最終回 あなたもまた黙殺されてきたのだから

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

最近、進藤龍也という男と友人になった。まだ知りあって一年にもならない。彼はペンテコステ派の牧師で、わたしとは信仰の背景もかなりちがう。むしろちがうからなのだろう、わたしは彼に強く惹かれるものを感じたのである。

彼は前科七犯の元ヤクザであり、だから牧師として正式に認定されてからすでに15年にもなるのに、たとえば教会の工事をしたりするときなど、銀行から融資を受けることができないという。それでも、彼は自らがどうやって立ち直ったのかについて、しばしばメディアをとおして語る。彼にとってはそれもイエス・キリストの福音を伝道するためであるが、なかには複雑な思いをする人もいる。「さんざん悪さをしておいて、立ち直ったらもてはやされるのか。真面目に生きてきて、ぜんぜん注目されない人間もいるというのに」。

わたしは進藤牧師が乗り越えてきたであろう壮絶な道のりに深い敬意を抱いている。だが同時に、彼に対して複雑な思いをする人がいる、その気持ちも分かってしまう。なぜなら、わたし自身がまさにそういう感情を、彼と出遭うまで持ってきた一人だからである。

じつは聖書に、ずばりこの問題と向きあった物語が収録されている。実際に起こった事件ではなく、イエスのたとえ話である。こういうたとえ話を即興で作ってしまうイエスには、現代でいうところの小説家や脚本家のような才能があったのかもしれない。要約するとその妙味が失われてしまうので、少し長いがそのまま引用する。なお、読みやすいよう段落分けを適宜加えた。

“ある人に息子が二人いた。弟のほうが父親に、「お父さん、私に財産の分け前をください」と言った。それで、父親は二人に身代を分けてやった。何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった。

何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。そこで、彼は我に返って言った。「父のところには、あんなに大勢の雇い人がいて、有り余るほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」

そこで、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。

ところで、兄のほうは畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りの音が聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」すると、父親は言った。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。」”

(ルカによる福音書15章11節~32節 聖書協会共同訳)

「さんざん好きほうだいやってきた人間が赦されて幸福になれるのなら、真面目に生きてきた自分の地道な努力はなんだったんだ」。

この感情を払拭することは多くの人にとってとても難しいし、払拭できないことは愚かでも未熟でもない。最近読んだある本によると、人間は太古の昔、社会というものを形成し始めたときから、いわゆるフリーライダー(タダ乗りする人間)に対しては敵意を持って排除することで協働生活を維持してきたらしい。

たしかに、サボっている人間がすぐ横にいるのに自分だけ真面目に働くのはあほらしい。その人間が罰せられないのなら自分だってさぼりたい。そうやって協働からの逸脱が連鎖していけば、社会は崩壊する。だから協働からの逸脱者には厳罰をもって臨む──なるほど、理にかなった推測だと思う。

しかしイエスのたとえ話は、フリーライダーへの厳罰則に逆らっているようにみえる。生き直そうとする放蕩息子に対して処罰ではなく、ふたたび幸福になれるチャンスを与えるのである。このような発想はキリスト教に限らないかもしれない。わたしは仏典に疎いが、おそらくブッダの教えを信じて出家した人にも、重い過去を背負った人がいたはずである。フリーライダーを赦さないことが原則の社会において、フリーライドしてしまった過去をリセットする機能が(すべてではないかもしれないが、かなりの)宗教にはあるように思われる。

放蕩息子の話を教会で聞くとき、たいていの人は放蕩息子に注目するし、自身の不信仰を彼に投影するだろう。だがその人はよほどの経験をしていない限り、社会的には放蕩息子ではなく兄のほうである。かつてのわたしにとっても、法的に逸脱した過去を持つ人はテレビニュースの向こうにいた。

わたしも含めた多くの人々は、報道をとおして事件に注目し、怒りや悲しみを覚える。しかし、罪を犯した彼ら彼女らがどのように裁判を受け、少年院や刑務所のなかでどのような服役をし、出所後はどんな生活をしているのかについて、わたしたちはほとんど知らないし、興味を持つこともない。犯罪者がどのように刑期を務めるのかなど知らなくても、生活に支障はないからだ。痛ましいニュースを見て感情を揺さぶられても、それは一時的にすぎず、忙しい生活のなかですぐに忘れてしまう。わたしたちは放蕩息子の受けた報いを、具体的に想像することが難しいのである。

