第2回 クレタ島のメネラオス

いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。

サントリーニ島を出た船がクレタ島のイラクリオンに着いたのは、到着予定時刻を90分も過ぎた夕方の5時。港に迎えに来ているはずのメネラオスがまだ待ってくれているか心配だったが、船を降りてほんの数秒で彼を見つけた。「長い時間待っていてくれてありがとう」と固い握手。短い指のひとつひとつに太い皴が刻まれた手。

島の中心地である港町イラクリオンは素通りして、南海岸にあるマタラに滞在することにする。1970年代にジョニ・ミッチェルが滞在していたことで知られる、かつてヒッピーの聖地と呼ばれた町。港からは70㎞ほど離れていて車では2時間以上かかる。そこまで行けば、誰の目も気にせずにのんびり過ごせるだろう。

隣で運転しているメネラオスが豊かな白いひげを触りながら「マタラか…」とつぶやく。「僕らの若き日々、光輝く土地、マタラ…」彼ははるか遠くに視点を定めながらそう言う。あとでわかったことだが、メネラオスはごく個人的な感傷を惜しげもなくさらけ出す。人の顔色を伺って自分の表現を変えようとするような卑屈なところがない。きっと卑屈になるほど複雑な感情生活を送っていないのだ。彼はジョニがマタラにいたのと同じ時期に、若き青年としてその地でヒッピー生活を満喫したらしい。酒とドラッグ、フリーセックス、自由奔放な生活、有機栽培、実存主義……。ヒッピー文化のさまざまなキーワードが浮かぶが、メネラオスはどこまで深入りしていたのだろうか。当時のマタラにはアメリカや西ドイツなどから多くの若者がやってきていたらしいが、メネラオスは生まれも育ちもクレタ島である。

2時間10分かけてマタラに着く。メネラオスに「疲れたんじゃないかい?」と尋ねると、「まさか、マタラに着いたら疲れなんて吹き飛んじゃったよ」と言う。車を降りると「ついてきて」と言うので僕はメネラオスに従う。日の暮れたマタラの町は随分くたびれて見える。メネラオスは「このあたりは変わったな」とつぶやきながら、天啓に導かれるように早足に進んでいく。

彼が目的地に選んだのは、土産屋の通りが尽きたところにあるビーチフロントのバー。店に入ったとたんに独特の甘い香りの煙が漂っていて、ここはもしかしてと思う。メネラオスに言われるままにカウンターに座り、ビールとおつまみを注文する。マタラではすでにヒッピーが歴史化されていて、いまはありふれたリゾート地になっているというガイドをどこかで読んだが、この店は1970年代をそのまま冷凍保存した後に、たったいま解凍してお目見えさせたような雰囲気だ。猥雑で落ち着かないが、いきなりマタラのディープさを目の当たりにした気分になる。

店内では爆音でロックミュージックが流れている。AC/DC、The Doorsと続いたあとにBon JoviのLivin’ On A Prayerが鳴り始めた。Bon Joviは80年代だから少しだけ新しい。店の客がいるスペースはせいぜい6畳くらいしかないのに10人以上の老若男女が他人と体を擦り合わせながらヨロヨロと踊っている。注文したおつまみが目の前のカウンターに置かれると、踊っている若者たちの手が伸びてたちまちに奪い取られる。なんだよこいつらと思うが、その様子を見るメネラオスは何も言わないからこれがこの場所のルールなのだと思ってみる。いや、彼らは単におつまみが食べたいから食べていて、メネラオスも咎めるほどのことではないから咎めないのだろう。空になったおつまみの皿の横にある重々しいビールのジョッキを持ち上げる。さすがにジョッキを奪おうとする輩はいない。

メネラオスには明日も運転を依頼しているので「メネラオスは今晩どこに寝るの?」と尋ねると、「ビーチで寝るよ。うーん、なんてことだ。40年ぶりにマタラのビーチで一晩を過ごすよ。ワクワクする」と少年のように目を輝かせている。いくらヨーロッパの南端にあるクレタ島といえども、9月の夜は冷える。一晩を外で過ごすなんて体壊すよと心配になって、僕が取ってる宿で寝たらいいじゃないと誘うが、「カズ、僕のせっかくの自由を奪わないで! こんなチャンスは二度とないかもしれないんだから」とグシャグシャに笑いながら言う。メネラオスは心の底からビーチで寝たいらしい。いやマジか、信じられない。きっと彼と僕とでは体のつくりが違うんだと思って了解する。じゃあ、また明日の9時に会おうねと言って別れる。

朝起きて宿のベランダに出ると、一面にマタラのビーチが広がって見える。開放的な気持ちよさにふわっと意識が遠のく。ビーチは入り江になっていて、ビーチ奥の崖には洞窟のような穴が無数に開いている。もしかしてメネラオスはどこかあの穴のひとつで寝ているんじゃないかなと想像する。

