scrap book スクラップとは、断片、かけら、そして新聞や雑誌の切り抜きのこと。われらが植草甚一さんも、自分の好きなものを集めて、膨大なスクラップ・ブックを作っていた。ここでは、著者の連載から、対談、編集者の雑文など、本になる前の、言葉の数々をスクラップしていこうと思います。(編集部)

II-6 「被害者意識の文化」と「マイクロアグレッション」

いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る論考、そのシーズン2の開始です。  

前回の記事では、昨今の学問や言論の世界では「危害」と見なされる行為や主張の範囲が拡がっている、という問題に触れた。

これまでは危険だとされていなかった物事に危害を見出すための概念や考え方はさまざまに登場しているが、この潮流をとくに象徴するのが「マイクロアグレッション」理論である。

危害の範囲が拡大されると、「個人の自由は、他人に危害を与えない範囲内において最大限に認められるべきだ」というジョン・スチュアート・ミルの「危害原則」は形骸化し、わたしたちの自由は不合理なまでに制限されてしまう。しかし、もたらされる問題はそれだけではない。些細な言葉や振る舞いまでもが「危害」と定義されるようになると、人々の目には危険が誇張されて映り、自分や他人のことをすぐに傷つけられる脆弱な存在だと見なすようになる。すると、わたしたちは自分の生きる世界をネガティブに捉えるようになり、他人と関わることを恐れるようになるのだ。

本稿では、「マイクロアグレッション」理論について批判的に分析しながら、「被害者意識の文化」とも呼ばれる昨今の風潮の問題点について検討しよう。

マイクロアグレッション理論とは?

マイクロアグレッションは1970年代にアフリカ系アメリカ人の精神科医であるチェスター・ピアスという学者によって提唱されて、2000年代にアジア系アメリカ人の臨床心理学者であるデラルド・ウィン・スーが有名にした概念だ。スーによる定義は下記の通りである。

マイクロアグレッションというのは、ありふれた日常の中にある、ちょっとした言葉や行動や状況であり、意図の有無にかかわらず、特定の人や集団を標的とし、人種、ジェンダー、性的指向、宗教を軽視したり侮辱したりするような、敵意ある否定的な表現のことである。(スー、p.34)

また、日本の人権活動家の渡辺雅之は、以下のように表現している。

それは日頃から心の中に潜んでいるものが口に出たということであり、口にした本人に“誰かを差別したり、傷つけたりする意図があるなしとは関係なく、対象になった人やグループを軽視したり侮辱するような敵対・中傷・否定のメッセージを含んでおり、それゆえに受け手の心にダメージを与える言動”であるということです。(渡辺、p.5)

スーがマイクロアグレッションの具体例として挙げるものについて、いくつか抜粋して紹介しよう。

・あるゲイの青年は、クラスメートたちの「それ、ゲイみたいじゃん」と言いながらふざけたりばかみたいな身振りをしたりすることに対してしょっちゅう不快感を感じていた(ここに隠されているメッセージは、同性愛者は倒錯している、ということ)。

・ある目が不自由な男性は、人々が彼に話しかける時によく声のトーンを上げる、ということを報告している。ある善意に満ちた看護師は、実際薬を渡す時、彼にむかって「叫んで」きた。彼は「どうか、大声を出さないでください。私にはあなたの声が非常によく聞こえていますよ」と答えた(ここに隠されているメッセージは、障害を持っている人は、あらゆる機能が劣っている、ということである)。

・16歳のジーザス・フェルナンデスの保護者面談の時、教師は母親に、ジーザスは学習上の問題を抱えている、とそれとなく伝えた。ジーザスは授業に関心がなく、やる気がなく、宿題を期日までに出さず、しょっちゅう席で居眠りをしているからだ。しかし先生は、ジーザスが学校が終わってから4〜5時間、家族を助けるために働いていることを知らなかった(ここに隠されているメッセージは、貧しさの中で生きていくことがいかに人々のエネルギーを奪っていくのかに対して意識がない、ということである)。

(スー、p.47-48)

日本においては、「ハーフ」の人や外国人に対するマイクロアグレッションが注目されることが多い。

たとえば、心理学者の出口真紀子は初対面の相手に「お父さんはなに人? お母さんは?」と聞いたり「ハーフってうらやましい」と言ったりすることや、日本に暮らす外国人に「納豆食べられる?」「日本のどこが好き?」と聞くことはマイクロアグレッションである、と述べている[1]。これらの行為は、「ハーフ」や「外国人」というステレオタイプを相手に押し付けるものであるからだ。

中立的なものとは言い難い

そもそも、アグレッション(aggression)とは「攻撃」のことである。スーの著作では、マイクロアグレッションは対象にとって「ストレッサー」となり、生理的にも心理的にもストレスを引き起こしてさまざまな悪影響を生じさせる、と論じられている。この点に注目すれば、マイクロアグレッションが「危害」であるという主張はわかりやすい。

一方で、スーの著作の別の箇所や日本の議論を眺めていると、被害者に対する影響よりも加害者が「無意識の偏見」や「ステレオタイプ」を抱いていること自体のほうが問題視されている場合も多い。この種の議論におけるマイクロアグレッションという概念からは、学校に掲示されている「標語」のような雰囲気がただよう。「自分が何気なく言った言葉でも、相手にとっては侮辱に感じられたり敵対的なメッセージに思われたりするかもしれないから、マイノリティの人と話すときには自分が無意識の偏見やステレオタイプを抱いていないかどうか充分に注意して、慎重に言葉を選んで話しましょう」ということだ。

そして、マイクロアグレッション理論は以前に論じた「特権」理論や、差別に関するその他の社会学的な理論や概念と結び付けて論じられるのが一般的であることにも留意したほうがいいだろう[2]

単純に考えると、マジョリティの人や社会的に差別されているわけではないがなんらかの特徴を持っている人に対しても、マイクロアグレッションは発生しそうなものだ。

たとえば、わたしには身長が185cmを超える男性の友人がいるが、彼はよく他人から「バスケが上手いんでしょう」と言われたり「モテるんでしょ」と言われたりしている。それに対して友人は「いつもそんなことを言われるけれど、背が高いからってバスケが上手いとかモテるとか限らないんだって」とボヤいている。通常、背が高いという特徴を持っている人は、それだけではマイノリティであるとか被差別グループに属しているとは見なされない(むしろ、背の高さはさまざま面で社会的な有利さにつながっていることはよく知られている)。しかし、わたしの友人が「背が高い男はバスケが上手くてモテるものだ」という偏見やステレオタイプを他人からぶつけられていることは事実だし、それによって彼はストレスを受けているかもしれない。

同じようなことは、東大や京大などの名門大学に通っている学生、医師や弁護士などの高度な資格業に就いている人、単にお金持ちである人などにも当てはまりそうなものだ。自分が東大生であることや医師であることやお金持ちであることに基づいた偏見やステレオタイプを他人からぶつけられていて、それによってストレスを受けている、という愚痴や文句はよく耳にする。東大生や医師やお金持ちはマイノリティではないし、弱者でもない。しかし、マイクロアグレッションがステレオタイプや侮辱に関するものだとすれば、彼らもマイクロアグレッションの被害者だと言ってもおかしくないはずである。

だが、スーの著作を見るとマジョリティの人に対するマイクロアグレッションはほとんど注目されていないし、そもそもマジョリティに対してマイクロアグレッションが発生し得るとは考えられていないことがわかる。マイクロアグレッションが発生するためには、加害者の側に「偏見」や「ステレオタイプ」があることや、被害者が「敵意」や「侮辱」を感じることだけでは十分でなく、それらが「差別構造」に紐付いたものであるということも必要な条件とされているのだ。

