フェミニズム恋愛論
何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。
第7回

「付き合う前にセックスをしてしまうと、真剣な恋人関係になれない」のか?──セクシャルネガティブとは何かを考えるための実例

2025.02.14
フェミニズム恋愛論
高橋幸
  • 現代の「あるある」な俗説を見ながら、何がセクシャル・ネガティブなのかを考えてみよう。

    「付き合う前にセックスをしてしまうと、真剣な恋人関係になれない」という俗説がある、らしい(例えば、桃山商事, 2017,『生き抜くための恋愛相談』の4番目のお悩みとして登場している)。デート→付き合う→セックスの順番を取らないと「付き合う」に至るのは難しい……のか?というモヤモヤとした不安が、この俗説のまわりを漂っている。

    ちょっと周囲を見渡してみると、アングロサクソン文化圏では、デート→セックス→ステディな関係というのが、「一般的」な関係深化のステップとみなされている。日本語の「付き合う」に相当する英語表現がなく、セックスをしたり一緒にいる時間が増えたりしてお互いに相手が特別な関係だという気持ちが明らになったときに、「私たちステディだよね?」と確認し合うのが「ステディ」であるそうだ(友人の北米育ち英語話者いわく [1])

    この例を見ても、「付き合う前にセックスをしてしまうと、真剣な恋人関係になれない」が普遍的な真理ではないということは分かる。「ステディな関係になる(=付き合う)前にセックスしたら、ステディになれない(=付き合えない)」のだとしたら、北米の多くの人は、永遠にステディになれない運命になってしまうからだ。

    ……が、今、論じたいのはこういう文化相対主義的な話ではない。「この恋愛規範は文化によって異なるから、生物に組み込まれた絶対のものじゃないんですよ」というような話はたぶん聞き飽きてると思うし、日本語文化圏の人との交際をなんとか成功させたいというときには役に立たないし。(自分の恋愛観を考え直すときには役に立つけど!)

    今、知りたいのは、「で、実際のところはどうなの?」である。恋愛的情熱を持つ前にセックスをしてしまうと、その後に恋愛的情熱を持つことが難しいというのは本当なのだろうか?

    これを考えるために、現代の科学者が恋愛感情の発動メカニズムと性欲との関係についてどんな説明をしているのかを見ていこう。

  • 脳神経心理学によれば恋愛/性/愛着は独立のシステム

    脳神経心理学の手法を用いて進化論の立場から、恋愛に関する文化的差異と共通点についての研究を進めているヘレン・フィッシャー[2]によれば、特定の人に対する熱愛状態にある脳と、性欲を刺激されている状態の脳、愛着を感じている状態の脳は、その活動パターンが異なっているという。

    19世紀の近代文学では、恋愛的情熱と性的情熱は異なるものとして確立されていたが、脳状態で見ても異なるというわけだ。

    恋愛と性を区別する思考枠組みが文化的にすでに存在しているから、その枠組みにそった形での「脳内物質」が発見され注目されているという可能性はある。だが、たとえそうであるとしても、測定可能な「物質」が特定されているということは事実として重要だし、その物質の動き方を見ていくことは愛についての議論を深めていく上で参考になるだろう。

    フィッシャーは、脳の血流を測定する脳機能イメージング技術(機能的磁気共鳴画像法, fMRI)を用いて、恋愛と性と愛着の脳状態が異なっていることを明らかにしている。(ちなみに、脳神経心理学らの「恋愛」の定義は、特定の個体への偏愛である。)

    「現在、恋人への熱愛状態にある」と自己申告した人がその相手のことを想起しているときの脳を測定すると、腹側被蓋野(VTA)をはじめとする尾状核の血流が増加して活性化しており、ドーパミンやノルエピネフリンの大量放出とセロトニンの減少が起こっていると推論される。

    ドーパミン(やノルエピネフリン)は、覚醒状態や高揚感をもたらし、それを経験することそのものが報酬となるような快楽物質である。極端なほどの集中力の高まりや目的に動機づけられた行動、記憶力の増大などをもたらす。恋愛感情を持つと、エネルギーに満ちてきて、愛する人に一心に注目し、相手を新鮮でたぐいまれな存在だと考えるようになり、相手の良い面だけが見えるようになり、相手に関する細かい点まで覚えていられるのはドーパミンの作用であるという(Fisher 2007:96-99、[3])

