第4回 わたしは償ったのか?

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

わたしは2015年の6月に、精神科病院の閉鎖病棟に入院した。当時わたしは教会の牧師としてよりもむしろ幼稚園の理事長および園長として働くことが日常の大半をしめていた。サービス残業をはじめとした連日の過酷な職務内容と、幼稚園から認定こども園への登録変更の責任を負う重圧とに、わたしは次第に圧し潰されていった。ある日、そのきっかけがなんであったのかもはや思い出せないほどのささいなことで、わたしは副園長に対して怒りを制御できなくなり、瞬間的に激昂した。わたしは副園長を大声で罵ったあと、職員室から飛び出し、牧師館にひきこもった。とっさに自殺をほのめかしたわたしを、妻は泣きながら精神科病院へ入院するよう説得したのである。葛藤ののち、わたしは彼女の言葉を呑んだ。閉鎖病棟2か月、開放病棟1か月の入院。わたしはその教会と幼稚園を辞し、妻と故郷へ帰った。

それからおよそ2年後、わたしとほぼ同世代の国会議員が、激昂して秘書を怒鳴り散らしている音声がスクープされた。秘書が被害届を警察に出したことで、議員は書類送検されたという。わたしはこの出来事を他人事とは思えず、強い不安や恐怖、それに罪の意識を覚えた。話題の渦中にある議員の映像を見ながら、わたしは自身に問うていた──わたしは償ったのか?

わたしは子どもの頃から、しばしば癇癪を起した。いちど癇癪を起すと、それは自分でも分かるのだが、癇癪のきっかけとなった出来事それ自体は影をひそめてしまう。もはや怒りの感情それ自体が不愉快になってしまい、ますます癇癪がひどくなるのである。けっきょく疲れ果てるまでわたしは怒鳴り散らしたり、おもちゃを壊したりし続けた。とうぜん親に叱られたりもしたのだとは思うが、それがあまり記憶に残っていないのは、殴られることがなかったからだろう。少なくとも、叱られてすぐにおとなしくなることはなかったと思う。

牧師になってから数年経ち、ようやく仕事にも慣れた頃、わたしは妻とお見合い結婚をした。共通の知人の紹介で、両親同伴の彼女と食事をした。そのあとほんの数回、デートのまねごとをしただけで結婚した。時はすでに21世紀であったが、じつに古めかしい結婚の仕方であった。彼女は住み慣れた町から、親も友だちもいない見知らぬ土地、すなわちわたしの働く教会へと、いわば「お嫁入り」してきたのである。彼女にしてみれば人生一大決心、そうとうな覚悟をもって臨んだはずである。だが、いざやってきてみて、やはり孤独や牧師夫人としての重圧に耐えかねたのだろう。結婚早々、妻は布団から出てこなくなった。

布団にこもり続ける彼女を前に、どうしたらよいのか分からないわたしは、またしても癇癪を起した。わたしは布団のふくらみの前で、腹から大声を出した。

「起きろ! 布団から出ろ!」

彼女は追い込まれた兎のように布団から転がり出た。転げ出た彼女を見たとき、わたしは自分の持つ暴力におののいた。親や先生に対して癇癪を起していたのとはまったくちがう。彼女に与えたのは呆れではなく恐怖であった。それ以降、わたしは彼女に直接大声を上げることをやめた。だが、癇癪それ自体がおさまったわけではない。仕事で不愉快なことがあったり、彼女との言い争いに苛立ったりすると、わたしはしばしば鍋や食器を床にたたきつけた。そんな家庭で彼女が穏やかな暮らしをすることなど、とうていできようはずもなかった。

彼女の心身は不調をきたしてゆき、ある単身帰省の折、とうとうパニックの強い発作に襲われたのである。彼女は帰省先の精神科病院に、急遽入院の運びとなった。そこはわたしの勤務地から遠い病院であった。わたしは勤務地と病院とを行き来しながら、仕事を辞める決意をした。今でいう介護辞職である。のちにわたし自身が閉鎖病棟に入ることになったとき、主治医はわたしに言ったものだ。なぜ辞職を即断したのかと。ほかに方法があるかもしれないと、なぜ考えたり相談したりしなかったのかと。

退職金や教会関係者からのお見舞い金は、あっという間に底をついた。貧困への不安のなかで、わたしは郵便配達の仕事を始めた。アマゾンやゆうパックの時間指定配達に振り回される日々。配達時間が遅れたら「責任者を呼んで来い!」と怒鳴る客の前で土下座した。もちろん客は許してくれない。その場で課長代理に電話をしたら「あほか! 自分で処理してこい!」そんな日々が続くなかで、わたしは自分が叱られてばかりの、社会の役には立たない、人間のクズだと思うようになっていった。

あるとき、小康状態となった妻と、借家から電車で数駅の公園へと散策に出かけた。出かけるときにデパ地下で奮発した、ちょっと豪華な弁当を、わたしは手に提げていた。改札口で中年女性とすれちがいざま、わたしは彼女と少しぶつかった。なんでもない、ほんのちょっとした手荷物のぶつかりあいに過ぎなかった。だが、弁当の袋が揺れた瞬間、わたしは中年女性に叫んでいた。

「ころすぞおまえ!」

意識が一瞬、飛んだ。気がつくと中年女性はもういなかった。目まいがするほど頭から血が引いていた。そばにいた妻がわたしの袖を、ぎゅっとつかんだ。

「せっかくのお休みなのに、なんでそんなこと言うの」

あの議員の場合もおそらくそうだったのだと思うが、激昂して暴言を吐く際には、反射的に相手を選んでいる。わたしは卑劣にも、自分が勝てそうな相手を選んでキレていたわけである。子どもの頃からのことを想いだしても、それは当てはまる。自分が癇癪を起こせば言うことを聞いてくれそうな相手に対して、わたしは癇癪を起してきた。こうしたことの積み重ねのうえに、わたしの閉鎖病棟への入院もあったわけである。そこでの診察においても、主治医の言葉に神経を逆なでされるたび、わたしは激昂して大声を出した。彼はそんなわたしに動揺一つせず、静かにこう言ったのであった。

「あなたはそうやって、まわりの人たちに言うことをきかせてきたんですね。だだをこねれば要求を聞いてもらえたわけだ。そういう成功体験を、あなたは積み重ねてきてしまった」

わたしは精神科病院での入院生活において主治医との対話を重ね、退院後は牧師として復職し、現在に至っている。そのことは拙著『牧師、閉鎖病棟に入る。』にも書いた。だが、本の感想を受け取るたびに、わたしは読者への感謝の思いとともに、うしろめたさを覚える。成功秘話を誇っているような恥ずかしさを感じるのである。というのも、同じように職場でキレてしまい、そのまま失職した牧師が何人もいることを、わたしは知っているのだ。そう、あの議員のように。わたしだけが、ここにいていいのか? 本を出してもよかったのか?

わたしは運がよかった。そう、キレた相手がよかったのだ──読者におかれてはじつに不愉快な事実であるが、じっさいのところ、それがすべてである。わたしが大声を出した相手が70代の懐深い、大ベテランの副園長ではなかったとしたら。もしもわたしが若い保育教諭や保護者、あるいは園児に対して暴言を吐いていたとしたら、わたしも他の人々同様、パワーハラスメントや幼児虐待で書類送検されるか、民事訴訟を起こされていたはずである。そうなっていれば『牧師、閉鎖病棟に入る。』もへったくれもなかったであろう。

そう、わたしは運がよかったのだ。運がよかっただけなのだ。わたしなりに努力した、それは嘘ではない。だが、努力したから今があるとは、とても言えない。キレた相手次第では、わたしは努力以前の状態に陥っていたはずであった。副園長がわたしを赦してくれたということ。それがすべてなのであって、彼女がわたしを赦していなければ、その後からのわたしの今も存在していない。

