モヤモヤの日々

第146回 退屈さ

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

とくになにもない日々を過ごしている。昔の僕ならそう思っていたかもしれない。朝起きて、ご飯を食べて、仕事して、赤子と犬の世話をして。本当ならもっとやらなければいけないことはあるし、できれば運動も始めたい。最近、妻はYouTubeを観ながらダンスしている。

なにもない日々なんてあり得ないのだけど、僕はずっとそれに退屈してきた。退屈し過ぎて無理やりにでも刺激を探し求めていた。そのひとつがアルコールで、この連載でも触れたと思うが、僕は朝から晩までアルコールを飲み続けた結果、急性すい炎に2度なり、アルコール依存症とも診断されて、今は断酒をしている。もう5年以上、酒を一滴も飲んでいない。

今も退屈を感じるときがしばしばある。しかし、考えてみれば、酒を飲んでいた時期も同じく退屈だった。いや、酒を飲んでいたときのほうが、より退屈だったかもしれない。僕のような凡人の人生にはなすべきことは少ないかもしれないけれど、やるべきことはたくさんある。

そして、毎日のやるべきことをすべてやれず、一日が終わっていく。そのルーティーンは退屈ではあるが、そのなかでも僕でなければできないことはたくさんある。人生は偶発的で再現性がない出来事の積み重ねである。その積み重ねのうえに僕が立っているからこそ、僕でなければできないこと、見えないもの、書けないことがあるのだろうし、一過性の積み重ねを共有した周りの他者との関係も、僕がいるからこそ今の形になっている。仮に時間が巻き戻ったとして、同じ人生、同じ他者との関係にならない再現性のなさがこの世界の面白いところだ。

もちろん、僕に限らず誰もがそうである。誰もが、偶発的で一過性の交換不可能な人生を歩んでいる。今でも人生の退屈さに辟易するときがたびたびあるが、少なくとも今の僕はそういうふうに信じようとしているし、誰もがそういう尊厳を保てる社会になってほしいと思っている。

そのうえで、退屈な人生をどう楽しくするか。社会に背を向け、自分の中に閉じこもるのではなく、身近なものに目を向けることによって、むしろ世界が広がるような生き方をするには、どうすればいいのか。そんなことを考えながら、とくになにもない日々をじっくり過ごしている。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid