第12回 キリスト教とカルト

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

ニュースで連日、あるカルト宗教にまつわる報道がなされている。友人の牧師にも、カルト問題に専門的に取り組んでいる人がいる。彼から被害者の現場の話を聞くと、耳を覆いたくなるような痛ましいものばかりである。そのカルト系宗教は「キリスト教系」と分類されることがある。正直、キリスト教という語を、その宗教団体に対して用いてほしくはない。とはいえ、ニュースになっているその団体に限らず、キリスト教系の極端な宗教団体の話はしばしば耳にするし、その被害者がわたしのところに話をしにくる。もちろんわたしは「大変ですね」で済ませるのではなく、友人の牧師のように、専門的に取り組んでいる人や機関のことを紹介するようにしている。

それにしても、キリスト教(的なるもの)には、カルトになる要素が存在するのだろうか。先日、教会で毎週やっている「聖書を読む会」で、ヘブライ人への手紙を読んでいた。そのなかに、次のような聖書箇所がある。

“後に堕落した者たちは、再び悔い改めへと立ち帰ることはできません。神の子を自分でまたもや十字架につけ、さらし者にしているからです。” ヘブライ人への手紙6章6節 聖書協会共同訳

ヘブライ人への手紙は1世紀の終わり頃に成立した文書であるという。その頃、キリスト教徒は迫害を受ける側にいた。第11代ローマ皇帝であったドミティアヌス(在81~96年)は、ローマの神々や慣習を拒否するユダヤ教徒やキリスト教徒を迫害し、多くの死者を出した。当局の側から見て、こんにちのような意味でユダヤ教徒とキリスト教徒の区別は明確ではなかった(そんな区別などどうでもよかったかもしれない)。だからローマの慣習を拒否し、ユダヤ的な伝統に従っていると思われる者たちを誰かれなく迫害したのである。ただし1世紀から2世紀にかけての迫害は、ときに苛烈で多くの犠牲者を出したものの、まだ組織的なものではない。散発的な迫害が続いていたのである。だが3世紀になると、デキウスのように官憲を用いて脅迫や拷問をちらつかせることで棄教を迫ったりと、組織的な迫害をする皇帝も現れはじめる(フスト・ゴンサレス著、石田学訳『キリスト教史』上巻)。313年にコンスタンティヌスによって、キリスト教がローマ帝国公認の宗教となるまで、キリスト教徒は迫害におびえ、迫害が鎮静化すれば胸をなでおろし、再び暴力がうねりを見せ始めると頭を抱える────そんな信仰生活を送っていた。

弱小な組織が迫害に耐えるためには、内部の結束が欠かせない。だから堕落すなわち棄教は断じて許されない。いちどキリストを信じ教会のメンバーとなったからには、そのキリストを裏切ることは、キリストを再び自らの手で十字架につけることに等しい。だから決して裏切るな、キリストすなわち教会を...ヘブライ人への手紙が語る強い口調には、過酷な時代ならではの厳しさが垣間見える。そしてこのような厳しさは、メンバー同士の相互監視にもつながったことだろう。「まさかあなたは裏切らないよね?あなたもキリストにつながったのだから、ね?」。そうやって自分以外の信徒の言動を横目に見ながら信仰していた側面もあったと思われる。だからこそ、とくに指導的な立場にある者、すなわち当時の識字率においてヘブライ人への手紙を朗読できるような知識を持つ者が棄教してしまえば、教会組織はどうなるか。「あの人が耐えられなかったんだ。わたしも」と芋づる式に脱落者が続出し、教会は総崩れになってしまう。聖書には書かれていないだけで、指導者が摘発され転向し、その結果、信徒もなだれをうつように転向していき消滅した教会もあったかもしれない(後の時代には、転向者が教会に戻ることができるよう規制は緩和されていった)。

