「恋愛と結婚は別物」が家族主義規範を温存する
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ロマンティックラブ・イデオロギーとは「恋愛–性–結婚を同じ人とするのが価値ある(正しい)性愛だとする規範」のことである。これまでのフェミニズムの恋愛論では、この規範を批判して恋愛と性と結婚の三位一体を解体していくことが目指されることが多かった。
だが、このような議論の潮流によってもたらされた弊害がある。それは、恋愛–性–結婚のそれぞれが具体的にどのように関係しているのかに関するフェミニズム的な議論が深まらなかったことである。恋愛と結婚がどのような関係を切り結ぶようになると、よりジェンダー平等になったと言えるのか? といった議論が深まらなかった。
「恋愛結婚」を根底的に批判して「脱恋愛」を訴える革命思想はもちろん、重要だ。それは新たな哲学や理論をもたらす。
ただし、社会科学は、改良主義的な立場(少しずつ社会を良い方向に変えていこうとすること)から経験的なデータを緻密に積み上げていくところに成り立つ。恋愛社会学を提唱している私としては、改良主義の戦略を推し進めていきたい所存である(☆1)。
このような立場から、前回は「恋愛と性」の関係を考えた。
今回は、「恋愛と結婚」がテーマである。恋愛と結婚は切り離すのではなく連続的に考えた方がジェンダー平等に一歩近づくと思う、という話をしていこう。*
「恋愛と結婚は別物」は鬼門
「恋愛と結婚は別物(べつもの)」という考え方は、フェミニストにとっての鬼門である。これまでの女性差別的な恋愛や性の慣習は、だいたいここから入り込んできた。
男性の風俗通いや「ビジネスマン」同士の風俗接待は、1980年代バブル期の日本で暗黙の了解として「認め」られていた。その正当化の論理の一つとなったのが「恋愛と結婚は別物」であり「妻には性欲が湧かない」という俗説である。
結婚したり、性的関係を持ったりした「女性」に対しては、「情熱」が失われるものであり、これは「自然」な仕方のないことなのだという男性的言説。これは、欧米では少なくとも産業近代社会が成立してからのこの250年間以上、日本でも明治期にはすでに見られ(社会学者は江戸時代といった「近代」より前の社会を分析するのは苦手だ。社会の構造が異なっているため、専門の訓練を積んだ歴史社会学者以外の社会学者が分析・言及すると間違えることが多い)、長いこと、まことしやかに語られてきた。それがどのようなマテリアルなものと関連づけ、どのようなレトリックで語られてきたのかを見ていくことが重要だ。
西洋文学は、「女性」への求愛(性愛の要求)と領土戦争とを比喩的に語るレトリックを発達させ、繰り返し用いることで、この考え方を促し、構築し、下支えしてきた。「恋人は意中の婦人を攻囲する。彼は婦人の貞操に対して愛の攻撃を加える。彼女に肉薄して、追撃して、その廉恥心の最後の砦を打ち破り、奇襲によって敵の背後を衝こうとする。ついに婦人は無条件降伏する」(『愛について(下)』 p.170)。これは、歴史学者ドニ・ド・ルージュモンが、1930年代後半に行った愛の研究で挙げている記述例である。
ド・ルージュモンは、恋愛や求愛が「戦い」の比喩で語られながら確立してきたことを明らかにした。「古き良き中世騎士道時代の物語(11世紀〜12世紀のトゥルバドールが語った物語)」は18世紀ヨーロッパで掘り起こされて再興したものであるが、この騎士道恋愛は、高貴な女性へのロマンティックな愛と、封建領主への忠誠心に基づく領土征服戦争とをアナロジカルに(すなわち一方で成り立つのと同様の性質が他方でも成り立つという前提で、両者を比喩的に)語るものであった。このような騎士道恋愛が、戦争と女をめぐる「男のロマン」語りの文学的な型(タイプ)をもたらしてきた。
ちなみに、女性蔑視的な儒教文化の強かった明治・大正・昭和期の日本では、そもそも騎士道恋愛型の物語がそこまで男性に広がらずベストセラーになったりもしなかったので、「男のロマン」の意味合いが欧米とは少し異なっている。日本語で「男のロマン」と言われる場合は、精神的な恋愛への憧れよりも性的な意味合いの方が強いし、そもそも「男だけが理解できる」という意味合いが強く女性とは結びつかない事柄を指すものも多い。
時代が下って「火器」が戦場のメインになってくると、それは露骨な性的表現と結びつけられていくようになる(ibid. p.170)。これは、騎士階級ではなく一般国民からなる兵士によって戦争が遂行されるようになったことによる戦争の質の変化ゆえだと、ルージュモンが述べている。ちなみに、ルージュモンの議論は、性愛を戦争の比喩で表現することを批判するものではない(それを批判するのはフェミニストだけだろう)。彼が嘆いているのは、20世紀の世界大戦は戦争の質を変えてしまい、もはや騎士道精神での戦争(勇気と忠誠心でもって武勲を立てる「英雄」を生み出す場としての戦争)が成り立たないという点である。
階級も出身地も異なる男性兵士たちは性的なスラングを使うことで、仲間意識を形成した。性愛を個人の自由の領域とし、その自由主義体制を守るために戦うという大義を掲げた自由主義陣営において、この傾向は特に強かった。この軍隊文化が銃後の一般社会にも広がって、独特なマッチョ的ヘテロセクシュアル男性文化が興隆したのが20世紀後半の社会だ。
このように、文学的な型(タイプ)か軍隊的な型(タイプ)かの違いはあれ、いずれも性愛を戦争や攻撃の比喩で捉えるという枠組みを共有している。
この枠組みの場合、恋愛(求愛)は「攻撃」であり、結婚は「占有」であるから、たしかに両者は別物でしかありえないだろう。*
長期的なパートナーとの相互理解や情緒的満足といった「愛」を後回しにさせる現代の家族主義規範
恋愛は「攻撃」であり結婚は「占有」だというふうに考えている人は、現代ではだいぶ減ってきたと思うが(☆2)、もっとマイルドな形での「恋愛と結婚は別物」という考え方は、いまでも確固としてある。
それは、結婚すると二人の関係性は変わるという考え方である。
家族を運営することが二人の共通の目的になり、それに向けた家族役割をお互いがきちんと果たすことが、相手への責任になる。そのため、恋愛関係の頃のように、相手と自分の感情がお互いの関係の中心的なものを占めるわけにはいかず、結婚関係においてはそれが後回しになるのは仕方がないという考え方だ。
でも、それ、本当に後回しにしてしまって大丈夫なのだろうか?
家計維持や子育てといった家族役割が優先され、夫婦間の情緒的満足の優先順位が低くなっているのは、いったいなぜなのだろう?
「いやいや、家族という単位を維持できなければ、個々人の情緒的満足も不可能なのだから、情緒的満足が後回しになるのは仕方ないでしょ」という声が聞こえてきそうな気がしているが、ここで問いたいのは、長期パートナー間の情緒的満足もまた、家計の維持と同じくらい重要であり優先されるべきだという考え方もあるのでは? ということだ。
パートナー間の愛情が消えてしまったら、それはもはや家族として成り立っていないとみなす考え方も、論理的には十分ありうる。実際、次回以降に紹介する予定の、個人主義文化圏の家族(パートナー間の愛情を核とする家族で、具体的にはドイツ語圏オーストリアの事例研究)はそのようなものになっている。
夫婦間の感情的ケアや相互理解は後回しになっても仕方ないと判断されるとき、そこに働いているのは家族主義規範である。家族主義とは、個々人の欲求を多少犠牲にしてでも家族という統一体の維持こそが優先されるべきだという原理のことである。それが現代では成人の情緒的満足の後回しという形で表れている。*
長期的パートナー間の情緒的満足(相互理解と感情的ケア)の重要性
パートナーとの相互理解や感情的ケアは、自宅というプライベート・スペースを安全なものとして保つために、不可欠なものである。お互いの状況や感情を理解し合うことで、相手は自分の「味方」や「仲間」であるという感覚を維持することは、生活スペースを共有する以上、最低限、必要なことのように思う。
また、長期的なパートナーだからこそ、つまり、これまでも一緒にやってきて、これからも共に生きるであろう相手だからこそ、この人には自分の気持ちや考えを分かっておいてほしいという思いは発生する。それは関係の時間的経過とともに発生する期待構造であり、その思いが満たされることは人生において重要なことだと、私個人としては思う(とはいえ、これと機能等価なことは、例えばSNSで自分の状況や考えを発信することなど多数あるということについては(☆3)を参照)。
これらが一般的に「個人の情緒的満足」(社会学者タルコット・パーソンズの用語だと「成人のパーソナリティの安定化」)と呼ばれてきたものだ。これが日本では軽視されがちで、家族役割をきちんと果たすことの方がより重視されてきた。
このような家族主義を下支えし、それを当然のものと思わせているのが、結婚関係になったら恋愛の頃のような愛情関係は成り立たないとする「結婚と恋愛は別物」である。*
恋愛を仲介させない合理的な結婚、恋愛から始まる持続的な愛の関係
もちろん、愛のようなよくわからないものを相手から求められるよりも、やるべきことが明瞭な家族役割規範の中で生活をした方がラクだし、自分が求めている生活はまさにそれだという人も、一定数いるだろう。そもそも結婚相手選択においても恋愛を仲介させない方法があるなら、それを取りたいと思っているかもしれない。例えば「結婚と子育てをしながら共同生活を一緒にしてくれる人募集。条件は以下の通りです」の後に、「財産、年収、希望居住地、学歴、スポーツでの業績、身長、体重、目の色、髪の色、肌の色……」等の項目から一定の条件を指定し、マッチする人の中で最も条件適合率が高い人と結婚する、というような。
実際このような方法に抵抗がない人はどの経済階層にも、どの地域にも(都市部にも地方部にも)、どのジェンダーにも一定数いると思われるので、遅かれ早かれマッチングサービスとして成立しそうな予感がする。このような指標化された合理性に基づくマッチングは資本主義とAIの得意とするところだ。
だが、これとは別に、恋愛から始まった関係が持続的な愛の関係になるという方向性もありうる。相互理解やお互いの感情的ケアを重要視し続けるような関係である。
「恋愛と結婚は別物」が長い間、ジェンダー平等を阻む定型表現になってきたという経緯を踏まえれば、必要なのは、長期的な愛の関係モデルを多様な形で見出し確立していくことなのではないだろうか。
持続的な愛の関係がどうすれば可能なのかに関する社会学的な研究は、今のところあまりにも少なすぎる。それは近代家族規範を強化するのではないかという懸念が高かったからだろうし、現実にそのようなカップルを見出すのが難しいということも関係していそうだが、探し出して、その成功要因を特定するといったことは、関係流動性が高まる現代において社会的ニーズの高い研究であるように思う。*
愛は強制できず、規範で縛ることのできない何かだ。そこが近代社会の他の社会的関係とは異なる、愛の関係性の特徴である。
愛は、本人の内面から「湧き上がる」、本人もコントロールできない「自発的な」ものであり、規範が強すぎる場では、うまく働かない。
家族主義規範や、結婚したら一緒に住み続けなければならず、性的情熱を持ち続けなければならず……といった諸々の規範の中で、相手への愛は枯渇していくことを余儀なくされているように見える。
そういう愛の関係を不幸にする規範の数々を、一つずつ相対化し、手放していきながら、持続的で幸福な関係についての議論を社会的に深めていけたら、嬉しいなあ。
註
☆1:革命思想がなければ改良主義もうまく成り立たないのだが、子どもを産み育てることに直線的に結びつけられてきたシスヘテロ恋愛については、先輩フェミニストたちが何十年もかけて恋愛についての革命的思想を紡いできてくれている。これに感謝しつつ、改良主義的な議論も深めていこうというのが私の立場である。
また、「恋愛」が、この社会のシスジェンダー主義・異性愛主義・対人性愛主義を構成してきたという歴史的背景を踏まえれば、ジェンダーマイノリティやセクシャルマイノリティの立場から、「恋愛」を根底的に批判する新たな思想や哲学が発展することも、とても重要だ。すでに、アロマンティックやクアロマンティック、クイアプラトニック・リレーションシップの議論などが研究者たちによって論じられ発展してきている(例えば、松浦2025、中村2021、佐川2024など、その他多数)。☆2:ハーヴェイ・ワインスタインなどの性犯罪者の供述を見ていると、明らかに彼は「攻撃」を繰り返すことが求愛であり、セックスすることは女性を「支配」することだと考えているように見える。
☆3:現代では、長期的なパートナーに知っておいてもらうよりも、その時々の考えなどを発信し、友人や知人に継続的に自分の状況を知っておいてもらうことの方が利点が多いかもしれない。記録として確実に残るという利点もあるし。ここでの議論は長期的なパートナーを持つのであれば、という限定的なケースを論じたものであり、長期的パートナーがいなければならないということではない。長期パートナーを持たずに生きていく幸福な人生も多様な形であるということは、声を大にして言っておきたい。
☆4:ひとまず、結婚生活の合理性を求める人と、愛のある結婚生活を求める人の差異は、基本的には「アクション映画が好きか、ロマンス・ヒューマン映画が好きか」というような趣味嗜好の問題であると捉えるのが適切であるように思う。愛の優先順位は人さまざまだし、愛に対する考え方も人さまざまだからだ。この点に関して、社会的に論点化するとしたら、問われるべきは、パートナー関係になろうとする人たちが、自分たちの愛の関係についての合意を適切に取れているか、である。その時、この「家族役割遂行」と「情緒的相互ケア」をどれくらい重要視するのかという区別は、コミュニケーション上、有用なのではなかろうか。
文献
▪︎松浦優, 2025, 『アセクシュアル アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち』集英社新書.
▪︎中村香住, 2021, 「クワロマンティック宣言――「恋愛的魅力」は意味をなさない!」『現代思想 特集=恋愛の現在』(2021年9月号)pp. 60-69.
▪︎佐川魅恵, 2024, 「親密さの境界を問い直す——アセクシュアルとノンバイナリーからみる「恋愛/友情」の(不)可能性」『現代思想 特集=〈友情〉の現在』((2024年6月号pp. 78-86.
▪︎ドニ・ド・ルージュモン『愛について』平凡社.