朝日を浴びながらパンツひとつで『余白の芸術』という本を読んでいたらメネラオスがやってきた。まだ7時50分なんだけど...と思いながら、メネラオスに「眠れたかい?」と尋ねると、「うーん、よく眠れたかは分からないけど自然とひとつになっていた」と言う。彼がついてきてと言うのでシャツを乱雑に羽織ってついて行くと、朝食はここがいいよと宿のすぐそばの小さなレストランに案内してくれる。席に座ると朝早くから泳いでいる人たちの姿が見える。「朝から寒くないかな?」と言うと、「寒くても問題ない。ビーチに寝転がって太陽を浴びれば温かくなるよ」とメネラオスは答える。たしかにビーチにはすでにトドのように横たわる人たちの姿が点々と見える。彼らはサウナで温まった後に冷水浴をするように、日光浴と海水浴を繰り返すらしい。

この日はメネラオスと島の南部を中心に1日いろいろな場所を回った。クレタ島の観光といえばミノス文明などの古代遺跡が有名だが、遺跡にはあまり興味がないので、現役の教会堂や修道院、そして峡谷やビーチに連れていってもらった。圧巻の景観をもつプレヴェリのビーチで泳いだ後に、近くの修道院に向かう。メネラオスに「カズ、君の宗教は何だい?」と尋ねられて「僕はカトリックで、生まれて間もなく幼児洗礼を受けたんだ。自ら選んだわけではない。メネラオスは正教会だよね」と答える。メネラオスは少し間を置いて、「うん、もちろんそうだよ。カズはカトリックか、まあ、同じ神をもつ仲間だね」と言って何か考え込んでいる。

プレヴェリ修道院に着いた。メネラオスは、入口でドネーションを払う僕を尻目に「信者はお金は要らないんだよ」と言いながら我が物顔で敷地内に入っていく。クレタ島の古い修道院はたいていトルコ人たちとの血なまぐさい戦闘の歴史を持っていて、この修道院は崖っぷちの高台に建っているので要塞にも見える。

訛りのある英語を話す女性ガイドが10名程度の団体に向かって話している。「人を殺してはいけない。そんなことは当たり前です。でも、物事はそんなに単純ではないし、原理原則が通用しないこともあります。クレタ島はギリシャ本土と、トルコ、さらにアフリカとほとんど同じ距離の場所に位置しています。だから交易で栄えてきた一方で、苦難の歴史をたくさん持っています。この場所にはその歴史が凝縮されています。」聴衆たちは暑い日ざしを浴びながら彼女の話に聞き入っている。クレタ島は、「原理原則が通用しないこともある」という真理が人々の心に深く織り込まれている土地なのかもしれない。人はときに歓待し、ときに抵抗する。それが生きることの比喩でもある。でも結局のところ、何事もなるようにしかならないのである。これは運命の話だ。

地中海の島々は日本の人たちが想像するほど豊かな土地ではない。クレタ島も例外ではなく、モンスーンの恩恵を受けた湿潤な土地から来た人間から見ると、全てが干からびて見える。大きな河川はひとつもなく、褐色のテラロッサの上にすね毛のようなオリーブの木がこびりついている。しかし、そんな島の中にも豊かな水が湧き出る「泉の村」がある。プレヴェリから20㎞ほど北東の内陸部にある村スピリにはプラタヌスの大きな木が2本生えた広場があり、そこにはケファロフリシという泉があって、25頭並んだライオンの口から冷たい水が流れ出る。メネラオスはライオンに身を捧げるかのように全身をかがめて、頭部全体にビシャビシャと冷水を浴びせ始める。彼は人目を気にするということを知らない。僕もメネラオスの真似をして頭から冷水をざぶっとかぶる。ああ、気持ちがいい。人目を気にしないところに特別な快感がある。ここの泉の水温は年じゅう13度に保たれているらしく、浴びた後には頭がキンキンした。

広場にあるタヴェルナに入って、真っ赤なザクロのフレッシュジュースを飲む。プラタヌスの木陰に守られてとても涼しい。メネラオスに「プラタヌスといえばプラトンだね」と言うと、だから何だという顔をされる。「ランチは食べなくていいの?」と尋ねると、「うーん」といかにも嘆かわしいという顔をした後に「空腹になったら食べて、眠くなったら寝たらいいんだよ」と言う。きっと規則正しい生活というのは、定時に仕事をしなければならない人たちにとっての知恵なのだ。彼は規則正しい生活よりも、身体に生活を委ねることを大切にしている。きっと彼だけでなくこの島に住む多くの人たちも。彼らにとって、食事を名付けることに意味はないし、定時に食事をとる必要もない。

「カズ、ポメグラネート(ザクロ)といえば子宝の象徴だよ。君は子どもはいるのかい?」 またその質問か──海外で旅をしていると、必ずといってもいいほど尋ねられる質問だ──と面倒くさく感じながら「いないよ」と答える。メネラオスは「なんてこと…」と顔をしわくちゃにしながら僕の両手を彼の両手で包み込む。まさか子どもがいないことはそんなに悲劇的なことなのだろうか。「何年前に結婚したの?」「もう20年近く前」「そうか…、君の妻は何歳?」「僕の2つ下」「そうか、諦めずに祈ろう……、あなた方が子を授かりますように、アミン(アーメン)」メネラオスは僕の両手をぎゅっと握りしめる。僕の手には力が入らない。彼の顔は紅潮していて、泣き出しそうになっている。

僕は顔面の5センチ前方で涙ぐむメネラオスに違和感を覚えながら、さすがここはギリシャだと思った。彼らはきっと結婚は子づくりのためにあると信じ切っているのだ[1]。子どもがいなければ、男として恥ずかしいとさえ思っているのかもしれない[2]。いや、もっとシンプルに、子どもがいない人生は寂しいと考えてそれを嘆いているだけかもしれないが。それでも、この確信めいた嘆きはきっと歴史的な裏打ちがなくては生じないはずだ。嘆きはこの土地を這っている。でも、もし僕にとって結婚というのがひどい病気のときに必要とされる投薬を意味していたとしたらどうする。子どもがいないことがそのまま愛の選択であったとしたらどうする。そしたらあなたはその嘆きをどこに仕舞ってくれるのか。

その後訪れたある教会は、海岸線から10㎞以上離れているのに地下から塩水が出るという話だった。地下水を飲ませてもらったが塩味が感じられずに要領を得ない顔をしていたら、メネラオスに「塩の味がするだろ!」とすごまれて、僕は仕方なく「そうだね」と答えた。その塩水は Holy Water (聖水)として名高いそうで、「この水をパンといっしょに毎日少しずつ口に含むといい」と神妙な顔をしたメネラオスから容器に入った聖水とパンを手渡された。

メネラオスは日本人女性のアキコさんと結婚していて日本びいきである。(ちなみにメネラオスはアキコさんに紹介してもらった。)若いころには全く信仰心がなかった彼を180度変えたのには、彼とアキコさんが人生で出くわした壮絶な経験が背景にあった。また、彼にとって子どもがなぜそれほどに大切な存在かということも、その経験を通して醸成された深い確信だということが分かった。彼は涙をボロボロこぼしながらそのときの辛い記憶を話した。その詳細はここには書けない。とにかく僕たちはそのとき夕日を浴びて、南海岸の絶壁の上に座っていた。彼の涙も夕日色に染まっていた。「空が少しだけ白いね」と僕が言うと、「サハラの砂が飛んできているんだよ、アフリカは目と鼻の先だからね」と彼は答えた。僕はいまサハラの砂を浴びながらメネラオスの人生の切れ端を貪っている。旅をしていると思った。その日、宿に戻ったのは予定より4時間も遅い21時ごろ。12時間もいっしょに島を周ったことになる。ひとりの人間の素朴な情熱に長い時間触れるというのは、それだけで代えがたい経験だ。メネラオスと全部が通じ合うことはないけど、でも僕は彼のことが好きだ。

その後の数日はマタラで無目的な時間を過ごした。最終日はジャニスも通っていたというレッドビーチまで歩いて、“BEST MOJITO OF THE WORLD — JANNIS”と書かれたピンク色の看板に惹かれて、ビーチハウスでモヒートを2杯飲んだ。たった2杯なのに泥酔して、白髪のおじさんに介抱されながら宿に戻ったようだ。粘つくサンオイルのにおいと体の上を転がる砂の不快感で目を覚ましたときには、全裸でベッドに寝ていて頭が重かった。急に思い立って財布の中身を確認したが、何の異常もなかった。時計は朝の8時を示していて、もう一度メネラオスが迎えに来てくれるまであと1時間だった。それなのに、僕はいま激しくお腹を壊している。

ベランダに出る。最終日も変わらず雲ひとつない空だ。この変わらない青空がきっと住む人たちの思考をシンプルにしている。時間通りにやってきたメネラオスに、この数日のことを話した。そして昨日の失敗について、つまり、泥酔したこと、ドイツ語をしゃべるおじさんに介抱してもらったこと、いつの間にか全裸だったこと、さらに、昨日の昼間に大量のムール貝を食べたせいかひどい腹痛であることを話した。「この島はどこで全裸になってもいいんだから、気にすることはない」「この島の住民はムール貝なんて食べないよ。こんな温暖なところで気取ったものを食べるものじゃない。変なものを食わされたね。」そうやってメネラオスはひとつひとつに熱っぽく反応した。