その一方で、鉄の掟といってもいい裏切りの禁止は、不承不承守られていたわけでもなかっただろう。そもそもそこに喜びが存在しなければ、誰となく、ことに当時の若い世代は老人たちの教えにうんざりし、教会から離脱していったに違いない。人々は相互監視もしていたかもしれないが、同時に自ら進んで、ときには殉教をも辞さぬ覚悟で、拷問の末の死をも見据えた信仰生活を送っていたのである。彼らにはありありと、死の向こうにある「よくやった!」というキリストの声がイメージできたであろう。ちなみに迫害や棄教とは直接の関係はないが、イエス復活直後の教会生活を理想化した表現に、次のような聖書箇所もある。イエスの復活事件からはすでに数十年は経過した時代に成立した文書であるから、教会がやはり断続的な迫害を受けていた時代に書かれている。そういう時代にあって、著者には「教会はいつも、この原点のようであってほしい」という祈りがあったのかもしれない。

“信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。” 使徒言行録2章44-45節

“信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、おのおのに分配されたからである。”同書4章32~35節

これらの言葉がまったくの理想化、ようするに嘘であったとは思えない。メンバーは競いあうように自らの献身を、その身をもって示しただろう。たしかに、そこには承認欲求も含まれていたかもしれない。しかし誰かがじっさいに全財産を投じることで、その行為に神のリアリティを感じた人が触発され、同様の行動をとるというようなことも起ったはずである。だが使徒言行録は、教会がこのラインにおいて危うさを抱えていたことも告げる。

“ところが、アナニアという人は、妻のサフィラと相談して財産を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を取っておき、その残りを持って来て使徒たちの足元に置いた。”同書5章1-2節

イエスを救い主と仰ぐなら全財産を教会に献げることが当然という空気が醸されるなか、迷う人、脱落する人もいたことを、この聖書の箇所はうかがわせる。アナニアは代金の全額から一部を自分たちのためにとっておき、残りを「これが全額です」と教会に差し出した。ところが「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(4節)とペトロから叱責されたアナニアは、倒れて死んでしまう。ペトロの尋問に対して最後まで手元に残した金を隠し続けたサフィラもまた、謎の死を遂げる。ちなみに、この聖書箇所には「神はこの夫妻を呪った/罰した」というような表現は一言もない。夫妻はそれぞれ、ペトロの言葉を聞いて斃れた。そしてアナニアの際には「そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」とあり、サフィラの際には「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とある。この出来事がアナニアやサフィラを個人的に罰した天罰というより、共同体のメンバーを恐れさせるために起こされた事件だといわんばかりである。クリスチャンならこれを神の怒りと読むだろう。しかし、あさま山荘やオウム真理教の内部で起こったことを、ここに推測する人もいるかもしれない。すなわち、熱狂的な組織内部における「引き締め」である。ペトロが直接手を下さずとも、アナニアもサフィラもありありと神の臨在を信じていたのなら、カリスマ的な指導者からこのように言われて、強い絶望のストレスで亡くなるということはあったかもしれない。厳しい糾弾の末の死。その死が神のみわざという口調で語り伝えられるにせよ、教会外部の人間から見たとき、そこには不気味さがつきまとう。

結束を長期にわたって持続させるにはモチベーションが要る。イエスの記憶も未だ新しい時代に活動していたパウロは、イエスと同時代の人である。だからパウロは伝道者であると同時に、最初期の教会の目撃者、証言者でもある。そんなパウロが嘆くのである。

“しかし、次のことを指示するにあたって、私はあなたがたを褒めるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果ではなく、悪い結果を招いているからです。第一に、あなたがたが教会に集まるとき、互いの間に分裂があると聞いており、私もある程度はそれを信じています。あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、分派争いも必要でしょう。しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることになりません。食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじ、食事を持参しない人々を侮辱するのですか。あなたがたに何と言ったらよいでしょう。あなたがたを褒めるべきでしょうか。この点については、褒めるわけにはいきません。”コリントの信徒への手紙一11章17~22節

