僕には日常で見たものや感じたことを概念化し、独自の言語をつくり出す癖がある。それらについていちいち例を並べたりはしないが、これはやはりライターの職業病であり、なにか気になるものがあれば、それをひとことで言い表す言葉がないかを探してしまうのは、一種の業のようなものだ。当然、「モヤモヤ」も、その営みのひとつだと言うことができる。
だが、そう簡単にはいかず、目の前の現象や感情に注意を払い、考えに考え抜いても適切な言葉が出てこないことがある。そういう言語化できない、語り得ない言葉がある限り、僕はこの仕事をやり続けるのだろうとも思う。それで、つい昨日のこの連載で書いたコラムのなかに、言語化できないモヤモヤがあるのを発見してしまった。僕は昨日、クラウド上で原稿を書いたり、共有したり、編集者からコメントをもらったり、修正したりすることに、どうしても身体的な抵抗があると書いた。これはつまり、「MacBook ProのOSでMicrosoft Word for Macを使いタイピングしたWordファイルをメールやメッセンジャーで送信する行為は、身体的に馴染んでいる」ということでもある。デジタル盛り沢山なのに、アナログな行為と感じているのが面白い。
実は、僕の中ではこの「身体感覚」のモヤモヤを言語化するのが、最も難易度が高いのだ。うまく伝わりやすい(かもしれない)ものとしては、僕と妻が「キャズム超え」と呼んでいる現象がある。「キャズム」とは、ジェフリー・ムーアが提唱している主にハイテク分野におけるマーケティング理論に出てくる言葉で、ざっくり説明すると、(1)新しいものをすぐ取り入れるイノベーター、(2)それらの動向を見て初期段階で取り入れるアーリーアダプターの次に、(3)前のふたつの層に追従するアーリーマジョリティという購買層があり、(3)に届いてこそ製品やサービスは普及段階に入ったといえる。しかし、(2)と(3)の間には「深い溝(キャズム)」があり、それを超えてブレイクするには高いハードルがある、といった内容だ。
僕と妻は、美容室に行く決断をする瞬間の身体感覚のことを「キャズム超え」と呼んでいる。髪の毛が伸びてきたなと思う。でも、まだ切らなくても平気だと思う。また少し髪が伸びてきたなと思う。もうちょっと切らなくても大丈夫かなと思う……を繰り返し、ある瞬間、突然、「キャズム超え」はやってくる。「キャズム超え」をする前と後で、髪の長さがすごく変わったわけではない。「キャズム超え」する0.1秒前までは「切らないで大丈夫」と思っていたのだから当然だ。にもかかわらず、唐突に「キャズム超え」はやってきて、「すぐ美容室に行かなければならない!」となる。「伸びた髪を切りたい」という感情が堰を切ったように溢れ出す。もしかしたら1万分の1ミリくらい伸びたのかもしれない。その僅かな感覚の差で「キャズム超え」し、ブレイクする。
どうだろうか。伝わっただろうか。これが伝わらないと話が進まないので、とりあえず伝わったことにさせてもらうと、つまり、クラウドでは身体感覚が得られないが、MacBook Pro、Microsoft Word for Mac、メッセンジャーといったデジタルてんこ盛りの原稿執筆、提出方法にはアナログな身体感覚を感じている僕の状態に、なにか新しい独自の言語はつくれないものか、ということだ。「時代についていけなくなった中年」とかではなく、もっと適切な言葉があるように思う。
ちなみに、僕がクラウド共有が苦手なのは、「自分の原稿」という気がしないからである。自分の原稿なのに「所有」していない感じが嫌なのだ。デジタル化は許容しても、クラウド化を拒否し、所有にこだわる身体感覚。これは意外とアクチュアルな問題だと思うのだが、このままではただの「時代についていけなくなった、所有欲のある中年」になってしまうので、早く言葉をつくらねばならない。どなたか立派な人がこの連載を読んでいたなら、ぜひ考えていただきたい。
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- 第121回 マリトッツォ
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- 第119回 ラーミアンでバーメン
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- 第117回 冷房の設定温度
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- 第105回 駄目さが希望
- 第104回 神隠しの犯人
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- 第94回 断酒(2)
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- 第83回 赤子はすごい
- 第82回 やさしくなりたい
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- 第80回 サークルの夏合宿
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- 第73回 人生で最高に幸福な時間
- 第72回 双子のライオン堂の竹田さん
- 第71回 お洒落な部屋着
- 第70回 白くて丸いやつ
- 第69回 キャズム超え
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- 第62回 角さんの分類
- 第61回 本の片付けについて
- 第60回 春はすごい
- 第59回 マスクは大事
- 第58回 3つ目のブルガリアヨーグルト
- 第57回 「愛犬家はみんな、うちの犬が一番可愛いと思っている説」
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- 第55回 3月生まれ
- 第54回 「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」
- 第53回 10年前
1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤ
Twitter: @miyazakid