しかしときには進藤牧師のように、元受刑者がみずから発信したり、取材を受けたりする場面に接することもある。そのとき、前科なく生きてきた人が、犯罪から更生した人を見て、苛立ちを覚えるのである。

「更生したらこんなに評価されるのか。自分はいっさい法を犯さず生きているが、仕事は厳しく、家にも居場所がない。でも、誰も『頑張っているね』なんて言ってくれない。元犯罪者がこんなに褒められるなんて、真面目に生きていることがあほらしい」。

法を犯していないからといって余裕のある生活ができているとは限らない。このように苛立つことは生理的というか、直感的な現象であると、わたしは思っている。もしもこの苛立ちを頭ごなしに「更生者への差別だ」と否定するなら、更生への社会的理解や受容はますます遠ざかるだろう。

 

学生の頃、ぜんぜん勉強しないで遊んでばかりいる友人がいた。あるとき、彼もいよいよ尻に火がついたのか、あわてて勉強しだした。すると、彼の持ち前の陽気さもあって、周囲から「やればできるじゃん!」と笑われていた。一方、もともと陰気な性格で、真面目に勉強することだけが取り柄だったわたしは、「ふだんから努力している人間は見向きもされないってわけだ」と、彼を逆恨みした。妬んだといってもいい。

わたしにもこういう経験の蓄積があるからだろう。わたしはこう思うのだ。誰かがそういう黒々とした感情を心に抱き、それを言い表したとき、「罪を犯した者がせっかく生き直そうと努力するようになったのに、喜んでやらないのか」と頭ごなしに責めるのであれば、責められたほうとしては、それこそふだんから真面目に努力してきたことがあほらしくなると。

たしかに、努力することや真面目であることは人から褒められるためにする行為ではない。とはいえ、である。自分の努力が他人から自明視され、いや、そもそも努力しているとすら気づかれなかったとき。いくら頑張っても努力とさえ見なされず、その頑張りがいっこうに注目もされないとき。そんなときに、以前は努力していなかった人間が、頑張りだしたら注目され、高い評価を受けるという事態が起こったとしたら。これまで真面目に生きてきた人は、「それはないだろう」という感情さえ抱いてはいけないのだろうか。むしろ、放蕩息子の兄のような感情が起こることを想定して、兄から見た弟の再起について考えるほうが現実的である。

ふだん不真面目なようにしか見えない人が「ときどき」頑張って評価されたとき。あるいは、過去にさんざん好き放題やった挙句に回心した人の、その回心がドラマティックに紹介されたとき。そんなときに湧き起こる「じゃあふだんから頑張っていて、誰からも注目も評価もされないわたしは?」という感覚。まさにこのわたしにも根強くこびりついている感覚。わたしはその感覚を正直に認めたうえで、他者の更生について考えたいのである。

わたしは放蕩息子ではなく、その兄である。そのように聖書を読むと、浪費の限りを尽くした弟と、父親の言うまま真面目に働いてきた兄との関係や、なぜ兄があんなに怒るのかが、ぜんぜんちがったふうに見えてくる。

そもそも放蕩息子はなぜ実家を出奔したのか。その理由をイエスは語らない。教会でこの話が読まれるとき、わたしたちもそこまで注意がいかない。だがイエスなら、そこは語らなくても意識はしていただろう。父親のもとから出奔せずにはおれなかった、息子の苦しい思いを。彼は結果として放蕩の限りを尽くした。なにもかもがうまくいかなかったわけだ。

キリスト教には罪という概念があるが、もとのギリシャ語を遡ると、それは戦争で槍を投げて、敵に命中しないことを言うらしい。「的外れ」ということである。戦争で槍を、ふざけて投げる兵士などおるまい。命がけで投げるだろう。だが敵には命中せず、ぜんぜん意味のない、あるいは間違えて味方のほうへと槍が飛んで行ってしまう。兵士にとっては致命的な自滅行為かもしれない。だが、彼は真剣勝負で槍を投げたのだ。放蕩息子の放蕩とは、そのふざけきった見かけにもかかわらず、彼の真剣勝負だった可能性はないだろうか。

前述したが、進藤牧師には七犯の前科がある。その詳細については、ぜひ彼の著作を読んでもらいたい。彼の前科について、わたしは当事者ではなく他人だからこそ、ひとつ言えることがある。それは、彼はヤクザになったときにも、彼なりに真剣な思いで、全力で槍を投げたのだということ。

