感性」を持ち合わせているかどうかは必ずしも階級によって決定されるものではないが、文化的教養が感性を磨くものであるという前提は想定されている。さらに、一定の文化的感性を持つ人が、感受性を研ぎ澄まして世界に向き合うという美的態度を取ることで、恋愛相手の美しさに心動かされることができ、相手の良いところばかりが目に入って相手が完璧で理想的な存在だという感情で満たされるという「結晶作用」を経験することができる。これが、スタンダールが定式化した恋愛の特徴であり、美的恋愛とでも呼ぶべき、一つの特徴的な恋愛の形式である(第4回)。
現代でも、もし「恋愛は美男美女が行うものだ」という思い込みを読者の皆さんがなんとなくどこかで持っているとしたら、それはこのような美的恋愛の影響を、私たちの文化も受けてきたからだろう。
だが、問い直したいのは、まさにこの点である。
「恋愛は相手の外見の美しさに感動することで始まる」とする恋愛の定義は、現代では一種の抑圧的な恋愛規範になってしまっているのではないだろうか。
「恋愛は美男美女が行うもの」という思い込みからなる暗黙の価値序列によって、多くの人の様々な感情的つながりの形が、「語る価値のないもの」、「語る必要のないもの」、「『本当の』恋愛ではないもの」として、語りを抑圧されてきたのではないだろうか。自分たちの関係についてポジティブに語るための「型」がこの社会にないことは、社会的抑圧の一種である。
おそらく、スタンダールが革命的なものとして提唱した美的恋愛は、200年後の現在、社会的規範の位置についてしまったのだ。
かつての革命児は、現在の権威である。
とはいえ、権威となって他人の自由な恋愛を抑圧することはスタンダールとしても不本意だろう。
権威を適切に解体していくことは、現在を生きる我々の仕事である。
*
「恋愛とはイデアへの憧れである」とするプラトン
美と恋愛は深く関わっているという発想は、西洋形而上学の源流、プラトンに遡る。西洋においては根深いものである。
哲学者の竹田青嗣は『恋愛論』で、「恋愛」として知られている「相手への惹かれ」とは、恋人の美しさにひきつけられることであり、それは「ほんとうの世界」であるイデアに憧れることである、と解説している(竹田, 2010,「恋愛の謎」>「2 恋愛の狂気性」Kindle版)。
イデアとは、真と善と美が一体となった天上にある理念のことである。プラトンによれば、人間は地上に生まれ落ちた時にそのイデアを忘れてしまうのだという。だが、地上の人間であっても、時々インスピレーションを得るようにして「これはイデアに近い!」と気づくことがある。恋愛はその数少ない機会である。
このように西洋文化において恋愛とは、ただたんに「私はこの人が好き」という個人的な好みを越え、真善美に近づくための道(すなわち、それは良き存在・人間になることも意味する)として価値化されてきた。
さらに、この延長線上で、近代的な美学の成立とともに、恋愛とは個人の洗練された感受性が発揮されることで経験されるかけがえのない美的経験の場としても価値化されてきた。こうして成り立ってきたのが「美的恋愛」である。
*
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に見る、女性の美的モノ化
この相手の外見の美しさへの感動によって恋愛が始まるとする美的恋愛は、「女性の美的モノ化」を伴って成り立ってきたという点で深刻な問題を抱えている。
スタンダールの同時代人であるゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774年)を見てみよう(☆2)。恋愛における女性の美的モノ化が明瞭に見られる。
この作品は全編が、主人公の青年ウェルテルによる手紙によって構成されているフィクションである。ウェルテルは友人宛ての手紙の中で、恋愛相手であるシャルロッテ(以下、愛称のロッテと表記)について次のように書いている。
こんな話の間中、ぼくは黒い眼に見入っていたんだ。いきいきとした唇、健康そうな若々しい頬に、ぼくの心全体がつかまえられてしまった。ロッテの言葉が持っているすばらしい意味にどうにもすっかり感じ入ってしまって、その口にした言葉を幾度聞き漏らしただろう––君のことだから、こういえばわかってくれるだろう。(p.30-31)
ここからは、ウェルテルがロッテの美しさに注意を集中することで、ロッテの言葉を聞き漏らしているということがわかる。しかも、相手が美しすぎたので、相手の言葉を聞き漏らしてしまったというふるまいが、「愛する女性を称賛するしぐさ」として理解されるという慣習があったのだということも、読み取れる。ウェルテルが、友人に向かって、「こういえばわかってくれるだろう」と述べているからである。
問題はこの部分だろう。相手の言葉を軽視すること、すなわち相手の意志や意向、感情といった内面的な主体性を軽視し、ただ外見的美しさだけに注目して相手を称賛することは、人間の「美的モノ化」と言わざるを得ない。愛の関係のただなかで、「愛情表現のふるまい」として、女性の発言を軽視する性差別が慣習化されていたということは、注意して読まれるべき点であるように思われる。