このため、マイクロアグレッション理論は中立的なものであるとは言い難い。この理論は、個人の心理に対して発生する影響や社会のなかで行われるコミュニケーションの様態を単に記述するためのものではなく、多かれ少なかれ、規範に関する含みがある。「マイクロアグレッション」は、マイノリティが敵意や侮辱を感じてストレスを受けることを問題視して、マジョリティが偏見やステレオタイプを抱いていることを批判するという目標のために、スローガンとして用いられている言葉でもあるのだ。

マイクロアグレッション理論の問題点

英語圏では、マイクロアグレッション理論やスーの著作について批判する論文や書籍がいくつか発表されている。以下では、社会学者のブラッドベリー・キャンベルとジェイソン・マニングの共著『被害者意識の文化の興隆:マイクロアグレッション、セーフ・スペース、そして新しい文化戦争』や、社会心理学者のジョナサン・ハイトと憲法学者のグレッグ・ルキアノフの共著『アメリカン・マインドの甘やかし』などの書籍でなされている批判を参考にしながら、この理論の問題点について説明しよう。

まず指摘されるのが、マイクロアグレッションという概念はきわめて主観的なものである、という問題だ。

通常、わたしたちが「攻撃」や「侮辱」という事象について考えるときには、多かれ少なかれ、加害者や差別者の「意図」の存在を前提する必要がある。たとえばAさんの行為によってBさんが怪我をしたとき、Aさんに「Bさんを怪我させてやろう」という意図があったかどうかは、「Aさんの行為はどれくらい悪質であり、非難に値するか」ということを判断するうえで重要なポイントになる、と大半の人は考えるはずだ。これは子どもでも身に付けているような日常的で常識的な直感であるが、同時に、専門的な倫理学の議論や実際の法律の運用においても重視されている考え方である(たとえば傷害罪や殺人罪が成立するためには「故意」の存在が要件とされる)。

ある人が他人の行為によって死亡したとき、それが殺人であったとしても事故であったとしても、わたしたちは被害者のことを気の毒に思ったり悼んだりするだろう。しかし、殺人の場合にわたしたちが加害者に対して感じるような怒りや悍ましさは、事故の場合には感じられないものである(加害者が飲酒運転や危険運転などをしていた場合には、通常の事故に比べて怒りは増すかもしれないが)。また、ある人が他人の言動によって傷ついたとき、その言動が相手を侮辱するつもりで発されたのではなく、たまたま相手のトラウマを刺激してしまったり誤解によって相手を傷つけてしまったという場合でも、わたしたちは傷ついた人のことを気の毒に思ったり同情したりするだろう。とはいえ、そのような場合に、言動を発した人のことを怒ったり非難したりしようとは思わないはずだ。だが、もしその言動が「相手のことを侮辱してやろう」という意図によって発せられたものだったとしたら、言動を発した人は怒りや非難の対象になるだろう。

つまり、意図の有無は「被害」について考えるうえではさほど重視されないが、「加害」や「攻撃」という物事を考えるうえでは欠かせない。ある加害行為がどれほど悪質であるか、攻撃をした人はどれくらい非難されるべきかを判断するうえで、意図という要素を抜きにすることはほとんど不可能だろう。

とはいえ、故意なく相手を怪我させたり死亡させたりした人でも過失傷害罪や過失致死罪に問われるように、意図されていない行為であっても加害を生じさせること自体に問題が含まれている、ともわたしたちは考えている。たとえば、セクシュアル・ハラスメントやパワー・ハラスメントは加害者に悪意がなくても起こり得る、ということが周知されるようになって久しい。だが、ハラスメントのような問題については、客観的で外形的な「基準」を設けて対処することが一般的である。

具体例を挙げると、日本の厚生労働省の指針ではパワー・ハラスメントは「職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものであり、①から③までの要素を全て満たすものをいう」と定義されている[3]。また、セクシュアル・ハラスメントは「職場において行われる、労働者の意に反する性的な言動に対する労働者の対応によりその労働者が労働条件について不利益を受けたり、性的な言動により就業環境が害されること」と定義されているのだ[4]。もちろん、厚生労働省の定義が絶対だというわけではない。この定義は狭すぎると批判する人もいれば、曖昧で厳密さに欠けると論じる人もいるだろう。しかし、少なくとも、ハラスメントの問題については基準を設けられることや、実際にトラブルが生じた際にも基準に基づいてハラスメントか否かの判断ができるということについては、多くの人が同意しているのだ。

被害者側の主観に委ねられている

マイクロアグレッション理論には、加害行為やハラスメントに関する通常の考え方とは異なるところがある。

まず、冒頭に引用したスーや渡辺の定義で示されている通り、意図の有無は問題とされない。そして、「どのような行為や言動がマイクロアグレッションとなるか」については、外形的で客観的な基準を設けることは困難だ。加害者側の行為や言動に「軽視」や「侮辱」や「敵意」が含まれているかを判断するうえで、加害者側の意図は考慮すべきでないとすれば、実質的には被害者側の主観に委ねるしかなくなる。つまり、BさんがAさんの言動に軽視や侮辱や敵意を感じたとすれば、それだけで、Aさんはマイクロアグレッションを行なっていることにされるのだ。

ハラスメントについてよくある粗雑な批判が、「そんなことを言い出したらなんでもかんでもがハラスメントということにされてしまって、部下や同僚とのコミュニケーションもまともにできなくなってしまうじゃないか」というものである。このような批判は、ハラスメントの定義には「業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより〜」といった基準が設けられているのを無視しているという点で、的外れだ。しかし、マイクロアグレッションという概念については、この粗雑な批判でも的を射てしまうかもしれない。

たとえば、自分の受け持っている生徒が宿題を提出しておらず授業中に居眠りしているとき、そのことを保護者に伝えるのは、生徒にどんな背景事情があろうとも、教師という職業にとっての「業務上必要かつ相当な範囲」に収まる行為であるはずだ。しかし、前述の引用部分で示している通り、スーはまさにこの行為をマイクロアグレッションの例として挙げているのである。

また、スーは自身が経験した事例として、以下のような出来事を挙げている:アジア系であるスーとアフリカ系である彼の同僚が小型飛行機に乗ったとき、白人の乗務員は、「どこに座ってもよい」と言ったから、彼らは通路が一方から他方へと交差する前の方の席に座った。その後、白人男性の乗客が三人乗り込んできて、スーたちの近くの席に座った。飛行機が離陸する直前、乗務員は、「飛行機の重さの配分を均等に整えるために席を移動してほしい」とスーたちに頼んだ。スーたちは席を移動したが、後から来た白人たちではなく自分たちが席を移動させられたことに怒りを感じて、「あなたは、二人の有色人種の客に対して、『バス』の後方に行けと頼んだことを自覚していますか?」と乗務員に言った。それに対して乗務員は「私は人種差別などしてませんよ!私はただ飛行機のバランスを保つためにあなたがたに移動をお願いしただけです。私はあなたがたにより広い、よりプライバシーが守られる空間を提供しようとしただけです」と反論したのである(スー、p.89-90)。

