偏愛百景

第12回 捨てられない物

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

ここまで連載をお読みのみなさんは、うすうす気づいていると思いますが、私は、物を捨てられないタイプの人間だ。時代の流れに反するように、お菓子の包み紙も、山のようなCDも、タコの足を模した消えない消しゴムも、沖縄の海で拾った珊瑚も、捨てずにきた。熱い思いがこもっている品々もなくはないが、ちょっとそれとも違う。惰性で捨てないまま三十年あまりが経過したという物が中心のように思う。自分的にはその白黒つかない感じがたまらないと思っている。まとまらぬ人生だから文章を書いているのだとさえ思う。そんなわけで、時を閉じ込めたダンボールをいくつも保管してきた。

数年前に、妹が実家の片付けをしはじめ、納屋にためていた私の捨てられない物を捨てると言い出した。大反対した私にダンボールが何箱も届いた。「じゃあ、東京の家で保管せよ」ということだった。ダンボールを開けると同時に記憶の扉も開く。なるほど、物が記憶している風景があるのだ。

例えば、エビアンの空のペットボトル。これは、高校生のときに初めて行ったドイツで買ったものだった。ドイツのホームステイ先で、石鹸で顔を洗ったら乾燥して顔が真っ白に粉を吹いたことも思い出した。ドイツはものすごい硬水だったのだ。このエビアンも、日本の水とはまるきり違って牛乳のように重たかった記憶が蘇る。当時の私は、いちいち驚いて空のペットボトルを感動とともに日本へ持って帰ったのだった。いくら捨てられない私でも、今ならドイツのゴミ箱に入れて帰っただろう。このペットボトルは、十代の私の新鮮な驚きや感動を記憶していた。

もう別の人間だと言っていいくらいに、過去の私が好きだったものや感動した事柄は、今の私にはない感性によるものだ。それは、大学時代に作詞した曲を聴いていても思うことだけれど、全く別人の仕業なのだ。五年、十年、二十年、私達は環境に左右されながら、ゆっくりと脱皮を繰り返す。変化するというよりは、窮屈になって脱ぎ捨てるのに近い気がする。私が全部忘れても、物たちだけは残された殻の記憶を知っている。こんな時代もあったよね、と。だからこそ、全部捨てたい人がいることも分かる。思い出したくないことだってたくさんあるもの。それらは私も捨て去った。もう見ることもないので、思い出さない。それでいいと思う。

 

物は時代をまとっている。例えば、小学校の頃のお土産のキャラクターの顔。坂本龍馬がゆらゆら揺れる不思議な玩具も、水族館で買った鉛筆の上についたアシカも、小さなペンギンのぬいぐるみも、当時のキャラは、みんなサンリオ顔をしている。目が黒点で口がない、あの顔をしている。時代によって流行りがあるのだな、などと眺めるのも面白く、ますます捨てられない物になっていく。

いつだったか森美術館で開催されていたアンディ・ウォーホル展へ行った。彼は日常の物をそのまま600 箱以上ものタイムカプセルに詰め込んで保管していたそうで、その一部が展示されていた。チラシとか、切った足の爪、食べかけのサンドイッチまで入っていたそうだ。それを全部保管できる場所を持っている上に、アートに昇華できるのはウォーホルだからこそ。ただのトマト缶を、世界的なポップアートにしてしまう視点とか感性は流石だわと思いつつ、日常を見渡す。何気なく捨てているゴミは、「ゴミ」と思うから「ゴミ」になるだけで、しっかり「物」として意志を放っている。河原の石とか、森の木々にはない俗物的な面白さがある。ポスト投函されたチラシなどは、デザインが企業によって様々で面白く、なおかつ紙質や文言は一様に時代の流れをまとっていて、捨てる前に玄関で眺める。ウォーホルならタイムカプセルに入れるのだろう。こういうものこそ取っておいて十年後展示したら面白いのだろうな。

 

二〇一九年に、「捨てられない物展」を開催した。私の捨てられない物を陳列したガラクタ展になるはずだった。しかし……家にあれば迷惑がられるガラクタも、ギャラリーに美しく陳列された途端に息を吹き返し、物としての存在感を放っている。これは私自身がとても驚いたことだ。家を飛び出した途端に「物」はどれもこれも魂を震わせているではないか。

同時に「捨てられない物」というエッセイ集を作り、展示のキャプションにはエッセイの抜粋部分を添えた。訪れた人は「私もこれ持ってたなあ」とか「捨てなきゃよかったな」などと懐かしみながら見てくれた。この珍妙な展示に最初は人が集まらなかったけれど、次第に話題をよび、後半にかけて人が押し寄せたので一週間会期が延長になったほどだった。

四年が経った二〇二三年春、NHKの「阿佐ヶ谷アパートメント」という番組から連絡があった。〈捨てられない物〉と検索したら、私の「捨てられない物展」が出てきたらしい。「捨てられない物の特集をしたいのですが、高橋さんに出演いただけないでしょうか。捨てられない物とともに」。ついに時代が追いついた。

誰も、捨てなくていいんだよとは言ってくれなくて、追い立てられるように家中の物を捨てた人も少なくないだろう。しかし、番組の調査では、七〇%の人が捨てられないタイプだと答えていた。あれだけ、断捨離、断捨離と言われ、フランス人は服を少ししか持たないとか、三年使わないものは捨てよ、などと、捨てないことが悪とされてきたが、本当のところ捨てなくても良かったのだ。あの強迫観念はメディアによって作り出されたものだったのではないか。

捨てることと、持たないことは違う。ミニマリストなる人もこの頃増えてきたけれど、それはそもそも買わないことを前提としている。私も新しい服は買うし、捨てるものももちろんある。でも、そもそも炊飯器は持たないし、大きなテレビもない。捨てなくていいように、持たない選択を増やしている。そして、物のチャームポイントを見つけるのが得意なのかもしれない。それは、百均の物にもちゃんとある。デザイン性の高い物や高価な物だけが持っているわけではない。なんだか捨てられない物は、心の弱さとともにステイさせてやる勇気を持ちたい。

二〇二三年の暮れ、人々が大掃除をする中で、私は家中の捨てられない物を引っ張り出していた。「続・捨てられない物展」を吉祥寺のギャラリー芝生で開催することになったのだ。小さなギャラリーに美しく物を展示する。私一人ならこうはいかんだろう。ギャラリー芝生の目利きのオーナーが、その物の一番美しい角度と場所を見極めて展示してくれるからこそ、いっそう特別になるのだった。ガラクタとは言わせんぞと、生命を瞬かせている。

二〇一九年には並ばなかった、新しい捨てられない物も入ったこの展示は1月15日まで開催されているので(水・木・金は休み)間にあえば、あなたも埋もれてみてほしい。

好きなものを見せ合うよりも、捨てられない物を見せ合う方が、その人の本音の部分が分かるのではないかと思う。捨てられない物マッチング会なんて、いいんじゃないか。そこにトロフィーとかメダルを持ってくる人とは合わなさそうとか思ってしまう。写真とか、メダルは「捨てない物」に入るだろう。「捨てられない物」には無意識が詰まっている。無意識だからこそ、その人の生活の癖や根っこが見えてくるのかもしれない。

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。

偏愛百景

第11回 響け、鍵盤ハーモニカ!

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

友人の子どもが、音楽発表会でまた鍵盤ハーモニカになってしまったと落ち込んでいた。音楽発表会において、鍵盤ハーモニカとリコーダーのポジションは30年前から変わっていないようだった。
彼女の上の子も、6年間ずっと鍵盤ハーモニカかリコーダーしかやらせてもらえなかったそうだ。6年間、第1希望に小太鼓と書いてきたし、第5希望までに木琴やタンバリンなどと書き続けてきたけれど、ただの一度もその願いが叶うことはなかったんだそうで。
できない子ができるようになりステージに立つことこそ教育じゃないのか、と思うのだけれど、先生の負担を考えると、教えなくてもできる子が必然的に目立つ楽器になることが多いのかもしれない。彼の、「小太鼓やってみたいな」という気持ちは6年生になる頃には、「どうせ今年も駄目だろう」に変わったそうだ。太鼓も木琴も、練習したらできる楽器だ。少なくとも、やりたいという気持ちがあれば、練習だってがんばれるに違いない。しかし、そのチャンスさえもらえないのは悲しい。

その前に、ちょっと待て。
そもそも誰が鍵盤ハーモニカをそんな、残りもの的な雑なポジションに追いやったのだ。個性的で温かいあの音が好きで、私はバンド時代、レコーディングやライブに使用したし、未だに朗読などのときに登場させている。
「あのね、実は鍵盤ハーモニカとリコーダーが、音楽発表会の中では一番難しい楽器だと思うよ。それに、音だってすごく素敵だと思わない?」
と、私は彼らに伝えてみた。
どちらも、立って演奏するので運指を見ることができない上、キーボードなどに比べて、鍵盤が小さくて(小学中学年にもなると)押さえにくい。おまけに息を吹き込むことで音を鳴らすのだから、技術的にもよほど高度である。
「だから自信をもって、堂々と鍵盤ハーモニカを吹いたらいいと思うけどなあ。かっこいい楽器なんだよ」
と励ましてみた。
「じゃあ、くみこちゃんは音楽発表会で何の楽器やってた?」
「えっと……
言葉に詰まってしまった。
私は鍵盤ハーモニカもリコーダーも、発表会では一度もやったことがなかった。キーボードとか指揮とか、木琴とか、ずっと第1希望が通ってきた側だった。ピアノを習っていたからだと思う。
ということは、当時の私も鍵盤やリコーダーを残りものと思っていたのかもしれない。それに、クラスメイトにも6年間願いが叶わなかった子がいたということだ。その子たちが、いつもどんな気持ちで鍵盤ハーモニカを吹いていたのか、想像すらしたことがなかった。

6年のうちの半分は鍵盤ハーモニカでもよかったのに。言ってくれたらいいのにと思うけど、いつだってそういう子の声は小さくて先生には届きづらい。私だって苦手な体育に関しては、思っていることを先生には言えなかった。
「その代わり、私は走るのが速くなかったから、運動会でリレーに選ばれたことは一度もないんよ」
と言った。
「僕だって一回もないよ」
と彼は言った。勉強も中くらいだし、走るのも中くらいなんだそうだ。
学校なんて、どうってことないよ。と、大人になったら思えるけど、それを今彼らに言うのは酷だった。

今は運動会の徒競走は、大体同じタイムの子で走るようになったそうだが、音楽発表会は、まだそんな感じで、即に力のある子の希望が通るようだった。
彼は、音楽なんて嫌いだと言った。学校の音楽授業で、音楽全部を嫌いになる人は多いと聞く。私は、夫を思い浮かべていた。夫もまた、6年間リコーダーか鍵盤ハーモニカを吹かされてきた人だった。
「◯△君な、6年間ずっと鍵盤かリコーダーだったらしいよ! それでも、今は音楽が好きでときどきギターも弾いてるよ」
こういうとき、咄嗟に夫をだしに使ってしまうのだった。
夫は、小学時代は授業の影響で音楽が大嫌いだったと言った。だけど、高校生くらいで従兄弟のお兄さんの影響で洋楽を聴き、ギターを弾き始めてから、音楽の面白さを別のベクトルから知ったと言っていた。
だから、学校の音楽だけが全てじゃないんだよと言ってみたが、やっぱり少年の鬱憤は晴れないのだった。それを抱えたまんま大人になるしかないのか。それを晴らしてあげるのが大人の役目じゃないんか。

「じゃあ、ピアノ習ってみるっていうのはどう?」
と、次なる提案をしてみる。努力をして勝ち取るのさ。そして、来年こそは!
「僕、ピアノを習いたいとは思わないんだ。それに、ピアノを習ってない人でも木琴やタンバリンになってる人もいるんだ」
今は、昔に比べてピアノを習っている子は少ないんだそうで。
「先生はどうやって楽器を決めてるの?」
「みんなの前で希望者に楽器を演奏させて、上手いと思った人に手を挙げるの」
うーわー、おっかねー。お腹の真ん中がぎゅーっと痛くなってきた。ジャンケンとかくじ引きでは駄目なんかねえ。
私達の頃はどうやって決めていたのだろうと思い返すと、そういうテストすらなくて、希望の楽器に手をあげて、希望者が多い場合は先生が決めていた気がする。
ピアノや楽器を習っていない子たち、つまり学校で音楽の楽しさを教わるべき子たちに、それが伝わっていなかったのではないか。
鍵盤ハーモニカを心から楽しみながらステージに立った子がいただろうか。

レコーディングの前に、鍵盤ハーモニカの音程の微調整をしてもらうためにYAMAHA(SUZUKIだったかも)を訪れたことがある。職人さんが、鍵盤ハーモニカの裏側のネジをはずし、鍵盤一つ一つに付いた小さなバネをミリ単位で調整し、チューニングを合わせてくださった。
さらに、プロの奏者が使うような立派な鍵盤ハーモニカも貸してくださった。鍵盤ハーモニカは、学校で最初に習う楽器という印象が強いが、数十万する木製の楽器もあれば、プロの奏者だっている。「鍵盤ハーモニカフェスティバル」なるものも開催されているのだ。
プリプロでいろいろな鍵盤ハーモニカを試してみた。高価な楽器は、ピッチも完璧で奥深い素晴らしい音がしたが、あの微妙なゆらぎこそが鍵盤ハーモニカの可愛らしさと温もりだったのだと気づいた。結果、姉の小学時代に使っていた、家で一番古い鍵盤ハーモニカで演奏した。その後のライブでも、ずっとその楽器を愛用した。一周したからこそ、私はその音の唯一無二さに気づけたのだと思う。
今も家には鍵盤ハーモニカが何台かある。ときどき、幼稚園や小学校からの依頼で紙芝居や絵本の読み聞かせをしているが、話の合間や場面転換のときに鍵盤ハーモニカを効果的に混ぜている。そこには、学校の音楽で最初に習ったというノスタルジーも混ざっているのかもしれない。そうすると、あの音に対する思いは人によって様々なのか……

鍵盤ハーモニカの魅力を伝えきれぬまま、友人の家から帰ってきてしまった。
そもそも、音を重ねる「合奏」とは、気持ちの良い楽しいもののはずだ。自分の鳴らした音が、みんなの音と共鳴する感動を味わう場なのだから。子どもたちに楽しい音体験を積んでほしいと願う。「来年は鍵盤ハーモニカを第一希望に書きたいなあ」と、子どもたちにそう思わせられるような選曲や、楽譜の書き換えができるといいのにな。鍵盤ハーモニカが、他のどの楽器よりもかっこいい合奏曲を。
音楽の先生がそれを全て一人でするのは大変すぎるけど、地域との連携でよりよい環境作りは探れるのではないかな。地域には、音楽をかじってきた人間が一定数いたりするからねえ。私も、そういうことになら関わってみたいなと思ったのだった。

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。