昨日は久しぶりにお気に入りのアパレルショップ「R for D」に行った。この連載ではあまり触れてこなかったが、僕はファッションが大好きなのである。コロナ禍になって以来、外出する機会が減り、服を買うことが極端に減っていた。店に入ると馴染みのショップ店員が声をかけてくれ、近況報告や育児の話で盛り上がった。彼には赤子(息子)がいて、マイ赤子(1歳7か月、息子)とは数日しか生まれた日が変わらない。周りに同年代の赤子を育てる父親が少ないからか、いろいろと詳しく話してくれた。赤子のことを語る彼の目は、以前と変わらずに優しいままだった。
コートとカバンを買いご機嫌になりながら、家に帰って再び出掛ける準備をした。斎藤哲也さん、山本貴光さん、そしてこの連載の担当編集・吉川浩満さんが五反田のゲンロンカフェで開催するイベント「『人文的、あまりに人文的』な、2021年人文書めった斬り!」にうかがうためである。連載の最後の最後になって、僕が活発に動き始めた。新しいカバンに荷物を入れ替え、紙袋に入れた蜜柑を大切に収めた。そう、この連載が始まるきっかけになったと僕が勝手に決め付けている、あの「高級な蜜柑」である。
つい先日、東京の郊外に住む母から高級な蜜柑こと、「紅まどんな」が送られてきた。「紅まどんな」は、亡くなった父の故郷である愛媛県のブランド蜜柑で、それはもうこの世のものとは思えないほど美味しい高級な蜜柑なのである。連載が始まる前の別の仕事で吉川さんと会った際に「紅まどんな」をプレゼントしたのが功を奏し、しがない一介のフリーライターである僕に「平日毎日公開」というこの連載を託してくれたのだと踏んでいる。そしてなんと、連載の書籍化まで決まったのだ。僕は愛媛に足を向けて寝ることができない。
しかし、なぜか吉川さんから「紅まどんな」の味の感想を一度も訊いたことがない。会うたびに訊こうとして、忘れてしまうのである。「紅まどんな」を以前、プレゼントしたのが僕の記憶違いだったらどうしよう。吉川さんが覚えていなかったらどうしよう。もしくは、三島由紀夫『豊穣の海』シリーズのラストのような展開になっているのかもしれない。一抹の不安を抱えながら、僕は「紅まどんな」を3つ、会場に持って行くことにした。
なんてことを考えつつ何気なくチケットサイトを確認してみたら、イベント開始が19時だという事実に気がついた。その時点で18時55分。てっきり20時からだと思っていたのである。僕は急いで身支度をし、タクシーに乗った。住んでいるマンションから五反田へは、電車よりタクシーを使ったほうが圧倒的に早く着くのだ。19時30分には会場に着いた。段取りが悪くドタバタしてしまう癖は、連載をとおしてずっとなおらないままだった。
前半は聴き逃したものの、とても充実した内容の楽しいイベントだった。僕はこのイベントを毎年楽しみにしていた。2年ぶりの有観客開催で、昨年はオンラインで視聴した。知り合いにもたくさん会えて感慨深くなった。
イベントが終わり、吉川さんに話しかけた。少しお酒に酔っているようだった。僕は日頃のお礼を言い、新しく買ったカバンの中から「紅まどんな」の紙袋を取り出した。吉川さんは「これはうれしい!」と大喜びしていた。
「ところで、以前にプレゼントした『紅まどんな』の味はどうでしたか?」と訊いてみた。「もちろん美味しかったですよ。伝えそびれてしまっていましたけど、もちろん美味しかったです!!」と吉川さんは興奮気味に話した。よかった。夢でも幻でもなかったのだ。「3つあるので登壇者の方々と……」と言おうとしたその瞬間、吉川さんは「しかも3つも! いや〜、本当にうれしいなあ」と顔をほころばせた。吉川さんを止めることは、もう誰にもできなかった。まあ、吉川さんもご満悦なようだし、結果オーライにしよう。3つもあげたのだから、それはさぞかし立派な本が、たくさん刷られるに違いない。まだお酒を飲みながらの談笑は続いていたが、久しぶりに活発に動いて疲れていた僕は、会場のみなさんに挨拶をして家路に着いた。