キャンベルらは、上記の事例で乗務員の行為や言動がマイクロアグレッションであったかどうかの判断はスーの主観に一存されている、という問題を指摘している。また、見方によってはスーの言動のほうがマイクロアグレッションと言えるのではないか、という疑問も呈している(Campbell and Manning、p.10)。乗務員としての業務をいつも通りにこなしていたら、(男性であり大学教授でもある)乗客がいきなり怒り出して、人種差別主義者だと非難されてしまうことは、「いわれもなく敵意や侮辱をぶつけられた」という経験だと感じられてもおかしくないからだ。……しかし、たとえば白人男性の小学生教師が自分の受けたマイクロアグレッションについて語ろうとしたときにスーが「それはマイクロアグレッションという概念を誤って適用している」と批判したように、彼にとって「白人はマイクロアグレッションを経験し得ない」ということが前提になっている(Campbell and Manning、p.10)。このことから、キャンベルらはスーの議論は恣意的なものであると批判しているのだ。

他人を責めたり非難したりする目的でマイクロアグレッションという概念を乱用するべきではない、ということはスーやその他のマイクロアグレッション概念の支持者も主張していることではある。しかし、実際のところ、この概念がだれかを責めたり非難したりするうえでかなり便利なものであることは明白だ。相手に故意があったことを論証する手間を省いて、相手の行為や言動が客観的な基準に抵触していることを論じる必要も抜きにして、「自分が被害を感じた」という経験だけを根拠にして、相手が「攻撃」や「差別」を行なったと主張することができてしまうからである。

背景にある道徳文化の変遷を理解する

キャンベルらによると、社会学的にはマイクロアグレッションは「だれかが発する主張」の種類や「だれかが行う行為」の種類を示すものではなく、むしろ「だれかの主張や行為に対して別のだれかが貼るラベル」と見なすべきである。なんらかの行為や言動をマイクロアグレッションだと主張することは、物事について記述したり分析したりするのではなく、なにが善でなにが悪かを定めようとする道徳主義的な行為(moralistic behavior)である、と彼らは論じる。

そして、現代のアメリカ(のアカデミアなどの一部界隈)でマイクロアグレッションという概念が普及した理由を理解するためには、その背景にある道徳文化(moral culture)の変遷を理解することが重要である、とキャンベルらは主張する。ここで具体的に参照されるのは、心理学者のリチャード・ニスベットとドヴ・コーエンの共著『名誉と暴力:アメリカ南部の文化と心理』などで展開された、「名誉の文化」と「尊厳の文化」に関する分析である。この分析を下敷きにしながら、マイクロアグレッションという概念が広まった背景には「被害者意識の文化」が存在する、とキャンベルらは論じるのだ。

ニスベットらによると、「名誉の文化(Culture of Honor)」とは世界中の牧畜民の間で一般的であり、現代のアメリカ南部にも存在する文化である。また、アメリカの北部や日本などの他の国々においても、ギャングや不良(ヤンキーなど)の世界には名誉の文化が存在する、と指摘されることも多い。

名誉の文化の特徴は、「自力救済」の重視と、「侮辱」に対する敏感さだ。

名誉の文化は、世界中の多くの社会で互いに独立して生み出されてきた。これらの文化は互いに多くの点で異なるが、ある要素を共通して持っている。すなわち、人々は暴力に訴えることで、自分の高潔さや強さやあるいはその両方の評判を守ろうとする。こうした文化は、①各個人がその仲間たちからの経済的なリスクにさらされている場所で、しかも、②政府が弱いかあるいは存在せず、したがって財産の窃盗を抑止することも、それに制裁を加えることもできないような場所で、特に発達しやすいようである。そして通常は、この2つの条件は同時に成立する。たとえば、牧畜は辺境地域に適した生産手段であるが、そうした場所は政府の統制が及びにくい。(ニスベット、コーエン、p. 7)

 

名誉の文化の鍵となるのは、侮辱とそれに対抗することの必要性が、どれほど重要視されているかである。侮辱は、そのターゲットとなった者が苛められるのにふさわしいほどの弱い者であることを暗に示す。強さについての評判は名誉の文化において最も重要なものなので、誰かを侮辱した者はその撤回を強いられる。彼がそれを拒否すれば、暴力あるいは死という制裁を受けることになる。侮辱のなかでも特に重要な意味を持つのは、家族の女性たちに向けられたものである。(ニスベット、コーエン、p. 8)

名誉とは「評判」のことでもあり、この文化のもとに暮らす人たちは「他人からどう思われるか」ということを意識せざるを得ない。周りから「こいつは弱そうだ」「こいつはチョロそうだ」と見なされたら、財産を奪われたり、いいように利用されたりしてしまう。そのために、日本の心理学者の石井敬子が表現しているように、他人からの侮辱には敏感に気付いて「なめんなよ!」と反応することで、「タフである」という評判や「男らしさ」を維持しなければならない[5]

名誉の文化のもとでは殺人や争い事が起きやすく、子どもに対する体罰を含む暴力にも寛容だ。そして、女性たちも名誉の文化には無縁ではない。母親たちは自分の息子に「だれかに暴力を振るわれたら、相手を訴えるのではなく、絶対で自分の力に解決しなさい!」と教えこむだけでなく、必要とあれば女性たち自身で暴力を行使することも稀ではないのだ。

「名誉の文化」に特徴的な行動の具体的な例としては、2022年3月にアカデミー賞の授賞式で起こった事件が挙げられるだろう。俳優のウィル・スミスは妻のジェダ・ピンケット=スミスと一緒に出席していたが、プレゼンターであったコメディアンのクリス・ロックは、脱毛症であるジェイダの髪型をジョークの題材にした。これに対して怒ったウィルは、壇上に上がってクリスに平手打ちをしたのだ。この行動にはアメリカでも日本でも賛否が分かれて、アカデミー賞理事会がウィルを授賞式や関連イベントから10年間出席停止にした判断を支持する人もいれば、クリスのジョークは病気の人に対する侮辱であると批判してウィルの行動を支持する人もいた。……しかし、良し悪しはさておき、妻に向けられた「侮辱」に敏感に反応して自力で暴力を振るい報復するというウィルの行動は、まさに「名誉の文化」の特徴を揃えているものであったのだ。

寛容と交渉が重視される「尊厳の文化」

「尊厳の文化(Culture of Dignity)」は現代の西洋社会に広く普及しており、多くの点で、名誉の文化とは正反対の規範が採用されている。

この文化が名誉の代わりに重視する「尊厳」とは、他人からどう思われるかということに関係なく、すべての人に内在的に備わっているとされるものだ。したがって、この文化のもとでは「評判」は重視されず、タフさや男らしさを積極的に示す必要もない。尊厳の文化のもとで暮らす人々は他人からの侮辱に対して敏感ではないし、むしろ、侮辱を気にせずに無視することのほうが望ましいとされる。

尊厳の文化のもとで親たちが子供に教えるのは「棒や石は私の骨を折るかもしれないが、言葉が私を傷つけることはない」という考え方だ。また、この文化では自分を抑制することが重視されるために、人々は他人からの侮辱に対する怒りを抑えるだけでなく、自分が(意図的であるかそうであるかに関わらず)他人を侮辱することも控えようと努めることになる。

尊厳の文化では自力救済は忌み嫌われ、必要とあれば警察や法廷などの第三者に訴えるべきだとされる。ただし、窃盗や殺人などの明らかな加害に対しては法的な対応が必要とされるが、だれかと意見や利害が対立しているような場合や悪意のない事故が起こった場合には、裁判をするよりも前に話し合いや交渉を行なって当事者間で問題解決を目指すことが望ましいとされる。他者に対して寛容になって理性的に議論することが尊厳の文化の理想なのであり、みだりに法廷や権威に訴えることは「軽薄」であると非難されるのだ。裁判は利用するとしても交渉が決裂した後の最終手段であるし、それもできるだけ静かに手短に済ませたほうがいい。つまり、尊厳の文化では「寛容」と同時に「交渉」が重視されるのだ。

名誉の文化が世界各国に存在しており、「周囲から攻撃されるリスクの高さ」と「信頼できる政府や法的機関の不在」という特徴を兼ね備えた社会ではどこでも自然発生する可能性があるのに比べると、尊厳の文化は人為的な要素が強いことには留意しておこう。

「尊厳」という価値が他人からの評判や集団内での地位とは関わらずに誰しもに内在的に存在している、という考え方はイマニュエル・カントをはじめとする哲学者たちの議論を想起させるものであり、明らかに西洋的なものである。現代の先進国では法治システムが普及しており基本的人権の存在が前提とされる以上、非西洋諸国であっても多かれ少なかれ「尊厳の文化」を取り入れなければならない。一方で、尊厳の文化が組織の指針としてどれほど重視されたり人々の意識にどこまで浸透しているかということには地域によってギャップがあるかもしれない。たとえば、日本では、ウィル・スミスの行動に対する批判よりもアカデミー賞の決定に対する批判のほうが知識人の間でも目立っていたように見受けられた。この事態は、西洋では「尊厳」という概念が非常に重視されているという点や、そのために自己を抑制せずに品位ある場で暴力を振るう行為には厳しい処罰がされるという点に関する理解が日本では浸透していないことを示しているだろう。

「被害者であること」が道徳的ステータスに

近代以降の西洋社会では、尊厳の文化が普及していった。そして、最近になって登場した第三の文化が「被害者意識の文化(Culture of Victimhood)」である。

被害者意識の文化には「侮辱に対する敏感さ」という名誉の文化と共通する特徴がある一方で、名誉の文化のもうひとつの特徴である自力救済は否定されて、代わりに権威や第三者に訴えることが是とされる。ただし、尊厳の文化と異なり、「まずは相手に対して寛容になって交渉することが大切であり、裁判に訴えるのは最終手段だ」といった自己抑制は重視されない。言葉による侮辱も「被害」だと見なして、「自分が被害を受けた」と喧伝して、すぐに他人に助けを求めることが、被害者意識の文化の特徴なのだ。

この文化では、名誉や尊厳の代わりに「被害者であること」が道徳的なステータス(moral status)の条件になっている。名誉の文化では「弱く見られること」は財産を奪われたり弱みにつけこまれたりするコストをもたらしていたのが、被害者意識の文化では他人からの支持を得たり権威に訴えることを可能にしたりするというベネフィットをもたらすのだ。そのため、人々は、自分のタフさや男らしさを誇示したり、自分には尊厳が備わっていると主張したりする代わりに、自分が被害者であることを強調することで自分の要求を通そうとする。

キャンベルらによると、被害者意識の文化が最も定着しているのは(アメリカの)大学だ。学生たちは「被害」を喧伝する抗議デモやキャンペーンを行い、多くの場合に大学当局は学生たちの訴えを聞き入れて、「加害者」とされる教員や他の学生などに勧告や懲戒などのペナルティを与えている。……逆に言えば、大学の外では被害者意識の文化はそれほど普及していないし、奇異なものとして見られることも多い。結局のところ、法廷を利用するためには単に「侮辱された」や「言葉で傷つけられた」以上の法的根拠が必要となるし、大学当局に比べると営利企業は「被害」の訴えを聞き入れるとは限らないからだ。

そして、被害者意識の文化に影響されているのは左派やマイノリティに限らない。たしかに、被害や「抑圧」を強調する被害者意識の文化は左派の発想と相性が良い。また、「被害者である」ということが道徳的なステータスになるから、そのステータスを確保して独占するために、特権理論やマイクロアグレッション理論のように「抑圧や被害はマイノリティにしか発生しない」という理屈が生み出されることになる。……しかし、右派やマジョリティの学生も大学に通っている以上、被害者意識の文化が行き渡った環境を共有することになる。名誉の文化のもとではどんな人も「名誉」を求めて、尊厳の文化のもとではどんな人も「尊厳」を求めるのと同じように、被害者意識の文化のもとではどんな人も「被害者であること」を求める。そうしないと、自分には道徳的なステータスがないということになってしまうからだ。

したがって、昨今ではマジョリティや右派も、マイノリティや左派が利用しているのと同じ戦略を自分たちも用いることになった。彼らは彼らで、「自分たちこそが被害者である」という理屈を編み出して、それを喧伝しているのだ。たとえば日本でも見られる光景として、フェミニズムの理論に基づいて性差別主義者であると批判された男性たちが、「むしろフェミニズムの理論のほうが男性差別主義的である」と反論するということがある。

つまり、被害者意識の文化のもとでは、「被害者であること」が自分の立場を守って相手を攻撃する「武器」となる。左派も右派も、マイノリティもマジョリティも「我こそが被害者である」と主張することに躍起になり、自分の被害者意識を主張しながら相手の被害者意識を否定するためのさまざまな議論を行う。そして、「相手に対して寛容になって交渉する」という尊厳の文化の規範が失われているために、落とし所を見つけたり妥協や相互理解を目指したりするという筋道を取ることもできなくなってしまったのだ。

日本社会にも浸透している「被害者意識の文化」

上述したように、キャンベルらは「被害者意識の文化」は(アメリカの)大学に特異なものと見なしており、「名誉の文化」や「尊厳の文化」のようには広く普及していないと考えているようだ。被害者意識の文化は、法律の対象にもならない些細な言動や曖昧な物事について「傷つけられた」と訴えたときに、「それは問題だ」と訴えに反応して対処してくれる権威や組織が存在するほうが成立しやすい。いまのところ、欧米でも、そのような組織は大学のほかにはあまりないだろう。

一方で、読者のなかには「被害者意識の文化は日本にも浸透している」と思った人もいるはずだ。

実際、日本でもマイクロアグレッションという言葉は浸透してきているし、SNSを眺めてみても書店のエッセイコーナーを訪れてみても、多くの人が「自分は傷つけられた被害者である」と訴えている様子を観察することができる。人種やエスニシティの問題は日本ではあまり前面化しないが、「自分たちは社会の性差別によって被害を受けている」と主張する女性たちと、彼女らに対抗するかたちで「自分たちのほうが社会の女尊男卑によって被害を受けている」と主張する男性たちの姿は、Twitterではもはや定番のものとなっている。また、書店に並ぶエッセイや漫画などでは、作者の「繊細さ」をアピールしながら、鈍感で無関心な周囲の人間たちのせいで自分が受けた被害のエピソードが描かれていたりする。そして、一部の若者たちは「親ガチャ」や「毒親」に対する不平を言いながら「家庭環境の問題や社会の格差構造のために、自分は生まれ落ちた時点から被害者である」と主張しているのだ。

……もちろん、日本社会に女性差別が存在することや男性も「つらさ」を感じていること、悪質な家庭環境や経済格差などが存在することは事実だ。被害者意識の文化やマイクロアグレッションという概念の問題を論じるにしても、勢いあまってマクロな問題の存在を否定すること、つまり実際に深刻な影響をもたらしている被害のことまでをも矮小化して捉えることをしないように注意すべきだろう。

だが、それはそれとして、「被害者であること」が道徳的なステータスと見なされており、多くの人がそのステータスを追い求める風潮は、アメリカの大学だけでなく日本にも広く存在しているようである。たとえばSNSで被害者意識を訴えたとしても、その訴えになんらかの組織が対応してくれることはほとんどないはずだ。では、人はなぜ被害を訴えるのか?