使徒言行録で語られている「必要に応じて、おのおのに分配された」気配のかけらも感じられない。実際、このことが災いしたのであろうか、「あなたがたの間に、弱い者や病人が大勢おり、また死んだ者も少なくないのは、そのためです」(同30節)と、パウロは深刻な結果を語っている。

教会には信仰の喜びがあり、人々はときに、みずから進んで全財産を献げさえした。それどころか、迫害の末に死に至ることさえ恐れない者もいた。だがパウロのこのような表現を見る限り、全員が全員、そのような人々ではなかったであろうことがうかがえる。富裕者は教会内でも富裕者であり続け、空腹を知らない。それに富裕者は奴隷に労働を任せているため、時間の余裕もある。教会に集まり、キリストを祈念する晩餐を開いていたつもりが、すっかり楽しい宴会になってしまうこともあっただろう。宴会も終盤にさしかかり、もう食べ物も飲み物も残っていない頃にようやく、重労働を終えた貧しい人々が礼拝にやってくる。彼ら彼女らは空腹で倒れてしまいそうだが、信仰の一念に衝き動かされて教会に来るのである。ところが来てみれば、お金持ちな人々が陽気に飲んではしゃいでいる...コリントを飢饉が襲ったとき、貧しい人々の多くが死んだ。これらの労働者たちはどんな思いで富裕者たちの飲み食いを眺めながら、飢えに息絶えていったのか。パウロのこの手紙が書かれた時期は54年頃ともいわれる。「必要に応じて、おのおのに分配された」と語る使徒言行録の成立した80~90年代よりもさらに古い時代に、すでに教会内部に歪みが生じている。パウロがコリントの、やはり字が読める人々すなわち指導者層に向けてこの嘆きを書いたのだとすれば、食べて飲んですっかり満足していた側に、教会の指導者たちも含まれていたことになる。

わたしの聖書箇所の選択および解釈を、あまりにうがった見方であると憤慨するクリスチャンの人々もおられるかもしれない。だが、聖書の文言はそれぞれの時代背景抜きには語られなかったであろうし、それを読むわたしやあなたもまた、わたしやあなたの今生きている時代的状況のなかで、これらの文言を受け取っている。カルト宗教がしばしばパワーハラスメントやセクシャルハラスメントの温床となり、言いなりとなった信徒に高額な、ときには全財産といってもいい献金を求めることに、わたしは強い違和感を覚える。だが同時に、それを批判することの無力をも禁じ得ないのである。なぜなら、批判すればするほど、彼らは自らのことを、迫害を受ける真理の証言者と自覚するにちがいないからである。ニュースで取り沙汰されている宗教だけではない。キリスト教系と呼ばれるカルト宗教は枚挙にいとまがない。キリスト教自体に、カルト化しかねない要素がある。聖書にその証言がなされている。そのことを自覚するところから始めなければならないと、わたしは思う。

わたし自身のことを語ろう。わたしも教祖になりかけることがあるからだ。教会に相談者が来る。インターホンが鳴り、ドアを開けたわたしは「さあ、どうぞお入りください」と相談者をいざない、ドアを静かに閉める。「まあ、お茶でもどうぞ」と、飲み物やお菓子を出す。

相手が話を始める。号泣する。わたしは静かに見守る。そしてよくよく考えたうえで、一つか二つ、なにか答える。だが、ここからが問題である。

「そうですね...そうですよね!先生、ありがとうございます。先生のお言葉が心に刺さりました!」

わたしは帰途に向かうその人をおだやかに見送りはする。だが心中穏やかではない。「先生のお言葉」すなわちわたしの言葉がこの人に「刺さった」のはなぜか?言葉の内容は、じつはなんでもよかったのではないか。なぜなら、その人は泣いていたから。他人の前で泣く、それも号泣するというのは、自分の内臓を相手にすっかり見せるようなことである。わたしはその開かれた内臓へ、つけいったのではないか?

礼拝堂という密室。その礼拝堂を管理するあるじであるわたし。見知らぬ場所にやってきた、不安でいっぱいの相談者。どちらがものを言いやすいか、すでに力関係は決している。相手は腹を見せ始めているのだ。号泣は、相手が完全に腹を見せた合図である。そこでわたしがなにかを言えば、相手はなんでも「これが、わたしの求めていた言葉だったんだ!」と思ってしまうかもしれないのだ。わたしはカルト的でありうる。

「なにかホッと心が軽くなり、のしかかっていたものがはずされて、救われたような気持ちになったのです」(藤田庄市『カルト宗教事件の深層』26頁)

このような言葉を、わたしはよく相談者からうかがう。しかし上記の言葉を発したのはオウム真理教の林郁夫元死刑囚であり、地下鉄にサリンを撒く役を与えられた際、故・村井秀夫から「これはマハームドラーの修行なんだからね」と宗教的な意味を与えられたときのことである。著者の藤田は「背筋が凍るとしかいいようがない」と語る。しかしわたしは別の意味で背筋が凍る。わたしには、林の心がホッと軽くなる現場が見えてしまうのである。ホッと心を軽くしてしまうわたしが。

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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第11回 結婚式の祝辞

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

わたしは一時期、牧師としての職がない状態、つまり赴任できる教会がない期間を過ごした。事実上の失業者、無職である。どこかの教会から招聘の声がかかる日はほんとうに来るのか、それさえも分からない不安定な状況。それでも声がかかったときにはすぐ応じられるように、あまり忙しいアルバイトをするわけにもいかなかった。結果的に、わたしは毎日なにもせず、しばらくはぶらぶらして過ごしていた。その間、先輩牧師たちのご厚意で、先輩たちが働いている諸教会や、定住牧師がいない教会の礼拝説教に呼んでもらえることもあった。呼んでもらえたときには御礼ということで1万円くらい貰えたので、とても助かった。そんななかで結婚式のアルバイトを紹介してくれた先輩もいる。

この結婚式というのが、なかなかやりがいのある面白いアルバイトだった。「結婚式場の牧師や神父はニセモノで、じつは英会話教室の教師」という噂がある。たんなる噂ではなく、ほんとうにそういうところもあるのかもしれない。じっさい、知人のキリスト教式の結婚式に参列したことがあるのだが、たしかにそこにいたのはアングロサクソン系とおぼしき白人男性であり、いかにもとってつけたような、もったいぶった片言の日本語を話し、その説教もキリストのキの字も出てこず、語るのはロマンチックラブばかりであった。

ただ、わたしが紹介されたホテルは違っていた。面接の際に「牧師であることの証明書をご持参ください」と言われた。わたしは日本基督教団の正教師認定の書類を持って行った。日本基督教団には補教師と正教師という二つの資格があり、補教師は一般的に伝道師と呼ばれ、正教師は牧師と呼ばれている。そして補教師は聖餐式や洗礼式を執り行うことができないが、正教師はできる。わたしが初任地において上司のもとで働いていたときは補教師だったため、礼拝説教はさせてもらえても、聖餐式や洗礼式はおろか、祝祷(そこにいる人々を神の名のもとに祝福する、礼拝の締めくくりの祈り)さえ許されていなかった。祝祷は必ず上司が行った。その教会での補教師の位置づけはあくまで見習い、上司の鞄持ちだったのである。