14時の飛行機まで少しだけ時間があったので、スーパーでトマトとチーズ、パスタ麺を買って、イクラリオンの丘の上にあるメネラオスの自宅に立ち寄った。部屋が10以上あって、広い庭にはオリーブやたくさんの野菜が育っている。アキコさんはいま日本にいるらしい。「今度来るときにはここに何か月だって泊っていいよ」と愉快そうに言う。食卓に着いて10分も経たないうちに、3種類のブドウ、オリーブオイルに浸かったフェタチーズ、肉料理、そしてトマトやピーマンなど5種類の野菜が入ったグリークサラダ、さらにシンプルなトマトベースのパスタが並ぶ。魔法みたいな早業だ。そして魔法の国のご飯はほんとうに美味しい。「美味しい、美味しい」と言いながら食べるので、メネラオスはこれもあれも食べてと次々に勧めてくる。「美味しい、美味しい」と言いながら、母がつくったぼたもちを食べすぎた幼年時代を思い出した。

食事が終わるとメネラオスが自宅の奥から物騒なものを持ち出してきた。長さ1m近くはあると思われる銃。実物を見るのが初めてでよくわからないが散弾銃だろうか。メネラオスは手慣れたようすで彼の親指より太いスラグ弾を装填して庭に向かって「ドーンッ」と弾を撃つ。十数メートル離れたところにあった標的の空き缶が激しく飛び跳ねる。驚いた鳥たちが一斉に飛んでいく。メネラオスは、「ほら、カズもやってみて。でもアキコには言わないでね、怒られるから」と言う。僕は、「いや、やらないよ」と申し出を拒む。でも、メネラオスは「ほら、やってみるんだよ」と強引に銃を持たせようとする。仕方がないので恐る恐る銃を握る。幼い頃にプールの飛び込みを無理にやらされたときの感覚を思い出す。銃はずっしりとした重みがある。そして底知れぬ恐怖を感じる。これで人が死ぬんだから。

意を決して弾を撃つ。反動で左手が跳ねて、弾は標的のはるか上方を飛んでいく。「さあ、もう1回やるんだよ」メネラオスに言われてもう一度銃を握りしめ、弾を撃つ。今度は標的のゴムのバケツに命中して、バケツのまん中に大きな穴が空いた。こんなに簡単に命中するなんて怖ろしい。僕はこれで人を殺せる。銃を降ろした後も体が震えていた。空中が痙攣してその波動をそのまま受けたのだ。波が穏やかになるのを待つ。

ギリシャでの銃所持は許可制で、クレタ島は歴史的な政治不安や自衛組織の発達といった理由から国内では突出して銃所持率が高いそうだ。島民の2人に1人は銃を持っているという統計さえある[3]。古代ギリシャ・ローマにおいて世界の中心と捉えられていたこの島は、歴史の波に大いに翻弄された後、いまは西ヨーロッパで最も貧しいとされる国ギリシャの片田舎という位置に甘んじている。その生活感情はとてもシンプルで、だから土地に根づいた怒りもシンプルなままに可視化されている。

帰りはイクラリオン空港での別れだった。メネラオスが「これは大切なことだから、最後にカズに言いたい」と言う。「僕はカズのことがすごく気に入ったよ。心を通わせていい友達になった。でも、カズはひとつだけ直したほうがいいところがある。君はマジメだから、いつも肩に力が入っている。そうだろ、もっと自由な魂で生きたらいいんだよ。そんなにいつも冷静でなくていい。このクレタという場所では、もっともっと羽目を外したらよかったんだよ。」そう僕の肩を揺らしながら言うメネラオスの目は涙でにじんでいた。「もし失礼なことを言っていたらごめん」と言うので、「いや、僕にはメネラオスが言いたいことがわかる。でも、羽目を外すというのは僕にとって修行みたいなもので、このクレタでも自分なりに精いっぱい試みたんだよ」と答える。最後に熱いハグ。これからも人生のダンスは続いていくのだ。

 

クレタ島の乾燥した大地とオリーブ畑 フェストス

[1] ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅳ 肉の告白 Les aveux de la chair』(新潮社)のギリシャ文化に関する叙述(2章)より。
[2] クレタ島を舞台にした映画、マイケル・カコヤニス監督『その男ゾルバ』(1964年)における主人公の台詞を参照。
[3] ジャン・テュラール著『クレタ島』(白水社)の訳者あとがき(幸田礼雅)より。

 

1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業。現在は株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)、『「推し」の文化論』(晶文社)など。連載に「ぼくらはこうして大人になった」(だいわblog)、「こども歳時記」「それがやさしさじゃ困る」(西日本新聞)など。朝日新聞EduA相談員。