偏愛百景

第2回 ありがたい人

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

ここ二年で、我が家のインターホンを最も押したのは宅配便の方々だろう。

ヤマト運輸の〇〇さん、ゆうパックの△□さん、佐川急便の○△さん、今や担当配達員さんの名前を覚えているくらいだ。サイン本や原稿を集荷に来てもらうことも多く、本当にお世話になっている。

「今日は愛媛からですよー」とか、

「徳島から柚子味噌! 大根につけたら美味いよねえ」とか、

「新しい本ですか?」とか、

玄関先でちょこっと話をしていく方もいれば、

「高橋さんので間違いないですね。あざっしたー」

と、顔を上げたときには背中しか見えないムササビのような人もいる。

 

昨年、しばらくインターホンの調子が悪かったのだが、玄関のドアをノックしながら「高橋さーん、荷物ですよー」と呼んでくれる方もいた。急いで二階の書斎から駆け下りて玄関を開けると、

「自転車あったんで、呼んでみました」と爽快に笑っている。

これは名案だなと思い、インターホンが直るまでの間、玄関のドアに

〈インターホンの調子が悪いので、ドアを叩いてください〉

と貼り紙をし、様々なノック音を聞いたのだった。

 

ある日のこと、インターホンも鳴らないのに夫が玄関を飛び出していった。どうしたんだろうかと思っていたら、重そうなダンボールを抱えて帰ってきて、

「配達の人が、すっごいおじいさんだった」と言う。

窓の外を見ていたら、かなり高齢の人が宅配車から降りてきたので、走っていって荷物を自分で運んだらしいのだ。

「いやいや。宅配って重いもの運ぶことが多いのに、おじいさんって。そんなまさか!」と私はゲラゲラ笑った。

夫はまじめな顔で、腰が曲がっていて、歩くのが精一杯のおじいさんだったと言った。コロナの影響で余程人手が足りないんだよと。うーん。私は信じられず、次のピンポンが来るのを待つことにした。

 

それからしばらくして、ピンポーンと鳴った。

来た! 私は窓から外を覗いて、そして夫と同じようにすぐさま外へ飛び出していた。

「いいですいいです。私が持ちますよ!」

「すみませんねえ、配達員ですのに」

 

おじいさんだった。本当に、おじいさんだったのだ。

夫が言うように、どう考えても荷物を持って歩ける気がしなかった。

その日から、私は宅配車の音が聞こえたら、ピンポンが鳴る前に玄関を飛び出すようになった。その都度、

「すみません、配達員ですのに」

と、決め台詞を言うのだった。どこのお宅でもこれをやっているんじゃないかと思うほど、さりげなくて、板についた謝罪だった。

どんな理由で今このお仕事に就かれているのだろうと想像する。昔から配達をしていて愛着があるのだろうか。暮らし向きが大変なのかもしれない、もしくは健康維持のためか。いずれにせよ、配達に不向きであることは一目瞭然で、きっとクレームなんかが来て辞めさせられるんじゃないかなと心配していた。

ところが、おじいさんの配達員になって一年が経とうとしている。どうやらこの地域は、私と同じように玄関を飛び出す住人たちによって構成されているらしい。そして、このおじいさんには、車で運んでくれただけでも感謝だわと思わせる、何かありがたいものが漂っているのだった。

 

愛媛の母が一ヶ月に一回送ってくれる荷物は、べらぼうに重い。米や夏みかん、野菜、味噌などがテトリスのように隙間なく詰め込まれている。

いつものように私が宅配車から荷物を運んでいたが、重すぎて玄関を開けることができなかった。

「すみません。玄関を開けてもらえますか?」

とっさに私はおじいさんにお願いする。

「はい。すみません、配達員ですのに」

おじいさんが我が家の玄関を開けて、そこに荷物を運ぶ私。二人とも半分笑っている。何やっとんじゃ。と言いたくなるかと言えば、そうでもない。やっぱり、これでいいのだと思わせる何かありがたいものがおじいさんから出ているのだった。

 

