第2回 手に届きそうな三日月が空に浮かんでいる──Ry Cooder “Paradise and Lunch”

黒人神学の碩学、ジェイムズ・H・コーンの下で学んだ日々を綴ったエッセイ集『それで君の声はどこにあるんだ?』で注目を集める著者。神学を学び、自分のVOICEを探す日々の裏で、彼の心の支えとなった音楽があった。ブルーズ、ジャズ、ロック、ソウル……いまも著者が保持する愛着の深い音盤群について語る、ファンキーな連載エッセイ。君の聴きたい声はここにある?

ヴァイナル化されれば、もしそれで1日、2日の空腹を我慢せねばならなくなったとしても、迷わず買ってしまうだろうCD時代のアルバムはいくつかある。その中でも、私が一際ヴァイナル化を心待ちにするのは、ライ・クーダーのMy Name is Buddy(2007)というアルバムだ。放浪の赤猫バディを主人公に、大恐慌時代のアメリカを描いたコンセプトアルバム。バディとともに旅をするのは、筋金入りの労働組合員のネズミに、盲目でゴスペルを歌うヒキガエル牧師――クー・クラックス・クランに家を追われたという――と、ガーディアンのティム・アダムスによると「極めて突飛な3匹」となる。この3匹でレコーディングされたという設定のこのアルバムは、深刻なテーマとは裏腹に、カントリーミュージックを基調としたご機嫌なナンバーが並んでいる。

My Name is Buddyを知ったのは、まだ日本にいた頃、細野晴臣の深夜のラジオがきっかけだった。と言っても、深夜遅くにラジオに齧り付いていたわけではない。深夜のラジオに憧れて、何度か試みたこともあったけれど、細野さんのボソボソとした声を夜深くに聞いていると、どうも抗い難い眠気が襲ってくる。気づいた時には、エンディングのThe Song is Endedが夢のような旋律を奏でていて、私はしまったと思いながら、同じ曲に見送られて自分の夢の中に戻る。寝不足にめっぽう弱く、甲斐性のない私は、ラジオをリアルタイムで聴くことは早々に諦めてしまって、録音で彼のラジオを聴くようになった。まったく優等生からは程遠い、不出来なリスナーであることをここに告白しておこう 。

ある時そのラジオで、ライ・クーダーのアルバムが紹介された。今調べてみると2007年3月19日の放送とある。もちろんそれを聴いたのは、それから少しあとのこと。久しぶりの新譜ということで、細野さんの声はいつもより弾んでいた。その声色だけで、このライ・クーダーという音楽家は並の人物ではないなと勝手に直感した私は、真っ昼間に流れる深夜のラジオに耳をそばだてた。

そこで紹介されたのは、Suitcase in My Handというアルバムの冒頭を飾る曲だった。この曲が抜群に好みだった。カントリーといえばカントリーなのだけれど、単純な懐古趣味ではないタイトで洗練された演奏は、どこかに過剰を含んでいて、それが安易なジャンルづけを拒んでいた。後から彼の特異な音楽変遷を学んだ私は、その過剰の正体を、例えば偏屈な国家主義の対極に位置する越境性や雑多性、ブルーズ的精神、辺境への眼差しといった言葉とともにひとまず理解するのだが、初めてライ・クーダーの音楽を経験したあの時の私は、ただただその曲に圧倒され、そして夢中になった。これが、少しばかり遅い――その後、子どもの頃に父が見せてくれたブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのドキュメンタリーを思い出し、あの時の!となったのだが――、私のライ・クーダー体験の始まりだった。