キャンベルらの著作では、「党派精神(Partisanship)」や「紛争の解決」に関するドナルド・ブラックという社会学者の理論を参照しながら、被害者であるというステータスが「第三者(Third Party)」の人々に与える影響についても論じられている。ブラックの理論を簡単にまとめると、以下のようなものだ:AさんとBさんが揉めているときに、Cさんは二人のうち自分と共通点を持つ人のほうか、立場が強い人のほうの肩を持ちやすい。立場が弱い人のほうの肩を持つ、いわゆる「判官びいき」は、ごく限定的な状況でしか成立しない。そのため、立場が強くあることは、相手との紛争に勝って自分の要求を通すためには重要である。

ふつうに考えたら、加害者とは立場の強い人であることが多く、被害者とは立場の弱い人であるだろう。しかし、被害者意識の文化のもとでは、被害者であることがステータスとなって、立場の強さにつながる。つまり、第三者からの支持や擁護を得るためには、自分が被害者であると強調したほうがいい。

ここでいう第三者とは「世論」のことでもある。組織からの具体的なサポートは得られないとしても、世論(やSNSのフォロワーたち)が自分に共感してくれて、敵対している相手のほうではなく自分のほうを支持してくれるというのは、大半の人にとって魅力的だ。人間は社会的な生き物であるために、たとえ実利がないとしても、他人から承認されたり「自分にはたくさんの味方がいる」と思えたりすることを望むのである。

そして、すでに被害者意識の文化が発達した国で生み出されたマイクロアグレッションや特権に関する理論は、別の国に輸入することができる。したがって、アメリカの学生たちが行っているような「自分たちはマイクロアグレッションを受けているから支持・支援されるべきであり、加害者たちは非難・排除されるべきだ」というキャンペーンが日本でも模倣されることは、ごく自然な流れだと考えられるかもしれない。

近視的でネガティブな社会観をもたらす可能性

被害者意識の文化が成立するためには、規範に関する意識が一定以上に発達することが前提になる、という点には留意しておこう。

被害者であることがステータスとなって、第三者が被害者に共感や支持を寄せるようになるためには、その前段階として、「平等は重要である」という理念や「だれかが差別されたり抑圧されたりすることは避けられるべきだ」という信念が社会に広く普及していなければならない。たとえば名誉の文化のもとで暮らす人々は、自分が受けた被害を喧伝する人のことを軽蔑したり嘲笑したりして、弱みにつけこめる「カモ」としか見なさないから、被害者意識の文化が登場することは困難だろう。一方で、尊厳の文化のもとでは平等や人権に関する理念が浸透するから、被害者意識の文化が登場する下準備が整う。

マイクロアグレッション理論にしても、それを主張するためにはマクロな差別の問題がある程度までは解決されていなければならない。たとえば人種隔離政策が公式に残っている時代や、女性が選挙権も持たず社会進出も強く制限されている時代には、その時点で起こっている制度的な差別の問題があまりに深刻であるために、マイクロアグレッションに注目することはマイノリティからも「いまはそれよりも先に解決すべき大きな問題がある」と思われる可能性が高いだろう。

もちろん、マクロな問題が解決されたのならマイクロな問題は放っておけばいい、ということにはならない。「差別問題や不当な格差が存在するのなら、その規模や程度の大小に関わらず、最終的にはすべて是正されたり解決されたりするべきである」という主張は、それ自体は間違ったものではない。……しかし、いま現在の状況は、社会が進歩して過去に存在してきた多くの問題が解決された後であるからこそ到来している、という視点も忘れるべきではないのだ。

被害者意識の文化の問題のひとつが、近視的でネガティブな社会観をもたらすことだ。この文化のもとでは、「自分が被害者である」と考えている人だけでなく、「被害者である人を支援したい」と思っている人も、社会や世の中の「おかしさ」に注目して、それを他の人たちに喧伝するようになる。差別や不平等の問題の範囲を「無意識の偏見」や「悪意のない言動」というレベルにまで拡大すれば、おそらくほぼ無限に、世の中の「おかしさ」を発見して喧伝し続けることができるだろう。

さらに、以前の記事でも触れた「美徳シグナリング」という問題も関わってくる[6]。自分の周りの人たちがマイクロな問題を深刻視していたら、「あなたたちと同じように、わたしも社会の問題について真剣に考えていますよ」とアピールするために、自分も同調せざるを得ない。逆に、「その問題は世間で言われているほど深刻ではないかもしれませんよ」と疑問を呈することには、差別や不平等の問題を矮小化して放置する悪人だと思われるリスクが伴ってしまう。

これらの傾向のために、個別の問題について世間の注目が集まって取り沙汰されるということはあっても、「将来的に世の中をどうしていくべきか」といった社会像に関する建設的な議論が後回しにされてしまい、長期的な目標を掲げることも難しくなってしまうのだ。

被害者自身にも害をもたらすもの

ここまでのわたしの議論に対しては、以下のような反論が想定できるかもしれない:「マイクロアグレッションという概念や被害者意識の文化に問題があるとしても、これらによって、いままでは無視されていた被害や差別が注目されるようになったことは事実だ。マイクロなものであるとしても、被害や差別であることに変わりはないのだから、それらが是正されるにこしたことはない。だから、弱者のことを思えば、マイクロアグレッション理論や被害者意識の文化はやはり有益なのだ」。……たしかに、このような反論には的を射ているところがあるかもしれない。ただし、キャンベルらやハイトらは、被害者意識の文化は被害者(または、「自分は被害者だ」と思っている人)自身にも害をもたらす、とも論じているのである。

どんな文化でも、人が持ついくつかの性質や性向のことを「徳」とみなして、それらの徳を持つ人のことを褒めたり称えたりするものだ。たとえば、名誉の文化のもとでは、自分の財産を奪ったり侮辱をしたりしてきた相手に対してきちん報復できる「怒り」を持つことが徳と見なされるだろう。尊厳の文化のもとでは、侮辱にも動じずに冷静に対処する「温和さ」や「抑制」のほうが徳と見なされる。前者の文化では親たちは怒るべきときに怒れるように子どもたちを育てて、後者の文化では怒りを適切に抑制できるように育てる。しかし、被害者意識の文化では、侮辱に対して傷つきやすい「脆弱さ」や、他人の些細な言動にも害や悪意を見出す「過敏さ」が徳となってしまうのだ。

被害者意識の文化のもとでは、「自分は弱者だ」「自分は傷つけられた」と見なすことに、ステータスの向上というインセンティブがはたらく。そのため、この文化に影響された人ほど、自発的に脆弱で過敏な人間になっていくだろう。

だが、言うまでもなく、すぐに傷ついたり被害者意識を抱いたりすることは、本人の人生にとってはプラスにならない。他人の言動によっていちいち自分の心が揺れ動かされるような人は、前向きで自律した生き方からは程遠い、受け身で無気力な人生を過ごしてしまうことになるからだ。

「被害者意識を抱くことは、他人に対して権利を主張したり他人からの支援を求めたりするために役立つとしても、本人の人生を改善することとは相反する」という問題は、「被害意識の文化」が登場する以前から多くの哲学者や心理学者によって指摘されてきたことでもある。フリードニヒ・ニーチェによる「ルサンチマン」の議論を思い浮かべる人もいるかもしれない。また、日本の哲学者の内田樹も、「被害者の呪い」というエッセイを記している。