つい先ほどツイッターを見たら、吉川さんが家の鍵をなくして七転八倒していた。まさか「紅まどんな」までなくしたのではあるまいか。いやこの際、高級な蜜柑はなくなってもいいから、なんとか鍵だけでも出てきてほしい。「吉川さんには生涯の貸しをつくっておきたい」と、僕はふと思ったのであった。
Back Number
- 第251回 大晦日の大晦日感(2)
- 第250回 高級な蜜柑(3)
- 第249回 人生の杭
- 第248回 コーヒーの香り
- 第247回 はじめてのサンタクロース
- 第246回 犬と赤子
- 第245回 手紙
- 第244回 僕が好きだったもの
- 第243回 クリエイティブ迷子
- 第242回 懐かしさ
- 第241回 年末進行
- 第240回 二代目・朝顔観察日記(完)
- 第239回 ビニール傘
- 第238回 赤子の習い事
- 第237回 短眠
- 第236回 褒めて伸ばす
- 第235回 コンビニのKさん
- 第234回 風船トレーニング
- 第233回 吾輩は僕である
- 第232回 電話で伝える氏名の漢字
- 第231回 ロクちゃんのぬいぐるみ
- 第230回 書籍化
- 第229回 今日は何の日
- 第228回 本の片付けについて(3)
- 第227回 二代目・朝顔観察日記(8)
- 第226回 育児について
- 第225回 文学フリマ
- 第224回 僕が走った
- 第223回 大学を卒業できない夢
- 第222回 読書の悦楽
- 第221回 ウニについて
- 第220回 駄目貯金術
- 第219回 なにもない世界
- 第218回 シックスマン
- 第217回 老い
- 第216回 赤爆
- 第215回 好き嫌い
- 第214回 3日前の晩ご飯
- 第213回 千葉の沼
- 第212回 前髪のこと(2)
- 第211回 積読くずし
- 第210回 疲れを知ること
- 第209回 動物園
- 第208回 出口がある街
- 第207回 前髪のこと
- 第206回 観光地のマグネット(3)
- 第205回 覚え違いタイトル集
- 第204回 小さな一歩、大きな一歩
- 第203回 寒い季節のアイス
- 第202回 徹夜について
- 第201回 観光地のマグネット(2)
- 第200回 行けたら行く
- 第199回 狭い街
- 第198回 二代目・朝顔観察日記(7)
- 第197回 マスクチェーン(2)
- 第196回 観光地のマグネット
- 第195回 偶然の駄洒落(2)
- 第194回 地震
- 第193回 勉強
- 第192回 家賃の振り込み(2)
- 第191回 二代目・朝顔観察日記(6)
- 第190回 犬年齢
- 第189回 やりたいことリスト
- 第188回 二つ名
- 第187回 二代目・朝顔観察日記(5)
- 第186回 モテとは何か
- 第185回 怪談プリンター
- 第184回 筋トレ嫌い(2)
- 第183回 メロトッツォ
- 第182回 犬の誕生日
- 第181回 彼岸花
- 第180回 赤子が強い
- 第179回 赤子の苛立ち
- 第178回 今日からおじさん
- 第177回 最近のニコル
- 第176回 二代目・朝顔観察日記(4)
- 第175回 親に似る
- 第174回 スティーヴ・アオキ
- 第173回 偶然の駄洒落
- 第172回 下北沢
- 第171回 コロナ以後
- 第170回 ダンス動画
- 第169回 フィルムを貼る仕事
- 第168回 優しい死神
- 第167回 自分の声
- 第166回 二代目・朝顔観察日記(3)
- 第165回 凪を生きる
- 第164回 高身長
- 第163回 黒マスク
- 第162回 二代目・朝顔観察日記(2)
- 第161回 マスクチェーン
- 第160回 痛いと言っていい
- 第159回 あいつは?
- 第158回 文化系トークラジオLife
- 第157回 父と中原中也
- 第156回 二代目・朝顔観察日記(1)
- 第155回 朝顔観察日記(6)〜あきらめない
- 第154回 ある夏の思い出
- 第153回 ワクチン接種2回目(5日目)
- 第152回 腰が痛い人
- 第151回 ピスタチオ
- 第150回 ワクチン接種2回目(2日目)
- 第149回 ワクチン接種2回目
- 第148回 ニコルゾーン
- 第147回 赤子はすごい(2)
- 第146回 退屈さ
- 第145回 髪を切りたい
- 第144回 日傘がほしい
- 第143回 4連休
- 第142回 文字入りTシャツ
- 第141回 本物を見ること
- 第140回 早朝の散歩
- 第139回 回復
- 第138回 ワクチン接種1回目(3日目)
- 第137回 ワクチン接種1回目(その後)
- 第136回 ワクチン接種1回目
- 第135回 朝顔観察日記(5)
- 第134回 あるひとつの日常
- 第133回 七夕の願い事
- 第132回 ありのまま、今、起こったことを書くぜ
- 第131回 気になる投票所
- 第130回 名選手、名監督にあらず
- 第129回 家賃の支払い
- 第128回 1年の折り返し
- 第127回 朝顔観察日記(4)
- 第126回 計画の大切さ
- 第125回 未来からの前借り
- 第124回 赤子の躍進
- 第123回 本の片付けについて(2)
- 第122回 歴史の分岐点
- 第121回 マリトッツォ
- 第120回 朝顔観察日記(3)
- 第119回 ラーミアンでバーメン
- 第118回 ためらい
- 第117回 冷房の設定温度
- 第116回 犬の帰還
- 第115回 弱音
- 第114回 ニコルの人気
- 第113回 紫陽花
- 第112回 風邪予報士
- 第111回 バンドマン(2)
- 第110回 雨のことば
- 第109回 朝顔観察日記(2)
- 第108回 祝日がない月
- 第107回 朝顔観察日記
- 第106回 心のなかの仄暗い場所
- 第105回 駄目さが希望
- 第104回 神隠しの犯人
- 第103回 最高の海外旅行
- 第102回 生まれて初めて
- 第101回 怪談タクシー
- 第100回 目出度い
- 第99回 筋トレ嫌い
- 第98回 1時間10分のモヤモヤ
- 第97回 寝てない自慢
- 第96回 朝一の僥倖
- 第95回 慎重さ
- 第94回 断酒(2)
- 第93回 「まだ生きている」
- 第92回 あいみょん
- 第91回 赤いカーネーション
- 第90回 応援しがい
- 第89回 連休明け
- 第88回 運転免許
- 第87回 読書
- 第86回 気圧のせい
- 第85回 人間は弱い
- 第84回 ダンゴムシを見つける達人
- 第83回 赤子はすごい
- 第82回 やさしくなりたい
- 第81回 ニコルのこと
- 第80回 サークルの夏合宿
- 第79回 ピアノを習っている男子
- 第78回 英雄・コービー
- 第77回 うぐいすの初鳴日
- 第76回 ナ、ノ、ハ、ナ
- 第75回 「されている」
- 第74回 スマホの充電ケーブルが溜まる件
- 第73回 人生で最高に幸福な時間
- 第72回 双子のライオン堂の竹田さん
- 第71回 お洒落な部屋着
- 第70回 白くて丸いやつ
- 第69回 キャズム超え
- 第68回 原稿の提出方法
- 第67回 イノベーション
- 第66回 やる気
- 第65回 コンプレックス
- 第64回 桜ばな
- 第63回 目黒の秋刀魚
- 第62回 角さんの分類
- 第61回 本の片付けについて
- 第60回 春はすごい
- 第59回 マスクは大事
- 第58回 3つ目のブルガリアヨーグルト
- 第57回 「愛犬家はみんな、うちの犬が一番可愛いと思っている説」
- 第56回 断酒
- 第55回 3月生まれ
- 第54回 「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」
- 第53回 10年前
1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤ
Twitter: @miyazakid