偏愛百景

第10回 高校野球を見ると泣いてしまう大人たち。

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

7月末のある朝、ピンポンパンポーンと町内放送があった。「なになに? よう聞こえんな」窓を開ける。「繰り返し、ライブビューイングのお知らせをします……」

私の母校の野球部が、高校野球地区予選の決勝まで残っているというのは知っていたが、決勝戦を市庁舎のスクリーンで観戦しませんかというものだった。

勝てば21年ぶりに甲子園出場だった。

ちょうど愛媛に帰っていた私も朝の畑仕事を中断し、テレビをつけて後輩たちを見守る。勝ってほしい。甲子園行かせてあげたい。親目線なら、この暑さを無事にのりきってくれたらそれでいい。少年たちのよくよく焼けた顔。そろそろ高校野球の時期を10月にずらせないのか?という気持ちも湧いてくるが、始まっているのだから仕方ない。「いま」という二文字が選手の顔に浮かび上がっている大人の何倍も、いましかないと。

試合も終盤、きらきらした眼差しで後輩たちは、どこまでも伸びやかだった。そんな良いエネルギーのままに逆転をしていった。このメンバーで、一日でも長く野球をしてたいんだな。いまが楽しくて楽しくて仕方ないんだな。サイレンが鳴り響き、懐かしい校歌が流れる。私も小さく口ずさむ。

蝉の声が急に大きくなる。彼らの真っ直ぐな眼差しを見る私の目には涙が溢れていた。完全に年やな。日照り続きだというのに、あっちもこっちも、街は感涙の雨で潤っていたに違いない。がんばる人を見ると、なぜ涙が出るんだろう。もう戻れない過去的なのを引っ張り出してしまうからなのか。本当は青春なんてアホくさと思っていた高校時代を、どんだけ美化しとるんじゃ。もう一人の自分がスリッパで頭をしばいてくる。

 

21年前、私は甲子園のアルプススタンドでドラムを叩いていた。甲子園大会が吹奏楽部のコンクールと重なっていたので、現役生の代わりにOBが行くことになったのだった。大学2年だった私は、待ってました!とばかりに、他のOBたちと貸し切りバスに乗り込み甲子園へ向かった。一昨年まで現役で野球応援に行っていたのだから、大体の曲は楽譜を見なくてもすぐ演奏できた。

一勝できたらええね。から始まったのに、どんどんと勝ち進んだ。

「すいませーん。そういうわけでバイト休ませてくださーい」

勝つたび、バイト先に連絡をしながら甲子園近くのホテルに連泊したのだった。毎日、お祭り騒ぎであった。現役生がコンクールを終えて戻ってきても甲子園に居座り続けた。そしてベスト4まで達していた。

 

吹奏楽部と野球部は同士のような連帯感があった。地区大会のときから野球応援には必ず駆けつけた。吹奏楽コンクールの練習も佳境だというのに、応援団やチア部との合同練習もあったし、選手全員にその人がマウンドに立つときの曲とコールがあるので、相当な曲数をさらう必要があった。4番が打席に立つと、「うららーうららー」と吹き、目立った動きのないときはアフリカンシンフォニー、ヒットが出たら、ちゃーらーらーらちゃっちゃっらー、ドンドン!(あれは曲名何ていうたっけな)。1アウトならこの曲、2アウトでこの曲、とまあ、応援団長とコンタクトをとりながら慌ただしく曲を変えた。木管楽器は夏の日差しで割れるといけないので、外用のプラ管(プラスチックの楽器)を持っていくが、生身の人間は一つしかない。暑さにやられる部員も出てくるし、日焼けで顔は真っ赤、夕方帰ってフラフラの状態からコンクールの練習がはじまった。

「ファールボールにお気をつけください」ってアナウンス、まさかねえ……と思っていたら、見事私のオデコに命中し、でっかいたんこぶができた年もあった。

野球応援に行くことを「コンクール前じゃのに!」と迷惑がる先輩もいたけど、私達は心から応援したかったのだ。コンクールのための演奏、コンサートのための演奏、私達はいつも音の頂点を目指して、ほとんど自分たちの感動のために演奏していた。

でも野球応援だけはそうではなかった。100%、目の前でがんばる人のために演奏していた。相手校の吹奏楽部に負けてなるものかという思いも少しあったな。

 

我が野球部は、私の在籍した年間は、いつもシード校に選ばれるけど、ぎりぎりのところで出場を逃した。結果だけを新聞やテレビで見て、大人は一喜一憂した。

吹奏楽部は、毎日ほぼ野球部と同じタイムスケジュールで部活と向き合っていたので、ロングトーンをしながら、マーチング練習をしながら、雨の日も風の日も、彼らが泥まみれになって走ってきたのを知っている。

負けているときにこそ、心を込めて演奏した。試合終了、アルプススタンドの下に整列し、帽子を脱いで「ありがとうございました」と礼をしてくれるとき、心から「おつかれさま」の拍手を送った。ここまで連れてきてくれてありがとう、という気持ちになった。

がんばる人を見ると、涙が出る。それは、がんばりの仕組みを知っているからだ。今日できた即席のがんばりではなくて、年間、もしくは年、10年間、積み重ねてきたものだと知っているから。私達もそうだったから、だから、その重なりのてっぺんの今日を泣かずには見られないのだね。

 

母校はこれまで6回甲子園に行っているが、出場した年に楽器が新調されたりマーチングの衣装が変わったりしている。「吹奏楽部にはお世話になってるから」と贔屓めなのだった。

文化部でありながら、野球部の次にしんどいと呼ばれた我が吹奏楽部は恐怖の夏休み合宿があり、野球部の後援会が甲子園出場時に建ててくれた合宿場を借りて寝泊まりした。あの合宿でたいてい3人くらいは体調を壊した。いま思うと、がんばり方をもっと考えてがんばればよかったのにな。ネットで調べることもできない時代なので、いまの子たちに比べて効率も悪く、無駄も多かったと思う。

 

年生の引退コンサートの、夏の定期演奏会にはみんな見に行くように監督から言われていたのだろう、野球部はみんな見に来てくれた。最後にステージで野球部の部長が吹奏楽部の部長に花束を渡してくれるのも、なんだか泣けるのだった。

 

最寄りの無人駅から、高校へいく始発電車、まだ真っ暗なホームで電車を待つのは、朝練のある吹奏楽部と野球部だけだった。同じ中学校から、甲子園と全国大会と、それぞれの目標をもって私達は朝日よりも早く光っていた。電車の中、テスト勉強をしながらでかいおにぎりを食べた。

 

部活以外、学校という場所が苦手だった私は、それなのに教師を目指していた。自分が先生になっていても、あの日の私を救い出せていたとは思えない。でも、その子が自分を救うための何かを持つことを応援することはできただろう。

部活をやめて勉強して偏差値を上げなさいと言い続けた、あの頃の先生を私は憎んではいない。仕方なかったのだと思う。それぞれの立場があるし、それぞれの描く幸せの形がある。

でも、先生の言うとおりにしなくて良かった。自分の好きなことをやめなくて良かった。

大会で良い成績を残せなかったけど、何も後悔はなかった。未来のためだけでなく、いまのために生きられたからだ。そして、誰でもなく自分で選んだ道だったから。

 

大学へ行って、こんなに自由なんかい。と思った。いままでの学校生活は一体なんだったのか、と怒りを覚えるほどに自分次第だった。多種多様な人々がいたし、いてもよかった。東京へ出てきて、やっぱりうちの大学の(特に軽音楽部の)人たちは、かなりおかしかったなと思う(そのへんは『いっぴき』を読んでください)。ネットがない時代だから、世界が均一化されてなかったんかもね。

 

私は鳴門教育大学という教育大の、初等教育国語科を専修していた。もちろん書くことも好きだったけれど、それ以上に音楽が好きだったので軽音楽部とフィルハーモニー管弦楽団を兼部した。音楽教諭の免許を取るため音楽科に混ざって授業を取ったり、さらに四国大学の吹奏楽部にも入って定期演奏会や大会にも出た。中高と続けた吹奏楽部が学内にはなかったので、他大学でまぜてもらったのだった。

有名な打楽器奏者に大阪から来ていただき、他の大学と合同で、数ヶ月に一度レッスンをしてもらい、暇さえあれば打楽器の練習をする何学部かわからん生活だった。

 

四国大学吹奏楽部の定期演奏会に出演し、先輩に家まで送ってもらうとき、ふと高校時代の話になった。大学では中高時代の話をあまりしてこなかった。暗黒だったからだ。

その日、ぽつんと

「吹奏楽がなければ、死んでいたようなもんです」

と言った。自分でも驚いた。先輩はゆっくり頷いて、

「そっか、吹奏楽があってよかったなあ」

と言ってくれた。

 

吹奏楽も野球も、顧問が代わると、強豪校だったところがそうでもなくなり、全く無名だった高校が県大会を突破するようになる。現に、強豪だった私達の高校よりも、いまはお隣の高校が名門と呼ばれるようになっているようだ。指導者でこんなに変わるということは、高校生たちに大差はないということ。みな素晴らしい可能性を持っているということに私は胸を打たれる。勝てたなら幸せなことだし、良き指導者と巡り会えたこともラッキーだと思う。でも、負けは負けでいいものだ。チーム戦だからこそ、思うようにいかないこともある。でも仲間といっしょに考え、作り、負け、泣いた日々が、もはや勝ちだった。

それで良かったんだ、それ以外なかったんだと思う。

今日、泣きながら甲子園の砂を袋に持ち帰る後輩たちを見届けた。どの子もどの子も、みんな勝ちだ。逃げずにいまに向かった素晴らしい後輩たちへ。

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。