その日、私は庭の草取りをしていたため汗だくで、シャワーを浴びたあと上半身をタンクトップ一丁で過ごしていた。

聞き慣れたエンジン音がする。そうだ、今日は母から荷物が届くことになっていたんだ。Tシャツを取りに二階へダッシュする。ピンポーン。

「はーい、今行きますからちょっと待ってくださいね」

と叫びながらTシャツを着て玄関を開けると……

「大丈夫ですか!」

荷物を持ったまま、おじいさんは庭で転げていた。

「足があまり上がらなくてね。すみません、配達員ですのに」

数センチの段差で転げてしまったようだった。幸い怪我はなく、そこからはいつも通り、私が荷物を運びおじいさんに玄関を開けてもらうのだった。

「荷物は持ち上げられるのだけれど、足が上がらないんですよ」と、念入りに謝罪するので、「これからは私が運ぶので出てくるまで待っていてくださいね」と伝えた。

中身が破損してクレームが来ればいつクビになってもおかしくないだろう。それでも一年続けているということは、おじいさんは荷物は運べないけれど人々に幸福を運んでいるんじゃないかな。なんて、花咲かじいさんを思い浮かべるのだった。

 

年をとっていろいろなことができなくなりながら、それでも畑に出ていた祖父を思い出す。

人間はロボットではない。満ちていく部分もあれば欠けていく部分もある。できないところはできる人が補えばそれでいいじゃないかと思う。

好きで配達員という仕事を続けているなら、私はこれからもおじいさんを応援したい。

ただ、もし生活苦によって高齢になっても働いているのなら、別の方法を考えないといけない。

でも、そこまで踏み込んだ話をすることもできず、私はおじいさんに会えるのをありがたく思いながら、荷物を待つのだった。

 

 

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。

偏愛百景

第1回 賞味期限

東京では作家、愛媛ではお百姓の二拠点生活。毎週やってくる連載の締め切りと愛媛での怒涛の日々を送る。好きなものを残すためなら猪突猛進、実家周辺の景色への「偏愛」から太陽光パネルになる予定の農地を買ったとか。 高橋久美子の原動力は「偏愛」だという。日々の生活が少々不便でも、困ることがあっても、こうしたいのだから仕方ない。 「偏愛」を軸に暮らす様子をつづる、ひとりごと生活記録。

朝起きて、土鍋のなかの残りご飯をくんくんと臭った。あ、いかんかも。ちょっとすえた匂いするわ。ああ、冷蔵庫に入れとけば良かったー。冬の名残で台所に1日置きっぱなしにしてしもうた。腐ってはないけど、その一歩手前の匂い。春の到来を知らせる匂いじゃなあ。せっかく3日かけて発芽玄米にして炊いたのにもったいない。私は冷蔵庫に入れて何回かに分けて意地でも食べることにした。チャーハンにしたらいけるいける。

 

子どもの頃、我が家において賞味期限なんてものはないに等しかった。夏の牛乳の切れたんは2日までじゃなあというのはあったけど、あとは自分の舌で確かめろ方式だ。

今でこそ、賞味期限はおいしく食べられる期間の目安ですなんてテレビや新聞で紹介されるようになったけど、「うちは賞味期限とか全く気にせん家族です」なんて恥ずかしくて学校でも誰にも言わなかった。

大学生になって、友達が私のアパートの冷蔵庫を開けて「うわ、ポン酢と醤油の賞味期限切れてる。お腹壊すから捨てなー」と、どぼどぼ流されたときはカチンときた。1ヶ月切れたくらいで醤油なんて腐らんわ。というか既に発酵しとる食品じゃわ。もし誰かと一緒に暮らすなら賞味期限の価値観っていうのは重要やなと思った。

 

賞味期限をあてにすな。自分の舌で確かめろ。切れてなくても腐っていることだってあるのだからね。

実家から歩いて1分のところに小さなおばあさんがやっている、小さな商店があった。我が家の上にあるので“上のお店”と呼んでいた。駄菓子や袋菓子、アイスクリーム、サイダー、日用品、それに透明の長細い冷蔵庫にはお豆腐や油揚げ、瓶の牛乳が入っていた。

「久美子、上のお店でお豆腐と油揚げこうてきてくれるで」

母に頼まれ、愛用のかごを持って毎日上のお店におつかいへ行く。もう35年も前のことよ。

「おばちゃんお豆腐と油揚げと、ぶどうのガムちょうだい」

「お豆腐は126円、油揚げは154円、ガムは10円。さあて何円になるかな?」

「えーと……290円」

「ほうじゃあ。あんた何年生になったん、かしこいなあ。300円もろたら今度おつりはいくらになる?」

大きなそろばんを、おばちゃんのごつごつの指がはじく。そしてときどき陳列棚の生姜せんべいや蕎麦ボーロを取って「これみんなで食べて」と、おつりと一緒にくれた。お店は繁盛しているようには見えないけど、おばちゃんは気前が良かった。

家のおばあちゃん含め、毎日のようにおばあさん連中が店に集まって世間話をしていた。土間を上がった隣の薄暗い畳の部屋に時には寝そべって、嫁の悪口とか、孫の自慢話をしている声が聞こえた。不気味にばあさん達の膝下だけが店の入口から見える。あの声はうちのおばあちゃんじゃけど、今は声をかけんとこ。

夕方に行くと、土間から畳の部屋へ膝をついて入っていって「おばちゃーん」と三回くらい叫ぶと、テレビが消えすりガラスが開いて「はいはい」と出てくる。おばちゃんは、殆ど店に出てないからしょっちゅう学校帰りの中学生にサイダーを万引されとるという噂もあった。

 

中学生になった頃から、夏日になるとおばちゃんちのお豆腐がちょっとすえた味がするようになってきた。

「おかしいなあ、賞味期限切れてないのに。まあ、冷奴はやめて味噌汁に入れたらええわ」

普通ならここで、豆腐が腐ってましたと店に言うか、もう通うのをやめるかどちらだろう。母はそのどちらでもなかった。

「店の冷蔵庫の温度が高いんかなあ。それとも壊れとるんじゃろうか」

そのお豆腐は生協や他のスーパーにも同じのがしかも安く売られているが、母は上のお店に通い続けた。もうその頃には上のお店で買物する人はごく少数になって、棚もがらんとしていた。

おばちゃんの店がなくなれば、あとは車で15分の所にある生協に行くことになる。お魚は「おーさかないかがっすかー」と、トラックの拡声器でがなりながらやってくる魚屋のおじさんと、もう一人静かに回ってくる魚屋さんとが交代に近所へやってきてくれた。野菜も米も作っている我が家としては、あと豆腐さえ揃えば生協に行かずとも何とかなっていたのだ。

「高いけんて買わんようになったら、お店はつぶれて車で生協までいかないかん。年とって車に乗れんようになっても歩いて買いにいける所があった方がええ思うんよ」

と母は言った。なるほど、それはそうだ。アイスやお菓子が歩いて買いにいけんようになるのは困る。だったら冷蔵庫が壊れとると言うたらええのにと私は言ったけど、誰もおばちゃんに言うものはいなかった。田舎あるあるなのかもしれないし、それを言うたらいよいよ店を閉めるだろうと思ったからかもしれない。

私達は、豆腐が入荷されたら腐る前に速攻で買うことにした。でも油断して夕方とか翌日とかに行くと、やっぱりちょっと酸っぱい味になって、それを麻婆豆腐とか味噌汁に入れて熱して、みんな黙って食べた。

 

人が年をとって静かに家から姿を消すように、だんだんと店の開いている回数は減りカーテンがかかったまま10年になるだろうか。閉店しますの貼り紙も、営業最終日のセレモニーもないまま90代になったおばちゃんは娘さんのいる都会へもらわれていって100才近くまで長生きしたと聞いた。もう溜まってくっちゃべるばあさん連中もいなくなった。

結局、車で生協に行かねばならなくなったが、すえた豆腐を食べなくていいと思うとどことなくほっとしていた。でもなんというか、いやに静かに平坦になってしまった。

お店の前が幼稚園バスの停留所になっていたし、小学生の頃は集団登校の集合場所だった。上級生にアイスをおごってもらったり、陣取りの陣になったり、いつも賑やかな場所だった。だれやらさんの娘が男を連れてきとったとか、だれやらさんとこの息子夫婦が出ていったという情報もここから秒で拡散された。おばちゃんはいつも元気にそろばんを弾きながら、子どもや新妻を平等に褒め、しれっとばあさんたちの嫁の悪口合戦にも参加し、気前よくお菓子をくれた。

 

春先になってご飯がすえたら、上のお店のことを思い出す。賞味期限が切れてなくとも豆腐は腐っていることがある。みんな優しいようで優しくなくて、怖いようで怖くない、正体のつかめない世界で生きていたなと思う。

高橋久美子作家・詩人・作詞家。1982年愛媛県生まれ。音楽活動を経て、詩、小説、エッセイ、絵本の執筆、アーティストへの歌詞提供など文筆業を続ける。著書に小説集『ぐるり』(筑摩書房)、エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、『いっぴき』(ちくま文庫)、『一生のお願い』(筑摩書房)、『その農地、私が買います』(ミシマ社)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)、絵本『あしたが きらいな うさぎ』(マイクロマガジン社)など。近著にエッセイ集『暮らしっく』(扶桑社)がある。