「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。

「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。

(…中略…)

そして一度、自分の採用した説明に居着いてしまうと、もうその人はそのあと、何らかの行動を起こして自力で現況を改善するということができなくなる。

というのは、自助努力によって自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現し得た場合、その事実によって、「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになるからである。

「強大な何か」による自己実現の妨害をはねのけることができたという事実は「私が自由に生きることを妨害する強大な何かがある」という前提と背馳する。それゆえ、一度「強大な何かによる自己実現の妨害」という説明を採用してしまった人間は、以後自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、偏在的であり、全能であることを必要とするようになる。

自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、人は自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸であることを願うようになる。(内田、p.90-91)

認知の歪みを悪化させる

心理学者であるハイトは、認知行動療法の観点からスーの主張の問題を指摘している。

認知行動療法とは臨床心理の現場で行われる精神療法の一種であり、うつ病や不安症などの治療、また夫婦関係を改善するためのセラピーやストレスケアなどにも用いられている。この療法の根底にあるのは、ある人が自分の置かれた状況や身の回りの環境や他人のことについてどのように受け止めてどのように考えるか(認知するか)が、その人が人生を前向きで健康に過ごせるかどうかを左右する、という発想だ。認知行動療法では、精神的な症状やトラブルが生じている人の感情は、物事をネガティブに受け取ったり自分の状況を誤って解釈したりする「自動思考」や「認知の歪み」に影響されていると判断される。そして、その人の認知の誤りを客観的に示して、その人が直面している状況を具体的に明らかにしたうえで、考え方や行動などの変えやすい部分から改善していくことによって問題を解決することが目指されるのだ。

ハイトによると、認知行動療法とはアカデミズムで行われる「批判的思考」に近い。どちらにおいても、「自分がいま抱いている考えや認識は感情に左右された誤ったものであるかもしれない」と自覚したうえで、客観的な情報や理性的な思考によって自分の感情や認識を吟味して問題点があれば修正する、というプロセスが必要とされるからだ。一方で、近年のアカデミアにおけるポリティカル・コレクトネスの風潮は批判的思考を軽視して「感情的推論」を重視してしまっている、とハイトは批判する。感情的推論とは「自分の感情や感覚は正しい」と前提して、感情に基づいた判断や結論を後付けの理屈で正当化することであり、それ自体が「認知の歪み」の一種でもある。

マイクロアグレッション理論も人々の認知の歪みを是正するどころか悪化させる効果をもたらすものだと、ハイトは論じる。そもそも、相手の意図の有無に関わらず「自分が傷つけられた」という感覚が「侮辱」や「差別」の存在を立証する根拠になる、というマイクロアグレッションの発想は感情的推論にかなり近い。また、マイクロアグレッション理論は他の種類の「認知の歪み」と関連している。些細な言動をも攻撃や侮辱だとして捉えることは「拡大解釈」であるし、「相手の言動の裏には自分に対する侮辱や敵意があるのだ」と推測することは「心の読み過ぎ」であるし、「自分に対して侮辱や攻撃を行なっているから差別者である」と決め付けることは「ラベリング」だ(これらのいずれもが、認知行動療法の代表的な理論家であるデビッド・バーンズが作成した「10種類の認知の歪み」のリストに含まれている)。

しかし、スーの理論によれば、「自分の抱えている問題は社会の差別構造が原因で起こっている」と思っている人に対して「その問題の原因はあなたの認知の歪みのせいかもしれませんからそれを改善してみましょう」と提案すること自体が、差別を実感している個人の感情を否定するマイクロアグレッションだということになってしまう。このため、精神科医や心理士がマイクロアグレッション理論を真に受けている限り、患者の認知の歪みを是正することができなくなるおそれがある。もちろん、それは患者にとっても有害な事態である。そして、同じような事態はアカデミアでも起こり得るだろう(教師が学生の感情を否定することを恐れて適切な指導ができなくなる、同僚の感情を否定したくない学者が論文に対して反論することを尻込みするようになる、など)。

……とはいえ、ハイトと同じようにスーも心理学者であることには留意しておいたほうがいいだろう。スーとハイトの主張の対立は、心理学や心理療法の方法論の対立として捉えることができるかもしれない。また、認知行動療法を「新自由主義的」や「個人主義的」として批判する心理士や精神科医がいることもたしかだ。しかし、逆にいえば、スーの議論はあまりに「社会的」で「政治的」であり、個人の抱えている問題を改善する役に立つかどうかもわたしには疑わしく思えるのだ。

フレーミングとマイクロアグレッション

認知行動療法と関連して、「フレーミング」とマイクロアグレッションの関係についても触れておこう。

ある人が特定の状況に対して抱く感情は、その人がその状況を認知する枠組み(フレーミング)によって変化する。そして、物理的な暴力を振われることや財産を奪われること、あるいは社会で活躍する機会が制限されることなどの外形的な被害とは異なり、マイクロアグレッションのような心理的・内面的な問題がもたらす影響の深刻さはフレーミングによって上下する。たとえば、同じ相手に同じことを言われたとしても、その言葉を「自分に対する攻撃だ」と捉える人はダメージを受けるだろうが、「単なる意見を言っているんだな」と捉えられる人はダメージを受けない。尊厳の文化のもとで「棒や石は私の骨を折るかもしれないが、言葉が私を傷つけることはない」と子どもたちに教えられるのは、子どもたちを無用に傷つかせないようにするためでもあるのだ。

ただし、認知やフレーミングを強調する議論にも危うさはある。「どんな言動が差別と感じられるかは気持ち次第なのだから、とにかくなにを言われても気にしないようにすればいいのさ」という主張だと受け止められてしまうおそれがあるのだ。

たとえば実際に差別を受けていたり抑圧された立場にいたりする人に対してこのようなことを言うのは、「適応的選好形成」を押し付けていると批判できるだろう。劣悪な環境にいる人は、その環境に適応するために、些細な物事にも満足できるように幸福の基準を下げてしまうかもしれない。それによって実際にその人が幸福を感じているとしても、それとは関係なく劣悪な環境は改善しなければならない、というのが一般的な見解だ。……同じように、言葉や振る舞いによる加害という問題についても、「ヘイトスピーチ」や「ハラスメント」を認定するための客観的な基準を設けて、その言動で被害者が受ける心理的ダメージがどれほどであるかに関わらず基準に抵触する言動は非難する、ということは必要とされるだろう。

しかし、程度問題であるとはいえ、認知やフレーミングという観点はマイクロアグレッションの問題について考えるうえで有益だ。また、認知行動療法の発想の背景には古代ギリシャのストア哲学の教えが存在する。たとえば、ストア派の哲学者であるエピクテトスについて紹介するウィリアム・アーヴァインの議論は、マイクロアグレッションや「被害者意識の文化」といった問題にも関連しているのだ。

今日では、侮辱に対してユーモアで応えるとか、何も言わないとかいった対応は、ほとんどの人から好まれないだろう。とくに差別的表現の撤廃(ポリティカル・コレクトネス)を求める人びとは、一定の侮辱については罰を与えるべきだと考える。彼らの矛先が向かうのは、マイノリティ・グループや心身障害者をはじめ社会的・経済的に困難をかかえた人びとなど、「恵まれない」人びとに向けられた侮辱である。彼らはこう主張する──恵まれない人びとは、心理的に傷つきやすい、したがって世間からの侮辱を放置していたら深刻な心理的ダメージを被るだろう。そのために彼らは、恵まれない人々を侮辱する者たちへの処罰を求めて、政府、雇用者、学校行政当局に請願するのである。