進藤牧師の書斎には今、知的な書物がところ狭しと並んでいる。彼は今、学ぶこと、知ること、祈ることの喜びを知っている。そういう世界に今の彼は生きている。だが、ヤクザになった頃の進藤少年のまわりには、そういう世界があることを教えてくれる大人は誰もいなかった。本を読んだら楽しいかもしれないこと。教会に行ったら心が落ち着くかもしれないこと。喧嘩以外に物事を解決できる方法があるということ──そういう多様な世界が存在するということを、彼は知らなかった。彼は、彼の知っている力の世界のなかで、真剣勝負で力を振るおうとして、敗れたのだ。槍を投げても投げても、ことごとく的を外したから。彼が犯した罪は法的に裁かれた。そして彼はおのれの行いを法的に償った。だが法的な側面はともかく、彼の歩んできた人生におけるいくつもの過ちは、そのなにもかもが彼たったひとりの責任に帰されるものなのだろうか。わたしには、どうしてもそうは思えないのである。

 

今、社会には余裕がない。低賃金、重労働。恋愛や結婚の機会のなさ、孤立。苦しんではいるが法を遵守するマジョリティであるがゆえに、誰からも気にかけてもらえない人々が無数にいる。そういう人たちが、あるマイノリティに光が当たり応援されている姿を目の当たりにするとき、ときに強い怒りや悲しみを抱くことがある。わたしだって苦しいんだ! でも誰も助けてはくれないんだ。なぜおまえらだけ頑張りが評価されるんだ! わたしは認めないぞ、なにがマイノリティだ!──インターネットには弟の放蕩およびそこからの帰還を決して赦さず認めることのない、真面目な兄たちの悲痛な叫びがあふれている。

これらの叫びを「不寛容だ。マイノリティを差別し、抑圧しようとしている」として黙らせるなら、たしかに彼ら彼女らは黙るだろう。なぜならこの人たちは真面目だから。だが、そのはらわたは煮えくり返るだろう。いちど煮えくり返ったはらわたは、挫折した人間が生き直そうとすることを決して赦さず認めないだろう。

放蕩息子は果たして、ただふざけにふざけきって放蕩の限りを尽くしたのか。それは父の家における窮屈さへの反動ではなかったのか。窮屈だと感じた息子がなにもかも悪かったのか。それならなぜ父は無条件に放蕩息子を迎え入れたのか。父の側にもまた、息子を家にいられなくなるほど追い詰めてしまったことへの後悔はなかったか。

父のそばで黙々と働いてきた兄は、弟が帰還したとき初めて怒りをあらわにした。だが、怒りをあらわにしたのはこのときが初めてであったとしても、彼の心中はどうだったのか。彼は過酷な労働に耐えていた。だがこのときまで彼は父親から「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。」という言葉を聞いたことがなかったのである。父親にとってそれは当たり前のことで、わざわざ言う必要もないことだと思っていたのかもしれない。だが長男からすれば、その一言こそが大切であった。その一言を、もっと前に言って欲しかったのだ。

前科がある人。あるいは法にはふれていなくても大きな挫折をし、社会的に見放された人。そういう人がやり直し、生き直しをはかるとき、それは放蕩息子の帰還に似ている。生き直そうとする人を受け入れる側の人々は、放蕩息子の兄である。帰還した弟に兄が「たいへんだったね。おれに協力できることはないかい?」と声をかけることができるためには、兄のほうもまた父親から「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。」という肯定的な評価を、ふだんから分かるかたちで受けている必要がある。弟が帰還したとき初めて言われるのでは遅すぎるのだ。

元受刑者、あるいは他人に大きな迷惑をかけたり、傷つけてしまったりしたことのある人の社会復帰に複雑な思いを抱いている人々に、わたしは心から「おつかれさまです」と言いたい。あなたのその感情はおかしくない。なぜなら、あなたもまた黙殺されてきたのだから。でも、あなたが簡単には受け入れがたいと思っている、その人一人ひとりにも、あなたと同じように頑張ったのに報われなかったり、どう頑張ったらいいのか分からず苦しかった過去がある。だからいっしょに頑張ろう──わたしはそう、声をかけたい。


*この連載をもとに、大幅加筆した書籍『街の牧師 祈りといのち』が発売になりました。ぜひともご購読ください。

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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第12回 キリスト教とカルト

