池江選手の苦悩と「きれいな主語」争奪戦の憂鬱

燃えるリプ欄、ざわつくトレンド、闇鍋を煮詰めたタイムライン……。「いいね!」じゃなくて「どうでもいいね!」こそが、窒息寸前社会を救う? サブカルチャーを追い続けてきたジャーナリストによるネット時評。

《オリンピックについて、良いメッセージもあれば、正直、今日は非常に心を痛めたメッセージもありました。この暗い世の中をいち早く変えたい、そんな気持ちは皆さんと同じように強く持っています。ですが、それを選手個人に当てるのはとても苦しいです》

東京五輪の代表に選ばれた、競泳・池江璃花子選手のツイートが波紋を呼んでいる。彼女のInstagramやTwitterアカウント宛に、五輪開催に反対する人たちから「辞退してほしい」「反対の声をあげてほしい」といったコメントが寄せられたというのだ。

《コロナ禍でオリンピックの中止を求める声が多いことは仕方なく、当然の事だと思っています。私も、他の選手もきっとオリンピックがあってもなくても、決まったことは受け入れ、やるならもちろん全力で、ないなら次に向けて、頑張るだけだと思っています》

池江選手は複雑な胸中を明かしつつ、《私に反対の声を求めても、私は何も変えることができません》と綴っている。

五輪反対の声をあげること自体は何の問題もない。新型コロナウイルスの収束が見通せない状況で開催強行へと突き進む政府の姿勢には、私も強い疑問を抱いている。だが、その思いを選手個人にぶつけ、辞退や反対を要求するのは完全にお門違いだ。

白血病との闘病を経て五輪の切符をつかんだ池江選手の活躍は、「奇跡の復活」とメディアで大々的に報じられ、五輪開催を危ぶむ世論も幾分やわらいだ感がある。スター選手としての影響力は大きく、「何も変えることができない」は謙遜が過ぎるとも思うが、そうだとしても、いち選手に五輪開催/中止の責任を背負わせ、踏み絵を迫るようなやり方は残酷だろう。

通の工作? あふれる謀論

池江選手が冒頭のツイートを投稿した5月7日以降、Twitterでは賛否の意見がさらに活発にかわされるようになっていく。

東京大学大学院工学系研究科の鳥海不二夫教授がYahoo!ニュース個人で発表した分析記事によると、5月7〜9日に池江選手に対して2回以上リプライを送った461アカウントの投稿のうち、約58.3%が彼女を応援し、約23.7%が五輪の辞退を要請する内容だった。

461アカウントの6.5%が誹謗中傷に近いようなツイートをしており、なかには「アスリート失格」「辞退しなかったら罪は重い」「利己的」「バカ」「自分のことしか考えていない」「電通に使われている」など強い非難の言葉もあったという。

電通といえば、池江選手のTwitterでの発信から数十分と経たずにスポーツ紙やネットメディアが速報したことで、「はい電通案件」「仕込みだろこれ」といった主張があふれ返ったのには驚かされた。

《池江、電通とマスメディア各社が示し合わせて

プロに文章を書かせて

池江ツイート 9時頃

メディア報道 9時半以降

と予め決めて、よーいドン》

ネット掲示板「5ちゃんねる」の投稿の一つだ。メディア各社は数分単位の速報を競っており、著名人や芸能人、政治家などのツイートが瞬く間に記事化されることは、決して珍しいことではない。単なる「こたつ記事」も、陰謀論者の手にかかると「電通の工作」「プロパガンダ」に仕立て上げられてしまうらしい。

江の威を借るベラルと保守

池江選手に辞退を求めるツイートをしているのは、一体どんな人たちなのか? 鳥海教授は前出の記事のなかで、次のように指摘している。

《気になったのが、辞退を求めるツイートを拡散しているアカウントの80%近くが過去のツイートから「リベラル系」とラベリングされていたアカウントだった点です。そして、その拡散されたツイートの中には誹謗中傷に近いのではないか?と思えるようなツイートも含まれていた点を非常に残念に思います》(※)

(Yahoo!ニュース個人「池江璃花子選手への五輪出場辞退要請は誰が行っているのか」)

左が左なら、右も右だ。日本オリンピック委員会(JOC)前会長の竹田恒和氏を父に持つ保守派の政治評論家、竹田恒泰氏は「人々の夢と希望をつなぐため、東京五輪の開催を支持します」と題したオンライン署名をスタート。

《5月7日に、SNSで池江璃花子選手に「五輪中止」や「反対」の声を上げるべき、との書き込みが溢れたことを知り、五輪開催賛成の署名をすることを決めた次第です》と池江選手を引き合いに、五輪賛成論を訴えた(のちに池江選手に関する記述は削除)。

結局のところ、反対派も賛成派も池江選手という輝かしい存在を祭り上げ、自分の陣営に引き入れたいだけのように見える。錦の御旗を求めて、左右両陣営が池江選手の両腕を引っ張り合っている様子が目に浮かぶようだ。

「私は賛成」「私は反対」とだけ言えばいいものを、なぜ「池江選手は」と言いたがるのだろう?

きな主語」と「れいな主語」

ネットでは「大きな主語」がしばしば問題視される。個人の感想を一般化して「世間」や「社会」の声にすり替えてみたり、ごく例外的な事象を「男は」「女は」「日本は」などと、あたかも集団全体のものとして十把一絡げに批判したりする振る舞いを指す。

そして主語デカ問題は、今に始まったものではない。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

太宰治は『人間失格』(1948年)でこう喝破した。久米田康治の漫画『さよなら絶望先生』(2008年、第15集)にも、以下のようなセリフが登場する。

《一人しかいないのに「私たち都民は・・・・・・断固反対するー」とか!

全員に聞いたわけでもないのに「我々・・都民は我慢の限界」とか!

自分の意見をみんなの意見のように言う主語のデカい人!》

こうした「大きな主語」と同根だと思うのが、池江選手のツイートをめぐって浮き彫りになった「きれいな主語」問題だ。

五輪の賛成派と反対派が、池江選手の威を借りて「きれいな主語」を奪い合い、自説の正当性を高めようと躍起になっている。見苦しい争奪戦には、心底うんざりさせられる。

どんなにちっぽけでも、不格好でも、薄汚れていても、「僕が」「私が」と自分の主語で勝負すべきではないのか。きれいな主語や大きな主語にすがって論争に勝ったとしても、肝心の自分が空っぽでは本末転倒だろう。

先接種の和感

変異ウイルスの猛威で医療機関が逼迫し、当初5月11日までの「短期決戦」とされた緊急事態宣言はあえなく延長された。ワクチン接種も遅々として進まず、一度でも接種した人の割合は5月16日時点で3.2%。54.4 %の英国や47.1%の米国はもとより、7.2%の韓国にも大きく水をあけられている。

未曾有の国難もどこ吹く風。五輪だけは特別とばかりに、大会組織委員会はスポーツドクターとして医師約200人を募集、日本看護協会にも看護師500人の派遣を要請している。ワクチンの接種率が低迷する要因として、「打ち手」である医療従事者の不足が叫ばれているにもかかわらず、だ。

そのうえ、代表選手たちにはワクチンが優先接種される見通しとなっている。国際オリンピック委員会(IOC)が各国の選手団に提供するもので、JOCの山下泰裕会長は「(製薬会社が)世界各国に提供する物とは別枠」と強調するが、当の選手からも疑問の声があがっている。

陸上女子1万メートル代表の新谷仁美選手は、5月8日記者会見で「アスリートが特別というような形で聞こえてしまっているのが非常に残念。命の大きい、小さいはないので、五輪選手だけが優先されるのはおかしな話だと思う」と述べた。

入院できずに自宅療養を強いられた人や、ワクチンが間に合わずに家族を亡くした人が、果たして素直な気持ちで五輪や出場選手を応援できるものだろうか。優先接種は、選手と国民の間に無用な亀裂を生じさせかねない。

ダリストが説く「会ファースト」

ここで紹介したいのが、1992年のバルセロナ五輪で銀メダル、1996年のアトランタ五輪で銅メダルを獲得した、元マラソン選手の有森裕子の言葉だ。

有森は2018年のインタビューで《「アスリートファースト」という言葉を盾に、関係者が自らのエゴを押し通そうとしていると感じることが少なくありません》と吐露している。

《どんなに優れたアスリートであっても、社会という集合体の中の1人の構成員にすぎず、オリンピックも社会で生きるための1つの手段にすぎません》

《私は、東京オリンピックを含むすべてのスポーツイベントは「アスリートファースト」ではなく、「社会ファースト」であるべきだと思っています》

(2018年10月『日経Gooday』)

コロナ禍など影も形もなかった2年半前の段階で、「社会ファースト」を呼びかけていた慧眼に唸らされる。今月の記事だと言われても何の違和感もないぐらい、予言的な内容だ。我々は今こそ有森のこの言葉を噛みしめて……あっ。

僕の主語を知りませんか?


※鳥海教授の記事によれば、オリンピック出場辞退を求めるアカウントにはリベラル系が多いものの、リベラル系アカウント群全体からすると「ごく一部(0.35%)」とのこと。

1983年、埼玉県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、2005年に朝日新聞社入社。文化くらし報道部やデジタル編集部で記者をつとめ、2015年にダンス営業規制問題を追った『ルポ風営法改正 踊れる国のつくりかた』(河出書房新社)を上梓。2017年にオンラインメディアへ。関心領域はサブカルチャー、ネット関連、映画など。取材活動のかたわら、ABEMA「ABEMAヒルズ」やTOKYO FM 「ONE MORNING」 、NHKラジオ「三宅民夫のマイあさ!」にコメンテーターとして出演中。