エピクテトスならば、この対応はきわめて逆効果だとして拒むだろう。たぶん彼は次のように指摘するのではないか。まず第一に差別的表現撤廃運動にはいくつかの厄介な副作用がある。その副作用のひとつは、恵まれない人びとを侮辱から守るプロセスが、逆に彼らを侮辱に対して過敏にさせる傾向があることだ。その結果彼らは、直接の侮辱だけでなく、侮辱のほのめかしにさえ、針を感じることになる。ふたつめの副作用は、恵まれない人びとが、自分だけでは侮辱に対処できないと思い込んでしまうことである。当局に介入してもらわない限り、無力な自分にはどうすることもできない、と。

エピクテトスならばこう言うだろう。最も良い方法は、侮辱する人間を罰するのではなく、恵まれない人びとに侮辱から身を守るテクニックを教えることである。彼らに一番必要なのは、自分に向けられた侮辱から針を取り除く方法を学ぶことだ。そうしない限り、彼らは侮辱に対して過剰に敏感になり、その結果、侮辱されれば相当な苦痛を経験することだろう。(アーヴァイン、p.159 - 160)

コミュニケーションとは「そういうもの」

マイクロアグレッション理論について指摘される別の問題として、「異なる文化やエスニシティの人々の交流が困難になる」ということがある。

前述したように、日本に暮らす外国人に「納豆食べられる?」「日本のどこが好き?」と聞くこともマイクロアグレッションと見なされ得る。また、スーの著作などでは、多民族社会であるアメリカにおいて「あなたはどこから来たの?(あなたは何系なの?)」と聞いたり、留学生や外国人に対して「あなたの国の言葉だとこの単語はなんて言うの?」と質問したりすることもマイクロアグレッションとされているのだ。

これらの質問がマイクロアグレッションであるのは、質問を発する側のマジョリティ(日本における日本人やアメリカにおける白人)と質問をされる側のマイノリティ(外国人や有色人種)との権力関係が前提にないとできない質問であるからだ、とされる。また、質問をする側は好意でしているつもりであっても、されている側はステレオタイプを押し付けられていると思うかもしれないし、「お前はわたしたちマジョリティの仲間ではなく、別のグループに所属している人間なんだぞ」というメッセージを受け取るかもしれない。マジョリティの文化に溶け込もうと努力している人は、そんな質問をされることで傷つくかもしれない。

一方で、マジョリティがマイノリティに対して互いの違いを強調せずに対等の存在として扱おうとすることも、またもやマイクロアグレッションと見なされる可能性がある。たとえば、白人が有色人種の人に対して「君がどんな人種なんてあるかは気にならないよ」という態度で接することは、相手が実際に有色人種としての人生を経験しているという事実を無視して「人種的差異に気づかない振りをすることによって社会的交流において偏見を持たないと見せないようにする」ことであり、「戦略的カラーブラインド」を行使しているのである、とスーは批判する(スー、p.209 – 210)。……この議論には、特権理論や現代における「差別」概念の「キャッチ=22」的な性質が露骨に示されている。マジョリティは特権があるから差別に対して鈍感であると批判されるが、差別をしないように意識的になることも特権を隠蔽して維持しようとする行為である、と批判されてしまうのだ。

しかし、一般論として、自分とは異なる背景を持つ人に関心を抱いて、相手のことを理解しようとすることは、望ましい姿勢だと見なされるはずだ。マジョリティやマイノリティということに関係なく、そもそも、コミュニケーションとはそういうものである。さらに、多文化社会やグローバル化した世界においては、質問を交わしながらお互いの文化や価値観について積極的に理解を含めることの必要性は増している。近年では異文化間コミュニケーションの機会を増やす施策がさまざまに実践されていることをふまえると、マイクロアグレッション理論には社会の潮流に逆行しているところもある。

相手の背景やアイデンティティに関わる質問をするのがマイクロアグレッションである(そして相手と自分との差異に注目しないのもマイクロアグレッションである)としたら、他人を傷つけたくないと思う人は、自分とは異なる背景を持つ人とのコミュニケーションを避けるようになるだろう。危害の範囲が拡大されて、批判される行為の種類が増えていくほど、「なにもしない」ことが最善策となるからだ。……だが、マジョリティがマイノリティとの交流を敬遠するようになったら、分断は深まるばかりである。

マイクロアグレッション理論は、二重の意味で、提唱者たちの意図に反する結果をもたらす。まず、マイノリティは本来なら無視できるような言動や気にも留めなかった他人の言動までをも「攻撃」と捉えるようになって、悲観的で緊張に満ちた人生を過ごすようになる。そして、マジョリティのなかでも良識を持つ人ほど、自分の些細な言動や善意の言葉すらもがマイノリティを傷つける可能性をおそれて、彼らと関わらないことを選択するようになるだろう。すると、マイノリティが交流する機会を持つマジョリティとは、鈍感な人や悪意を持った人になる。そのような人たちとのコミュニケーションにおいては、実際に攻撃されたり侮辱されたりする可能性は増してしまうだろう。

善意の言葉をポジティブに受けとめる

ノルウェー出身のコメディアンであり数年前から日本に移住しているミスターヤバタンは、インタビューのなかで以下のように述べている。

ステレオタイプって生まれることそのものはごく自然なことで、それをうまく利用したり崩していくことに意味があると思うんですよ。例えば、「外国人なのにお箸上手ですね」ってよく言われますけど、それってステレオタイプじゃないですか。でもそれを「外国人だからお箸が下手だと思ってたの?」って不快に思うのではなくて、「ありがとうございます」と純粋に受け取る。そこからまた会話が広がっていくんです。僕も逆の立場だったら、「お箸上手だなあ」って思うかもしれないな、と相手の気持ちを考えるようにはしていますね。

ソフト面のことを言ってはいますが、外国人がより日本で暮らしやすくなるためには、お互いのバックボーンや気持ちをイマジンすること、そしてコミュニケーションを取ることだと思います。完璧なコミュニケーションじゃなくてもいいんです。僕だって完璧じゃないし、ずっと笑顔とジェスチャーで日本の皆さんと通じています。笑顔って言葉より伝わる気がしています。ドアを開けてあげたり、目が合ったらほほ笑んだり……小さいことでもやってみたら、世界が変わってくる気がします。[7]

出身国から自分の意志で移住してきたヤバタンとは違い、わたしは両親が日本に引っ越した後で生まれてきたので、移民1世か2世であるかという点で彼とは立場は異なる。しかし、このインタビューでヤバタンが述べている経験には、わたしにも馴染みがあるものが多い。彼の考え方の多くにもわたしは同意する。また、日本に在住している欧米人たちの多くも、ヤバタンと同じような経験や考え方をしているだろう。

そして、ヤバタンの考え方は、本稿で示してきた、マイクロアグレッション理論が引き起こすネガティブな問題に対する処方箋にもなる。たしかに、「外国人なのにお箸が上手ですね」(または「外国人なのに納豆食べられるんですね」など)と言うのは、ステレオタイプに基づいた発言であるかもしれない。しかし、ステレオタイプに基づいているからといって悪意があるとは限らない。その発言を侮辱と捉えるか褒め言葉と捉えるかは、結局は発言をされた聞き手次第である。そして、善意の言葉をポジティブに受け止めることは、相手にとってだけでなく自分にとっても有益であるのだ。