教会のなかで出遭う人。教会の外で不意打ちのように出遭う人。一時は精神を病み、閉鎖病棟にも入った牧師が経験した、忘れえぬ人びととの出遭いと別れ。いま、本気で死にたいと願う、そんな人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人との出遭いなおしの物語。いのりは、いのちとつながっている。

ニュースで連日、あるカルト宗教にまつわる報道がなされている。友人の牧師にも、カルト問題に専門的に取り組んでいる人がいる。彼から被害者の現場の話を聞くと、耳を覆いたくなるような痛ましいものばかりである。そのカルト系宗教は「キリスト教系」と分類されることがある。正直、キリスト教という語を、その宗教団体に対して用いてほしくはない。とはいえ、ニュースになっているその団体に限らず、キリスト教系の極端な宗教団体の話はしばしば耳にするし、その被害者がわたしのところに話をしにくる。もちろんわたしは「大変ですね」で済ませるのではなく、友人の牧師のように、専門的に取り組んでいる人や機関のことを紹介するようにしている。

それにしても、キリスト教(的なるもの)には、カルトになる要素が存在するのだろうか。先日、教会で毎週やっている「聖書を読む会」で、ヘブライ人への手紙を読んでいた。そのなかに、次のような聖書箇所がある。

“後に堕落した者たちは、再び悔い改めへと立ち帰ることはできません。神の子を自分でまたもや十字架につけ、さらし者にしているからです。” ヘブライ人への手紙6章6節 聖書協会共同訳

ヘブライ人への手紙は1世紀の終わり頃に成立した文書であるという。その頃、キリスト教徒は迫害を受ける側にいた。第11代ローマ皇帝であったドミティアヌス(在81~96年)は、ローマの神々や慣習を拒否するユダヤ教徒やキリスト教徒を迫害し、多くの死者を出した。当局の側から見て、こんにちのような意味でユダヤ教徒とキリスト教徒の区別は明確ではなかった(そんな区別などどうでもよかったかもしれない)。だからローマの慣習を拒否し、ユダヤ的な伝統に従っていると思われる者たちを誰かれなく迫害したのである。ただし1世紀から2世紀にかけての迫害は、ときに苛烈で多くの犠牲者を出したものの、まだ組織的なものではない。散発的な迫害が続いていたのである。だが3世紀になると、デキウスのように官憲を用いて脅迫や拷問をちらつかせることで棄教を迫ったりと、組織的な迫害をする皇帝も現れはじめる(フスト・ゴンサレス著、石田学訳『キリスト教史』上巻)。313年にコンスタンティヌスによって、キリスト教がローマ帝国公認の宗教となるまで、キリスト教徒は迫害におびえ、迫害が鎮静化すれば胸をなでおろし、再び暴力がうねりを見せ始めると頭を抱える────そんな信仰生活を送っていた。

弱小な組織が迫害に耐えるためには、内部の結束が欠かせない。だから堕落すなわち棄教は断じて許されない。いちどキリストを信じ教会のメンバーとなったからには、そのキリストを裏切ることは、キリストを再び自らの手で十字架につけることに等しい。だから決して裏切るな、キリストすなわち教会を...ヘブライ人への手紙が語る強い口調には、過酷な時代ならではの厳しさが垣間見える。そしてこのような厳しさは、メンバー同士の相互監視にもつながったことだろう。「まさかあなたは裏切らないよね?あなたもキリストにつながったのだから、ね?」。そうやって自分以外の信徒の言動を横目に見ながら信仰していた側面もあったと思われる。だからこそ、とくに指導的な立場にある者、すなわち当時の識字率においてヘブライ人への手紙を朗読できるような知識を持つ者が棄教してしまえば、教会組織はどうなるか。「あの人が耐えられなかったんだ。わたしも」と芋づる式に脱落者が続出し、教会は総崩れになってしまう。聖書には書かれていないだけで、指導者が摘発され転向し、その結果、信徒もなだれをうつように転向していき消滅した教会もあったかもしれない(後の時代には、転向者が教会に戻ることができるよう規制は緩和されていった)。

その一方で、鉄の掟といってもいい裏切りの禁止は、不承不承守られていたわけでもなかっただろう。そもそもそこに喜びが存在しなければ、誰となく、ことに当時の若い世代は老人たちの教えにうんざりし、教会から離脱していったに違いない。人々は相互監視もしていたかもしれないが、同時に自ら進んで、ときには殉教をも辞さぬ覚悟で、拷問の末の死をも見据えた信仰生活を送っていたのである。彼らにはありありと、死の向こうにある「よくやった!」というキリストの声がイメージできたであろう。ちなみに迫害や棄教とは直接の関係はないが、イエス復活直後の教会生活を理想化した表現に、次のような聖書箇所もある。イエスの復活事件からはすでに数十年は経過した時代に成立した文書であるから、教会がやはり断続的な迫害を受けていた時代に書かれている。そういう時代にあって、著者には「教会はいつも、この原点のようであってほしい」という祈りがあったのかもしれない。

“信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。” 使徒言行録2章44-45節

“信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、必要に応じて、おのおのに分配されたからである。”同書4章32~35節

これらの言葉がまったくの理想化、ようするに嘘であったとは思えない。メンバーは競いあうように自らの献身を、その身をもって示しただろう。たしかに、そこには承認欲求も含まれていたかもしれない。しかし誰かがじっさいに全財産を投じることで、その行為に神のリアリティを感じた人が触発され、同様の行動をとるというようなことも起ったはずである。だが使徒言行録は、教会がこのラインにおいて危うさを抱えていたことも告げる。

“ところが、アナニアという人は、妻のサフィラと相談して財産を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を取っておき、その残りを持って来て使徒たちの足元に置いた。”同書5章1-2節

イエスを救い主と仰ぐなら全財産を教会に献げることが当然という空気が醸されるなか、迷う人、脱落する人もいたことを、この聖書の箇所はうかがわせる。アナニアは代金の全額から一部を自分たちのためにとっておき、残りを「これが全額です」と教会に差し出した。ところが「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(4節)とペトロから叱責されたアナニアは、倒れて死んでしまう。ペトロの尋問に対して最後まで手元に残した金を隠し続けたサフィラもまた、謎の死を遂げる。ちなみに、この聖書箇所には「神はこの夫妻を呪った/罰した」というような表現は一言もない。夫妻はそれぞれ、ペトロの言葉を聞いて斃れた。そしてアナニアの際には「そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」とあり、サフィラの際には「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とある。この出来事がアナニアやサフィラを個人的に罰した天罰というより、共同体のメンバーを恐れさせるために起こされた事件だといわんばかりである。クリスチャンならこれを神の怒りと読むだろう。しかし、あさま山荘やオウム真理教の内部で起こったことを、ここに推測する人もいるかもしれない。すなわち、熱狂的な組織内部における「引き締め」である。ペトロが直接手を下さずとも、アナニアもサフィラもありありと神の臨在を信じていたのなら、カリスマ的な指導者からこのように言われて、強い絶望のストレスで亡くなるということはあったかもしれない。厳しい糾弾の末の死。その死が神のみわざという口調で語り伝えられるにせよ、教会外部の人間から見たとき、そこには不気味さがつきまとう。

結束を長期にわたって持続させるにはモチベーションが要る。イエスの記憶も未だ新しい時代に活動していたパウロは、イエスと同時代の人である。だからパウロは伝道者であると同時に、最初期の教会の目撃者、証言者でもある。そんなパウロが嘆くのである。

“しかし、次のことを指示するにあたって、私はあなたがたを褒めるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果ではなく、悪い結果を招いているからです。第一に、あなたがたが教会に集まるとき、互いの間に分裂があると聞いており、私もある程度はそれを信じています。あなたがたの間で、誰が適格者かはっきりするためには、分派争いも必要でしょう。しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることになりません。食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじ、食事を持参しない人々を侮辱するのですか。あなたがたに何と言ったらよいでしょう。あなたがたを褒めるべきでしょうか。この点については、褒めるわけにはいきません。”コリントの信徒への手紙一11章17~22節

使徒言行録で語られている「必要に応じて、おのおのに分配された」気配のかけらも感じられない。実際、このことが災いしたのであろうか、「あなたがたの間に、弱い者や病人が大勢おり、また死んだ者も少なくないのは、そのためです」(同30節)と、パウロは深刻な結果を語っている。