ライ・クーダーのレコードは、2014年にアメリカに来て以来、そして特にノースカロライナに引っ越してから、ちょこちょこと買い集めてきた。FDR In Trinidadという私の大好きな曲が入っているInto the Purple Valley(1972年)や初期の名作Boomer’s Story、クーダー流に戦前のアメリカン・ジャズと取り組んだJazz(1978年)、沖縄の香りが嬉しいBorderline(1980年)などは、地元のレコード屋で――あのカーボロのレコード屋だ――1ドルや2ドルで投げ売られていて、集めるのは難しくなかった。もちろん値段相応にジャケットにレコード型のリング焼けができていたり、落書きがあったり、レコード盤に傷が入っていたりと、たった今まで鬱々とした倉庫の中で眠っていたみたいに、状態は散々なものがほとんどだった。それでも中には比較的綺麗なものもあって、少々の傷や汚れはこれがレコードの醍醐味なのだからと強がって、掘り出し物を見つけては自分のコレクションに加えていくのが楽しみだった。

もちろん地元の小さな中古レコード屋では見つからない人気の高い作品もいくつかあったし、今でも見つけられていないライ・クーダーのアルバムがある。それらはその土地々々のレコード屋を訪れるたびに、別に血眼になって探すわけではないけれど、パタパタとレコードの束をめくっていく時に探し出せるくらいには、頭の片隅に留めておく。

1974年のParadise and Lunchという名盤は、そうやって手に入れた。2018年6月8日だった。なぜ日にちまで正確に覚えているかというと、その日はライ・クーダーのコンサートが、マンハッタンのタイムズスクエアからすぐのタウン・ホールで開かれることになっていて、それに合わせてノースカロライナからニューヨークに飛んだからだ。コンサートのためだけに旅行をしたのは、後にも先にもあの時だけ。それくらいライ・クーダーは自分の目で見れるうちに、見ておかなければと思った。

ニューアーク国際空港からニュージャージートランジットでペンステーションまで移動して、昼過ぎ。コンサートは夜8時からで、時間はたっぷりある。何をしようか。もちろん目的地は決まっている。レコード屋だ――いや、正直に書くと道すがら、ラーメンを一杯啜ったのだけれど。

目的のレコード屋は、イーストヴィレッジにあった。かつてチャーリー・パーカーが住んでいた家は、公園を挟んですぐ近く。1965年、マルコムX暗殺を機にハーレムに移るまで、イーストヴィレッジに拠点のあった詩人のアミリ・バラカが、モンクやコルトレーン、セシル・テイラーのライブに毎晩のように通ったのも、このあたり。そういえば、Bang Bang Outishlyというバラカがモンクに捧げた詩があった。もちろん、そんな歴史は過去に退いて、曇り空の下、私は小綺麗な街を辿っている。

レンガ造りのアパートメントが並ぶ先に、そのレコード屋はあった。店から突き出たオーニングに、店名が大きく記されている。中央の入口の左右には、簡易の長テーブルが一つずつ置いてあって、その上のコンテナにレコードがぎっしりとつまっている。きっとジャンク品に違いない。中を覗きたい誘惑に駆られたけれども、ここはいつでも来ることができるような普段使いのレコード屋ではない。きっともうしばらく来ることはないだろうし、それどころかこれっきりになる可能性だって高い。それならばジャンクレコードにかまけてなんかいないで、とっておきの一枚を見つけよう。そう判断して私は、コンテナ内のレコードをやり過ごし、店内に入った。まったく、「せっかくだから」とか「今日は特別だから」とかいう言い訳じみた、しかしそれにしては少しばかり説得力を備えた感情は、どこからやってくるのだろう。

入ってすぐ右、レコードが山と積まれたカウンター奥にドスンと構える、少し強面の髭を蓄えたおじさんに会釈して、細長い店内を見渡す。暖かいオレンジの色をした店の中には、チラホラと多様な人の姿があって、皆、背中を丸め、俯き加減にレコードをパタパタとやっている。普段なら、新入荷のレコード棚から見ていくところだが、ここは初めてのレコード店。新入荷も、そうでない商品も、一見さんの私にはあまり関係がない。それならば順当に、ロック・ポップスの棚から順番に見ていこう。

A... B...そしてCまで来た時、チラリと見えたのはCooderという名札の向こうにある黄色のジャケットだった。まさか!と思って、レコードを引き出してみると、それは、紛れもなく、Paradise and Lunch。私は小躍りしたいような気持ちだった。値段は、確か25ドルくらいで、普段なら躊躇してしまうような価格だったのだが、そこはいつもの「これを逃したら」という気持ちがモクモクと湧いてきて、私はカーボーイハット姿のライ・クーダーを脇に抱えて、カウンターに向かった。強面のおじさんが、レジに置かれたParadise and Lunchを見て、いいアルバムを見つけたなと微笑んでくれたように覚えているのは、私の記憶違いだろうか。実際は、無愛想に聞かれただけだったかもしれない。袋は? いる? いらない? あっ、お願いします。

レコード屋滞在が予想よりも短くなった私は、夜のコンサートまでの間、妻へのお土産のベーグルを買ったり、コーヒーを飲んだりして、ニューヨークの街をぶらぶらと彷徨った。

コンサートは無事終わり、その夜泊めてもらったのは、K君という友人の部屋だった。コンサートが期待外れだったというわけではもちろんなく――当時、最新作だったThe Prodigal Sonからの曲を中心に組まれた一生物のライブだった――、だけどあの日のことを思い出そうとすると、K君の優しく、でも隠しきれない傷つきやすさと寂しさを含んだ顔が、どうしてか浮かんできてしまう。人類学者のマルク・オジェが書いたように、記憶し、忘れるとは、ガーデニングをするようなことなのだろう。記憶とは植物で、何かを覚えるために、何かを剪定しなければならない。

彼は、私がニューヨークに住んでいた頃、教会で知り合った。まだ20歳くらいの長髪の日系青年だった。スタンダップコメディをやると言って、故郷の西海岸から、専門学校を辞めて半ば家出同然にマンハッタンにやってきた彼は、ホームレスのシェルターで暮らしていたところ、彼の身を案じた日本人の母親の伝手で、教会に通うようになった。私はその教会で働いていて、まるで弟みたいなK君と、自然と仲良くなったのだ。

彼は、その年齢特有の危なっかしさを備えていて、同時に、彼が属していたであろう容赦のないニューヨークの社会にあっては、少しばかり素直で純粋すぎるようなところがあったので、周りの人々をよく心配させた。どこかのスーパーでアルバイトを見つけてきた時も、嫌な上司にいびられたとかですぐに辞めて、数ヶ月、行方知れずになった。それから何事もなかったかのように再び教会に現れて、よくよく聞いてみるとシェルターにいたという。そこでわずかな所持品と現金を盗まれた彼は、教会の他に行くあてがなかったのだ。ある時は大家と揉め事を起こし、部屋を失い、それからしばらく教会の会堂裏の小さな荷物部屋で寝泊まりしていた。そしてまたフラッといなくなり、今後は、スケートボードで転んだとかで、顔と腕に大きな傷をつけて教会に戻ってくる。そんなことがある度に、私は心の中で、きっと西海岸に戻った方がK君にとっても、彼の母親にとってもいいのだろうと思うのだが、彼が決して話そうとはしなかった、その瞳の奥に見え隠れする孤独の正体を想像すると、簡単なことは言えず、きっとマンハッタンの街で気の済むまで彼のやりたいことをやるべきなのだと思い直すのだった。

ライブの後、チャイナタウン付近の地下鉄の駅でK君と合流した。半年ぶりに会うK君は、文字通り困っていた。よう、空。鍵なくて困ってる最中なんだよ。K君は、ダボっとしたズボンのポケットを弄っている。彼の母語はカリフォルニア英語で、日本語は少しぎこちない。でもそれは、K君曰くGoogle翻訳みたいな私の英語よりは格段に会話になったから、私たちの会話はほとんどが日本語だった。それは困ったね。どこでなくしたか覚えてないの? 覚えてない。そう言いながらも、K君は眉間に皺を寄せて、うーんと唸っている。K君が全然変わっていないことに、私は少し安心する。歩きながら考えたら?そう提案して、私たちは彼のアパートへと向かった。

アパートは、チャイナタウンの外れにあった。細い建物の黒いドア一面に、カラフルなスプレーで大雑把な落書きがしてある。結局、鍵は見つからなかった。しばらくドアの前で待って、偶然やってきたアパートの住人と一緒に中に入れてもらう。薄暗いホールに、汗や尿の匂いの染み付いた階段があって、2階まで上がる。ふとんガチないかも。トイレの鏡もない。大家のおばはんマジウザい。階段を登りながら、K君は歌うようにしゃべっている。

K君の部屋は、簡易ベットがぽつんと置かれた、窓のない狭い部屋だった。床には、行き場を失った鞄や服や靴が散乱していて、ザラザラとした砂利の感触がする。同じ部屋の奥からは、ラテン系の英語で、ルームメイトの大きな声が聞こえる。ごゆっくり。K君は、そう言ってバスタオルを差し出してくれた。

K君は、この部屋でどうやって息をするんだろうか。四方を壁に囲まれた、ボールドウィンの言葉を借りるなら「閉所恐怖症的な」部屋で、私は思った。それともここは、彼がその奮闘の末、ようやく手に入れた安息の地なのだろうか。染み付いた天井を見上げながら、ここではないどこかの故郷を想像してしまわないだろうか。それとも、そんなことなど思う間も無く、疲れた身体を引きずって、彼はこの薄いマットの上で眠るのだろうか。

それから私たちは、屋上へと上がった。マンハッタンの夜景がまるで自分のもののように広がっていて、手に届きそうな三日月が空には浮かんでいる。いいでしょ、ここ、秘密の場所。K君は得意げだ。うん、綺麗だね。あれはエンパイアステートビルディング? そうして私たちは、いろいろな話をした。K君が姪のように思ってくれていた私の娘のこと。いつもK君に嫌な仕事を押し付ける同僚の愚痴。さっき見たライ・クーダーのコンサートのこと。K君が最近凝っている筋トレのこと。

スタンダップコメディはやってるの? あんまり、とK君は短く言って、スマートフォンに録画された彼のパフォーマンスを見せてくれた。人のまばらな小さいカフェで、K君が懸命に、何か話している。それが面白いのかどうか、私には判断がつかない。もうカリフォルニアに帰ろうと思ってるんだよ。携帯を見つめる私に、K君はつぶやく。へえ、いつ? お母さんは喜ぶだろうね。私は驚いて、言う。母ちゃんは、まあ、いいよ。K君は照れたように答えた。

K君の決断が、私には羨ましかった。結局、根もなくいろんな土地をフラフラとしていた私は、K君をどこか近くに感じていたのだろう。しかし、K君はこうして一つの人生の区切りをつけて、従って彼にとって決着をつけねばならぬ何かに決着をつけて、前に進もうとしている。一方の私は、未だグズグズと、決定的な決断からただ逃げているだけのようだった。

K君は、その夏、西海岸へと帰った。

思い出すままに書いていたら、ライ・クーダーからは随分遠いところへきてしまった。いや、案外、そういうわけでもないのかも知れない。寄るべない時は、彼の歌声に耳を澄ますに限るから。

私がまだ子猫だったころ、父さんが言った。息子よ
一つだけ覚えておきなさい
この世界を当てもなく歩き、そしてまた歩き回る時は
この小さなスーツケースを持って行きなさい
太陽が落ちて、歩き疲れた時は、
このスーツケースを地面に置いて、その中に入ればいい
そうすれば寒い夜の冷たい風も心配しなくていいから
このスーツケースがあれば

 Ry Cooder, Suitcase in My Hand

 

榎本空(えのもと・そら)
1988年、滋賀県生まれ。沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程修了。台湾・長栄大学留学中、C・S・ソンに師事。米・ユニオン神学校S. T. M 修了。現在、ノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士課程に在籍し、伊江島の土地闘争とその記憶について研究している。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店)、翻訳書にジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど――黒人神学と私』(新教出版社)がある。