信仰の経緯(2)

失踪をくり返す父を撮り続けた衝撃の作品『father』を世に問うた若き写真家、金川晋吾さんが、「ひとのわからなさ」「わからないひと」との撮影の日々を描く。シャッターを切る「まえ」と「あと」で生まれ出る世界とは。

■牧師の部屋

諭牧師の部屋は十五階建ての公営マンションの十五階で、ベランダからはスカイツリーと隅田川が一望できた。妻の明子さんと二人で住んでいて、部屋は新しく、物が少ないので余計に広く感じられた。叶うならば自分もいつかこんな部屋に住んでみたいと彼は思っていた。そんなことこれまで誰にも言ったことはなかったが。

諭牧師は毎朝五時に起きて一時間以上お祈りをしている。そう聞いていたのでその様子を撮ってみようと思い今日はやって来た。そのことは諭牧師にも事前に伝えてはいた。家にお邪魔するなりすぐに撮影とはいかないので、妻の明子さんが用意してくれたお茶を飲みながら祈りについての話を聞いた。諭牧師は起きてすぐにお祈りをするという。寝間着姿のままで祈っている姿というのは写真としては悪くない気がした。

明子さんは六時ごろに目覚め、そのままベッドのなかで簡単にお祈りをしてから起きる。リビングで朝の支度をしていると、隣りの部屋から諭さんのお祈りが聞こえてくることがあると明子さんは言った。 明子さんは教会で見かけたことはあったがちゃんと話すのは初めてだった。明子さんのお腹はいつ生まれてもおかしくなさそうなほど大きかった。

お祈りはやりたいからやってるだけで修行みたいなものではないですよ、と諭牧師は言った。たしかに諭牧師の毎週の礼拝の様子を思い出すと、それは本当にそうなんだろうと思った。

 

「そろそろ撮影を」と言い出すのはいつも唐突な感じがしてしまうと彼は思っていた。写真の撮影には何か不自然なことをしようとしているという感覚がつきまとう。

彼が「それではそろそろ撮影を」と言って中判カメラを取り出すと、二人は「大きいですね、すごいですね」と言ってカメラを褒めた。カメラを褒められると誇らしいような恥ずかしいような気持ちになった。カメラは男性自身の象徴なのだと聞いたことがあるが、この気持ちももしかしたらそういうことに関係しているのかもしれないと彼は思った。でもそれはただそう思っただけで、本当にそんなことを思っているわけではなかった。

いつものように祈っているところを撮りたいという彼の要望に応えて、牧師は上下ともに紫のスウェットに着替えた。そして、机と椅子と本棚がそれぞれひとつだけ置かれた小さな部屋へと移動した。おそらく諭牧師の書斎だろう。明子さんはいなくなって彼と牧師の二人きりになった。

諭牧師は入口のドアを閉め、窓を開け、椅子を部屋の真ん中に移動させた。椅子の背もたれは細長く十字架の形にくりぬかれていた。裸で座ると背中に十字架が刻まれるんです、と牧師は言ったが、紫のスウェットを脱ぐことはなかった。諭牧師は前屈みになって手を合わせ、ぶつぶつ小さく呟くように声を出した。何を言っているのかは聞きとれない。ヨシュという音が耳につく。意味のある言葉なのか、何の意味もない言葉なのかわからない。

彼はそのまま五分ほど待ってから、カメラを牧師に向けてファインダーごしに眺めてみた。祈っている姿を写真という静止したイメージにしてしまうと、どうしてもそこに何かが秘められているような意味ありげなものに見えてしまうように思えた。それはおそらく自分にとっては回避したいことのような気がしたが、そもそも撮ってみないとわからないのでとりあえず撮った。近づいたり離れたりしながら数枚シャッターを切った。できるだけ距離をとって牧師を部屋の風景の一部のようにして撮ってみたりもした。フィルム一本十枚を撮り終え、次は祈っているところではなくて、ポーズを決めたりやり取りをしながら撮影したいと思った。

諭牧師にガラス戸の側に立ってもらい、外へと視線を向けるように指示をして写真を撮った。いわゆるポートレート写真と呼ばれるようなものだった。彼は今日の撮影にあたり、視線をどこかに向けているポートレートを撮ろうと思っていた。視線を向ける先があるということ、神という目に見えない存在に視線を向けているということが、信仰をもっている人たちの特質、写真という視覚に限定されたメディアにおいて表現することのできる特質ではないかと考えたのだった。逆に言うと、それぐらいの考えしか彼の頭のなかにはなく、とりあえず写真を撮ってみてそれから考えようと思っていた。

カメラを向けられても、牧師はいつもと変わりがないように見えた。どういう顔をすればいいのかと訊いてくることもなく、彼に言われたとおりにじっと外を見ていた。毎週の礼拝で人に見られることに慣れているからなのだろうか。それとも祈り続けてきたことによって、もはや意識は自動的にどこか外へと向かうようになっているのだろうか。

牧師は見られている自分も、見ている自分もあまり問題にしていないようで、その佇いは被写体として魅力的だった。ただ、遠くに視線を向けている写真は祈っている写真と同じく、何かを内に秘めているような雰囲気を余計に漂わせてしまうような気がした。それは写真としてはちょっと微妙なことだと思った。彼は今度はまっすぐにカメラを見てもらって写真を撮った。こっちのほうがより直接的でいい写真になるような気がした。

 

明子さんの写真も撮らせてもらおうとリビングに声をかけに行くと、明子さんはソファにもたれながら雑誌を見ていた。写真を撮らせてほしいと言うと、明子さんは快く応じてくれた。普段の様子を撮りたいという彼の要望に応え、明子さんも上下セットアップの黒のスウェットに着替えてくれた。明子さんがベッドで横になって祈っているところと、窓際に立っているところを撮った。諭牧師同様、明子さんも見られるということに戸惑いを感じていないようだった。むしろカメラを向けている彼自身のほうが諭牧師を見ているときにはなかった何かが自分の視線のなかにあることを意識せざるをえなかった。それはカメラを通して女性を一方的に眼差すことへの戸惑いと快感だったかもしれないが、それだけではないような気もした。

 

撮影を終え、明子さんが淹れてくれたお茶を飲みながら三人は話をした。床に敷かれたカーペットの上に三人とも座っていたので、ガラス戸に目をやると空を見上げるような格好になった。日は沈みかけていたが、諭牧師も明子さんも立ち上がって電気をつけようとはしなかった。

彼は自分が子どもだったころ、日が沈んで部屋が暗くなっても電気をつけずにいるのが好きだったことを思い出していた。それは今でも変わらないはずなのだが、あのころの自分と今の自分が連続しているという実感はとてもおぼつかない。自分が今こうしてここにいることがおかしなことのような気がしてくる。何がおかしいのかはよくわからない。

諭牧師に教会に来ようと思ったきっかけを訊かれ、彼はとりあえず自分の父親の話をした。彼の父親は彼が中学、高校のころに失踪をくり返していた。彼が大学に入った二〇〇〇年ごろ、父親は家族とは離れ一人で生活するようになった。一人になってからは平穏に生活していると思っていたが、数年前の二〇〇八年にまた失踪した。このときは数日で戻ってきたが、仕事を続けようという気力はもう失せてしまっていた。消費者金融からの借金も家のローンもあったので、仕事をしなければ路頭に迷うしかないにもかかわらず、父は何もせずに家にいるようになった。

父親がこの危機的な状況を乗り越えて、さらにその後もちゃんと生きていくには、何か心の支えとなるようなもの、信じるものが必要なんじゃないかと彼は思った(家族がそういうものとして機能しないことはこれまでのことで明らかだった)。ただ、当の父親自身は心の支えとなるものや信じるものが必要だとは思っていないようだった。

諭牧師も明子さんも彼の父親のことを憐れに思ったのだろう。話を聞きながらとても痛ましい顔をしていた。ただ、彼自身は父親が信じるものも救いも必要としていないことをむしろ好ましく思っていたが、そのことは二人には言わないようにした。

彼はそんな父親を目の当たりにしたことで、ではその逆に信じるものをもっている人たちに対して興味をもつようになった。また、彼自身、そんな父親をもったことが影響しているのか、まったく信心深くなかった。誰も見ていないところであれば墓石を蹴ることだってできるような人間だった。神様を信じることがどういうことなのか、どうやったらそんなことが可能になるのか彼にはよくわからなかった。だが、わからないからこそ惹きつけられ、信仰についての作品をつくってみたいと思うようになり、教会にやってきた。彼はそんな話を二人にした。

彼は自分が救いを求めて教会に来たわけではないことを、角を立てずにちゃんと伝えたいと思っていた。彼の意図が伝わっているのかいないのか、諭牧師は「Sさんが神を求めて教会に来られたことに感謝します」と言った。彼もそう言われるとそういう部分もあるような気がしたので、とりあえず何も言わなかった。諭牧師はさらに言葉を続けた。

 

神とつながっていない人間なんていないんです。そのことにその人が気づいているかどうかだけで。自分もかなり長い間、神から遠く離れていました。うちはクリスチャンホームだったので物心ついたときには教会に通っていたのですが、中学校に入ったころにはキリスト教に、もっと言うと宗教というものに違和感を覚えるようになりました。高校に入ったころにはもうまったく教会にも行かなくなっていました。自分はこのまま神とは無関係に生きていくと思っていました。

でも、大学を出て、就職をして、働いているうちに、実は神はずっと自分のそばにいたということにだんだんと気がついていったんです。自分では遠くに離れたと思っていても、神からすればそんな遠さなんて何の意味ももたないんです。神はずっといます。いたりいなくなったり、離れたり近づいたりするものではないんです。人間がそう感じるというだけです。聖書に書かれていることもつまりそういうことです。あとはそのことに気づくかどうかだけなんです。Sさんは何かそういうことに気がついたから、教会にやって来たんだと思います。

諭牧師の言葉に対して、彼は何を言えばいいのかよくわからなかった。彼は自分のような神の存在を前提としていない人間には、諭牧師が言っていることを本当に実感することはできない思った。と同時に、そこで語られていることは否定できるようなことではないとも思った。

 

日は沈み、二人の黒い輪郭がガラス戸から入ってくる弱い光を背にしてぼんやりと浮かびあがっていた。諭牧師と明子さんの顔はもうほとんど見えなかった。にもかかわらず、諭牧師も明子さんも立ち上がって電気をつけようとはしなかった。彼は疲れてきていたが、この時間がずっと続いてほしいような気にもなっていた。

明子さんも両親がともにクリスチャンで幼児洗礼を受けていた。彼がこれまでに神さまを信じることが難しくなったことがあったかどうか尋ねると、明子さんは、それはもちろんありましたよと言った。そして、少し考えてから明子さんは次のような話を彼に向かってした。

明子さんは小さなときから教会学校にも通っていたので、物心ついたときには「イエスさまはすごく立派な人だな。ああいう人になりたいな」と思っていた。でも、それは神を信じるというのとはちょっとちがうものだったと今となっては思う。

明子さんが神の存在を実感したのは小学校五年生のときだった。そのころ、明子さんの家族は隣町に引っ越すことになったが、ある事情があって明子さんは前に住んでいたときに通っていた小学校にそのまま通い続けることになり、通学のために毎日一時間近くバスに乗らないといけなくなった。

別にバス通学が理由でいじめに遭っていたわけではなかったが、小学生の明子さんにはバス通学が精神的にも体力的にもきつかった。バス通学を始めて一か月が過ぎたころ、バスのなかで本当に苦しくなった。胸がどきどきしてきて、これ以上はもうだめだと思ったときに、神さまに向かって助けてほしいとお祈りをした。すると神さまがその祈りに対してはっきりと答えてくれたのだった。

声を聞いたとかそういうわけではなかったが、今まさにここに神さまが来てくれたということを感じた。この広い世界のなかにはとんでもない数の人間がいるのに、神さまがそのとき自分のところに来てくれたということ、そのことに深く感動した。それ以降、神さまに対する感じ方が変わった。神さまはやっぱりいるのだ。

 

外はもうすっかり暗くなっていた。彼は大学生だったころ、友人たちと集まっては一緒に幻覚作用をもたらすキノコを食べていた。キノコの作用で、さっきまでは明るかった空が気がつけば真っ暗になっているというただそれだけのことに深く感動して笑いがとまらなくなったことがあった。笑い続けているうちに、自分の感動が空気の振動を通して他の三人にも伝播されたのがわかった。他の三人も彼と同じように笑い続けていた。そのとき自分たちはまったく同じことに感動しているのだという確信があり、この確信をこの場にいる全員が持っているのだという確信があった。だがその確信はある瞬間に突如ぐらつき、次の瞬間、他人が何を考えていようがそれは自分の思考には何の関係もないのだという新たな確信を得た。そして、そのことにまた深く感動した。

そんなことが思い出されたのは、部屋の暗さと雰囲気のせいもあったが、二人が自身の信仰の経緯を語ったことに感化されたからでもあった。自分は昔から信仰というものに興味をもつような人間だったのだろうか。彼は今自分がここにこうしていることと過去の自分とのあいだに何らかの因果関係を見いだそうとしていた。そうして出てきたのがキノコのことだった。でも、それはとりあえず出てきただけで、見当ちがいだろうと彼は思った。

「それでは最後にお祈りをしましょう」と諭牧師に呼びかけられ、彼は考えるのをやめた。諭牧師の呼びかけには彼も一緒に祈ることが暗黙のうちに前提とされていた。彼もその前提を自然と受け入れていた。

牧師は彼が今日この家にやって来たことを神に感謝し、彼の神に対する理解がより深まることを、彼の教会での撮影が今後もうまくいくことを神に祈り、それに対して残りの二人がアーメンと唱えた。祈りはそれで終わらず、今度は明子さんが今日のことを神に感謝し、彼と彼の父親のことを今後も神が見守ってくれるようにと祈り、それに対して残りの二人がアーメンと唱えた。彼は、今度は自分の番だと察し、今日このような場を与えてもらったことを神に感謝し、これからもどうか自分を見守ってほしいと神に祈り、それに対して残りの二人がアーメンと唱えた。

牧師が彼の手を握り、そのまま彼と抱き合い、明子さんも彼の手を握り、同じく彼と抱き合った。明子さんの大きなお腹が彼にふれた。諭さんと明子さんは抱き合わなかった。彼は二人から歓待を受けたのだと思った。

電気が灯けられると、酩酊状態から覚醒しようとしている自分に気づいたときのような残念な気持ちと安堵の気持ちが同時に訪れた。