    これに対して、性欲が刺激されている状態の人ではテストステロンが大量分泌されている(ibid. 135)。脳下垂体からの指令によってテストステロンが血中に分泌されると、性的欲望に基づいた目的志向的行動が引き起こされ、性的オーガズムに達すると大量のドーパミンが脳内に放出される。(フィッシャーはそセクシュアリティ方面の研究を自分では行っていないようで、このあたりの記述は少ない。今後、私自身も脳神経科学者のセクシュアリティ研究論文をしっかり読もうと思う。)

    さらに、恋愛期間が長期に及ぶ相手を想起しているときには、帯状回前皮質と島皮質の血流が増加し、オキシトシン(やバソプレシン)が分泌されている(ibid. 124-125)。ここから、「恋愛期間が長引くと、感情、記憶、集中度と関係する脳の部位が新しい形で反応をはじめ」(ibid. 125)、それによるオキシトシンの分泌とともに、これまでの関係の蓄積とその記憶から得られる多種多様な満足感が「愛着」として経験されているのだろうと推論されている。

    すなわち、恋愛にはドーパミン、性にはテストステロン、愛着にはオキシトシンといった物質が関わっており、この3つは異なるシステムだ、というのがフィッシャーの議論である。(心配になるほど図式化されたわかりやすい話だが、もう少しお付き合いいただきたい。)

  • 恋愛/性/愛着システムは影響を与え合うこともある

    この3つは、基本的にはそれぞれが独自の「目的」を達成するまで駆動し続ける独立のシステムである。ここでいう「目的」とは、相思相愛になるとか、性的オーガズムを得るとか、愛着を感じるとかである。

    そのため、この異なる3つの「愛」を、それぞれ異なる人に対して同時進行的に持つこともできるし、一人の人に対してこの3つの脳内システムが相互強化的に働いて「強い愛」(心理学者のスタンバーグが「完全な愛」と呼んだようなもの)になることもある。

    ただし、脳内という同じ場で作動するので、互いに影響を与え合うこともある。

    例えば、恋愛的情熱が時間経過とともに低下するケースを、脳神経心理学者はこう説明する。関係が長期化すると相手との接触によってオキシトシンが分泌されやすくなるが、このオキシトシンの増加によって「ドーパミンとノルエピネフリンの脳内通路が妨げられ、この刺激物質の影響力が低下」(ibid.151)することがある。これが、恋愛相手への「愛着」が強まると恋愛的情熱が鎮静化すると感じられる理由かもしれない、と。

    また、恋愛感情の高まりが性欲をもたらすケースは、次のように説明される。恋愛的情熱をもたらすドーパミンの分泌量が高まって脳が興奮することで、テストステロンの分泌を刺激することがある(ibid. 140)

    さて、私たちが気になるのは、この逆、すなわち性欲の高まりが恋愛感情をもたらすのかどうかだが、フィッシャーは、これはあまり起こらないと考えているようだ。というのも、フィッシャーの議論では、人が恋に落ちるのは、目の前に現れた人が自分の「ラブマップに合致した」ときだからだ。

    ラブマップとは、ブレインマップ(脳地図)になぞらえてフィッシャーが作った概念で、その人が幼少期から積み重ねてきた自分の「好み」に関する感覚の総体のことである。その人それぞれの「好き嫌い」や「心地よさ」の感覚は、情動を伴った身体的な記憶となって積み重なり、個々人ごとに異なる複雑なラブマップを作り出している。そして、そのラブマップを脳に持つ本人は、自分のラブマップにかなった人であるか否かを、情動反応によって瞬時に判断できる、というのがフィッシャーの理論である。(これは情動論的研究の潮流を踏まえたものであり、全てが実証されているわけではないが、現在の脳科学的知見に基づいた整合性の高い理論モデルであるようには思われる。)

