モヤモヤの日々

第145回 髪を切りたい

浜の真砂は尽きるとも世にモヤモヤの種は尽きまじ。日々の暮らしで生まれるモヤモヤを見つめる夕刊コラム。平日17時、毎日更新。

髪を切りたい。一昨日、歯医者に行った道程で猛烈な暑さにやられ、髪が鬱陶しくなった。そして今日、キャズム超えした。「キャズム」とは、ジェフリー・ムーアが提唱している主にハイテク分野におけるマーケティング理論で、ある特定の購買層まで商品やサービスが浸透すると「深い溝(キャズム)」を超え、ブレイク、普及期に入るといった考え方だ。

実は少し前からすでに髪が伸びてきたなあ、と自覚していた。伸びた前髪が目に入り仕事や読書、育児などがしにくいので、家にあった小豆色のターバンをしていた。赤子(1歳2か月、息子)が「あちゃ」と指差すたびに、「ターバンだよ」と教えていたものの、最近では赤子の意識にのぼらないくらい浸透してしまっていた。「部屋着お洒落化計画」が台無しである。

しかし、キャズム超えしたのは、確かに今日である。正確にいうと、今日の午前11時くらい。その1秒前まではそんなこと露程も思わなかったのに、キャズム超えした瞬間から美容室に行きたくて、行きたくてたまらなくなった。その前後1秒の間になにが起こったのか。一気に5センチくらい伸びたのだろうか。いずれにしてもキャズム超えした前と後とで、まったく世界の見え方が違うのは、いつもと同じ現象である。

次に仕事で人前に出るのは、8月8日(日)の予定である。インナーカラーも入れているので、出来れば直前に美容室に行った方が見映えがよさそうだ。しかし、8月1日(日)には、新型コロナウイルスワクチン(ファイザー社製)の2回目の接種が予定されている。1回目の後でも、あんなにワーワーギャーギャーと騒いでいたのだから、より副反応が出やすいと言われている2回目の後なんて、もうどうなってしまうのか自分でもわからない。僕はとにかく痛いのに弱いのだ。きっとまたこの連載で騒ぎ散らすに決まっている。今から目に浮かぶようである。

ところが今週は忙しく、美容室の予約をとる暇がない。「結論がわかっていることを、わざわざコラムに書かなくてもいいだろう」と思った人は、失礼ながらまだ人間のことを深く知っていないと思う。人間は結論がわかっていて、かつどうしようもできないと諦めていることでも、誰かに愚痴を言ったり、書きたくなったりしたくなるものなのだ。「そんなことない」と思う人がいたならば、僕のツイッターに連絡をいただきたい。その時点で、僕とあなたは同類の友達だ。

とにかく今は髪が切りたい。キャズムはとうに超えている。ワクチンの副反応が思ったよりも軽かったらいいのだけど、なんとなくそうならない自信だけは妙に漲りまくっている。

 

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宮崎智之1982年生まれ、東京都出身。フリーライター。著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』(幻冬舎文庫)、共著『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)など。2020年12月には、新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい「弱さ」を受け入れる日常革命』(幻冬舎)を出版。犬が大好き。
Twitter: @miyazakid