ほんらい、わたしは赦されざる者である──身を焼かれるような焦燥を覚える。副園長に喉が枯れるほどの大声で吠えたあと、わたしは思ったのだ。

「副園長を殺してしまった」

殴ったのではなく、激昂して大声を出しただけである(もちろん、それも論外の行為ではあるが)。しかし、そのたった一度の罵声で、わたしは彼女と今まで培ってきた信頼関係のすべてを破壊してしまった──そのときはそう思い込んだ。相手との人間関係、信頼関係のすべてを一方的に破壊し尽くしたと。それはわたしにとって、殺人の手応えであった。だからなのであろう。わたしはとっさに死にたくなった。あのときほど具体的に死を企図したことはない。人を殺してしまった自分を自裁したいという、強い衝動に駆られたのである。そういうわたしを、妻は閉鎖病棟に入れてくれたのであった。

わたしは副園長から赦され、妻からも赦されて、今こうして生きている。また、駅でぶつかった女性からも──彼女にしてみればさぞかし不愉快であったはずだが──駅員を呼ばれたり、訴えられたりしなかったという意味において、わたしは赦されて今を生きている。

赦しとはなんだろうか。わたしは赦されてラッキーなので、今こうしてこんな文章を書いていられるのか。わたしと、スキャンダルを起こして業界から干されてしまう人々との、その紙一重の違いはなにか。考えれば考えるほど、その紙一重のなにかの重さに、わたしは背中を焼かれる思いがする。聖書にはこんな一言がある。

あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ

渇いているなら水を飲ませよ。

こうしてあなたは彼の頭に炭火を積み

主はあなたに報いてくださる。(箴言25章21-22節 聖書協会共同訳)

頭に炭火を積まれるとはどういうことだろう。日本風の言い方をするなら、顔から火が出るほど恥ずかしいということになるだろうか。怒りに駆られたわたしが激昂する。それも一度だけではなく、繰り返し過ちを犯す。そのたびごとに相手の人々は、わたしを赦してきた。わたしにパンを食べさせ、水を飲ませてくれたのである。わたしはパンや水を、すなわちその赦しを、とうぜんのごとく受け取ってよいのか。

わたしはそれらの赦しを、顔から火が出るような恥ずかしさとともに受け取るのであり、その恥ずかしさの炭火は、じりじりと頭の上で燃え続けているのである。炭火の存在をふだんは忘れていても、記憶の風が吹きこめば熾り、わたしを焼くのである。

ペトロはイエスが逮捕された土壇場で、他人のフリをして逃げようとした。そのとき彼はイエスの、

「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」

という予言を想いだし、泣き崩れた(マルコ14:72ほか)。彼は十字架に磔となったイエスを、自分だけ助かろうとしたという自責の念とともに想起したかもしれない。復活したイエス・キリストは、その件についてペトロになにも言わなかった。結果的にペトロはイエスから赦されたといえる。だが、黙って受け入れられ、赦されるということ。このことはペトロをしてラッキーと思わしめただろうか。彼はむしろ、イエスから呪われるよりも熱い炭火を、その頭に積まれたのではなかったか。

赦しの炭火はパウロにおいて、さらに熱かったと思われる。パウロは最初、キリスト教徒を迫害する側であった。彼自身が証言している。

「私はこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて牢に送り、殺すことさえしたのです」(使徒言行録22章4節 同訳)

パウロはキリスト教徒を殺した。しかし、彼はキリスト教徒になった。ところで、彼を受け入れる側の教会の人々は、そう簡単に彼を赦すことができただろうか。教会のなかには、他ならぬパウロによって家族を殺害された者さえいたかもしれない。殺人の被害者遺族のところに、殺人の容疑者が入ってくる。古代人はそういうことが平気だったとでもいうのだろうか。パウロは教会員たちからの刺すような視線にさらされたはずである。黙って彼を赦す、しかし決して彼のしたことを忘れない人々の、沈黙の眼差しに。