    したがって、テストステロン分泌量が上がったり、テストステロンをクリームなどで肌から摂取したりすると性的興奮は起こるが、それによって恋に落ちるというわけではない。性と愛は異なる原理だからだ。

    同様に、最初にセックスしてしまったからといって恋愛感情が湧かなくなるというような規定関係もない。フィッシャーはこういう事例を報告している。もう3年近くカジュアルセックスをする関係だった中年カップルの一方が、ある日突然、相手に恋愛感情を持つようになり、「恋焦がれる気持ち」や「恍惚感」、「強迫観念的な思考」(相手のことばかり考えてしまうこと)が始まった(ibid. 143)。このように、「ただの友達」であったセフレが、突然、自分のラブマップに合致する人になり、心から愛すべき人なのだという思いに変化することもある。やはり性的な情熱と恋愛的な情熱は別だから、こういうことも起こるのだというのがフッシャーの議論だ。

    このように、恋愛感情がいつ、どのタイミングで、どのような関係の人に発動するかは、かなりのバリエーションがあり、それはセックスの前でも後でも起こりうる。これが、現状の脳神経科学的アプローチからわかることである。

    というわけで、「付き合う前にセックスをしてしまうと、真剣な恋人関係になれないのか?」に対するさしあたりの結論は「ノー。実際にはそんなことはない」になる。

  • 「セックスか愛か」は質的な違いというよりも「目の前の報酬か長期的な報酬か」という違い

    だが、私個人としては、フィッシャーのような脳神経科学的進化論的な議論からは次のような議論も引き出せてしまうよなぁと考えている。フィッシャーの議論は、恋愛も性も愛着も脳にとっては一つの「報酬」であるという議論だった。具体的な作用の仕方は複雑に異なるが、脳にとって快い状態をもたらすという「報酬」であるという点で、恋愛と性と愛着は同じである。

    その場合、手近な、短期間で得られる、目の前の報酬としての性的快楽への情熱にコミットするのは、生物として合理的な選択ではないだろうか。対人的性愛行為でオーガズムに達することができる人であれば、数時間か数分で脳内ドーパミンの大量放出が経験できる。それは恋愛や愛着よりも早く手軽に報酬が得られる方法である。

    とくに自分の将来についての長期的な見通しが立ちにくい状況に置かれた人(経済的基盤が脆弱な人、進学・就職などで居住地やライフスタイルが変わる可能性のある人など)ほど、短期的な報酬に労力を注入するのが理にかなった選択に見えるはずだ。

    現代においてもなお「最初にセックスしてしまうと恋人になれない」という俗説が存続しているとしたら、それを支えているのは、かつてのような性に対する蔑視というよりも、生物には目の前の短期的な報酬を選択する傾向があるからのように思われる。一定の快楽物質が脳内に出ている状態の場合、それ以上を必要としない。満腹な時に食欲が湧かないという原理と同じ単純さで、最初にセックスでの快楽が得られると恋愛への動機づけが弱まるというのが、ここで起こっていることなのだろう。これが、相手への偏愛状態が生じていない段階でセックスした後だと、相手への恋愛的情熱がうまく湧かないと言われる時の「湧かない」メカニズムだと考えられる。

    社会がよりセクシャルポジティブになり、性へのネガティブな感情が減って、安全に多様な形で性が享受できるようになることことは望ましいことだ[4]。だが、この変化と同時に、雇用の不安定性や流動性が高まり、家族生活への見通しが立ちにくくなる場合、人々は性的情熱の方に駆り立てられることになるだろう。

    ある程度の時間をかけてコミットする恋愛や、愛着がもたらす快さがあり、それは複雑で充実感の高い心地よさやかけがえのない安心感をもたらすのだとはわかっていても、それへとうまく動機づけられうる人は、一定の条件が揃った人だけになってくるかもしれない[5]。

  • 現代のセクシャルネガティブな態度とは?

