モヤモヤの日々

第177回 最近のニコル

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

愛犬ニコル(ノーフォークテリア、雌)があまりにも可愛すぎて一時期、「ニコリンペン」と呼んでいたことがある。毛が伸びてきた「モジャリンペン」が「リンペン」と略され、最終的には「ペン」になったところで、困惑していて可哀想になりニコルに戻った。このように可愛さ余ってたまに理性を失い暴走する。「ニコリーノサンドロビッチ」にはまったく反応してくれなかったが。

赤子(1歳4か月、息子)が凄まじい躍進を見せている。つい最近、二足歩行したばかりだったのに、今はもはや走っている。勝手にドアを開け、家中を駆け回っているのだから目が離せない。

一方、ニコルには入って行けない場所があり、そうしつけてある。どこもかしこも家の中をうろうろできるようにしてしまうと、誤飲などのリスクが高まって危ないからだ。当然、赤子だって危ない。ではなぜ赤子だけ扉を突破できるのか。それは人だからである。ではなぜ赤子だけ扉を突破していいのか。赤子も駄目なんだけど、言うこと聞くようなやつではないのである。

ニコルは餌をねだって吠えたりはしない。そうしつけてあるからだ。一方、赤子は離乳食を準備している最中に大声で叫ぶ。はやくしろと抗議する。赤子はなだめられる。ニコルは我慢する。

ニコルは頭がいい。もちろん、赤子も成長すればもう少し物分かりがよくなる。しかしそうすると成長した元赤子は家の中を自由に行き来できるようになる。ニコルはできない。犬だからである。自由に行き来できるようにしてあげたいけど、部屋の構造上、どうしてもそれが難しい。

そう考えるとニコルだけが我慢をしているように思えてきて、憐憫の情がわいてくる。強く憐憫の情がわいてくる。僕は愚かで弱いくせに、憐憫の感情だけは謎に強い。自分が眠れないだけではなく、眠れない人に対して強く憐憫の情を抱き、眠れない人用のリアルタイム音声配信を、眠れない僕がやっていたほどの憐憫屋である。そして垂れ目のニコルは、ものすごく憐憫を誘う顔をしているのだ。姿勢が悪いせいか、余計にしょんぼりして見えるときがある。

ニコルの、あの訴えかけてくるような佇まいはただ単にニコルがそういう表情の犬なのか、それとも本当に可哀想なのかという問いについて、たまに夫婦間で議論になることがある。いずれにしても「ニコルと言えば憐憫、憐憫と言えばニコル」と思ってしまう。

しかし、そのほとんどがきっと僕の思い込みなのだ。ニコルはニコルで、それなりに楽しくやっているに違いない。広い家に住んであげられないこと、赤子が産まれてからはどうしても赤子に手がかかり、以前のようにはずっとかまってあげられなくなったこと。そんな罪悪感が僕の中にあり、それをニコルに投影しているのだと思う。犬がなにを考えているのかなんて、究極的にはわからないのだ。

先週の土曜日は妻と赤子が都内の親戚の家に遊びに行って、そのまま宿泊した。僕は久しぶりにニコルと2人(1匹含む)で過ごした。寝る前にニコルがやたらと僕に甘えてきた。テレビを観ているときも膝に乗りたがっていた。やっぱりニコルも寂しかったのだろうか。憐憫などではなく、もっと温かな感情がわいてきた。そんな犬も6日後の9月19日に3歳になる。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid