モヤモヤの日々

第63回 目黒の秋刀魚

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

いまよりもずっと若いとき、仕事のつながりではなく、ひょんなご縁からたまたま知り合ったある会社の社長に、食事に誘ってもらったことがある。回らないタイプの寿司である。

必死に食べていたため、あまり細かい記憶はないのだけど、とにかく食べるネタすべてが旨い。ネタにもシャリにも個性がありつつ、しかし過剰には主張し合わずに調和している。なんとも上品な感じがした。素材の味を最大限に生かすための調和。父親と同じくらい歳が離れ、ましては社会的立場がまったく違うのだから、若輩者の僕がお金を出すのは逆に失礼な気がした。でも、まったく払う素振りをしないのも、どうなんだろう。そんなふうに悩んでいたのだが、社長は僕の気づかぬ間に会計を済ましてくれていた。すべてが洗練されていた。

店を出た僕は社長にお礼を言い、その後も「いや〜、それにしてもこんなに旨い寿司をはじめて食べました。なんというか、とても上品というか」とひとりで感嘆していた。それを聞いた社長は、酒が入って少し柔和になった表情をさらにほころばせ、「まあな。でも、本当は、たまに食べるカップラーメンが旨いと思ってしまう瞬間があるんだよ。人工甘味料が入って、ガツンとした味のカップラーメンって、やっぱり旨いよな」と照れ臭そうに言った。

吉田健一は、随筆「食べものあれこれ」(『舌鼓ところどころ』収録)のなかで、「秋刀魚は目黒に限る」と断定した殿様の味覚ほど確かなものはない、という趣旨の文章を書いている。落語「目黒の秋刀魚」は、殿様が鷹狩の折、当時は庶民の食材だった秋刀魚を目黒でたまたま食べて以来、家来たちに秋刀魚を所望するようになったが、家来たちが日本橋の魚河岸で用意して丁寧に調理した秋刀魚の味に納得できず、「秋刀魚は目黒に限る」と言ったという、殿様の無知が笑いの種となっている滑稽噺だ。しかし、吉田は、家来が用意した秋刀魚ではなく、目黒で秋刀魚を本当に秋刀魚らしく焼いた秋刀魚こそ本物だと断定した殿様のほうが、いわゆる世間で考えられている“食通“なんかよりも、その味覚の正確さにおいて信頼できると考えたのである。

叩き上げで海外赴任の期間も長く、はじめて創業一族以外から社長になったという社長。いつも、接待などで旨いご飯を食べている社長。それでも家で寝ている深夜、たまにふと起きてしまい、空腹を満たすためにお湯を沸かし、ひとりで食べるカップラーメンを心底旨いと思うという。社長になり、本物のグルメを知っていてもなお、そうした庶民感覚、深夜に誘惑に負けてカップラーメンを食し、「やっぱりこれが一番旨いんだよな」としみじみ思ってしまう愚かさをずっと持っていて、それを照れまじりに、息子くらい年齢が離れている僕に伝えてくれるチャーミングな社長。この社長こそ本当の食通であり、かつ食いしん坊なのだ。

さて、僕はというと今、目黒に住んでいる。しかし、目黒で秋刀魚をまだ一度も食べたことがない。「渋谷らくご(シブラク)」で快楽亭ブラック師匠の「目黒の秋刀魚」を聴いて以来、食べたくて仕方がないのだが、まだ食べられていない。区内では「目黒さんま祭り」なるものまで開かれているのに食べられていない。秋まで目黒に住んでいられるためにも、たくさん働かなければいけない。そして僕も、たまに食べる深夜のカップラーメンが大好きである。

 

宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid