偏愛百景

第11回 響け、鍵盤ハーモニカ!

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

友人の子どもが、音楽発表会でまた鍵盤ハーモニカになってしまったと落ち込んでいた。音楽発表会において、鍵盤ハーモニカとリコーダーのポジションは30年前から変わっていないようだった。
彼女の上の子も、6年間ずっと鍵盤ハーモニカかリコーダーしかやらせてもらえなかったそうだ。6年間、第1希望に小太鼓と書いてきたし、第5希望までに木琴やタンバリンなどと書き続けてきたけれど、ただの一度もその願いが叶うことはなかったんだそうで。
できない子ができるようになりステージに立つことこそ教育じゃないのか、と思うのだけれど、先生の負担を考えると、教えなくてもできる子が必然的に目立つ楽器になることが多いのかもしれない。彼の、「小太鼓やってみたいな」という気持ちは6年生になる頃には、「どうせ今年も駄目だろう」に変わったそうだ。太鼓も木琴も、練習したらできる楽器だ。少なくとも、やりたいという気持ちがあれば、練習だってがんばれるに違いない。しかし、そのチャンスさえもらえないのは悲しい。

その前に、ちょっと待て。
そもそも誰が鍵盤ハーモニカをそんな、残りもの的な雑なポジションに追いやったのだ。個性的で温かいあの音が好きで、私はバンド時代、レコーディングやライブに使用したし、未だに朗読などのときに登場させている。
「あのね、実は鍵盤ハーモニカとリコーダーが、音楽発表会の中では一番難しい楽器だと思うよ。それに、音だってすごく素敵だと思わない?」
と、私は彼らに伝えてみた。
どちらも、立って演奏するので運指を見ることができない上、キーボードなどに比べて、鍵盤が小さくて(小学中学年にもなると)押さえにくい。おまけに息を吹き込むことで音を鳴らすのだから、技術的にもよほど高度である。
「だから自信をもって、堂々と鍵盤ハーモニカを吹いたらいいと思うけどなあ。かっこいい楽器なんだよ」
と励ましてみた。
「じゃあ、くみこちゃんは音楽発表会で何の楽器やってた?」
「えっと……
言葉に詰まってしまった。
私は鍵盤ハーモニカもリコーダーも、発表会では一度もやったことがなかった。キーボードとか指揮とか、木琴とか、ずっと第1希望が通ってきた側だった。ピアノを習っていたからだと思う。
ということは、当時の私も鍵盤やリコーダーを残りものと思っていたのかもしれない。それに、クラスメイトにも6年間願いが叶わなかった子がいたということだ。その子たちが、いつもどんな気持ちで鍵盤ハーモニカを吹いていたのか、想像すらしたことがなかった。

6年のうちの半分は鍵盤ハーモニカでもよかったのに。言ってくれたらいいのにと思うけど、いつだってそういう子の声は小さくて先生には届きづらい。私だって苦手な体育に関しては、思っていることを先生には言えなかった。
「その代わり、私は走るのが速くなかったから、運動会でリレーに選ばれたことは一度もないんよ」
と言った。
「僕だって一回もないよ」
と彼は言った。勉強も中くらいだし、走るのも中くらいなんだそうだ。
学校なんて、どうってことないよ。と、大人になったら思えるけど、それを今彼らに言うのは酷だった。

今は運動会の徒競走は、大体同じタイムの子で走るようになったそうだが、音楽発表会は、まだそんな感じで、即に力のある子の希望が通るようだった。
彼は、音楽なんて嫌いだと言った。学校の音楽授業で、音楽全部を嫌いになる人は多いと聞く。私は、夫を思い浮かべていた。夫もまた、6年間リコーダーか鍵盤ハーモニカを吹かされてきた人だった。
「◯△君な、6年間ずっと鍵盤かリコーダーだったらしいよ! それでも、今は音楽が好きでときどきギターも弾いてるよ」
こういうとき、咄嗟に夫をだしに使ってしまうのだった。
夫は、小学時代は授業の影響で音楽が大嫌いだったと言った。だけど、高校生くらいで従兄弟のお兄さんの影響で洋楽を聴き、ギターを弾き始めてから、音楽の面白さを別のベクトルから知ったと言っていた。
だから、学校の音楽だけが全てじゃないんだよと言ってみたが、やっぱり少年の鬱憤は晴れないのだった。それを抱えたまんま大人になるしかないのか。それを晴らしてあげるのが大人の役目じゃないんか。

「じゃあ、ピアノ習ってみるっていうのはどう?」
と、次なる提案をしてみる。努力をして勝ち取るのさ。そして、来年こそは!
「僕、ピアノを習いたいとは思わないんだ。それに、ピアノを習ってない人でも木琴やタンバリンになってる人もいるんだ」
今は、昔に比べてピアノを習っている子は少ないんだそうで。
「先生はどうやって楽器を決めてるの?」
「みんなの前で希望者に楽器を演奏させて、上手いと思った人に手を挙げるの」
うーわー、おっかねー。お腹の真ん中がぎゅーっと痛くなってきた。ジャンケンとかくじ引きでは駄目なんかねえ。
私達の頃はどうやって決めていたのだろうと思い返すと、そういうテストすらなくて、希望の楽器に手をあげて、希望者が多い場合は先生が決めていた気がする。
ピアノや楽器を習っていない子たち、つまり学校で音楽の楽しさを教わるべき子たちに、それが伝わっていなかったのではないか。
鍵盤ハーモニカを心から楽しみながらステージに立った子がいただろうか。

レコーディングの前に、鍵盤ハーモニカの音程の微調整をしてもらうためにYAMAHA(SUZUKIだったかも)を訪れたことがある。職人さんが、鍵盤ハーモニカの裏側のネジをはずし、鍵盤一つ一つに付いた小さなバネをミリ単位で調整し、チューニングを合わせてくださった。
さらに、プロの奏者が使うような立派な鍵盤ハーモニカも貸してくださった。鍵盤ハーモニカは、学校で最初に習う楽器という印象が強いが、数十万する木製の楽器もあれば、プロの奏者だっている。「鍵盤ハーモニカフェスティバル」なるものも開催されているのだ。
プリプロでいろいろな鍵盤ハーモニカを試してみた。高価な楽器は、ピッチも完璧で奥深い素晴らしい音がしたが、あの微妙なゆらぎこそが鍵盤ハーモニカの可愛らしさと温もりだったのだと気づいた。結果、姉の小学時代に使っていた、家で一番古い鍵盤ハーモニカで演奏した。その後のライブでも、ずっとその楽器を愛用した。一周したからこそ、私はその音の唯一無二さに気づけたのだと思う。
今も家には鍵盤ハーモニカが何台かある。ときどき、幼稚園や小学校からの依頼で紙芝居や絵本の読み聞かせをしているが、話の合間や場面転換のときに鍵盤ハーモニカを効果的に混ぜている。そこには、学校の音楽で最初に習ったというノスタルジーも混ざっているのかもしれない。そうすると、あの音に対する思いは人によって様々なのか……

鍵盤ハーモニカの魅力を伝えきれぬまま、友人の家から帰ってきてしまった。
そもそも、音を重ねる「合奏」とは、気持ちの良い楽しいもののはずだ。自分の鳴らした音が、みんなの音と共鳴する感動を味わう場なのだから。子どもたちに楽しい音体験を積んでほしいと願う。「来年は鍵盤ハーモニカを第一希望に書きたいなあ」と、子どもたちにそう思わせられるような選曲や、楽譜の書き換えができるといいのにな。鍵盤ハーモニカが、他のどの楽器よりもかっこいい合奏曲を。
音楽の先生がそれを全て一人でするのは大変すぎるけど、地域との連携でよりよい環境作りは探れるのではないかな。地域には、音楽をかじってきた人間が一定数いたりするからねえ。私も、そういうことになら関わってみたいなと思ったのだった。

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。

偏愛百景

第10回 高校野球を見ると泣いてしまう大人たち。

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

7月末のある朝、ピンポンパンポーンと町内放送があった。「なになに? よう聞こえんな」窓を開ける。「繰り返し、ライブビューイングのお知らせをします……」

私の母校の野球部が、高校野球地区予選の決勝まで残っているというのは知っていたが、決勝戦を市庁舎のスクリーンで観戦しませんかというものだった。

勝てば21年ぶりに甲子園出場だった。

ちょうど愛媛に帰っていた私も朝の畑仕事を中断し、テレビをつけて後輩たちを見守る。勝ってほしい。甲子園行かせてあげたい。親目線なら、この暑さを無事にのりきってくれたらそれでいい。少年たちのよくよく焼けた顔。そろそろ高校野球の時期を10月にずらせないのか?という気持ちも湧いてくるが、始まっているのだから仕方ない。「いま」という二文字が選手の顔に浮かび上がっている大人の何倍も、いましかないと。

試合も終盤、きらきらした眼差しで後輩たちは、どこまでも伸びやかだった。そんな良いエネルギーのままに逆転をしていった。このメンバーで、一日でも長く野球をしてたいんだな。いまが楽しくて楽しくて仕方ないんだな。サイレンが鳴り響き、懐かしい校歌が流れる。私も小さく口ずさむ。

蝉の声が急に大きくなる。彼らの真っ直ぐな眼差しを見る私の目には涙が溢れていた。完全に年やな。日照り続きだというのに、あっちもこっちも、街は感涙の雨で潤っていたに違いない。がんばる人を見ると、なぜ涙が出るんだろう。もう戻れない過去的なのを引っ張り出してしまうからなのか。本当は青春なんてアホくさと思っていた高校時代を、どんだけ美化しとるんじゃ。もう一人の自分がスリッパで頭をしばいてくる。

 

21年前、私は甲子園のアルプススタンドでドラムを叩いていた。甲子園大会が吹奏楽部のコンクールと重なっていたので、現役生の代わりにOBが行くことになったのだった。大学2年だった私は、待ってました!とばかりに、他のOBたちと貸し切りバスに乗り込み甲子園へ向かった。一昨年まで現役で野球応援に行っていたのだから、大体の曲は楽譜を見なくてもすぐ演奏できた。

一勝できたらええね。から始まったのに、どんどんと勝ち進んだ。

「すいませーん。そういうわけでバイト休ませてくださーい」

勝つたび、バイト先に連絡をしながら甲子園近くのホテルに連泊したのだった。毎日、お祭り騒ぎであった。現役生がコンクールを終えて戻ってきても甲子園に居座り続けた。そしてベスト4まで達していた。

 

吹奏楽部と野球部は同士のような連帯感があった。地区大会のときから野球応援には必ず駆けつけた。吹奏楽コンクールの練習も佳境だというのに、応援団やチア部との合同練習もあったし、選手全員にその人がマウンドに立つときの曲とコールがあるので、相当な曲数をさらう必要があった。4番が打席に立つと、「うららーうららー」と吹き、目立った動きのないときはアフリカンシンフォニー、ヒットが出たら、ちゃーらーらーらちゃっちゃっらー、ドンドン!(あれは曲名何ていうたっけな)。1アウトならこの曲、2アウトでこの曲、とまあ、応援団長とコンタクトをとりながら慌ただしく曲を変えた。木管楽器は夏の日差しで割れるといけないので、外用のプラ管(プラスチックの楽器)を持っていくが、生身の人間は一つしかない。暑さにやられる部員も出てくるし、日焼けで顔は真っ赤、夕方帰ってフラフラの状態からコンクールの練習がはじまった。

「ファールボールにお気をつけください」ってアナウンス、まさかねえ……と思っていたら、見事私のオデコに命中し、でっかいたんこぶができた年もあった。

野球応援に行くことを「コンクール前じゃのに!」と迷惑がる先輩もいたけど、私達は心から応援したかったのだ。コンクールのための演奏、コンサートのための演奏、私達はいつも音の頂点を目指して、ほとんど自分たちの感動のために演奏していた。

でも野球応援だけはそうではなかった。100%、目の前でがんばる人のために演奏していた。相手校の吹奏楽部に負けてなるものかという思いも少しあったな。

 

我が野球部は、私の在籍した年間は、いつもシード校に選ばれるけど、ぎりぎりのところで出場を逃した。結果だけを新聞やテレビで見て、大人は一喜一憂した。

吹奏楽部は、毎日ほぼ野球部と同じタイムスケジュールで部活と向き合っていたので、ロングトーンをしながら、マーチング練習をしながら、雨の日も風の日も、彼らが泥まみれになって走ってきたのを知っている。

負けているときにこそ、心を込めて演奏した。試合終了、アルプススタンドの下に整列し、帽子を脱いで「ありがとうございました」と礼をしてくれるとき、心から「おつかれさま」の拍手を送った。ここまで連れてきてくれてありがとう、という気持ちになった。

がんばる人を見ると、涙が出る。それは、がんばりの仕組みを知っているからだ。今日できた即席のがんばりではなくて、年間、もしくは年、10年間、積み重ねてきたものだと知っているから。私達もそうだったから、だから、その重なりのてっぺんの今日を泣かずには見られないのだね。

 

