第7回 信仰の経緯(1)

失踪をくり返す父を撮り続けた衝撃の作品『father』を世に問うた若き写真家、金川晋吾さんが、「ひとのわからなさ」「わからないひと」との撮影の日々を描く。シャッターを切る「まえ」と「あと」で生まれ出る世界とは。

最初の礼拝

教会は渋谷駅から歩いて十分もかからないところにある雑居ビルの地下にあった。

教会というのは建物のことだと思っていたが、そういうことではないのだと知った。階段を下りていくと入口の扉は開いていて、大学生ぐらいの若い男女が並んで立って受付をしていた。笑顔で声をかけられ、白いシールとペンを渡された。

女性のほうが自分の胸を指さしながら、よかったら名前を書いてくださいと言った。胸には「三上しょうこ」と書かれたシールが貼られていた。男性には「向井たけし」と書かれたシールが貼られていた。ひらがなで書くか漢字で書くか迷ったが、二人を真似て名前だけひらがなで書いた。

この教会に来られるのは初めてですかという質問に「はい」と答えると、向井たけしは彼のそばへと身を寄せてきて握手を求めた。その握手は力強くて優しくて、彼は頼もしさを感じた。向井たけしは彼の腰にそっと手を添えて建物のなかへと導いた。

室内は天井が低くてライブハウスのようだった。そう思ったのは前方にステージがあってドラムセットやギターなどの楽器が用意されていたことも影響していた。天井には照明装置もついていたので、彼は自分のファーストインプレッションに自信を深めた。

前方の壁に木でつくられたシンプルな十字架がかけられている以外は、ここが教会だという目印になりそうなものは見当たらなかった。ステージの前にはスピーチ台があり、それと向かい合うようにしてパイプ椅子が百脚ほど並べられていた。

「席はどこに座ってもらっても大丈夫です。礼拝は十時にはじまります。なにかわからないことがあればまわりの人に気軽に声をかけてみてください」

そう言って向井たけしは受付へと戻っていった。彼はとりあえず後方の端っこのほうの椅子に座り、まわりの様子を眺めた。

彼と同じように一人で椅子に座って礼拝が始まるのを待っている人も少しはいたが、ほとんどの人が立ち歩いて教会の仲間たちと握手をしたりハグをしたり談笑したりしていた。みんなとても楽しそうにしている。

二〇代か三〇代ぐらいの若い人が多かったが、それは事前に調べてわかっていたことだった。男女の割合は意外なことに女性のほうが多かったが、彼の気持ちがどこか高揚していたのはそのこともおそらく関係していた。

 

しばらくするとステージ上で楽器のチューニングが始められ、その音が合図となっているのだろうか、立ち歩いて談笑していた人たちも次第に自分の席へと戻っていった。

一〇〇脚ほどあったパイプ椅子はすべて埋まり、座りきれずに後ろや横の壁際に立っている人たちもいた。照明が落とされ、ステージにスポットライトが当てられると、まずゆっくりとピアノの演奏がはじまった。

話し声はやみ、有線放送のイージーリスニングチャンネルから流れてきそうなピアノ曲が空間を満たしていった。ピアノの音に、ベース、ギター、ドラムが加わり、演奏は徐々に盛り上がっていった。

ビートが刻まれるようになると、マイクをもった男性三人と女性三人のコーラス隊がステージの上にあらわれ、ハミングと言えばいいのか、スキャットと言えばいいのか、意味のない言葉を自由に発しながら即興的にメロディを口ずさんだ。それに合わせてパイプ椅子に座っていた人たちもみんな立ち上がり、体をゆらして歌いはじめた。

歌うといってもとくに歌詞があるわけではないので、それぞれが思い思いに、しかし全体の調和は乱さないように心がけながら自由に声を発していた。片手を上げている人もいれば、両手を上げている人もいれば、胸の前で手を合わせている人もいた。

彼は初めてのことにうまくついていけなかったが、とりあえず手拍子をしながら体を揺らしてゆっくりとリズムをとっていた(あまりそういうふうには見られないが、彼は中学生のころからダンスホールレゲエを愛聴していたので音楽に合わせて体を揺らすことは嫌いではなかった)。

みんなが思い思いのやり方で何かに向かって声を出しているなか、コーラス隊のうちの女性の一人が

「主の御名をたたえます。こうやってみなさんと礼拝がもてることを主に感謝します。アーメン。みんなで主の御名を宣言しましょう。せえの、ハレルヤ!」

と叫んだ。それに応えて会場全体も

「ハレルヤ!」

と叫び、拍手とともに曲が終わった。と思うと、ドラマーの人が「ワン、ツ、スリ、フォ!」と声を上げ、すぐにロック調のアップテンポなの曲が始まった。今度は歌詞もメロディもちゃんとあった。みんながを懸命に歌っていた。戸惑っている彼に隣りの席の男性が声をかけた。

「今日はじめて来られたんですよね。壁に歌詞が投影されるので、とりあえずそれを声に出して読んでください」

とアドバイスをくれた。たしかに壁にはプロジェクターで歌詞が投影されていた。彼は手を叩き、体を揺らしながら適当なメロディーで歌詞を口ずさんだ。

 

十字架の血で暗闇は消えた

主の手 我がため裂かれ

主の足 我がため刺された

今は私が生きることなく

ただ主のため生きる

主と共に死に

主と共に生きる

主のために永遠に生きる

永遠に生きる主のために

永遠に主のために生きる

 

さらに同じようなロック調の曲が二曲続いた後、バラード調のメロウな曲が二曲続いた。正直なところ、彼はその場で懸命に歌われている歌に馴染むことができず、リズムに合わせて揺らす体も重く感じるようになっていた。そろそろ終わってくれないかと思っていたが、さらにアップテンポな曲が二曲続き、会場の盛り上がりも最高潮になってきたところで、マイクをもったひとりの男性が顔中に笑みをみなぎらせながら登場した。

「ハレルヤ!感謝します!」

とその男性が言うと、会場の人たちも拍手をしながら口々に

「ハレルヤ!」

と言ってその男性に応えていた。

「今日この場でみなさんと恵み深い主を讃える礼拝がもてることを感謝いたします」

男性はゆったりめのジーンズに白のセーターというどこにでもいる大学生のような格好だったが、左手にもっている分厚い本がその姿に知性を与えていた。

この人が牧師だということは初めて参加した彼の目にも明らかだった。年齢は彼と同じかそれよりも若いぐらいに見えた。どうして分厚い本をもっているだけで知性を備えた人間に見えてしまうのだろうか。そんな考えが彼の頭に浮かんですぐに消えた。

牧師は人々に向かって「それではまず『聖霊よ、この国をあなたの風で満たしてください』と七回唱えましょう」と呼びかけた。

「七というのはキリスト教で完全数なんです」

と隣りの人が彼にそっと教えてくれた。会場の人々すべてが

「聖霊よ、この国をあなたの風で満たしてください」

と声を上げ、回を重ねるごとに部屋の温度が高くなっていった。力の限り叫んでいる人もいれば、自分自身に語りかけるように声を出している人もいた。彼も声を出した。照れもあって全力で叫ぶことはできなかったが、そうやって声を出しているとだんだんと気持ちよくなっていった。

五回目を叫んだあたりで彼は笑ってしまったが、まわりを見ると同じようににやけている人がたくさんいた。この行為がおかしくて笑っているのか、楽しくて笑っているのか、それとも恍惚にひたっているのか。でもそんなことは厳密に区別できるものでもないだろうと思った。現に彼自身がそうだった。

七回叫び終えたときには会場内に連帯感と達成感が生まれていた。すでに大量の汗をかいていた牧師は「大きな声を出すのは気持ちがいいですね」と言って笑い、会場の人たちも一緒になって笑った。自分たち自身を笑っているようにも感じられた。彼も声を出して笑った。会場全体が大きな拍手で包まれ、コーラス隊もバンドの人たちも拍手をしながら自分の席へと戻っていった。

 

「これまでに何度も言ってきたように、今年はこの国におけるリバイバルが現実となって動き始めるとても重要な年になります」

そんな予言めいたことを口にして、牧師は説教を始めた。

「これまでの歴史のなかでリバイバルは世界の至るところで起こっています。最近では中国が今まさに世界的霊的大リバイバルのなかにあり、一九四九年には一〇〇万人程度だったクリスチャンが今では六千万人近くになっています。また韓国でもリバイバルが起こり、今では総人口の四人に一人以上がクリスチャンとなっています。アフリカでもリバイバルは目前で、この数年で北アフリカの数万人のイスラム教徒がイエス・キリストを信じるようになりました」

「リバイバルが起こる前には必ずあることが起こっています。それは何か。殉教です。大規模なリバイバルの前には大規模な殉教が必ず起こっています。多くのクリスチャンの血が大地に沁み込むことによってその地にリバイバルが引き起こされてきました。これは歴史的な事実です」

「しかし唯一例外の国があります。それが日本です。これまでの歴史のなかで、実際にデータとしてわかっている数だけでも日本では三〇万人以上の人が殉教しています。実際には一〇〇万人かそれ以上の人が殉教しているだろうと言っている学者もいます。だがリバイバルはまだ起こっていません」

「このことが意味することは何でしょうか。それは祈りが天に蓄えられているということです。その蓄えられた祈りがはじけたときに日本でもリバイバルが起こります。そしてそのときが刻一刻と近づいているのが今年なのです」

そんな話をしているあいだも、牧師は笑顔だった。うれしい報せを人々に届けることができる喜びにあふれていた。その喜びを体全身であらわしていた。牧師の言葉が区切れるたびに、聞いている側の人々からも「アーメン」という合いの手が入った。話が盛り上がってくると、「アーメン」と答える人の数も増えていき、声も大きくなった。つぶやくように言っている人もいた。

彼は、最初はリバイバルという言葉が何を意味するのかわからなかったが、話を聞いているうちにクリスチャンが爆発的に増えることなのだと気がついた。自分たちと同類を増やそうと躍起になることに対して、彼は反射的に嫌なものを感じた。それでも彼は興味深く牧師の話を聞き続けた。

牧師の話は聖書のなかの「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめる(第一ヨハネ一:七)」という一節についての話になり、「きよめる」というのは正確には「きよめ続ける」ということであって私たちはつねにイエスによってきよめられ続けなければならない存在なのだということ、罪からの解放を完了形で考えるべきではないということを語り、だからこそ私たちクリスチャンは毎日聖書を読まなければならないと言った。

「聖書は何よりもまず読まなければなりません。考えるのではなくまず読む。とにかく読む。声に出して読む。聖書はできるかぎり声に出して読んでください。それが基本です。そして、そのとき大切なことは自分の思いを入れずに読むことです。とにかく読むとはそういうことです。理解できなくても読む。理解とかそういうことはあとからついてくることです。もちろんわからないところを調べることも大切ですが、それは別の時間でやってください。まずはただ読む。自分の考えなんかにとらわれずにただ声に出して読む」

「そのとき私たちはご飯を食べるように御言葉を読むことになります。いや、ここは端的に御言葉はご飯なのだと言ってしまいましょう。私たちは御言葉を食べるのです。御言葉は私たちにとって食事なのであり、生きるために欠かせないものなのです。毎日毎日食べることで、御言葉が私たちのからだの一部になっていくのです」

牧師は一時間以上にわたって話し続けた。大量の汗で顔が光っていた。

「みなで祈り、主を祝福しましょう」という牧師の呼びかけでコーラス隊とバントによる演奏がまたしても始まった。今度もプロジェクターで壁に歌詞が投影されたが、その歌詞とは無関係に、もっと自由に、言葉としては意味を判別できない言葉で歌っている人たちがたくさんいた。それはどう聞いても日本語ではなく、英語でもなかった。何語なのかわからなかったが、何語でもなさそうだった。「オウー」「シャバララララ」という音がとくに耳についたが、他にもいろんな音が飛び交っていた。七夕の織姫がもっている羽衣のような細長いカラフルな布をもった女性がステージにあらわれ、その羽衣のような布を音楽に合わせてぶんぶん振り回していたりもした。

演奏が終わり、牧師が

「みんなで主の平和の挨拶を交わしましょう」

と呼びかけると、みんな互いに

「あなたに主の平和がありますように」

と声をかけあい、抱き合ったり握手をしたりした。彼にもいろんな人が笑顔で声をかけてきた。彼は戸惑いながらも笑顔で応じた。そういうやりとりにわざとらしいものを感じながらも、実際に平和の挨拶を口にしてみると、何かこれまでは知らなかった喜びというか快感があって驚いた。それはいけないとされていることをするときの感覚にも似ているような気がした。

 

礼拝が終わると、牧師が近づいてきて彼に歓迎の言葉をかけた。どうやってこの教会を知ったのか訊かれたので、彼はネットで調べて来ましたと答えた。そして、自分が美大の大学院生で写真を撮っているということ、信仰というものに興味があって教会にやってきたということを伝えた。相手がどういう反応をするかが気になった。

牧師はそれは素晴らしいことだと思うと言った。またぜひ教会に来てください。なにか力になれそうなことがあれば何でも言ってくださいとも言った。

牧師は自分の名を名乗った。門田諭[かどたさとし]と言った。まわりの人たちは諭牧師と呼んでいたので、彼もそう呼ぶことにした。

最後に握手をして別れようとすると(またしてもしっかりとした握手でたじろいだ)、彼のために祈らせてほしいと諭牧師は言った。断る理由はなかったので祈ってもらうことにした。諭牧師は、彼が神についてよりよく理解できるようになること、神が彼をこれからも見守ってくれること、そして彼と彼の家族の健康とを、イエス・キリストの名のもとに天の神様に祈った。

神への感謝や畏怖をあらわす言葉が随時はさまれてくるので、お祈りは数分間続いた。自分のことをこんなにも長々と祈ってもらうことなんて彼には初めてのことだった。不思議となのか当然なのかはわからないが悪い気はしなかった。とても長く感じた。