    この先どう社会が変わるかはわからないが、現代の性と愛がだいたいこういうふうに成り立っているのだなということが見えてくると、どういうものがセクシャルネガティブな態度なのかということも、より明らかになってくる。

    まず、性と愛は原理的に異なるものとしてあるということを認めた方が、脳科学的な知見を踏まえても、文化的な知見からいっても、話がスッキリする。

    性的欲望と恋愛的情熱を別のものとして区別すること自体は別にセクシャルネガティブではない。愛なしでセックスするのが悪いわけでも、セックスしたのに愛情を持てないことが悪いわけでもない。このような感情そのものについては良いも悪いもなく、そもそも倫理的判断の対象ではない。

    問題になってくるのは、セックスをするために恋愛感情があると自他に対して嘘をついたり、付き合うという関係性を手に入れるために(自分はあまり性的欲望がないけど)セックスすることを受け入れたりすることなどだろう。「性」と「愛」のどちらか一方を他方に従属させたり、手段としたりすることが、セクシャルネガティブに一歩近づく態度なのだと整理できる。

    相手や自分の感情はコントロールできないが、自分が相手に対して持っている感情が性的感情なのか恋愛的感情なのかを、なるべく明らかにすることはできる。「自分が現時点で相手に持っているのは恋愛感情のような気がする」とか、「性的情熱なだけな気がしていて、とりあえずセックスしたい、その後のことはその後、考えたい」とか、「性的ファンタジーの相性がいいから定期的に性関係を持ちたい」とか。

    お互いにそれぞれが自分の気持ちに向き合い、それを伝え合い、それも踏まえた上で、セックスに同意するということは、けっこう重要だと思う。性的同意というのは、そういうふうに自分と相手の気持ちにきちんと向き合うということなのではないか、もしかして。

    一方は性的情熱、他方は恋愛的情熱というようにお互いの気持ちが合致せず噛み合わなかった時は、気持ちを切り替えて別の人を探すしかないだろう。「付き合う」ことに同意したら、相手のどんな性欲にも付き合うのが「愛」だというふうにワンパッケージで理解されていた時代より、コミュニケーションの時間も手間もかかる。だが、性や愛というのは、それくらい大事に扱われてしかるべきものだ。

    なんだか、脳内がドーパミンやテストステロンで大変な興奮状態にある時に、その自分の気持ちにきちんと向き合うべき、なんて、無理なことを言っているような気もするが、「そういう自分」に意識を向けてみることは興奮状態を存分に享受することにもなる。