パウロはもともと、優れた師から教えを受け継いだ、生粋のファリサイ派ユダヤ教徒であることを誇りに思っていたことが想像される(使徒言行録22:3、フィリピの信徒への手紙3:4以下)。そういうプライドの高かった男が、おのれがまさに殺人者でしかなかったと思い知らされ、なおかつ相手の寛容によってのみ今自分が生かされていると自覚したとき。その被害者を前にして平然としていられただろうか。

パウロは回心体験をした。しかし、それと過去を水に流すことができたかどうかとはまったくの別問題である。パウロは自分が殺した命の重さを、焼けて炎を上げる炭として頭に積まれたのだ。その炎は、パウロが殉教するその日まで消えることはなかったであろう。神はパウロの入信に戸惑うキリスト教徒アナニアに告げる。

「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう」(使徒言行録9章16節 同訳)

ペトロもパウロも、殉教にいたるまで福音宣教を続けたという。彼らはキリストに赦された喜びがあったからこそ、衝き動かされるように伝道を続けたことであろう。だが一方で、その赦しの深さを繰り返し想えば想うほどに、自分が犯してしまった過ちの大きさに苦しみ続けたことだろう。彼らはその取り返しのつかない過ちを、なんとか取り返そうと足掻いたことであろう(悔い改めるμετανοέωには、「取り返しのつかないことを後悔する」という意味もある)。ペトロは赦し主キリストに、そしてパウロはキリストだけでなく自分を赦し受け入れた教会に、砂一粒ほどでも恩を返したいと思ったことであろう。その強い思いが、どんな逆境にも、ひいては死に至る危険を冒してでも、キリストを伝えたいという衝動につながったのだと思われる。

牧師の仕事をしていると、重い話を打ち明けてくださった方ご自身がわたしに気遣いをしてくださることがある。

「こんなしんどい話ばかり聞いておられるのですか。なぜ、そんないやな仕事ができるのですか」

だが、わたしはいやな仕事だとは思っていない。わたしは何人もの人々から赦されて、今ここにいる。ペトロやパウロがもはや直接、赦し主であるキリストや、自分が殺した人に償いをすることができなかったように、わたしも、わたしが激昂して暴言を吐いてしまった、しかもそれを赦し不問に付してくれた人々の多くに対して、いくら謝っても謝り足りない。ならばせめて他の人に、なにか喜びを伝えたい。直接キリスト教の話でなくてもよい。苦しんでいる人、泣いている人の話に、ただ黙って耳を傾けたい。わたしは赦しをとおして自分の頭に置かれた炭火が燃え尽きるまで、目の前の誰かとともに足掻き続けたいと思っている。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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第3回 放っておいてくれませんか。あなたには分からない

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

死にたいと語る人に、どんなふうに応えたらよいのか。さまざまなメディアが「独りで抱え込まず、相談を」と訴える。もちろん、善意の手を差し伸べようとしているのだし、そこに示される電話なりインターネットなりに問い合わせれば、誠実に耳を傾けてくれる相談員が待っているだろう。だが、そもそも本気で死にたい人が、誰かに相談しようとするケースは少ない。誰かに相談できていたなら、死にたいと思うほど追い詰められることはなかったからである。「独りで抱え込まず、相談を」という啓蒙は無意味ではまったくないが、いちばん届いて欲しい人に届かないという歯がゆさがあることもまた事実である。

一人の人間が追い詰められ、失望し、孤立し、SNSなどで「死にたい」という一言を発するに至るまでの事情は、それぞれ異なる。幸運にも(それはあくまで支援者の側から見て、相手が死ぬ前に連絡をしてくれたという意味での「幸運」であって、それ以上の意味はない)その背景について相手が語り始めるや、そこには幾重にもかさなり、複雑に絡みあった、生い立ちや環境にまつわる苦しみの連鎖がある。わたしもしばしば、その重層性と複雑さとを前に、いったいどこから手を差し伸べたらいいのかと立ちすくむ。

イエスは孤立するなかで「死にたい」と感じている人に救いの手を差し伸べたことがあったのだろうか。というより、そもそも、イエスの前に「死にたいんです。どうにかしてください」というような人が現われただろうか。うつむく現代人の前にイエスが現れたとする。「何をしてほしいのか」とイエスがその人に言う。その人は、こう答えるのではないか。