母校はこれまで6回甲子園に行っているが、出場した年に楽器が新調されたりマーチングの衣装が変わったりしている。「吹奏楽部にはお世話になってるから」と贔屓めなのだった。

文化部でありながら、野球部の次にしんどいと呼ばれた我が吹奏楽部は恐怖の夏休み合宿があり、野球部の後援会が甲子園出場時に建ててくれた合宿場を借りて寝泊まりした。あの合宿でたいてい3人くらいは体調を壊した。いま思うと、がんばり方をもっと考えてがんばればよかったのにな。ネットで調べることもできない時代なので、いまの子たちに比べて効率も悪く、無駄も多かったと思う。

 

年生の引退コンサートの、夏の定期演奏会にはみんな見に行くように監督から言われていたのだろう、野球部はみんな見に来てくれた。最後にステージで野球部の部長が吹奏楽部の部長に花束を渡してくれるのも、なんだか泣けるのだった。

 

最寄りの無人駅から、高校へいく始発電車、まだ真っ暗なホームで電車を待つのは、朝練のある吹奏楽部と野球部だけだった。同じ中学校から、甲子園と全国大会と、それぞれの目標をもって私達は朝日よりも早く光っていた。電車の中、テスト勉強をしながらでかいおにぎりを食べた。

 

部活以外、学校という場所が苦手だった私は、それなのに教師を目指していた。自分が先生になっていても、あの日の私を救い出せていたとは思えない。でも、その子が自分を救うための何かを持つことを応援することはできただろう。

部活をやめて勉強して偏差値を上げなさいと言い続けた、あの頃の先生を私は憎んではいない。仕方なかったのだと思う。それぞれの立場があるし、それぞれの描く幸せの形がある。

でも、先生の言うとおりにしなくて良かった。自分の好きなことをやめなくて良かった。

大会で良い成績を残せなかったけど、何も後悔はなかった。未来のためだけでなく、いまのために生きられたからだ。そして、誰でもなく自分で選んだ道だったから。

 

大学へ行って、こんなに自由なんかい。と思った。いままでの学校生活は一体なんだったのか、と怒りを覚えるほどに自分次第だった。多種多様な人々がいたし、いてもよかった。東京へ出てきて、やっぱりうちの大学の(特に軽音楽部の)人たちは、かなりおかしかったなと思う(そのへんは『いっぴき』を読んでください)。ネットがない時代だから、世界が均一化されてなかったんかもね。

 

私は鳴門教育大学という教育大の、初等教育国語科を専修していた。もちろん書くことも好きだったけれど、それ以上に音楽が好きだったので軽音楽部とフィルハーモニー管弦楽団を兼部した。音楽教諭の免許を取るため音楽科に混ざって授業を取ったり、さらに四国大学の吹奏楽部にも入って定期演奏会や大会にも出た。中高と続けた吹奏楽部が学内にはなかったので、他大学でまぜてもらったのだった。

有名な打楽器奏者に大阪から来ていただき、他の大学と合同で、数ヶ月に一度レッスンをしてもらい、暇さえあれば打楽器の練習をする何学部かわからん生活だった。

 

四国大学吹奏楽部の定期演奏会に出演し、先輩に家まで送ってもらうとき、ふと高校時代の話になった。大学では中高時代の話をあまりしてこなかった。暗黒だったからだ。

その日、ぽつんと

「吹奏楽がなければ、死んでいたようなもんです」

と言った。自分でも驚いた。先輩はゆっくり頷いて、

「そっか、吹奏楽があってよかったなあ」

と言ってくれた。

 

吹奏楽も野球も、顧問が代わると、強豪校だったところがそうでもなくなり、全く無名だった高校が県大会を突破するようになる。現に、強豪だった私達の高校よりも、いまはお隣の高校が名門と呼ばれるようになっているようだ。指導者でこんなに変わるということは、高校生たちに大差はないということ。みな素晴らしい可能性を持っているということに私は胸を打たれる。勝てたなら幸せなことだし、良き指導者と巡り会えたこともラッキーだと思う。でも、負けは負けでいいものだ。チーム戦だからこそ、思うようにいかないこともある。でも仲間といっしょに考え、作り、負け、泣いた日々が、もはや勝ちだった。

それで良かったんだ、それ以外なかったんだと思う。

今日、泣きながら甲子園の砂を袋に持ち帰る後輩たちを見届けた。どの子もどの子も、みんな勝ちだ。逃げずにいまに向かった素晴らしい後輩たちへ。

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。