教会には信仰の喜びがあり、人々はときに、みずから進んで全財産を献げさえした。それどころか、迫害の末に死に至ることさえ恐れない者もいた。だがパウロのこのような表現を見る限り、全員が全員、そのような人々ではなかったであろうことがうかがえる。富裕者は教会内でも富裕者であり続け、空腹を知らない。それに富裕者は奴隷に労働を任せているため、時間の余裕もある。教会に集まり、キリストを祈念する晩餐を開いていたつもりが、すっかり楽しい宴会になってしまうこともあっただろう。宴会も終盤にさしかかり、もう食べ物も飲み物も残っていない頃にようやく、重労働を終えた貧しい人々が礼拝にやってくる。彼ら彼女らは空腹で倒れてしまいそうだが、信仰の一念に衝き動かされて教会に来るのである。ところが来てみれば、お金持ちな人々が陽気に飲んではしゃいでいる...コリントを飢饉が襲ったとき、貧しい人々の多くが死んだ。これらの労働者たちはどんな思いで富裕者たちの飲み食いを眺めながら、飢えに息絶えていったのか。パウロのこの手紙が書かれた時期は54年頃ともいわれる。「必要に応じて、おのおのに分配された」と語る使徒言行録の成立した80~90年代よりもさらに古い時代に、すでに教会内部に歪みが生じている。パウロがコリントの、やはり字が読める人々すなわち指導者層に向けてこの嘆きを書いたのだとすれば、食べて飲んですっかり満足していた側に、教会の指導者たちも含まれていたことになる。

わたしの聖書箇所の選択および解釈を、あまりにうがった見方であると憤慨するクリスチャンの人々もおられるかもしれない。だが、聖書の文言はそれぞれの時代背景抜きには語られなかったであろうし、それを読むわたしやあなたもまた、わたしやあなたの今生きている時代的状況のなかで、これらの文言を受け取っている。カルト宗教がしばしばパワーハラスメントやセクシャルハラスメントの温床となり、言いなりとなった信徒に高額な、ときには全財産といってもいい献金を求めることに、わたしは強い違和感を覚える。だが同時に、それを批判することの無力をも禁じ得ないのである。なぜなら、批判すればするほど、彼らは自らのことを、迫害を受ける真理の証言者と自覚するにちがいないからである。ニュースで取り沙汰されている宗教だけではない。キリスト教系と呼ばれるカルト宗教は枚挙にいとまがない。キリスト教自体に、カルト化しかねない要素がある。聖書にその証言がなされている。そのことを自覚するところから始めなければならないと、わたしは思う。

わたし自身のことを語ろう。わたしも教祖になりかけることがあるからだ。教会に相談者が来る。インターホンが鳴り、ドアを開けたわたしは「さあ、どうぞお入りください」と相談者をいざない、ドアを静かに閉める。「まあ、お茶でもどうぞ」と、飲み物やお菓子を出す。

相手が話を始める。号泣する。わたしは静かに見守る。そしてよくよく考えたうえで、一つか二つ、なにか答える。だが、ここからが問題である。

「そうですね...そうですよね!先生、ありがとうございます。先生のお言葉が心に刺さりました!」

わたしは帰途に向かうその人をおだやかに見送りはする。だが心中穏やかではない。「先生のお言葉」すなわちわたしの言葉がこの人に「刺さった」のはなぜか?言葉の内容は、じつはなんでもよかったのではないか。なぜなら、その人は泣いていたから。他人の前で泣く、それも号泣するというのは、自分の内臓を相手にすっかり見せるようなことである。わたしはその開かれた内臓へ、つけいったのではないか?

礼拝堂という密室。その礼拝堂を管理するあるじであるわたし。見知らぬ場所にやってきた、不安でいっぱいの相談者。どちらがものを言いやすいか、すでに力関係は決している。相手は腹を見せ始めているのだ。号泣は、相手が完全に腹を見せた合図である。そこでわたしがなにかを言えば、相手はなんでも「これが、わたしの求めていた言葉だったんだ!」と思ってしまうかもしれないのだ。わたしはカルト的でありうる。

「なにかホッと心が軽くなり、のしかかっていたものがはずされて、救われたような気持ちになったのです」(藤田庄市『カルト宗教事件の深層』26頁)

このような言葉を、わたしはよく相談者からうかがう。しかし上記の言葉を発したのはオウム真理教の林郁夫元死刑囚であり、地下鉄にサリンを撒く役を与えられた際、故・村井秀夫から「これはマハームドラーの修行なんだからね」と宗教的な意味を与えられたときのことである。著者の藤田は「背筋が凍るとしかいいようがない」と語る。しかしわたしは別の意味で背筋が凍る。わたしには、林の心がホッと軽くなる現場が見えてしまうのである。ホッと心を軽くしてしまうわたしが。

日本基督教団 牧師。1972年、兵庫県神戸市生まれ。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。しかし2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院する。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。
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