「放っておいてくれませんか。あなたには分からない」

‟一行はエリコに来た。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出られると、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言った。イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。“ マルコによる福音書10章46~52節 聖書協会共同訳

イエスの時代、こんにちのような社会福祉は存在しない。身体に障害を持つ人は物乞いをして生きるほかなかった。だが、イエスと出遭ったこの目の見えない人の言動からは、「われわれは物乞いをして生きるしかない」という状況から、なにがなんでも脱出したいという強い意志がうかがえる。どんなに人々から斥けられようが、それでも人々の社会に入りたい、自分も社会のなかで生きたいという、強い意志である。拒みに拒まれた末、ついにイエスの使いから呼び出されたときには、彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスのところに来る。もはや身体が制御できないほどみなぎる喜びが、躍り上がる躍動としてこの人からあふれだす。この人とイエスとの関係を要約すれば、次の二言になろうか。

「生きたいんです!」

「だいじょうぶ、あなたは神を信頼した。必ず生きることができる」

しかし現代、わたしに「死にたい」と打ち明ける人で、こんな人はほぼいない。なにもかもに疲れ果て、もうこれ以上生きてはいたくない。宗教に意義があるのは認めるが(だから牧師であるわたしに連絡をしたともいえる)、救いまでの道のりはあまりにも遠く感じられ、自分には無縁である...そういう人ばかりである。

聖書にもエレミヤ書やヨブ記に見られるように、「生まれてこなければよかった」と詠嘆する表現が見られる。そうした言葉を読む限り、古代の人々もまさに現代のわたしたちのように苦悩していたのだと実感する。ただ、古代の社会は、死にたいと思う以前に、今よりもずっと死が身近にあった。自殺などしなくても、疫病や飢饉、戦乱などで多くの人が死んだ。平時であっても、ちょっと病をこじらせれば人は亡くなった。寝付いてから亡くなるまでの時間も短かった。聖書には「霊」という言葉がヘブライ語とギリシャ語でそれぞれרוּחַやπνεῦμα と表現されている。それらの語はいずれも、もともと風や息という意味を持っている。というのも、人が生きている状態すなわち霊が宿っている状態は、すなわち息をしていることだからだ。息を引き取ったら、人は死ぬ。つまり、息すなわち霊が身体から吹き出て、二度と吸い込まれることはなく、そのまま神のもとへと帰ったということである。古代社会に人工心肺装置は存在しなかった。だから脳死という倫理的に判断が難しい問題も、誰も想像さえしなかった。

以前、國學院大學の博物館に、居家似岩陰遺跡から出土した全身の人骨が数柱展示された。(企画展「縄文早期の居家似人骨と岩陰遺跡─居家似プロジェクトの研究成果─」)12~15歳程度や若年成人女性の遺骨が数柱、ガラスケース内に展示されていたのである。8500~8000年くらい昔の骨であるが、いずれも若いので歯並びは美しく、骨もしっかりしていた。この女性たちは早死にしたのだなと思っていたが、解説には「縄文早期人は早死であった可能性」とも記されていた。つまり、この女性たちがたまたま早死にしたのではなく、だいたいの人がこれくらいの年齢で死んでいたかもしれないのである。ひょっとすると、彼女たちは白髪の老人を見たことがなかったのではないか。岡村道夫も『縄文の生活誌』のなかで、十五歳からの平均余命は十五年から二十年、四十歳まで生きられる人はごくわずかだったと語っている。イエスが生きた時代のイスラエルの人々は、そこまで短命ではなかったとは思うが、出産時の母親や新生児の死亡率は今よりはるかに高かっただろう。高齢者だけでなく子どもや若者の死にも、人々は日常的に遭遇していたはずである。

