最近、僕の周辺で聞くようになったのは、「以前より読書に集中できなくなった」「読書が進まなくなった」という声である。外出を控え、巣篭もりする時間が増えた人も多いのだから、今こそ本に向き合う絶好のタイミングだと思いきや、かなりの読書好きと見受けられる人の中にも、同じような現象が一部で起こっているようだ。かくいう僕もそのひとりだった。
本は現実とは別の世界を見せてくれたり、別の見え方を提示してくれたり、現実の世界をより鮮明に見せてくれたりする。そしてなによりも、読書好きにとって、活字でつくられた世界に触れることは、その世界が自分にとって不快で都合が悪いものだとしても、それを含めてよろこびや楽しみになる。新型コロナウィルスの感染拡大が深刻化して以降、見えないストレスやプレッシャーに晒され続けているのが影響したのか、僕はある時期、いつものように活字の世界に集中できず、うまく表現や内容が頭に入ってこなくなってきてしまっていた。
本に、活字に親しみを持って過ごしてきた僕にとって、これほど辛いことはなかった。世界と僕をつないでいる回路のひとつが、分断されてしまう状態に陥るからである。しかし、東日本大震災や原子力発電所の事故が起こった2011年、実は同じような体験をしていたので、今回は本が読めなくなった状態からの脱出方法を、僕は用意していた。それは、「こういうときこそ、何度も読み返している本をゆっくり再読する」という、単純な方法である。
僕の場合、それはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』である。アメリカ文学に特別詳しいわけではないに、なぜかこの小説は何度も読み返してしまう。たぶん、ギャツビー氏が、本当にグレートだからである。それを毎回、確認したいのだ。あと、トム・ブキャナンを、僕は許せるかどうか。前者は、今回の再読でもやはりグレートだということに一層、確信を持った。だが後者については、何度目の再読かわからないし、すでに主要登場人物の年齢をとっくに超えているのに、僕はまだ許すことができなかった。しかし一方で、すべての憤りをブキャナンひとりに押し付けるのは酷だとも、今回の再読では少し感じた。
何度も再読すると、以前は気にならなかった部分の受け取り方も変わってくる。たとえば、今回は村上春樹訳で再読したが、ギャツビー氏の口癖であるold sportを「オールド・スポート」と訳したのは秀逸だと改めて感じた。だが、ふくろう氏の最後の台詞は、野崎孝訳の「かわいそうなやつめ」のほうが圧倒的にしっくりくるし、哀しくも美しい余韻を残す。個人的には、すごく重要な台詞だと思う。原書で読めない僕が考えても仕方ないことなのかもしれないが、次に両氏の訳による『グレート・ギャツビー』を読む際には、この場面に注目してみたい。
こんなふうに、何度読んでもその度に発見があり、楽しめる本を一冊でも持っておくことが、「読書ができなくなった」精神状態から脱する一助になると思っている。理屈を語りだすとキリがないし、理屈で説明できる部分とできない部分があるのだけど、何度も読んでいるから物語や人間関係を把握する必要がないので、読み始めるハードルがシンプルに低い。このことは大きいと思う。そしてなぜか、一冊でも読めるとほかの本にも手が伸びるようになる。
小説でなくても、本でなくてもいい、映画でも音楽でも美術でも漫画でも落語でもなんでもいい。ほかでもない「自分の人生」に寄り添ってくれる作品があると、時に人は救われる。
1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤ
Twitter: @miyazakid