私は世界文学としてのゲーテの『若きウェルテルの悩み』を高校生の時に読んで「恋愛とはこういうものなのかぁ、分かるような分からないような、不思議なものだなぁ」と思ったのだが、その後、現実の恋愛場面での数々の男性的暴力に直面し、それを経た30歳代にこの作品を再読した時、「うわー、ウェルテル、完全にやばいヤツや……」となった。有害な男性性(toxic masculinity)を持つ人の恋愛場面での行動パターンが詰まった作品だと気づいてしまったからだ。
先の引用箇所から浮かび上がるのは「こちらの顔を舐めるように見つめながら(gazing)適当にあいづちを打ってはいるが、全然話を聞いていない人」の図であり、こういう人は現代でも本当に数多くいる。男性同士ではこういうコミュニケーションをする機会がないので、このような露骨な「人間の美的/性的/恋愛的モノ化」が頻繁になされているという問題は気づかれにくいのだろう。
(もしくは、「女性」の話は適当に聞き流すのが「男らしくてかっこいい」という文化的な解釈の枠組みがあるのかもしれず、そうだとしたら、それはそれで別の根深い問題があるような気もする。)
*
ウェルテルの有害な男性性
ウェルテルの「有害な男性性」についてもう少し語らせてほしい。
問題点は色々あるのだが、総じていえば、その最大の問題は、ロッテを「愛して」いるのに、というか愛しているからこそ、ロッテの考えや主体的意志、感情を尊重しようという姿勢がほぼないという点にある。あくまでも「ウェルテル自身の美的でロマンティックな感情のうねり」を気持ちよく高める客体・モノ(object)として、シャルロッテという特定の女性が、彼の注意の対象となっている。これが、恋愛における女性のモノ化の固有のあり方であり、その問題性が理解されにくいところであり、厄介なところでもある。
ウェルテルには、自分が愛する女性の気持ちや考えを尊重する気がないということがわかる箇所を一つ見ておこう。
諸事情あって、ロッテが夫に向けて書いた手紙の書き出しをウェルテルが目にした時のやり取りである。手紙には、「おなつかしいあなた、できるだけ早くお帰りくださいまし。限りないよろこびをもってお帰りをお待ち申し上げております」と書かれてあった。これを見たウェルテルは、ロッテに対して次のようにいう。
「空想力というものは、 実際神の賜物ですね。この手紙、一瞬ぼくに宛てたものだと勝手にきめてしまったんですよ」––ロッテは話をふっと切った。気を悪くしたらしい。僕も黙ってしまった。(p.121)
この気持ち悪い絡み方! わかってもらえるだろうか。
自分勝手な思い込みを、わざわざロッテに伝えるところも気持ち悪いが、ロッテが口をつぐんで小さな抵抗を示したことに対して、ウェルテルは謝罪するわけでもなく、場をとりつくろうこともせず、自分も「黙る」という行動をすることで、自らの正当性を堅持しようとところが、さらに気持ち悪い。
この記述からは、ロッテはウェルテルの恋愛的アプローチに困っていることが、読み取れる。ウェルテルも、ロッテがウェルテルの恋愛的アプローチに困っているということに、気づいている。友人への手紙で「気を悪くしたらしい」と書ける程度には、ウェルテルは事態を認識できてはいるのだ。
にもかかわらず、ウェルテルは、ロッテの行動や発言を「自分に都合のいい」形で歪めて理解して一喜一憂し、一人で苦悩している。この場合の「自分に都合がいい」とは、自分の美的感情やロマンティックな苦悩が最もよく盛り上がったり盛り下がったりすることを指す。「あの行動は自分への好意に違いない、ロッテは本当は自分への好意があるのだけれど、夫の前だから素直に表現できないんだろう」というように解釈して希望を保ちつつ、さらに絶望を深めるループに陥っている。
私がここで告発したいのは、ロマンティックな空想と苦悩、感情の浮き沈みの激しさではない。そのような感受性の強さや繊細さは、ロマン主義文学が確立した一つの文化的価値である。
私が不当だと感じているのは、男性主体のロマンティックな情熱(感情)が、恋愛相手である女性の考えや感情を無視したり軽視したり捻じ曲げて理解したりすることで成り立っているということである。自分の「純粋な愛」という情熱を優先し、自分の「ロマンティックな台本(スクリプト)」に応じた特定の役回りを女性に押し付けて演じさせておきながら、自分はあなたへの愛によって苦悩していると訴える、その傲慢さである。
それらが、女性の主体的な意思や感情を軽視してなされてきたことが、恋愛における女性の「美的モノ化」という問題である。
*
美的恋愛が作り出してきた慣習を批判していくことの重要性
女性への真摯で情熱的な愛を表現するその表現しぐさに、「女性のモノ化」が組み込まれているとは、なんてアイロニカルなことだろう。愛すれば愛するほど、女性をモノ化することになるのだから。この論理をとっている以上、異性愛者たちは愛を深めるほど、離れていくことになってしまう。