小津安二郎の『早春』だったろうか。まだ若い会社員が肺を患い寝込んでいる。彼は同僚たちに見舞われたその日の晩、痰がのどに詰まって死ぬ。葬儀に集う人々は号泣するでもなく、淡々と友人の死を受け入れる。一方で、定年を迎えたサラリーマン(笠智衆)の言葉も印象的である。「子どもたちも独立し、自分も終わりが見えてきた」旨、彼は語るのである。彼はまだ50代半ばくらいのはずである。いや、「まだ」50代半ばという表現は、小津の世界にはふさわしくないのだろう。彼の作品世界において、若者はときにあっさり病に斃れ、50も過ぎれば人は自らの死を意識する。それも、とくに不安を覚えることもなく。この作品が公開されたのは1956年である。たしかに作品はあくまで小津の世界を表現したものであって、当時の社会そのものを映し出しているわけではない。だが、それが当時の観衆に大きな違和感を抱かせることなく受け入れられ、社会的にも評価されたのである。この時代の人々にとって、まだまだ死は近かったのではないか。そうであるなら、たった65年前であるにもかかわらず、死に対する人々の感覚は、現代を生きるわたしたちとはまったく異なっていたことになる。

キリスト教の伝道のため、アマゾンの少数部族ピダハンのもとへ家族ごと移り住んだダニエル・L・エヴェレットは、彼らの素朴な生活と、いつも笑顔で幸福そうにしている現実を前にして、次第にキリスト教の必要を疑い始める。その疑問はやがて彼自身の信仰の必要性そのものに向かう。なにより、ピダハンほかアマゾンに住む人々の、死に対する構えに彼は揺さぶられたと思われる。あるとき、彼の妻と子供がマラリアで死にかけたときのことである。彼はこう語る。

‟ピダハンたちは、西洋人が彼らの二倍近くも長生きできると見込んでいることなど、知る由もない。見込んでいるどころか、それが権利だと考えているくらいだ。アメリカ人は特に、ピダハンの禁欲をもち合わせていない。とはいえ、ピダハンが死に無頓着だというわけではない。父親は、それで子どもを救えると思ったら、何日でもボートを漕いで助けを求めに行くだろう。わたし自身、夜中に思いつめた眼をしたピダハンの男に起こされたことは何度もある。すぐにきて、病気の子どもか伴侶を見てやってくれないかと。その顔に刻まれた苦悶と心痛は、ほかの何ものにも劣らず深いものだった。だがピダハンが、必要なときには世界じゅうの誰もが自分を助けるべきであると言わんばかりにふるまったり、身内が病気か死にかけているからといって日課をおろそかにしているところを見たことがない。冷淡なのではない。それが現実なのだ。ただわたしは、まだそれを知らなかった。“ ダニエル・L・エヴェレット著、屋代通子訳『ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観』みすず書房、85頁 傍点筆者

アメリカ人にとって、つまりエヴェレット自身にとって、自分や自分の愛する人々が長生きすることは自明であり、もしもそれが脅かされるなら、日課すなわちなにもかもを投げ出してでも「世界じゅうの誰もが自分を助けるべきである」。それが彼の世界理解であった。世界理解は、それが揺さぶられない限り、世界理解として意識にのぼることすらない。だが彼はピダハンと出遭い、それが決して自明ではないことを知る。やがて彼はキリスト教さえも自明ではないと思うに至り、信仰を捨てるのである。彼がキリスト教を捨てるに至ったことを、わたしは衝撃と共に受けとめた。他人事とは思えなかった。わたしもまた「世界じゅうの誰もが自分を助けるべきである。自分は救われて当然の存在である」という自意識を、しかも無意識の自明なる前提としているのだと気づかされたからである。そして多くの現代人の苦悩も、この前提と深く関係していると思われたのである。

「誰もが自分を助けるべきである」。それは危険時の話である。もう少し敷衍してみよう。こうならないだろうか。「誰もがとは言わないにせよ、多くの人が自分に好ましい評価をすべきである」。そんなことを口にする人はいない、口にする人はよほどの傲慢であると言われるかもしれない。もちろん誰も表立っては口にしないだろう。だが多くの人がほぼ無意識の前提として「自分は正当に評価されるべきであり、そうでない場合にはその歪みは是正されるべきである」という価値観を内面化しているのではないか。それがあってこその、「なぜ自分は評価されないのか」「なぜ自分は孤立したのか」という苦しみなのではないか。