    それも楽しいと思えたら、人生が豊かになりそうな気がする。

    おすすめ文献

    ▪️桃山商事, 2017,『生き抜くための恋愛相談』イースト・プレス

    ▪️ヘレン・フィッシャー, 2007, 『人はなぜ恋に落ちるのか?––恋と愛情と性欲の脳科学』(大野晶子訳)ヴィレッジブックス

[1]日本語の「付き合っている」は「デートする関係にある(dating with)」と翻訳することが多いと、私の英語話者の友人が言っていた。「I’m dating with A(最近私は、Aさんとデートする関係にある)」みたいに使うが、この場合、デートする相手は同時期に複数いる可能性が想定されている。そして、デートを重ねる中で、そこから「ステディ」な一人が決まっていく。ステディになるかどうかを決める前に、性行為をすることも多い。
[2]脳神経アプローチを用いた恋愛研究の第一人者であり、WIREDでの動画もある(https://www.youtube.com/watch?v=CZA4wfFY4iw)。
[3]ドーパミンの側坐核内での増加が特定の個体への偏愛をもたらすことは、プレーリー・ハタネズミの実験からも実証されている。プレーリー・ハタネズミにドーパミン分泌量を増やす合成物を注入したところ、注入時に目の前にいたオスをひいきするようになったため(Fisher 2007:90-91)、ドーパミンが特定の個体への偏愛に関連しているのだろうと考えられている。(ちなみに、プレーリー・ハタネズミで「実証」されたからといってその結果をヒトに適用できるのかという問題についても分厚い議論の蓄積があり、私はそれについては判断ができない。)
[4]ピルやコンドームは価格が下がりつつあるとはいえ、若者にとってはまだ手軽に手を出せない価格帯であることも事実であるから、学校の保健室や地域のヘルスケアセンター等での無料配布へと道を開いていくことは喫緊の課題だ。トイレに無料で使える生理用品を設置したのと同様、その隣にコンドームも設置するとよいのではないかと思う。CSR(コーポレートソーシャル・リスポンシビリティ)活動の拡大を模索している企業の皆さん、ぜひ。
[5]ある程度安定した経済状況や、対人関係形成力に関する自己効力感、性的魅力に関する一定程度の自己評価に加えて、これまでの人生で、自ら人生計画を立て努力しそれを達成できたという成功体験をどれくらい持てたか(ここには家庭環境や教育環境、教育歴などが関わる)なども影響するかもしれない。恋愛格差社会論が成り立ちそうだ。
何か・誰かを好きになることは、この世界への希望を持つことに似ている。ひとを好きになること=恋愛には、様々な可能性が秘められているにもかかわらず、恋愛はジェンダー的な下位に置かれていないだろうか? 恋愛にジェンダー平等の視点を取り入れることで、見渡しの良い社会像が見えてこないだろうか? ジェンダー平等な恋愛ははたして可能か? 恋愛をめぐる既存の慣習の何が問題なのか、社会学、心理学、文学、哲学などの成果を手がかりにしながら考えていく新連載。より親密な世界の構築のために。
フェミニズム恋愛論
高橋幸
[1]日本語の「付き合っている」は「デートする関係にある(dating with)」と翻訳することが多いと、私の英語話者の友人が言っていた。「I’m dating with A(最近私は、Aさんとデートする関係にある)」みたいに使うが、この場合、デートする相手は同時期に複数いる可能性が想定されている。そして、デートを重ねる中で、そこから「ステディ」な一人が決まっていく。ステディになるかどうかを決める前に、性行為をすることも多い。
[2]脳神経アプローチを用いた恋愛研究の第一人者であり、WIREDでの動画もある(https://www.youtube.com/watch?v=CZA4wfFY4iw)。
[3]ドーパミンの側坐核内での増加が特定の個体への偏愛をもたらすことは、プレーリー・ハタネズミの実験からも実証されている。プレーリー・ハタネズミにドーパミン分泌量を増やす合成物を注入したところ、注入時に目の前にいたオスをひいきするようになったため(Fisher 2007:90-91)、ドーパミンが特定の個体への偏愛に関連しているのだろうと考えられている。(ちなみに、プレーリー・ハタネズミで「実証」されたからといってその結果をヒトに適用できるのかという問題についても分厚い議論の蓄積があり、私はそれについては判断ができない。)
[4]ピルやコンドームは価格が下がりつつあるとはいえ、若者にとってはまだ手軽に手を出せない価格帯であることも事実であるから、学校の保健室や地域のヘルスケアセンター等での無料配布へと道を開いていくことは喫緊の課題だ。トイレに無料で使える生理用品を設置したのと同様、その隣にコンドームも設置するとよいのではないかと思う。CSR(コーポレートソーシャル・リスポンシビリティ)活動の拡大を模索している企業の皆さん、ぜひ。
[5]ある程度安定した経済状況や、対人関係形成力に関する自己効力感、性的魅力に関する一定程度の自己評価に加えて、これまでの人生で、自ら人生計画を立て努力しそれを達成できたという成功体験をどれくらい持てたか(ここには家庭環境や教育環境、教育歴などが関わる)なども影響するかもしれない。恋愛格差社会論が成り立ちそうだ。
高橋幸(たかはし・ゆき)

1983年宮城県石巻市生まれ。2008年東京大学総合文化研究科修士課程修了、2014年同博士課程単位取得退学。明治大学、國學院大学、武蔵大学、明治学院大学、日本女子大学、成城大学、成蹊大学、関東学院大学、東北学院大学等の非常勤講師を経て、現在石巻専修大学准教授。専門はジェンダー理論、社会学理論。著書に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど──ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(2020年 晃洋書房)、共著に『離れていても家族』(2023年 亜紀書房)、最新刊は『恋愛社会学』(2024年 ナカニシヤ出版)。