第15回 育児がつらかったころ

誰でも「できる」ことと「できない」ことがある。「できる/できない」の間で迷ったり、不安を感じたり、無力感を持ったりしながら生きている。レビー小体病という「誤作動する脳」を抱え、できなくなったことと工夫によってできるようになったことを自己観察してきた著者が、「できる/できない」の間を自在に旅するエッセイ。

自分の子育てを、振り返りたいとは思えない。よい思い出をすべて押しのけて、後悔が最前列に躍り出ることはわかっている。あのとき、ああすれば良かった、ああするべきだったという思いに潰されそうになる。(コロナ感染の悲惨なニュースが続くなかで、少し心が弱っているから余計そうなのだろうか。)

楽しい時間はたくさんあった。一緒に笑った時間もたくさんあった。それは、わかっている。それはよくわかっている。でも今、「申し訳なかった」という気持ちが、それをすっぽり覆ってしまう。心の奥がヒリヒリする。

もし今、時間を遡ることができたら、私は、毎日、ただただ愛して、ぎゅーぎゅー抱きしめて、可愛い可愛いと頬ずりして過ごしたい。どしゃぶりのごとく愛情を降らせること以外、何も考えない。

《 失われていく 》

子どもたちが幼かったある一時期、私は心の余裕を失っていた。仕事はしていなかったが、その分、家事と育児から離れる時間がなかった。一人で食事を作り、一人で食べさせ、一人で床に散らばった食べ物やら牛乳やらを拭き、一人でおむつを替え、一人で公園に連れて行き、一人でドロドロになった服を着替えさせ、一人で洗濯をし、一人でお風呂に入れて、一人でパジャマを着せて、一人で寝かしつけた。それだけを繰り返す毎日だった。

夫は、仕事が忙しく、家事はしなかった。当時は珍しいことではなく、今のように、街で父親が乳幼児と2人で歩いている姿を見たことはなかった。

ちょっと静かな所に身を置きたいとか、友人に会いたいとか、本を読みたいとか、そういうことが、不可能な日々だった。(パソコンも携帯も普及していなかったので、旧友との連絡は固定電話か手紙だった。ネットもLINEもない時代だった。)

長い時間をかけて身につけたものも、どんどん失われていく気がした。あるとき、「細切れの時間ならあるのだから、外国語の単語くらいなら覚えられるんじゃないか」と思いつき、紙に書き出して持ち歩いてみた。でもいつ、なにをするかわからない幼児は、目を離せない。2人のうちのどちらかが転んだり、おもちゃの取り合いをして泣き出すということが常に繰り返されるなかでは、なにも覚えられないとわかった。外国語を使う機会も皆無になった。

引っ越したばかりの土地に、知り合いはいない。集合住宅に駐車場の空きがなかったため車も持てず、電車で出かけるにも、多くの駅にはエレベーターもエスカレーターもなかった。一度、用事があって、子ども2人とベビーカーと大きな荷物を全部抱えて駅の長い階段の上り下りを繰り返したら、翌日膝が曲がらなくなってしまった。以後、電車での子連れ外出は諦めた。(バリアフリー化は、健康な大勢の人たちも救ったのだ。)

近所のスーパー・公園・絵本を借りに行く小さな図書館以外、幼児2人を連れて行く先はなかった。それが、私の世界のすべてだった。

国を越えた引越しが、環境を激変させていた。変わらぬ移動の自由は、夫だけが手にしていた。夫は、仕事で海外に行くことが多かった。私も一人で国外へ軽々と飛んだ独身時代は、遠い幻に思えた。

《 長すぎるトンネル 》

社会から完全に切り離されたような寂しさ、虚しさ、焦りは、初めは薄い膜だったが、毎日一枚ずつ増えて、私の顔にへばりついた。私は息が苦しかった。引っ越す前は、2人の子の母となって、あんなにしあわせだったのに。2人のすべてのしぐさが、表情が、可愛くて可愛くて、体が弾けてしまいそうだったのに…。

ある日、勇気を振り絞って、2人の人に「つらい」と打ち明けた。「母親なら当然のこと」と言われた。

「幼児期の数年間は、短いよ。あっという間に過ぎて、過ぎれば懐かしく感じるよ」と、年上の友人は、言った。今ならそれがわかる。でもそのときの私は、出口の見えない長すぎるトンネルの中を2人の子どもを両腕に抱えて一人で歩いているようにしか感じられなかった。

そのうち、5分でいいから一人になりたいと繰り返し思うようになり、掃除機をかけていると、訳もなく涙が流れた。

これはまずいと思って、チラシで見た団地の子育てサークルに入会。母親たちが、幼児連れで集まっては、みんなで一緒に遊ぶだけの会だったが、子どもたちが同年齢の子たちと生き生きと楽しそうに遊んでいる姿を見ると、救われた。母親が笑わないと、子どもも笑わなくなるのだ。

私は、さらに状況改善に向けて一人で動き始めた。短時間だけ働きに出ようと考えたのだ。今のままでは、私も子どももダメになる。社会との接点を持つことで、私は、見失ってしまった私を取り戻したかった。私が元気で、笑っていることが、子どもにとっても必要なことだと思った。

《 母親でしょ? 》

保育所のことで役所に初めて相談に行ったときのことだ。

「あなた、母親でしょ? 子どもを預けて働かなければいけないほど、ご主人のお給料、安いんですか?」

今では想像もできない公務員の言葉。そのときの私も耳を疑った。

「仕事も決まってないのに、保育園に入園なんて、できませんよ」

「面接に行くとき、子どもを預かってはくれないんでしょうか?」

「預りません」

「じゃあ、面接に行くとき、子どもはどうすればいいんですか?」

「そんなことは、あなたが自分で考えることでしょ」

四面楚歌の思いで帰った後、子育てサークルの友人から言われた。

「わ〜、あなたもやられた? 有名だよ、その担当者。働こうと思ったお母さんたち、みんな、泣かされて帰ってきて、働くのを諦めちゃたから」

明治時代じゃない。30年前のことだが、「母親が子どもを預けて働きに出たいなんてわがままだ。無責任だ」と言われる時代だった。

出産後も働く友人たちはいたが、子どもが熱を出すと、その日に実母が新幹線に乗って助けに来ると聞いて驚いた。私の子どもは、頻繁に熱を出していたし、実母は、家を空けられる環境にないので、母を頼るという発想がなかった。

今、時代が変わったことを心からうれしく思う。今だって若い母親は、みんな大変だ。今の時代の困難も多々ある。それでも、社会は確実に変わっていく。幼児連れの親子を見ると、「がんばって〜!」と心の中で旗を振っている。

孫ができて、「おばあちゃん目線」になったのだろう。道行くどんな小さな子どもも小学生もたまらなくかわいい。余計なお世話なのだが、私は、いつも駆け寄って言いたくなる。

「こんなに大変な世の中になってしまったけど、無事に育って! 元気に生きて! しあわせになって!」

彼らのために、私にできることはなんだろうと思うが、まだなにもしていない。

《 仕事に就いてみると 》

誰からも祝福されなかった就職はと言えば、周囲の反対を沈黙で押し切って、パートの仕事に就いた。面接には、2人の幼児を抱えて行った。

第一希望の保育園に入れたのは、幸運だ。入園までに、大きさの指定されたたくさんの袋物を大急ぎで手で縫ってつくった。白い布団カバーには、子どもの好きなアンパンマンの絵を大きく描いた。アンパンマンが、子どもと添い寝をしてくれるように。

初日、保育園で別れるとき、死別するかのように泣き叫ぶので、私も泣きながら職場に向かった。自分は間違っていたんだろうか…と悩みながら迎えに行くと、保育士の若い先生が笑顔で言う。

「ああ、お母さんが見えているあいだは、みんな、泣き叫ぶんですよね〜。見えなくなった途端、泣き止んで、すぐに元気に遊んでましたから、全然問題ないですよ〜。お昼ご飯も残さず食べました」

子どもを一緒にみてくれる人、一緒に育ててくれる人ができたんだと思った。心強かった。20代の保育士さんの言葉や笑顔にその後も何度も救われ、励まされた。

後で、スウェーデンに住む友人から聞いた。スウェーデンでは、幼児期から子どもを預けることが、子どもの成長のために推奨されているそうだ。親子だけの密室育児は、望ましくなく、大勢が子育てに関わる方が健全に育つと考えられているという。(ああ、もっと早く聞いておきたかった。)

とはいえ、雨の日も雪の日も自転車の前後に子どもを乗せて保育圏に通うのは、大変だった。「ちべたい〜(冷たい)」と泣く子に「がんばれ!がんばれ!」と叫びながら、その時間が1分でも縮まるように全力で自転車を漕いだ。

「がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!」

夫は、今でもそんな子どもたちが不憫だったと言う。

私は専業主婦だったときより遥かに忙しくなり、気力、体力、根性を総動員する毎日だった。

職場には、「お子さんが熱を出したので、すぐ迎えに来てください」と毎月のように電話が掛かってきた。「すみませんっ!」と職場にも保育園にも謝って、職場を飛び出し、全速力で駅に走った。

「がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!」

あのころ、そう心の中で叫びながら、いつも走っていた気がする。

でも、私の心は、すこぶる健康だった。「陰鬱なお母さん」は、もう影も形もない。体の疲れなんてなんでもないと思えるほど、そのとき、私は若く、元気だった。

心の健康を取り戻した私には、子どもたちが無性に可愛いかった。保育園から連れ帰って、一緒に過ごす時間がとても貴重で、しあわせだった。私は、また子どもたちとたくさん笑えるようになった。子どもたちも声を立ててよく笑うようになった。私には、それがなによりもうれしかった。

《 私は私の1日を生きる 》

バランスが悪く、融通のきかない母親のもとに生まれてしまった子どもたちは、苦労が多かった。すまなかったと思うことばかりだ。

私は、私がなりたかったような母親には、ついになれなかった。褒められることはなにもない。人からバカにされても、批判されても、言い返す言葉はない。

多くの時期、私は、いっぱいいっぱいだった。もがいていた。壁にぶつかると、がむしゃらに乗り越えようとした。思うようにいかないことの方が、ずっと多かった。それが、私の精一杯だったのだ。

気がつくと、子どもたちは大人になり、「じゃ」と家を出ていった。あっけなかった。親が頼りにならないと、子は勝手に一人立ちするんだなと思った。

子どもたちは、優しい人に成長したから、私は過去を責められもせず、赦されている。謝りたいことは、いくらでもあるのに。

今、コロナ禍で会えない彼らと彼らの家族の無事としあわせを、毎日ただ祈っている。私の祈りに、どのくらいの効力があるのかないのかは、わからない。母親なんて、無力なものだなと思いながら、彼らは彼らの、私は私の1日を全力で生きている。

 

 

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。41歳でうつ病と誤って診断され、治療で悪化していた6年間があった。
多様な脳機能障害のほか、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状などもあるが、思考力は保たれ執筆活動を続けている。
『私の脳で起こったこと』(ブックマン社。2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞受賞)。最新刊『誤作動する脳』(医学書院 シリーズケアをひらく)。

 

第14回 まあい〜わ

誰でも「できる」ことと「できない」ことがある。「できる/できない」の間で迷ったり、不安を感じたり、無力感を持ったりしながら生きている。レビー小体病という「誤作動する脳」を抱え、できなくなったことと工夫によってできるようになったことを自己観察してきた著者が、「できる/できない」の間を自在に旅するエッセイ。

急速に、ずぼらになってきている。

いや。仕事で手を抜いたことは一度もない。そこは、病前と変わらぬこだわりとしつこさを貫いている。原稿は、自分で納得するまで、どこまででも書き直す。

でも、仕事から一歩離れたら、すべてのことは、「まあい〜わ」だ。

「なんだか床が汚いなぁ。掃除機をかけたのは、いつだっけ?」

「いつ?」という質問にまったく答えられないのが、私の脳だ。

「わかるわけないだろ。まあ、後でい〜わ」

「あれっ? そういえば、誰かが、”後で資料を送ります”って言った? 誰だっけ? 何か来た? わからない…。困ってないし、まあい〜わ」

ありとあらゆることが、そんな調子になりつつある。「お前、それで大丈夫なのか〜?!」と、もう一人の私が、私の胸ぐらを掴んで叫んでいる。

もっと若く、健康な脳と体で、なんでもテキパキできたころ、老いに片足を突っ込んだ親のいい加減さに毎回イライラしていた。

「病院? 保険証、持った?」

「保険証? そんなものないな」

「えっ?! ちゃんと探したの? なかったら大変だよ!」

「まあ、いい」

なにがいいのか、まったくわからない。どんな不備も「まあ、いい」で済ますので、いちいちいきり立っていたが、今は、私がその境地だ。

病気でなかったころは、なんだって苦もなく記憶して、カチャカチャと自在に出し入れしていた気がする。どうやってそんな魔法使いみたいなことができていたのか、もう、思い出すことすらできない。

毎日、思うことは思う。あっ、あれも大事。わっ、これも大事。ああ、これもメモしておかないと…。

でもそう思いつつ、すべては、小川に浮かぶ笹船のようにどんどん遠去かっていく。「あっ。待って。」「あっ」「あっ」とつぶやいている間に全部見えなくなる。私は、一人惚(ほう)けてつっ立っている。

これはいくらなんでも忘れるわけがないと思ってメモしなかったり、メモしようと思ってペンを持つと思い出せなかったり、メモしてもメモ自体が見つからなかったり、メモしたこと自体を忘れたり…。いろんなことが、以前のようにはいかなくなりつつある。

「あれ? そういえば、あのZoomセミナーって、いつだっけ? 申し込んだんだっけ?」

慌てて探しても、もう見つからない。

「どこで見たんだっけ? 誰が出る? …あれ?」

こうして、またひとつ「まあい〜わ案件」の穴にずり落ちていく。

私は、際限なくいい加減になり、世界は把握できないまだら模様に変わっていく。勤め人ならすぐクビだ。でも、勤め人でもなく、書く以外の予定がない私に、天変地異は、起こらない。今日も陽は昇り、沈んでいく。

《できないことはできない》

日常の家事・雑事のすべてを「きっちりやれ」と言われたところで、もうできない。やらなければと思うだけで、疲れる。できないことはできないのだ。

自分がそうなって初めて、親のいい加減さを理解し、疲れた顔で座り込んでいた姿を理解する。若く、健康なときには、ひとかけらもわかっていなかった。健康は、人を残酷にする。

できないことを無理やりやって、「混乱→自滅→自信喪失」ルートにはまるほどアホらしいことはない。自分にできること、できないことを見極めて、できないことに無駄なエネルギーは注がない。手持ちのエネルギーは、限られている。すっぱり諦めたり、人の助けを借りながら、省エネモードで賢くいくのだ。

すっかり老いた親など、すでに省エネモードの達人と化している。

役所から届いた税金や保険の書類もワクチン接種券も「どっか行ったなぁ」と、どこ吹く風だ。

「大丈夫だ。すぐ再発行してくれる」

「…もう、再発行常連者のブラックリストに載ってるよ……」

超高齢者の思考は、非高齢者には理解しがたい時が多々ある。

入退院を繰り返す、晩年の祖父を見舞った時、お粥の上に粉薬を振りかけて食べていた。老後も多趣味で、盆栽を育てたり、釣ったボラを美味しいボラ味噌にして持ってきてくれたあの祖父が…と、喉が詰まった。

でも、あれも祖父なりの工夫だったのだと思う。食後の薬を飲み忘れないためだったのかもしれないし、薬が嫌なので食事として取り込んでしまいたかったのかもしれない。よくわからないが、祖父には祖父なりの考えが、きっとあったのだと、何十年も経った今、思う。自分のやり方と違うからといって、いちいち目くじらを立てる必要などなかった。

とはいえ、今も頭を抱えるのは、実家のものの多さだ。理解できない量の衣類が、タンスから溢れて山を成している。「安い」というだけで、着るあてもない古着を買い続けているらしい。「こんな服、一生着ないでしょ!」とゴミ袋に入れると、「着る!」と言ってゴミ袋から出す。なにを死守しているのかわからなかった。

「私の実家もそうだよ。ものだらけ。実家にあるものの9割は、ゴミだね。戦争を経験した人って、ものがなくて苦労したから、捨てるっていうことが、どうしてもできないんだろうね。必要か必要じゃないかじゃなくて、とにかく溜め込んでさえおけば、安心できるのかも知れないね」

友人の言葉に救われた。子ども時代の戦争体験の影響と仮定すると、ゴミ袋片手に親とバトルを繰り返したことが悔やまれる。

理由なくとる行動なんてないんだ。本人が意識していようといまいと、そうする、どうしてもそうなってしまう理由は、きっとどこかにあるのだろう。

夫の実家では、先日、ひ孫にと電車のおもちゃを出してきた。60年前の夫のおもちゃだ。タイムマシンがあるのかと驚いた。収納場所が多いので、なんでもしまってあるらしい。

運転免許を返納した後も「思い出があるから」と、長年、車を処分しなかった。一軒家は、思い出を無尽蔵に溜め込み、増殖を続ける生き物のようだ。

《断捨離できるか》

「あなたが死んだら、あなたの持ち物は、すべてゴミになる」

最近、目にし、これ以上ない衝撃を受けた言葉だ。なにより、深く納得してしまった。

私の持つどんな大切な宝物も、私以外の人には、価値がない。昔、お祝いでもらって、しまったままの立派な食器だって、何度も使われないままゴミになるのだ。(それは耐え難いと、桐の箱から出して食器棚に入れたが、もったいなくてまだ使えずにいる。)

親からもらった着物も、もう何十年も着ていない。額に入れて飾りたいような美しい柄なのに、売れば二束三文だと聞く。泣きそうになる。

かろうじて体力の残っている今のうちに、持ち物を減らそう! ゴミを残して死ぬわけにはいけない。「断捨離ブーム」には乗らなかったのに、突然、生前整理に目覚めた。

でもそれは、想像よりもはるかに難しい作業だとすぐに気づいた。このたくさんのアルバムをいったいどう処分しろというのか。あちこち線を引いた本だって1冊も手放したくない。子どもが幼稚園の時に作ってくれたブローチだって、中学生の時にくれた首飾りだって、捨てられるわけがない。

結局、老親と一緒なのだ。理屈じゃない。論理的でない。でも、人は、他人にとってゴミでしかない「宝物」に支えられながら生きている。もののなかにある記憶を手放したくないのだ。

記憶さえあれば、ものはいらないんじゃないかと、もう一人の私は考える。でもその「もの」に触れるとき、それを手にしたときの気持ちが蘇る。

病気で記憶が消えていくときでも、ものは、記憶を取り戻すきっかけとなるだろうか?

がんが脳に転移した人を2度見舞ったことがある。

「あなたのことは、覚えていないけど、あなたが持っているその動物の柄の布カバンは、見覚えがある」と言われた。

《家族の顔を忘れるのか》

「認知症は、家族の顔も忘れる」とよくいうが、私は、疑っている。顔認識機能がうまく働くなっていて、「不一致」と、脳が誤って判断している可能性がある。今の顔の記憶は消えていても、30年前の顔ならわかるかも知れない。50年間つけていた結婚指輪は覚えていて、「この指輪をしている人なら私の夫だ」とわかるかも知れない。一人ひとり違うだろうが、家族を忘れるわけではないだろうと想像している。

レビー小体型認知症では、(アルツハイマー病を併発していなければ)記憶障害は軽く、最期まで家族がわかると、介護家族から聞いた。それでも視覚情報の処理に問題が起こるので、時には、別人の顔に見えてしまうこともあるようだ。

反対に、顔は同じなのに中身が別人に入れ替わったと感じる「カプグラ症候群」もレビー小体型認知症では起きやすい。「脳の機能障害によって、感じるはずの親しみの感情を感じられないから、別人と判断する」という解説を読んだ。どんなに不可解に見える症状にも、それを起こしている背景は、必ずある。

私もいつか、自分の子どもの顔を間違えるだろうか。そのときは、「・・だよ」と名前を言って、そっとハグしてもらおう。幼児のころ、いつもそうしてくれたように。私は、きっとうっとりと微笑んで、その幼名を正しく呼ぶだろう。

 

 

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。41歳でうつ病と誤って診断され、治療で悪化していた6年間があった。
多様な脳機能障害のほか、幻覚、嗅覚障害、自律神経症状などもあるが、思考力は保たれ執筆活動を続けている。
『私の脳で起こったこと』(ブックマン社。2015年度日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞受賞)。最新刊『誤作動する脳』(医学書院 シリーズケアをひらく)。