社会ではなくあなたの心(がまえ)が問題なのだと言いたいのではない。社会構造もまた人間が構築しているものだ。しかもそれはピダハンとは比較にならないほど複雑化している。ピダハンなら、自分が生活している社会の隅から隅まで、おおむねどんなことが営まれているのかを知っているだろう。福音書の時代に生きた人々も、自分たちの住む町のこと、そこにいる人々のだいたいの雰囲気を知っていたのではないか。遠い場所で起こるニュースなど知らなくても、この世の不思議については律法学者が教えてくれるさまざまな知恵で事足りたことだろう。いっぽうで、わたしたちは自分が暮らす社会の、そのほとんどを知らない。いや、社会の全体像を知っている人など、はたしているのだろうか。世界の矛盾すべてを説明してくれる学者や聖典など、わたしたちは知らないし、求めてもいない。自分では理解も把握もとうてい不可能な、この複雑な社会のなかで、わたしたちは事故や病気に遭遇しない限り、かつてないほどの長命を生きなければならない。そのような社会に、なんの歪みも矛盾もないということはありえない。わたしたちは全体像の分からない複雑なものに絡みとられ、身動きができずに苦しむ。死はそうした複雑さをとつぜん断ち切るかのように、不気味なものとして、あるいは理想として、苦悩する人の前にその姿を顕す。

ピダハンの人々は、死について詮索しない。彼らには創世神話がなく、来世への明確な信仰もない。彼らの平均寿命はおおむね40代であるという。子どもか大人かにかかわらず、マラリアで命を落とす人も多い。そんな彼らは、死を誰にでも訪れる、避けられないものと考えている。一方でイエスの時代を顧みれば、そこには精緻な信仰世界がある。だが、死が日常的なものであるという点では、ピダハンと大きくは変わらない。古代イスラエルの人々は、自分たちに死がとても近いからこそ、死の向こうにある救済をありありと想像できたのだろう。だが、教会に「死にたい」と連絡してくる人にとって────「死にたい」という言葉にもかかわらず────死は遠いし、死後の世界も遠い。あまりにも遠すぎて、死も死後の世界も、まるで存在しないかのごとくである。ときおり「死にたい」ではなく「消えたい」と語る人もいる。死にまつわる肉体の具体的イメージがそこにはない。モニターから画像が消えるように、ふっと電源が落ちる語感である。他人の死を看取る経験が少ない人にとって、自分の肉体の死を想像することは難しいのかもしれない。

わたしは牧師として、悩み苦しむ人と向きあっている。牧師の拠り所は、なんといっても聖書である。わたしの目の前で苦しむこの人を、神が見捨てるはずがない。もしもこの人の目の前にイエス・キリストがいたら、慰めに満ちた言葉をかけるに違いない────そこまで考えて、いつも立ち止まる。イエスの目の前に、長命を自明として「早く死にたい」と嘆く、そんな人はいただろうかと。イエスのもとにはむしろ、生きたい、だから救ってほしい、そういう人が殺到したのではないかと。もしもそうであるなら、わたしはイエスの言葉をこの目の前の人に対して、どのように適用できるのだろうかと。

だが、このように悩むとき、まさにイエス・キリストは、問いかけるわたしの前に立ち現れてくるのである。このまま蛇の生殺しのように生きるのはたくさんだ、もう死にたい...そのように願う、まさに現代に生きているこの人に、イエスはなんと答えるのか。そのように問うとき、わたしはイエスと切り結ぶ。わたしはイエス・キリストという真空に浮かんだ単語を信仰しているのではない。まさにこの問い、わたしが出遭う他人との関係において生じる、この問いのなかに含まれる主語「イエス」こそ、わたしが出遭い、信頼している相手なのだ。

 

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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