また、互いの背景や事情を想像しながらコミュニケーションを取ることは、日本人と外国人という立場の異なる人たちの間にある溝を埋めるためには不可欠である。

わたしの経験からしても、だれかになにかを言われたときにその言葉の意図を推測したり悪意があるかどうかを判断したりするためには、相手の属性や立場や経験を想像することが必要になる。たとえば、都会に暮らしているときよりも田舎に旅行しているときのほうが「外国人なのに日本語が上手ですね」などと言われる可能性は高くなるし、高齢者の人は他の年齢層の人々に比べてもプライバシーに関わるものを含めてずけずけと質問してくることが多い。しかし、それは、平均的・一般論的な事象として都会より田舎のほうが外国人を目にする機会が少ないからわたしのような人間が物珍しいことや、若い人に比べると高齢者の人は外国人とコミュニケーションをしてきた経験が少なかったりすることが原因である、と考えられる。そのような事情を想像して考慮したうえで相手の言動を寛容に解釈するというコミュニケーションスキルは、外国人として日本に暮らす多くの人が否応なく身に付けていくものであるだろう。……ここで、「マジョリティが必要としないようなコミュニケーションスキルをマイノリティが身に付けさせられることも不利益や差別であるのだ」と言うことはできるかもしれないが、わたしにはかなり不毛な議論であるように思える。

もちろん、日本人が実際に外国人に対して侮辱したり悪意のある発言をしたりする事態も多々ある。相手の言動が好意であるか悪意であるかは、その場の状況や経緯や文脈、相手の表情や声のトーンなどで判断することになる。……この時、相手の意図を間違って解釈してしまう場合もあるだろう。しかし、ほとんどの場合、好意であるか悪意であるかという違いはおおむね的確に理解できるものだ。言語を介したコミュニケーションとは複雑で多様な情報を直感的に処理する行為であり、明確な基準や法則によって判断することはできないが、それでも一般的にわたしたちはかなり高い精度で相手の意図を把握することができる。だからこそ、言い手の「意図」を問わずに聞き手の感情だけに基づいて「攻撃」を定義するマイクロアグレッション理論は、コミュニケーションの現実にそぐわない。

とはいえ、わたし自身やわたしの家族、大学や外資系企業で知り合った他の欧米人たちの振る舞いのことを考えてみても、日本人から言われたことをどう受け止めるかには個人差がある。たとえば、わたしは他の面では被害者意識を抱きやすい人間ではあるが、自分がアメリカ人であるという事実に関して何かを言われることには鈍感な傾向があり、自分から積極的にネタ化したり自虐したりすることもある。そのために、悪意や侮辱を含んだ言動をされた時にもヘラヘラと笑ってやり過ごしてしまい、後から思い出して「あの時はもうちょっと怒ったり、毅然とした態度を取っていたりすればよかったな」と後悔する場合もある。わたしのような人については、適応的選好形成をしてしまっていると言えるかもしれない。……一方で、明らかに悪意のない些細な言動に対しても過敏に反応して怒る欧米人もいるし、そういう現場を目にすると、怒られている日本人のほうが気の毒になる。怒っている本人も自分の人生を無用に生きづらくしているだろう。つまり、感情や生き方に関する物事の大半がそうであるように、バランスが取れていて中庸であることが最善なのだ。

欧米人(白人)ではない外国人や移民、そのなかでも東アジア系の人々は、悪意のある言動や侮辱の標的とされる機会が多いことには留意しておくべきだろう。植民地時代を含めた歴史的経緯や、社会に残存する差別的な意識や制度のために、日本で東アジア系の人が経験する問題は欧米人が経験する問題と単純に比較できるものではない。東南アジア系やアフリカ系やヒスパニックの人々に対して向けられる侮辱やステレオタイプも、白人のそれとは質や程度が異なるはずだ。……しかし、これらの問題はマイクロアグレッションというよりも、マクロな「差別」として論じたほうがいいだろう。むしろ、マイクロアグレッションにこだわると歴史的経緯や制度の問題が見えなくなり、日本では欧米人も東アジア系の人も同様に「侮辱」という被害を受けている、という現実からズレた発想につながりかねない。かといって「欧米人の受ける侮辱はマイクロアグレッションではない」と定義すると、こんどは理論があまりに恣意的なものとなる。

「被害者意識の文化」から「尊厳の文化」へ

キャンベルらが論じているように、マイクロアグレッション理論が「被害者意識の文化」という時代の産物であることは明白だ。

そして、本稿で示してきたように、この理論は客観性がなく恣意的なものであり、マイノリティにとってもマジョリティにとっても益より害をもたらす可能性があり、現に存在する差別に対処することにも理想的な社会のあり方を想像することにも貢献しない。

「特権」に関する理論を含めて、現代のポリティカル・コレクトネスの風潮のもとで創造される理論や概念の多くに、同様の特徴がある。世の中で起こっている事態について精確に理解しようとしたり、あるべき規範について深く考察したりするためではなく、マジョリティを批判してマイノリティの立場を良くするための新たな「武器」を生み出したい、という目先の目標に捉われた人々が生産する理論や概念であるからだ。

そして、特権理論と同じく、マイクロアグレッション理論もマジョリティが被害者意識を訴えて道徳的なステータスを得るために逆利用されるようになることは想像に難くない。実際の戦争と同じように、ステータスや道徳をめぐる論争においても、武器を大量生産することは事態を泥沼化して悪化することにつながる。いまの世の中で必要とされるのは「被害者意識の文化」から「尊厳の文化」に引き戻ることであり、そのためには、過剰に生産された理論や概念を手放さなければならないのだ。


参考文献:
Campbell, B. and Manning, J. (2018) The rise of victimhood culture: Microaggressions, safe spaces, and the new culture wars. Springer International Publishing.
Haidt, J. and Lukianoff, G. (2019) The coddling of the American mind: How good intentions and bad ideas are setting up a generation for failure. Penguin Books.
デラルド・ウィン・スー/マイクロアグレッション研究会 (訳)、『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』、明石書店、2020年。
リチャード・E・ニスベット、ドヴ・コーエン/石井敬子、結城雅樹(訳)、『名誉と暴力: アメリカ南部の文化と心理』、北大路書房、2009年。
ウィリアム・アーヴァイン/竹内和世(訳)、『良き人生について:ローマの鉄人に学ぶ生き方の知恵』、白揚社、2013年。
渡辺雅之、『マイクロアグレッションを吹っ飛ばせ』、高文研、2021年。
内田樹、『邪悪なものの鎮め方』、バジリコ、2010年。
[1] https://mainichi.jp/articles/20220512/k00/00m/040/095000c
[2] http://s-scrap.com/7423
[3] https://www.no-harassment.mhlw.go.jp/pdf/harassment_sisin_baltusui.pdf
[4] https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000181888.pdf
[5] https://psych.or.jp/publication/world077/pw04/
[6] http://s-scrap.com/7328
[7] https://media.lifull.com/stories/20220301195/

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    美術史家。ニューヨーク大学で西洋美術史を学んだのち、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。現在、東京大学経済学研究科特任研究員。ルネサンス期における芸術家のイメージと、その社会的・政治的背景を研究。ルネサンス以降の芸術家像も研究対象。著書に『ジョルジョ・ヴァザーリと美術家の顕彰』。壺屋めり名義で刊行された『ルネサンスの世渡り術』も好評発売中。