ただ、これについては日本基督教団内でも議論がある。というのも、地方の過疎地などに補教師が赴任した場合、礼拝の祝祷はもちろん自分でしなければならないし、聖餐式や洗礼式も、遠隔地の正教師をわざわざ呼んで執行してもらうのは大きな負担となるからだ。そういうわけで、正・補教師の制度が今のままでいいのか、それともいきなり牧師になれるようにするべきか、日本基督教団内では喧々諤々の議論が行われてきた。外部の人からすれば「そんなどうでもいいことにこだわらなくてもいいじゃないか」と思われるかもしれない。宗教における制度をめぐっての、お互いが譲れない議論というものは、たとえば天皇は男系であるべきか否かにまつわる議論のようなものである。フェミニズムなど現代の価値観からすればまったくどうでもよく聞こえても、天皇という存在自体が避けがたく宗教的な意味を帯びている以上、なぜ男系であることにあれほどこだわるのかについては、あるていどまでは理論で説明可能であっても、理詰めだけで語りきることはできない。それは信仰の領域に属するからである。

かくして、わたしは正教師認定の書類をホテルの事務所に持参し、それを現地でコピーしてもらって、結婚式場のアルバイトに採用された。おそらく僧侶や神職もそのようにして「本物である」ことを証明していると思われる。仏式や神式の結婚式においても、どこかの寺や神社で現在働いているか、過去に働いたことのある僧侶や神職が司式するからである。

ただ、いざ結婚式を始めてみると、ホテル側の注文は厳しかった。まず、典礼文のなかには必ず、ホテルの美しさを称える文言を挿入しなければならない。その場所で挙式ができること自体がめでたいという意味なのだろう。ホテルそれ自体を称えるなどおよそキリスト教的とはいえないが、アルバイトだから仕方ない。さらに、一日に何組もこなさないといけないので、新郎新婦の入場から退場まで、ぜんぶあわせて15分以内で納めなければならなかった。指輪交換がクライマックスなので、わたしが新郎新婦に伝えたい大切な神の言葉は、その前座のようなものだ。許された時間は5分。この短い時間に全力集中して、わたしは結婚についての説教をした。たった5分ではあったが、どの新郎新婦もわたしの顔をしっかり見て、メッセージを受けとってくれた。頷きながら聞いているカップルもいた。

わたしが話したのは、もちろんロマンチックラブではない。むしろその真逆である────あなたがた新郎新婦の前に十字架があるでしょう。あれは飾りではありません。キリストがそこで苦しみ、神と人とがその出来事をとおして和解したしるしなんです。これから結婚生活をするにあたり、毎日顔を突きあわせて暮らしていれば夫婦喧嘩もするでしょう。仕事や子どものことでつらい思いをすることもあるかもしれません。そういうときにこそ、あなたがたのその苦しみには意味があるということを、苦しみをご存知である神のまなざしのもと、ご夫婦いっしょに味わってください。キリストの十字架において神と人とが和解したように、あなたがたも何度でも和解してください。応援、お祈りしています────そんな話をした。

結婚式場のスタッフが、仕事のあいまに話しかけてくれた。

「キリスト教の結婚式に、そんな深い意味があるとは知りませんでした。勉強になりました」

思いがけない言葉が嬉しかった。信徒になってもらえるわけではないにせよ、福音に関心を持ってもらえるだけでも神の恵みを感じた。

その一方で、ホテル側の要求は回数を重ねるごとに厳しくなっていった。

「もっと短くできませんか。お話は3分以内でお願いします」

カップラーメンにお湯を注ぎ、フタを開けるまでのあいだに福音を届けなければならない。ようし、やってやろうではないか。わたしは要求どおり3分以内の話を考え、新郎新婦に語った。

わたしが立ちあった新郎新婦のほとんどが授かり婚、昔には「できちゃった婚」と言われていた人々であった。ホテルのスタッフも新婦の健康状態には細心の注意を払っていた。新郎新婦が親族と全体写真を撮る際、新婦が吐いてしまったこともある。真っ白なドレスは吐瀉物で汚れてしまった。親族はどよめき、ご本人も体調不良以上に身の置き場のない恥ずかしさを感じていることがありありと伝わってきた。あまりに痛ましかったが、ホテルのスタッフは慣れたもので、冷静かつ迅速に、あたたかく新婦のケアをしていた。一組一組のカップルに、式場に至るまでのそれぞれの事情があった。その一組一組、ひとりひとりに、神の祝福を祈らずにはおれなかった。

東京に来てからもボランティアで、何組かのカップルの結婚式を司式した。ある小さなバーを会場にして、招待客や居合わせた客と共に結婚を祝う光景は、ささやかながら美しかった。そこでもやはり、わたしは上記のような聖書の話をした。結婚生活は幸せなことばかりではない。困難なときにこそ試される。そんなときにこそ今日、この十字架の前に立ったことを想いだしてほしいと(バーには小さな木製の十字架を持参し、それをカウンターに置いて司式した)。式が終わった後には必ず新郎新婦に声をかけた。「困ったことがあったらいつでも相談してください」。

だが残念なことに、わたしが司式したカップルはその後、かなりの確率で離婚したのである。離婚した何組かのカップルの友人知人たちから、それぞれの事情を聞いているうちに、どのカップルにも共通した事情が浮き彫りとなった。すなわち、そもそもカップルというものがあまりにもクローズドな性質を持っているということである。カップルがカップルだけで閉じて完結しているという問題は、現代社会のさまざまな要素を凝縮しているように思われた。

たとえば地方出身の若者たちが東京で出逢い、二人暮らしを始める場合、そこには親族がいない。親戚づきあいなどのわずらわしさがないのは、たしかに気楽ではある。バーでのカジュアルな結婚式が象徴しているように、気の置けない友人たちとのカジュアルな付きあいが彼らの生活を織りなしている。だが、夫婦生活は楽しいことばかりではない。家事の分担はどうするのか。子育ては。お金の使い方をめぐっての、価値観の違い。楽しいデートをしていたときには予想もしていなかった問題が、次々に発生する。

では、友人たちに相談すればいいのか。必ずしもそうとは限らない。若者は遠慮することもある───ともだちはみんな忙しい。こんなことを相談すれば迷惑をかけてしまうかもしれない。そもそも、こんなことを人さまには言えない。みんなに祝ってもらったのに、今さらつらいなんて言えないよ。ともだちから距離を置かれてしまうかも。わたしにだってプライドがある。あの子とは/あいつとはたしかにともだちだけど、ライバルでもある。内心「ざまあみろ」と思われるのだけはいやだ────さまざまな想いが交錯する。親友にだけは話したくないことだってある。それは親しくないのとはぜんぜん違う。親しいからこそ話せないこともあるのだから。

遠くの父や母にも、会えない以上、相談できることには限りがある。親戚なんて、最後に会ったのはいつだろう……こうして相談の選択肢はどんどん狭まっていく。とりあえずは夫婦顔を突きあわせて、なんとか解決していくしかない。とはいえ、デートのときには楽しい話しかしたことがない。悩みを打ち明けても「たいへんだね」と言ってあげたり、言ってもらったりしたことしかない。あの頃はお互い余裕があったのだから。今さら「それはちがうと思うよ」と、面と向かっては言いにくい。相手を怒らせるのも、それに、自分が傷つくのも、いやだ。

そうやってお互い話しあうことを避けているうちにますます距離ができ、溝は深くなっていく。もやもやしたものが胸にうずまき、鬱憤がつもりにつもったある日、ちょっとしたことがきっかけで大喧嘩。溝は決定的となり、「じゃあ別れよう」。こうなってしまうのはカップルが未熟だったからなのだろうか。これは若い二人だけの責任なのだろうか。「まったく、いまどきの若者は」とため息をつくのが年長者の仕事だろうか。わたしは違うと思う。

わたしは近隣教会の牧師の紹介で、妻とお見合いをした。まったく知らない女性であった。お見合いで意気投合したのはいいのだが、わたしの任地は妻の実家からはるか遠くであったため、デートができたのはほんの数回に過ぎなかった。お互いのことをほとんど知らないまま、わたしたちは結婚したのである。戦前や戦後にはそういう結婚がふつうだったことを知ってはいたが、まさか自分がそんな仕方で結婚をするとは思ってもみなかった。

2000年代にもなって戦前戦後のような結婚をする難しさ。結婚生活の始まりは悲惨なものであった。妻はわたしの職場かつ住まいである教会へ、いわば「お嫁入り」してきた。もはや妻の両親も友人知人も、ここにはいない。妻は旧知の人が誰もいない、そして未だパートナーの正体さえも分からないところへ、独りで乗り込んできたのである。

妻が体調を崩したのは結婚後まもなくであった。布団から出てこなくなり、風呂にも入らない。わたしが食事を用意すればかろうじて食卓には就く。しかし食べればすぐ布団にもぐりこんでしまう。これではいったい、どうなってしまうのだろう。こんなことなら独身を謳歌したほうがよかったのだろうか。よその「元気な」牧師夫婦を見るにつけても羨ましさがこみあげた。

それでもわたしたちが離婚に至らなかったのはなぜかというと、夫婦だけで向きあうことをしなかったからだ。向きあうことから逃げたと言われればそのとおりである。わたしは自分が信頼している牧師に連日、相談の電話をし続けた。牧師がなんと答えてくれたのかは、相談の回数が多すぎて覚えていない。とにかく、そういう相談相手がいたということが重要だったのである。妻は妻で、なにかと口実を見つけては実家へと帰省し、旧友たちと会ったり、独身時代に通っていた教会でリフレッシュしたりしていた。その教会には彼女が打ち解けて話すことのできる年配の女性たちもいた。そうやって、お互いがお互いから逃げに逃げて、ぶつかりあうことは最小限に抑えて、夫婦生活はこんにちに至っている。それでも大喧嘩は何度もしたのであるが、そのたびにわたしは牧師に相談して頭を冷やしたあと、彼女に謝罪したし、彼女も謝ってくれたものだ。

わたしが相談していた牧師は、いわゆる「ともだち」ではない。恩師である。馴れ馴れしく話すことはできないが、そのぶん、打ち解けた友人たちには話せないようなこと、かなりプライベートでこみいったこと、たとえばお金や性の問題まで打ち明けることができた。それはその牧師が、わたしからも妻からもほどよく他人であり、利害関係がなく、かといってまったくの赤の他人でもなく、わたしたちのことをよく知ってはくれている、信頼できる存在だったからである。彼女にとっては教会の女性たちや、他にも幾人かの知人たちが、そういうほどよい距離感の人々であった。わたしたちにはそれぞれ、いわゆる親しい友人とはまた別の、客観的なまなざしでわたしたちのことを見てくれる、年長者の知りあいがいたのである。

わたしは最近、若いカップルの人たちにお節介をするようになった。若い人たちは遠慮をするから、それを額面通りに受け取って「彼らのことはそっとしておこう」というのが正論なのかもしれない。けれども若い人たちが交際しては別れ、結婚しては離婚するのを何組も見てきた今、あるていどの信頼を得た人たちに対しては、こちらから声掛けをするようにしているのだ。彼ら彼女らがツイッターに愚痴などを書いているのを見ると「最近うまくいっていないようだけど、大丈夫ですか」とダイレクトメッセージを送ったりする。「大丈夫です」と言われたら深入りはしないが、相手が「じつは」と相談してきたら、とことんかかわるようにしている。カップルの同棲する家にまで出向いたこともある。関係がぎくしゃくしている二人が、二人だけで顔を突きあわせて話しあうと、ますます険悪になってしまうこともあるからだ。そこでわたしがあいだに入り、二人にかわるがわる話をしてもらうのである。それで二人がうまくいくのかどうかは分からない。最後に決めるのは本人たちなのだから。ただ、できる限りのお世話は、たとえ結果的に「よけいな」お世話になってしまったとしても、してあげたいと思うのである。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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