美的恋愛規範がもたらしてきた慣習については、このほかにも様々な問題が潜んでいるように思われる。詳細に検討していく必要と価値と甲斐のあることだろう。
今回検討した 恋愛における女性の美的モノ化は、恋愛におけるルッキズムの深刻な事例であり、人間の身体である「外見」をめぐる不適切なコミュニケーションのあり方(社会的な扱い方)であった。
この議論を踏まえつつ、次回は「外見から始まる恋愛」について、もう一歩掘り下げて、考えていこう。
*
補論
前述の竹田の議論の続きを参照すると、美的恋愛における「女性の美的モノ化」には特有のエロティシズムが伴っているということがわかる。
【注意】ここで注意書きをしておくが、この竹田議論は、私個人としては、「性的なもの」の理解として不快だと感じるものである。読み進める人は、その点を注意してほしい。(これに加えて、竹田の議論は、異性愛のみを念頭に置き、異性愛男性のみを主体とした分析であることも、多くの人に心的ダメージをもたらすものであると思うので、最初に書き添えておく。)
竹田によれば、恋愛とは、まず女性を美的で聖なる存在として価値化した上で、その後、その女性を性的欲望の対象とすることで相手を「〝高み〟から引きずり下ろす」ことであり、ここに恋愛特有のエロティシズムがあるのだという。この点に関しては、竹田の文章も見ておいた方が、もっとニュアンスが明瞭になるかと思う。
男女にとって相手がエロス的な対象でありうるのは、そこに何らかの「美徳」や「価値」(=ロマン的幻想)を直観できる場合である。まったく「美」や「価値」を認められない相手と性的な関係をもつことは、「惨めな気持ち」を起こさせる。それは自己を価値下落させる。エロティックな欲望のエロスは、相手の「美(徳)」や「価値」を一定の〝高み〟から引きずり下ろす、その「落差」を利用することしかできないからだ。 (pp. 173-174)
ちなみに、竹田は、このエロティシズムの論理は、異性愛女性の視点でも成り立っており、生きられているはずだと論じている(☆3)。
私は、「高み」から「引きずり下ろす」のがエロティックだという感覚をうまく共有できていないので、全く共感できない。ただし、美的モノ化と性的欲望がどのように絡み合って恋愛的モノ化を成り立たせているのかを説明する一つの理論モデルとしては興味深いものであるように思われる。
とはいえ、このような議論を読んだ瞬間、異性愛男性において恋愛とは一般的に愛する女性の美的モノ化と性的モノ化から成り立っていたのかもしれない……という世界への不信感と不安がめちゃくちゃ高まる、恐ろしい議論ではあるのだが。
☆1:美学の基盤となった美的判断力は、自然科学的で合理的な理性的能力(純粋理性)とも、倫理的・道徳的な能力(実践理性)とも異なるものとして、西洋近代において区別され、そして重視された。
近代科学が専門領域として分化しながら確立していったこの時期(18世紀後半から19世紀)、美的判断力は、理性とも道徳とも異なる独自の総合的判断(直感)をもたらす判断力として重視された。カントの『判断力批判』では、神のような「完全な理性」ではなく「不完全な理性」しか持たない人間は、「美」を通して真や善を直観すると論じられている。
☆2:スタンダール流の美学的恋愛論は、この時期の西洋形而上学におけるギリシャ哲学の復興という時代的潮流の中で成立した。より正確に言えば、ギリシャ哲学の復興からなる古典主義-対-近代主義の思想的潮流(18世紀)と、その対立的総合(弁証法)の一種として登場したロマン主義(18世紀後半から)の思想的潮流の中で、スタンダールの恋愛論は形作られている。この意味で、ゲーテとスタンダールは「同時代人」である。
☆3:異性愛女性のエロティシズムの論理について、竹田は次のように述べている。「女性が男性のエロティックな欲望の的となり、その欲望を受け入れることのうちには、必ずこのような「善に唾を吐きかける」決意がひそんでいる。しかもそれが女性にとっても快楽であるのは、このことのうちに、自分がまず「美」を象徴しており、それからそのようなものとしての自分を「辱められる」こと、が含まれているからである。女性は男性の欲望の目標となるかぎり、必ず自分自身が「美」として措定されていることを知っている。女性は自分が「美」であるというロマン的幻想にそのエロティシズムのはじめの根をおいている。」(pp. 172-173)。さて、どうだろうか。私個人としては、やはり、そもそも「善に唾を吐きかける」のが「エロティック」だとはどうしても思えないので、この論理は一歩目から全く共感できずにいるところであるが、女性読者の皆様の多様なご意見を乞う次第である。
文献
▪️越智啓太, 2015, 『恋愛の科学––出会いと別れをめぐる心理学』実務教育出版.
▪️ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ, 1744=1951, 『若きウェルテルの悩み』高橋義孝訳, 新潮文庫.
▪️スタンダール, 1822=1970, 『恋愛論』, 大岡昇平訳,新潮文庫.
▪️竹田青嗣, 2010, 『恋愛論』ちくま学芸文庫.